第8章 その後の顛末
 
 彦九郎の自刃の後、安芸国竹原の祠官
唐崎士愛(常陸介)は、彦九郎の遺志を継ぎ同志の糾合に力を尽くしましたが、寛政8年(1796)11月18日竹原庚申堂で自刃の運命をたどりました。
 
 また、肥前国島原の儒医
西道俊は彦九郎が久留米に留まっているのを知り、はるばる訪ねてきましたが、彦九郎の自刃を知り、享和2年(1802)5月2日73歳で彦九郎の墓前で割腹しました。この後も彦九郎を慕う人々が多く出ています。

 久留米では
真木和泉守木村重任らの幕末の志士達は彦九郎の行動に強く影響を受け、天保13年(1842)に50年祭を行い、彦九郎を偲んでいます。

 水戸藩においても彦九郎の遺品が受け継がれています。
藤田東湖の門人であり、彦九郎の崇拝者でもある桜任蔵は天保6年(1835)夏、彦九郎の生家を訪ねましたが、すでに廃屋となっていたと記しています。また、武州台村(埼玉県熊谷市妻沼台)の祠堂を訪ね、彦九郎の祖父高山伝左衛門貞正の神霊「伊賀鎮」を拝した時、彦九郎の遺品を発見し蒐集につとめました。水戸彰考館総裁杉山忠亮は「高山正之伝」を著し彦九郎を高く称えています。

 嘉永4年(1851)江戸遊学中の長州藩
吉田松陰は水戸の会沢常蔵(正志斎が著した「高山彦九郎伝」で彦九郎の存在を知り、「武士たるものの亀鑑このことと存じ奉り候」と兄に書き送っています。松陰はその後も彦九郎への思索を深めていきます。松陰の辞世「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置きまし大和魂」と、彦九郎の辞世「朽ち果てて身は土となり墓なくも心は国を守らんものを」との呼応は彦九郎の影響が大きかったことを物語っています。また、吉田松陰の号の由来はこれまで「出典不明」とされ、松陰の出生地松本村にちなんでいるとの説が示されてきましたが、彦九郎の諡(おくりな)の「松陰以白居士」との関連が指摘できます。

 万延元年(1860)長州藩の
高杉晋作が細谷村の墓を訪ね詩を賦しています。同じく、長州藩の久坂玄瑞は文久2年(1862)2月に久留米の彦九郎墓を詣で、墓石をスケッチしており、12月には土佐藩の中岡慎太郎らと共に、細谷村の彦九郎墓を訪ねています。

 薩摩藩の
西郷隆盛は文久2年(1862)沖永良部島に幽閉中、彦九郎の忠義心をたたえる詩文を詠んでいます。

 このように彦九郎の旅の足跡と行動は、幕末に至る勤王の志士達に強い影響を与えています。
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