小栗上野介の首の史実

                   村上泰賢

 活字は怖い。かつて小栗上野介の首が大宮市普門院に埋まっていると住職の阿部道山師
がかきました。 その著『小栗上野介正伝』は、戦前に小栗上野介の冤罪を晴らそうと上野介
業績をまとめたもので、当時としては力作で立派な著書といえますが、一カ所、小栗上野介の
首については筆が滑ったか、情熱が凝り過ぎたたかというべきか、玉にキズを付けた結果とな
って、戦前すでに否定批判されているにもかかわらず、書物が一人歩きして、今もうかつに読む
人を惑わしているようです。
 その筆によりますと「小栗上野介の首は斬首の後青竹に刺されて河原にさらされた。それを
小姓の武笠銀介が奪い返して大宮の実家に持ち帰り、小栗家の菩提寺である普門院に埋め
た」となっています。
 まず、慶応四年閏四月六日に斬られた、上野介の首が河原にさらされたというのは、もしそう
であっても極めて短い時間であったということ。次に、首はすぐに高崎に送られ、翌七日に高崎
城内で家臣三人と共に斬られた養子・又一の首と共に、館林城内に送られたということ。東山
道鎮撫総督・岩倉具定の首実検を受けた後、父子の首はいったん泰安寺に下げ渡されました
が、ところが泰安寺(現・廃寺)は秋元候の祈願寺で墓地を持たないため、困った住職は法輪
寺の住職に頼み同寺本堂西の境内に埋めたもので、武笠銀介が介入する余地はあり得ませ
ん。
 法輪寺の首はその後どうなったのか。実は、上野介の夫人を守って会津へ送り、さらに静岡
まで届けて、明治二年春に権田村へ戻った中島三左衛門、塚越房吉が殿様の首がないまま
のを憂えて館林へ出かけています。
 「自分も井伊大老のように殺されるかもしれないのが、死んでも首と胴体は一緒にいたいもの
だ」と、かつて冗談まじりに語った上野介の言葉が耳にあった、と村人は伝えています。
 旧領地高橋村(佐野市)の名主・人見宗兵衛、その叔父の細内(館林)の渡辺忠七らの協力
を得て法輪寺へ至り「殿様の一周忌が近いので墓を建てたい」というふれこみで場所を確認。一
度は失敗し、二度目に成功して盗み出し、権田村に持ち帰って、ごく数人に拝ませ、東善寺境内
の墓に葬りました。又一の首は下齊田村(高崎市)の村役人を呼んで渡し、胴体と同じ場所に葬
ってもらったのでした。
 権田の村人は、明治政府の監督下にあるものを盗んだのだから、このことは公にせず“戻れば
良い”と口を閉ざしていたのでした。それを良いことに作り話が書かれ、いまだに時々世間を騒が
せるばかりか、当地まで影響が及んでいます。『館林市誌・歴史編』には、この時手引きしたとい
うことで捕らえられた、渡辺忠七が書いた始末書が載っていて、権田の話を裏付けています。
 間違いの三つ目は、小栗上野介家の菩提寺は普門院ではないということ。小栗家当主が代々
又一を名乗るきっかけとなった中興の祖・四代又一忠政の墓があるので、上野介も江戸を引き払
う前に五十両を寄進し武具などを預けてますが、普門院は分家の小栗仁右衛門家の菩提寺にな
っているのです。五代目以降の本家小栗家の菩提寺は、江戸・牛込の保善寺です。
 活字は怖い。迂闊には物は書けない。しっかり読み検証し、何よりも現地を歩いて歴史を肌で感
じ、どんな田舎でも土地の人の言葉に耳を傾ける謙虚な態度で臨むこと。それが命がけで夫人を
守り、首を奪い返した旧領地農民の義挙に、敬意をはらう一歩として、大切なことだと思います。