第9章 時代を駆け抜けていった人(高山彦九郎年表)

 ●年号の下の数字は改元の日付です。
 ●彦九郎の年齢は「数え」で表記しています。
 ●
高山彦九郎が幕末の志士たちに与えた影響 及び 「寛政の三奇人(士)」の系譜もあわせてご覧ください。 

年号 西暦 年齢 高山彦九郎に係わるできごと 日本のできごと

延享元 
2.21

1744      
延享2 1745     11月2日、徳川家重九代将軍になる。
延享3 1746     3月、長崎貿易をオランダ船2隻、清船10隻に制限する。
延享4 1747 1 5月8日、上野国新田郡細谷村(現在太田市細谷町)に生れる。父は彦八正教、母は繁(しげ) 5月、太宰春台没する(68才)
9月、田沼意次、小姓組番頭格となる。
寛延元
7.12
1748 2 延享5年4月、祖父蓮沼伝左衛門貞正、菩提寺教王寺に梵鐘を寄進する。  
寛延2 1749 3 この頃、祖父貞正、蓮沼家を隠居分家し、高山姓を名乗る。 8月、関東大風雨
寛延3 1750 4    
宝暦元
10.27
1751 5   6月、徳川吉宗没する(68才)。

9月、祇園南海没する(75才)。

12月、大岡忠相没する(75才)。

宝暦2 1752 6    
宝暦3 1753 7    
宝暦4 1754 8   10月、貞享暦を廃止し、宝暦甲戌暦を用いる。
宝暦5 1755 9   2月、安藤昌益「自然親営道」できる。
9月、奥羽地方冷害、大飢饉。
宝暦6 1756 10   6月、米価高騰のため、米商に買い占めを禁じる。
宝暦7 1757 11   1月、徳大寺公城の家臣竹内式部、神儒の書を講じて、公家の入門者が多いため、京都所司代に糾明される。
宝暦8 1758 12   7月、幕府、竹内式部を捕らえ、正親町三条公積以下、公家17人を処罰する(宝暦事件)。
宝暦9 1759 13 「太平記」を読み、南朝の忠臣が建武の中興の志遂げざるを見て憤り、尊王の志をおこす。 2月、山県大弐「柳子新論」できる。
宝暦10 1760 14   4月、宝暦事件に関係の公家三条公積ら7人、出家を命じられる。
7月、賀茂真淵「万葉考」できる。
宝暦11 1761 15   6月、徳川家重没する(51才)。
宝暦12 1762 16 江戸に行き書籍を購入して帰る。  
宝暦13 1763 17   7月、平賀源内「物類品隲」刊行。
明和元
6.2
1764 18 3月15日、置手紙を残し家を出、京に上る。
三条大橋に臥して帝城(皇居)を拝す。
閏12月、中山道の増助郷に反対して、上野・武蔵・信濃三国の農民が伝馬騒動(天狗騒動)をおこす。
明和2 1765 19 7月17日、母しげ没する(40才)。 鈴木春信が錦絵をはじめる。
明和3 1766 20 4月22日、祖父貞正没する(72才)。
祖母
りん、夫貞正の供養として教王寺に半鐘を寄進する。
1月、陸奥弘前大地震。
明和4 1767 21 山陽道を通り、神辺の菅茶山を訪ねる。さらに、閑谷学校を訪れる。 7月、側衆田沼意次を側用人とする。
8月、
山県大弐(43才)・藤井右門(48才)を死刑、竹内式部を八丈島に流罪(明和事件)。
12月、竹内式部、三宅島において没する(56才)。
明和5 1768 22   4月、上田秋成「雨月物語」できる。
同月、真鍮銭(4文銭)の通用を命じる。
明和6 1769 23 7月20日、父高山正教没する(53才)。 10月、青木昆陽没する(72才)。
賀茂真淵没する(73才)。
明和7 1770 24 江戸に出て細井平洲に入門する。 6月、鈴木春信没する(53才)。
明和8 1771 25   3月、前野良沢ら、千住小塚原で死刑囚の腑分を見、「解体新書」の翻訳を始める。
この春、伊勢お蔭参り盛行。
安永元
11.16
1772 26   1月、田沼意次老中となる。
2月、江戸行人坂の大火おこる。
9月、南鐐二朱銀を発行する。
この秋、風水害のため諸国凶作。
安永2 1773 27 冬11月、赤城神社参詣の後、伊香保等で大島氏の系譜を調べる(「赤城行」)。 4月、諸国に疫病流行する。
安永3 1774 28 1月4日、細谷を出て江戸から東海道を通り、伊勢参りをし、京へ行く。この後、大阪から播磨道を通り出雲国へ行く(「甲午春旅」)。 8月、前野良沢杉田玄白ら「解体新書」を刊行。
このころから蘭学がさかんとなる。
安永4 1775 29 春2月18日、京を出発、北陸路から北国街道を通り4月9日細谷へ帰る(「乙未春旅」)。
秋7月8日、利根川・江戸川を水路で江戸へ向かう。帰路は中山道を通り7月22日細谷へ帰る(「利根路の秋旅」)
秋7月29日、叔父とともに桐生梅田の忍山温泉へ湯治に行く(「
忍山湯旅の記」)。
3月、長久保赤水「日本輿地路程全図」できる。
安永5 1776 30 春3月、下総古河郊外の熊沢蕃山の墓を詣でた後、江戸に出て股野玉川らと交わる(「江戸旅行日記」「古河のわたり」)。
7月5日より、大山阿夫利神社参詣のため、細谷のみたらい川で禊を行う(「
斎中記」)。
9月16日、江戸より小田原の柳井左京の墓を詣でる(「
小田原行」)。
4月、池大雅没する(54才)。
同月、上田秋成「雨月物語」を刊行。
11月、
平賀源内、エレキテル完成。
安永6 1777 31 春3月27日、細谷より江戸に出、祖叔父石井政重を追い甲州身延山へ行く。5月4日帰る(「丁酉春旅」「丁酉春旅補遺」「丁酉春旅補遺2」)。
晩秋9月27日、細谷より江戸へ出て
細井平洲らと対談する(「武江旅行記」)。
11月1日、剣持長蔵正業と赤城神社へ参詣する(「
赤城従行」・「赤城従行残闕」)。
5月、幕府、農民がみだりに江戸奉公稼に出るのを禁じる。

9月、幕府、農民の徒党・強訴を禁止する。

安永7 1778 32 長女せい生まれる。
春3月18日、江戸より帰った後、下野の大岩山・行道山・蓬莱山や武州台村の剣持氏の墓など細谷周辺を訪れる。(「
戊戌季春記事」)。
6月、ロシア人が蝦夷地に来て、通商を求める。
本居宣長が「古事記伝」上巻を著し、国学を大成する。
安永8 1779 33 4月、江戸に滞在。
7月7日、足利小股の鶏足寺を参詣し石尊山に登る(「
小股行」)。
10月、鹿児島桜島で噴火。
12月、
平賀源内没する(51才)。
この年、
塙保己一「群書類従」の編纂に着手する。
このころ、洒落本、黄表紙流行する。
安永9 1780 34 次女さと生まれる。
夏6月10日、細谷を出、甲州街道から富士道を通り富士山に登る。神奈川宿で
簗次正と知り合う。(「冨士山紀行」)。
冬11月12日、細谷より江戸に行く。
菅野綸斎宅などに宿り、細井平洲の学塾嚶鳴館に出入りする(「江戸旅中日記」)。
このころ、藩校を設立する藩が多くなる
天明元年 1781 35 夏4月27日、江戸に出る。細井平洲菅野綸斎股野玉川など多くの儒学者と交わる(「江戸旅中日記」)。 6月、武蔵・上野両国の糸綿貫目改所設置許可。
8月、西上州で貫目改所反対の一揆がおこり、問屋などを打ち壊す。
幕府改所を停止。
1782 36 2月30日、細谷より江戸に出る。祖父貞正を神祭する祠堂の模型を探し求める(「天明江戸日記」)
4月6日、細谷を出て、勢多郡沢入の寝釈迦などの石仏を見る(「
沢入道能記」)。
6月15日、勢多郡荒砥村の産泰神社に参詣する(「
子安神社道能記」)。
7月22日、武州台村へ訪れた後、原井鐘堂などを見る(「
武州旛羅廻」)。
長男
義介(義助)生まれる。
冬10月16日、細谷を出て中山道を通り京に上がる。途中博徒弥惣次と出会う(「
上京旅中日記」)。
11月18日より約5ヶ月間京に滞在し、公家・盟友と交流する(「
天明京都日記」)。
7月、下総印旛沼干拓に着手する。
10月、幕府、神職でない者が、みだりに神事・祭礼を行うことを禁止する。
この年、奥羽冷害となり一揆・打ち壊しがおこる。
1783 37 京に滞在、正月禁裏で節会を拝観する(「天明京都日記」「京日記」)。
2月、祖父
貞正の神号を受ける。後、中山道を下り、武州台村で祭礼を行う(「天明下向日記」)。
9月3日、江戸を出発し、
村井古巌とともに東海道より伊勢神宮へ行く。途中明倫堂細井平洲を訪ねる(「高山正之道中日記」)。
祖父
貞正の神号を屋敷に祀るための許状を得るため、10月22日再び入京する。祖母りんの寿号を吉田家より宣下される。
多くの公家・諸氏と交流する(「
再京日記」)。
1月、工藤平助「赤蝦夷風説考」できる。
2月、大阪で米価騰貴、米買い占めのため打ち壊しがおきる。
4月、尾張藩校
明倫堂設立。
7月、浅間山噴火。
9月、
大槻玄沢「蘭学階梯」できる。
この年、冷害のため、諸国大飢饉。
奥羽で多数の餓死者が出る。
天明の大飢饉はじまる。
1784 38   この春夏、諸国飢饉、農民流亡のため農村荒廃。
4月、
高芙蓉江戸で没する。(63才)
1785 39 7月13日、細谷村を出て、利根郡大原村の金子重右衛門照泰を訪ねる。途中、天明3年の飢饉の惨状を記録する(「北上旅中日記」)。
三女
りよ生まれる。
この年、林子平「三国通覧図説」刊行。
前野良沢「和蘭訳筌」できる。
奥羽飢饉。
1786 40 祖母りん没する。(88才)
3年間(三年の喪)にわたる服喪を行う。
2月、手嶋堵庵没する(69才)。
この夏、
林子平「海国兵談」できる。
7月、関東・陸奥未曾有の大洪水、江戸被害甚大、諸国大凶作。
この年、
大槻玄沢、私塾芝蘭堂を設立。
8月、老中田沼意次、側役稲葉正明ら失脚。
この年、
最上徳内ら千島を探検しウルップに至る。
1787 41 6月1日より同晦日まで、祖母りんの服喪を記録する(「墓前日記」)。 5月、江戸・大阪などで打ちこわしがおこる。
松平定信が老中となり、寛政の改革をはじめる。きびしい倹約令を出す。
9月、
上杉治憲の治績を褒章する。
12月、本居宣長「玉くしげ」できる。
この春夏、諸国大飢饉。
1788 42 祖母りんの服喪を行う。 1月、柴野栗山、幕府に仕える。
同月、京都大火。
3月、
大槻玄沢「蘭学階梯」刊行。
6月、田沼意次没する(70才)。
寛政元 1789 43 閏6月12日、喪屋を出て(服喪終わる)、江戸へ行く。
冬10月3日、江戸に着き
前野良沢簗次正らと交わる。
これ以降、細谷村へは帰ることなく旅を続ける(「
寛政江戸日記」)。
3月、三浦梅園没する(67才)。
4月、幕府、
熊沢蕃山の「大学或問」の売買、貸本を厳禁する。
5月、クナシリ島のアイヌ反乱をおこす。松前藩これを鎮圧する。
8月、尊号宣下の「御内慮」幕府に伝えられる(尊号廷議一件)。
1790 44 6月7日、蝦夷地踏査のため江戸より津軽に向け旅をする。
7月1日、水戸城下に入り、
藤田幽谷と大義を論じる。その後米沢城下で莅戸太華らと面会する。
9月3日、津軽半島宇鉄に着いたが、渡航を断念する。帰途各地の飢饉の様子を記録する。
10月22日、
林子平と会談する。その後、光格天皇の新皇居遷宮を拝するため急いで京に向かう。(「北行日記」)
12月1日より京に滞在。
大村彦太郎宅や、岩倉具選宅などに寄寓し多くの公家、諸友と交流する(「寛政京都日記」)。
5月、幕府、聖堂において朱子学のほか異学を講究することを禁じる。
9月、棄捐令を発する。
11月、禁裏造営成り、光格天皇、聖護院仮御所より還幸。
1791 45 3月28日、緑毛亀を持参して、仙洞御所を訪ねる(「寛政京都日記」)。 4月、林子平「海国兵談」刊行。
12月
藤田幽谷「正名論」を著わす。
1792 46 熊本藪孤山宅で元旦を迎える。
2月24日、熊本を出、人吉より米良街道を通り日向国高鍋に出、美々津より再び九州を横断し、人吉街道を通り佐敷に出る。薩摩街道を南下し、水俣、野間の関を経て、3月鹿児島に着く。鹿児島に滞在し、開聞岳・坊ノ津などを訪れる。
5月25日、鹿児島を出、霧島―鵜戸―延岡―竹田、再び熊本、後、豊後・豊前に行く。(「
筑紫日記」)。
4月、筑前国雲仙(温泉)岳大噴火。
5月、幕府、「海国兵談」を絶版にし
林子平に蟄居を命じる。
9月、ロシア使節ラクスマンら、伊勢の漂民大黒屋光太夫を護送して根室に来航、通商を求める。
11月、幕府の反対により典仁親王の尊号宣下を停止する。
1793 47 4月、豊後日田の広瀬淡窓の父、桃秋を訪ねる。
5月、久留米に滞在。後、大宰府を経て筑前を訪ねる。
6月13日、筑後の松崎駅に至る。
6月14日、薩摩藩藩儒
赤崎貞幹と会う。
6月27日、久留米森嘉膳宅に於いて自刃、6月28日朝8時過ぎ没する。(「
筑紫日記」)。
3月、典仁親王尊号宣下一件に関し、中山愛親を閉門に、正親町公明を逼塞処分にする。
同月、幕府、沿岸諸藩に海防を命じる。
松平定信、伊豆・相模の海岸を巡視する。
6月、
林子平没する(56才)。
1794   4月21日、叔父剣持長蔵、長男儀介久留米に行き、遍照院で彦九郎の法要を行う。  
1796   11月18日、唐崎士愛(常陸介)、彦九郎の遺志を継ぎ同志を糾合するが、竹原庚申堂で切腹する。  
10 1798     木村謙次、クナシリ・エトロフに渡り探検。
11 1800     伊能忠敬、蝦夷地を測量する。
享和2 1802   備前国島原の儒医、西道俊、寺町遍照院の彦九郎墓前で割腹自殺する。 1月、木村兼葭堂没する(67才)
文化5 1808     間宮林蔵、樺太探検。
文政8 1825     幕府、異国船打払令を出す。
天保3 1832     天保の大飢饉はじまる。
天保6 1835   7月、常陸真壁の桜任蔵、高山彦九郎の生家を訪ねる。
10月、
長島尉信、彦九郎の遺書を筆写し、「高山子遺書漫録」に整理する。
 
天保8 1837     大塩平八郎の乱。
天保12 1841     天保の改革始まる。
天保13 1842   6月、尊王の志士、真木和泉ら久留米で高山彦九郎50年祭を行う。  
嘉永6 1853   下総岩井の間中雲帆、高山彦九郎の招魂碑建立を企図する。 6月ペリー浦賀に来航。
安政1 1854   信濃国小県郡海野の矢嶋行康、高山彦九郎の資料収集を始める。 日米和親条約
安政3 1856     ハリス下田に着任。
安政5 1858   薩摩の有馬新七長島尉信から高山彦九郎の遺墨を与えられる。 安政の大獄
安政6 1859     10月吉田松陰、処刑される(30才)。
万延元 1860   9月13日、高杉晋作、細谷村の高山彦九郎墓を訪ねる。 桜田門外の変がおこる。
文久2 1862   2月19日、久坂玄瑞、久留米の高山彦九郎の墓をスケッチする。12月23日、久坂玄瑞中岡慎太郎ほか細谷村の高山彦九郎墓を訪ねる。  
慶応3 1867     15代将軍徳川慶喜、朝廷に大政奉還を行う(江戸幕府が滅びる)。
王政復古の大号令が出される。
明治元年 1868     五カ条の御誓文が出される。
江戸を東京と改める。
明治2 1869   明治政府、高山彦九郎の子孫高山守四郎に三人扶持を下賜する。 天皇、東京着。
明治3 1870   6月、金井之恭により「高山操志」が出される。  
明治4 1871     廃藩置県が行われる。
明治5 1872     学制発布。
明治11 1878   3月8日、高山彦九郎、正四位に叙せられる。  
明治12 1879   11月15日、太田町天神山中腹に高山神社が創建される。  
明治21 1888     市制町村制がしかれる。
明治22 1889     大日本帝国憲法発布。
明治23 1890     第1回帝国議会開く。
明治25 1892   細谷蓮沼家墓地に遺髪塚建設(高山彦九郎百回忌)。  
明治27 1894     日清戦争(〜95)
明治32 1899     改正条約実施。
明治35 1902     日英同盟結ぶ。
明治37 1904     日露戦争(〜05)
大正7 1918     米騒動おこる。
大正8 1919   新田郡の有志、彦九郎の遺跡保存会結成。  
大正12 1923     関東大震災。
大正14 1925     普通選挙法公布。治安維持法公布。
昭和3 1928   11月8日、京都三条大橋畔に彦九郎の銅像建立。 3・15事件がおこる。
昭和6 1931   11月26日、高山彦九郎出生地の宅跡・遺髪塚が国の史跡に指定される。 満州事変おこる。
昭和7 1932   3月14日、太田町天神山山頂に高山神社新社殿造営される。 5・15事件がおこる。
このころから国家主義思想が広まる。
昭和12 1937     日中戦争はじまる。
昭和16 1941     太平洋戦争はじまる(〜45)
昭和17 1942   高山彦九郎遺徳顕彰会が結成される。
11月15日、高山神社において高山彦九郎没後150年祭開催される。
翼賛政治会結成される。
昭和18 1943   7月21日、高山彦九郎終焉の地久留米遍照院墓地、国の史跡に指定される。
「高山彦九郎全集」第1巻が完成する。
 
昭和20 1945     ポツダム宣言受諾。終戦。
言論・出版・結社の取締緩和。
昭和21 1946     天皇人間宣言。
日本国憲法公布。
昭和22 1947     2・1ゼネスト中止。
昭和26 1951     サンフランシスコ平和条約。
日米安全保障条約結ばれる。
昭和29 1954   「高山彦九郎全集」第2〜4巻が刊行。  
昭和35 1960   久留米市、(財)高山彦九郎先生史蹟顕彰会発足。  
昭和36 1961   11月27日、「高山彦九郎先生銅像再建同志会」により、三条大橋畔に彦九郎銅像再建。  
昭和53 1978   「高山彦九郎日記」全5巻が発刊。  
平成5 1993   5月〜12月、東毛学習文化センター他において高山彦九郎没後200年記念事業実施される。
(仮称)高山彦九郎記念館建設が決定され着工する。
 
平成8 1996   5月3日、高山彦九郎記念館が開館する。  
平成9 1997   5月8日、高山彦九郎記念館において高山彦九郎生誕250年記念事業実施される。同日、高山彦九郎研究会が発足する。  
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