第1章 出生と郷土の歴史
 
 
上野国新田郡
細谷村(ほそやむら・現群馬県太田市細谷町)は、文政10年(1828)の「上野国御改革組合村高帳」によると、人口253人・家数64軒とあります。村の中央には真言宗教王寺が、南東には祭神倉稲魂命を祀る冠稲荷神社があります。細谷村は洪積台地の宝泉(由良)台地の南端にあたり、東に蛇川が南流し、中央を聖川が貫流しています。西は低地帯で、水田が広がっていました。

 寛文元年(1662)の細谷村知行割によれば、細谷村惣村の石高は1569石で、1人の大名と5人の旗本による6給の分割統治(「相給」)が行われていました。
高山家はこのうち旗本の筒井家の領有する503石の知行所で名主を務めていました(一部の人名辞典に彦九郎を「郷士」とするものがありますが、名主を勤める家ではあったものの、筒井家から禄を得た武士ではありませんでした)。

 元文3年(1738)の人別帳には高山家は伝左衛門貞正の長男彦八(彦九郎の父正教)が家長として記載され、家族6人と使用人男女合わせ14人・馬3匹という構成になっています。村の中でも大きな農家でした。

 このような中、高山彦九郎は延享4年(1744)5月8日、高山彦八正教しげ(武蔵野国旛羅郡台村の剣持家から嫁す)の次男として生れました。その家系と新田義貞挙兵の日に生れたこと、新田の地に育ったことなどは彦九郎の思想形成に大きな影響があったと考えられます。

 後に彦九郎は日記の中で「人傑の出づるは地霊による」と書いています。その土地の歴史・風土から生み出された傑出した人物を敬うことが大事だと考えていました。
     
ほそやむら
細谷村   
 鎌倉時代に新田荘由良郷(にったのしょうゆらごう)の発展により派生し成立した村。現在、太田市細谷町。由良郷は新田本宗家の所領で、細谷村は本宗系一族の細谷氏・下細谷氏の所領でした。
 室町時代には新田荘の領主となった新田岩松氏、戦国時代には下剋上により新田岩松氏を退けた横瀬(のち由良)氏が支配しました。教王寺は横瀬氏創建の寺伝を持ちますが、文書や寺に残る石造物などから、細谷氏の氏寺として創建されたものと見られています。
 江戸時代には、太田市内のほかの地域と同様、一つの村が複数の領主によって支配される「相給
(あいきゅう)」による統治が行われていました。この支配は地域割りではなく、細谷村では大名領分1(武蔵岡部藩安部摂津守)・旗本知行所5(筒井・村上・門奈・赤井・大久保の各氏)に対応した6人の名主による複雑なモザイク状の分割統治でした。
たかやま
高山家
 細谷村の高山家は彦九郎の祖父蓮沼伝左衛門貞正が家督を異母弟伊右衛門政重(相馬)に譲り、母方の姓を名乗って本宅の東隣に屋敷を構えたことに始まります。
 貞正の母えんは新田郡下田島村(現在、太田市下田島町)の高山家から蓮沼家に嫁して来ましたが、その祖先は桓武平氏秩父氏流で、高山御厨(群馬県藤岡市)の厨司でした。鎌倉幕府御家人であった高山遠江守重栄は新田義貞馬回り十六騎の一人として活躍しました。戦国時代には金山城主横瀬・由良氏の家臣となり、天正18年(1590)豊臣秀吉による由良氏の常陸牛久移封により、下田島村に土着帰農したといわれています。
 高山伝左衛門貞正は領主である旗本筒井家との確執があり、晩年は武州旛羅郡台村(埼玉県熊谷市妻沼台)劔持家に養子に入った三男の劔持長蔵正業宅で過ごし、そこで明和3年(1766)に没しています。
 彦九郎の兄専蔵正晴は寛政5年(1793)8・9月時点では筒井家知行所の名主を勤めていましたが、翌6年(1794)4月時点では他の人物に代わっています。
はすぬま
蓮沼家    
 その祖は武蔵七党横山党系。蓮沼家の遠祖は新田岩松家純に従い、武蔵国蓮沼村から新田荘に入ったとされます。戦国時代には金山城主横瀬・由良氏の家臣でしたが、天正18年(1590)豊臣秀吉による由良氏の常陸牛久移封により、細谷村に土着帰農したといわれています。
 蓮沼伝左衛門貞正の祖父伝左衛門政厚の代から旗本筒井家の村役人(名主)を勤めていました。蓮沼家は幕末まで同姓分家を作らない慣行があり、各分家は母方の姓である大槻・板橋・石井・高山の各氏を称しました。なお、貞正の異母弟蓮沼伊右衛門政重はのち石井(母方の姓)相馬を名乗り、旗本高林又重郎に出仕したため、蓮沼家は貞正の次男要右衛門正隠が相続しています。
つつい
筒井家
 禄高2200石の旗本。歴代当主は幕府要職を歴任しました。その知行地は細谷村503石のほか、新田郡別所村(583石・太田市別所町)・邑楽郡・武蔵国大里郡にありました。彦九郎の時代は筒井政悦(織部)とその養子正盈(左膳)でした。


戻る次章へ