医王寺(いおじ)の由来
この事については、消費者の方から度々聞かれるのですが、一言で説明出来ないので、大変困ります。
まず、第一にこれは父親の生家の屋号でありますが、寺の名前が屋号というのは、珍しいと思います。
医王寺というお寺は、全国各地にありますが、この医王寺は現在の榛名町中室田の大字会館と第二小学校庭に位置する、かなり大きな寺だったようであります。室田町史に次のような記述が、あります。
医王寺
山号 高室山地蔵院医王寺
現状 寺形はないが、往時を偲ばせるものが二つある。その一つが、中室田小学校庭(現在の大字会館前の公 園のあたり)にある二本の白檀の老樹で、山門の両脇に植えられたものである。 もう一つは、中室田中学校舎 東(現在の小学校体育館の東)、江戸山の麓に立ち並ぶ墓石である。相当広い境内墓地であったらしい。
由緒沿革 古文書等、今に伝わるものがほとんどないため、詳細は不明であるが、その開山については、源栄和 尚といわれている。 三部都大阿梨堅者法印澄海大和尚は、明和四年(1767年)に没した人であるが、近隣に学 問をひろめたので有名。 ついで、大阿梨法印幡隆は、医王寺十五世であるが、これも学問の普及につとめ、また 子供の名付け親となって著名。 これら住職の位牌は、上室田無量院に納められている。それは、当寺と無量院 が合併したためである。 現在も当地の横尾家を「ようじ」と呼んでいるのは、医王寺のなごりであろう。なお、この 寺は、明治六年(1873年)九月、麓(中室田)小学校開設にあたって仮教場となったところである。
現在、年配の方々で、この「ようじ」という言葉を使う方でも、これが、医王寺からきているということを知っている人は殆どおりません。 地名だと思っている人が多いようです。 若い世代においては、「ようじ」の親類縁者であっても
その呼び名自体を忘れ去ろうとしております。 私は、些細なことですが、この「ようじ」という言葉の中に、江戸時代からの農村の時代の流れとか、人々の暮らし、祖母をはじめ、亡くなっていった自分の先祖の息使いを感じましたし、自分の幼少の頃の体験など、忘れ去っていた大事な事を思い出させてくれました。 ある意味、この言葉には、単なる屋号というだけではなく、江戸時代から脈々と続いてきた、命の営みや、先祖代代上州の寒村で繰り広げてきた生き様のようなものが、にじみ出ているような気がするのです。そこで私は、 歴史の流れの中で生まれてきて消え去ろうとしているこの言葉を、梅干の商品名として生き返らせられないだろうかと思ったのです。自分のライフワークである梅干作りの目指すところ、考え方、価値観をこの言葉の中に集約したのであります。
私自身に直接関わりのあった「ようじ」の人物は、30年前に他界した祖母(キヨ)であります。