僕の車との生活の経緯

   第一章 少年時代

   第二章 車への目覚め

   第三章 初体験バイク生活〜熱中時代(中学〜高校編)

   第四章 バイクとの別れ〜車遍歴の始まり

   第五章 極貧生活への道 コロナ2000GT・FIATX1/9・BMW3.0CS

   第六章 快楽生活への道 カマロ・アメ車etc・フェラーリ、ブローカー生活

                 911〜SUPER7

                 COBRA〜5turboT

                   

 


第一章 少年時代

 僕は男3人兄弟の末っ子として生まれ、長男と次男は2才、次男と僕は5才の年齢差があったので、
2人の兄とはあまり遊んでは貰えなかった。しかしいつも兄達を見て育ってきた僕は自分の友達と比較
すると考え方は大人びていた。又、たいていの男の子の遊びは友達よりも先に経験していた為、
何をやっても上手かった様に思う。そんな訳で僕は近所のガキ大将だった。
二人の兄も同様にガキ大将だった為、○○3兄弟といえば結構ローカルではあるが、有名人だった。
こんな事を書くと笑われそうだが、小学校の頃は子供の間では銀玉鉄砲がはやっていたが、僕は兄に
貰った自作のポンプ銃と空気銃を持っていた。危なそうだが昔は結構これで打ち合いとかも平気でしていた。
それ以外の遊びは川遊びだった。基本的には泳ぐ事と魚とりである。魚釣りは余りやらなかったが川に
行く時は釣糸と釣針だけは必ず持っていた、夏はマスクをつけて潜りヤスで魚を突いて取る事が中心だった。
季節により色々な魚が取れた為、1年を通してその時期に会った魚とりが楽しめた。
こんな少年時代を過ごした為、泳ぎと魚とりは達者だった。毎日遊んでばかりいるごくごく普通の子供だった。


第二章 車への目覚め

 こんな小学生時代を過ごしたが6年生の時に初めてサッカーを知った。当時の僕達は野球しかスポーツを
知らなかったのでこれには興味を持った、中学生になって迷わずサッカー部に入部した。サッカーはこの後、
高校時代まで真剣にやった。この頃になると結構生意気になり、兄の影響を受けて靴はバッシュでシャツは
ボタンダウン、髪型はショートアイビーでなければダメという非常に偏った考え方になった。
家にはVAN製品があふれていた。これは今思うと僕の服装に関しての基本は中学生時代に出来あがっていた
様である。これ以降あまり服装の好みでは変化が見られない(体形は相当変化しているが)、車については
僕の家は商売をやっていたので、家には商売用の車が結構あった。
名前は忘れたが普通車やトラックがあり良く父親に乗せて貰っていたが、全然興味は無かった。
長男が免許を取得しプリンススカイライン2000GTのAかBかは定かではないが、高性能バージョンの
方の車を買った。今でいうGT−Rの様な物だった。これには俄然興味を持った。当時、街中にははろくな車
がなかったので斬新な車だった(当時はオート三輪も走っていた)その後長男はスカイラインGT−R(ハコスカ)、
ファアレディZへと乗り換えて行く。僕はいつも横に乗せて貰って色々な所へ連れって行ってもらった。
ドライブに行くと長男は良く飛ばした、前の車は必ずパスする。
相当な
スピードマニアだった。これは僕の車人生に多大な影響を及ぼしている。


第三章 初体験バイク生活〜熱中時代

 中学生の頃、僕は家のすぐ裏にある親戚の家が空きやになったのでここで良く勉強した。
結構勉強には真面目なヤツだった。ところがこれが間違いの始まりだった。ある日いつもの様に勉強していると
夜中に友達がバイクで遊びにきた。カブに乗ってきた、自分の足を使わずに走るとは!
もうこの後は毎日夜中に二人乗りで交代しながら運転し朝まで遊んでいた事もあった。慣れてくるとだんだん
遠出する様になった。これは結構スリルがあり面白かった。中学一年でかなり運転は上手くなった。
この間に乗り物はカブからトレールになった。当然中学生に買える訳は無いので調達する手段を発見した。
近所に大学の寮があり、卒業生が置きっぱなしにした物を調達した。何日も寮の自転車置き場を見ていて
動かされないバイクを見つける、当然程度の良いバイクは後輩に受け継がれたが酷い物は放置されていた。
これを直して何台も乗りつぶした。ところが僕が中学二年の冬に次男が交通事故で死んだ、ホンダの軽で今の
ミニに良く似た車だった。僕にはこれは相当なショックで一時期食事を胃が受つけなくなり何を食べても
もどしてしまった。この後、僕はバイクの無免許運転を一切やらなくなった。

 それから、一年が経過し高校生になると親の反対を押し切り原付免許を取った。自動二輪は次男の事もあり
取らせて貰えなかった。しばらくダックスに乗っていて原付に飽きてしまった。
通学の際に自分で運転するのも面倒になり、友人の125ccのトレールで送ってもらっていた。
この友人は近くの高校だったが、僕がギリギリ迄待たせる為、いつも遅刻していた。結構人のいいヤツではあるが
バイクは相当ヘタだった。(コイツは今ではうちの会社の営業本部長になっている)バイクにあき始めた頃、
あの無免許カブ男が自動二輪の免許を取ってカワサキマッハVに乗ってやって来た。
これは後ろに乗せて貰って前輪を浮かせて加速していく時に振り落とされそうになった。ショックを受けた!
こんなに早いバイクがあるのかと思った。ここからは、中学一年の時と同じ生活が始まってしまった。
親から何度も怒られたが無免許運転はやめられなかった。ついに親が折れて、免許を取らせてくれたがバイクは
250cc迄の物しか買ってくれないと言われた。僕はどうしても500ccのマッハVが欲しくて説得する方法を
考えた。その方法は当時の250ccで見た目の大きなホンダの250CL72(こんな感じの名前だったと思う)
というバイクとマッハVを左側から見せて、排気量の事は言わずに大きさで説得した。これはマッハVを左側
から見せる事に意味があった。こちらかだとかなり小さく見えるのである。ここから後は冬でも
マッハV
乗り続けた。友人は赤、僕は白のマッハVで色々な所に遠征した。お互い意地を張りあっていた為、みるみる
上達した。当時この手のバイクが2台で走る事は珍しくバイク好きには僕達は有名人だった。
高校は良くさぼってバイクに乗っていた。市内の工業高校の横の道は僕の好きな道だった。S字コーナーから
直線そして高速コーナーが続いている。よくこの高校に通っている友人からは今日は調子が良かったとか悪かった
とか言われた。このバイクはある程度の回転をキープしないとパワーが出ない為、乗り手が本気かどうか、
ギアをどう使っているかが廻りにはすぐ解ってしまうので何時も本気で飛ばしていた。
バイク好きはフロントタイヤが簡単に浮く事を知っており、そういう目で見ている。これはサービス精神が旺盛な
僕としては期待に答えなけれなならない。でもこれは相当疲れる事だった。
僕達はライディングスタイルでいうと友人はケニー・ロバーツで僕はフレディ・スペンサーだった(?)。
バリバリ伝説で言えば秀吉とグンという所である。二人で走ると本当にはやかった。
あいつとララバイならスターダストブラザースである。今思えばよく死ななかったと思う程良く飛ばしていた。

 ある夏休みの夜赤マッハがやってきた、遠くからでも解るのである。何故ならマッハの音は相当うるさいし
TVにもノイズが入る程だ。きっと僕の夜遊びは近所中に知れ渡っていたと思う。突然やって来てお前は北海道を
見た事があるかと言った、無いと答えると今から見に行こうというのである。
僕は全財産を持って出掛けた。何て無計画なのであろうか、僕の家は群馬県である。でもこの時は気にならなかった。
夜中に走り続けて何とか青森まで辿りついたが赤マッハは金をあまり持っていなかった!
僕の金では二人分の青函連絡船の運賃を出すと帰りの費用には足りなかった。仕方が無いのでとりあえず食事を
とり、残った金を帰りの飲み物代を差し引いて必要な物を良く考えてオイルとゴムホースをかった。
マッハはオイル食いのバイクで家に帰る迄に補給しないとならないのだ。ガソリン代の事は最初から考えてなかった。
そんな余裕はなかったので、ゴムホースを買っておいたのだ。昔のバイクはタンクに鍵が付いていない為、
ホースさえあれば簡単にガソリンを借りられた(?)
青森・宮城・福島・栃木の何人かの方、本当にゴメンナサイ!この場にて深くお詫び申し上げます。

この時代に僕のエンジンに対する考え方は形成された、パワーバンドの狭いピーキーなエンジンが好きになった。
これは乗り手の技術を必要とする。この喜びをマッハVで知った。


第四章 バイクとの別れ〜車遍歴の始まり

 普通自動車の免許を取得すると当時の高校生がそうだった様に僕もバイクが子供の乗り物に思えた。
高校生当時に親が車を買ってくれる筈は無く、仕方なく家にあった三菱ミニカという軽自動車に乗っていた。
これが唯一家にあった余っていた車だった。これはこれで結構楽しんでドライブにも出かけた。
友人の中では僕しか車を持っていなかったからこれに乗るしか無かった。しかしマッハVに乗っていた僕から
するとこれは楽しめない車だったので、夜になると長男のフェアレディZに無断で乗っていた。
当然赤マッハも一緒だった。しかし夜はカブで来た、あの音でバレテしまうからだ。僕は解り易い行動パターン
を取る為、長男にはバレテしまった。最初の内は文句を言っていたが、年が離れているせいか理解してくれていた。
コイツも結構イイヤツである。卒業が近づき僕は東京で暮す事になりマッハVを手放す事にした。
後輩が10万円で買ってくれた。実は僕はこのマッハVを5万円で買ったので儲かってしまった。
これが後の僕にとって
良いものは高く売れるという考えの基本になった様な気がする。
この10万円で長男から
フェアレディZを買った。これが僕が買った最初の車である。しかしこの車は東京へは
持って行けない為、長男は前と同じ様に乗り回していた。結局10万円は長男にシテヤラレタのかも知れない。


第五章 極貧生活への道

 僕が東京で真面目に勉強しているある日、長男から電話がありお前のZを売って次の車を買おうとの事だった。
僕も飽きて来てたので即決でOKしてしまった。次の購入予定の車で意見が一致した為だった。
この頃あの赤マッハもコロナマークU2000GSSという車に乗っていた。ほかの友人はセリカLB2000GTと
レビンだった。僕の選んだ車は当時ではかなり早いと言われていた
コロナ2000GTである。
当然赤マッハの車より早い。僕はZのL型エンジンよりもこのツインカムエンジンに憧れていた。しばらく乗ってから
ソレックスのキャブレターを付けた、吸気音には拘りがあったので十分満足した。しかし、卒業して地元に就職した時
にはもう飽きてしまっていた。この頃はレースで活躍していた外車に興味を持ってしまった為である。
これが僕の極貧生活の切っ掛けになろうとはこの時はまったく気付かなかった。雑誌でBMW2002turboを
探して東京の外車屋さんに出掛けて行った。この時にお目当ての車の横に当時発表されたばかりの黄色いFIATX1/9
が展示してあった。ミッドシップで屋根を外すとオープンカーになる見た目はバッチリのスポーツカーに目移りしてしまい
こちらを買ってしまった。今考えれば、何て車を見る目がなかったのかと今でも思ってしまう。この車には泣かされ続けた、
走りは遅いしトラブル続きだったのだ。車のローンで給料の80%が無くなり、残りはというと修理代で僕は昼食代にも
事欠く有様で、毎日会社へ行く前にお袋から500円の小遣いを貰っていた。本来なら僕が小遣いをあげる立場なのにと思う。
この車は最後には配線から出火してほとんどの配線が燃えてしまった、情けない話である。しかし、僕の心の片隅では次の
車へのステップアップ意欲が頭を持ち上げていた。

 相変わらず500円の生活が続いていたが、何とこの500円から昼食代と煙草代を差し引いて毎日100円が貯金できていた。
仕事も忙しくなり徹夜も多かった。当時は徹夜をしても翌日そのまま勤務につく程忙しかったので僕の給与は基本給よりも
残業手当の方が多かった。おまけに忙しいので金の使い道も無かった。寝る間もおしんで働いたので友人と比較しても
倍以上の稼ぎを獲得できた。おかげで1年間で多少の貯蓄が出来た。(小遣いを貰いながら貯金するとはひどい話である)
FIATX1/9のローンも終了していた僕は早速、次の車の検討を始めた。心の何処かに残っていたBMWがどうしても欲しかった、
サーキットの狼という漫画でピーターなんたら?の乗っていたバイエルンの白い狼と言われてヨーロッパのレースで活躍して
いたヤツだ、このベースとなった綺麗なクーペ
BMW3.0CSを買った。これは満足した1台となった。
しかし幸せは長くは続かない様になっているらしく僕は突然上司と喧嘩をしその場で会社を辞めてしまった。
所得は無いが、ローンは残った・・・

 BMWを生活の為に泣く泣く手放した僕はローンの残金を差し引いて少しはお金が残ったので毎日遊んで暮らせた。
幸いな事に車は家には余った車があったしFIATもあった、昼間は友人達も仕事をしている為、家の仕事を少しだけ手伝った、
そうしないと食事の面倒を見て貰えなかった。午後には昼寝をして夜遊びに備え、5時には友人の会社の前で待っている
というパターンだ。ここで捕まえないと逃げられてしまう。友人は昼寝をしていない為、僕の夜遊びペースについて
こられなかった様だった。今になって思うと僕はそうとうな
我が侭者だった。


第六章 快楽生活

 僕は相変わらず家の車に乗って遊んで暮らしていたが、ある日知人から20万円のカマロZ28の話を持ちかけられた、
しかしこれは自分で乗るにはおもしろさに欠けていたので、時間もある事だしこれで遊んでやろうと思い購入した。
先ず太いタイヤに変更し、後ろを持ち上げかなりハデな外観にした。僕には自由な時間があった為、塗装以外は殆ど
自分でやった。友人達も夜になると手伝ってくれた。夜遊びより楽だったらしい。昼間は昼寝をしないでこの車に
乗っていた、僕は車に乗る事その物が楽しいのだ。これはブルーメタリックでボンネットからトランク迄白の
レーシングストライプを入れていた為、結構目立ったらしく
買いたいというヤツが結構いた。
100万で是非売ってくれという後輩がいたので僕は驚いてしまった。もったいつけたが結局は売ってしまった、
100万円の魅力には勝てなかった。僕はこの後アメ車を20〜30万で買ってはそれ以上にお金をかけて魅力的な車に
仕上げた。これをやっているうちに相当お金が溜まってしまった。この後、僕は資本が充実した為、アメ車から
ヨーロッパのスポーツカーに傾倒していった。本当に好きな車はこちらだったのだ。無職の若造がこんな派手な生活を
している事である日、親父にコッピドク怒られた。就職活動を行う事になってしまった。
このブローカー生活は結構気ままで裕福だったので楽しかったのだが、世間の目は冷たかった。

 結局、僕の就職活動は親父の世話になる事で決着した。自分では見つからなかったのである。就職先は親父の会社に
コンピュータを納めた会社だった。僕はこの関係の仕事をしたかったが親父の会社の電算室にだけは入りたくなかった、
24時間親父と一緒では辛いのが理由だった親父はどうも苦手である。僕は職場では車関係の話題で語り合える仲間が
いなかったので自分ではこの話題に触れる事は無かった。職場では真面目な青年であった、おかげで1年で役職がついて
車を貸与された。サニーだった、毎日通勤と仕事でコイツに乗っているとストレスが溜まってきた。
当時面倒なソフトは僕が担当する事が多く帰りはいつも遅かった。この頃の僕は車に対する考え方は加速・ハンドリング
・吸気音・排気音の好みを優先させ、アクセルを踏切れるのが楽しい車ではないかと思うようになっていた。
好きな車が欲しいという欲求に基づき検討がはじまった、幸いにして兄弟で車好きという事もあり趣味の車については
二人でお金を出し合って買う事ができた為、同年代の友人と比較するとかなり高価な車にも乗れた。
色々な車に乗ったがどうも僕の好みとは違っていた。チャップマンLotusという様に繋がったのは自然の流れであった。
しかし古い車はリスクが高いという事も学習していた。僕の選択は
ケーターハムとなった。

 これ以降は、後で作成します・・・    皆さんも疲れたでしょう、僕はクタクタです〜