■高山彦九郎記念館データファイルNo.8

 平成9年度高山彦九郎記念館企画展「高山彦九郎と幕末の志士達 ―高山彦九郎が幕末の志士達に与えた影響―」(平成10年2月10日~3月15日)解説リーフレットから構成(一部加筆)した資料です。


◆幕末の志士に高山彦九郎が与えた影響

年  号

西暦

彦九郎が与えた影響

寛政 5

1793

月27日、高山彦九郎は筑後国久留米城下、森嘉膳宅で謎の自刃、28日朝8時過ぎ没する。
6月29日、高山彦九郎の遺骸を森嘉膳の宅庭に仮埋葬する。
寛政5年、この頃から久留米藩主有馬頼貴、薩摩藩の漢学者赤崎貞幹、久留米の儒者樺島石梁などにより、高山彦九郎に対する追悼の詩文が著される。
8月、熊本藩再春館の教授富田大鳳、彦九郎の死を知り前年の彦九郎との別離を追憶し、弔う詩文を作る.
8月29日、自刃した家の主人森嘉膳から唐崎士愛宛ての返事の手紙に高山彦九郎の戒名について回答している。
11月11日、彦九郎の遺骸を高山家と同宗旨の真言宗寺院、寺町の遍照院内に改葬する。戒名は「松陰以白居士」とつける。

寛政 6

1794

3月11日、水戸藩藤田幽谷、高山彦九郎の死を聞き「祭高山処士文」著し、慰霊祭を営む。
4月2日、龍野藩股野玉川の許へ高山彦九郎の叔父剣持長蔵来訪する。股野玉川懐怛詠歌を剣持長蔵に託す。           
4月21日、叔父剣持長蔵、久留米に行き、遍照院で彦九郎の法要を行う。
4月22日、叔父剣持長蔵、筑後の同志を招き祭典を行う。
6月28日、龍野藩儒股野玉川ほか同藩の同士を誘い高山彦九郎の一周忌を行う。
この年、広島の平賀白山『蕉斎筆記』「高山彦九郎」を記し、高山彦九郎の自刃について言及する。
この頃、長久保赤水が「高山彦九郎の話」、木村謙次が「祭高山仲縄文」を著す。

寛政 7

1795

7月25日山本以南(良寛の実父)、洛北桂川に身を投じ死ぬ。高山彦九郎と関係があったといわれる。

寛政 8

1796

6月28日、竜野藩儒股野玉川、高山彦九郎の忌日であることから、述懷する詩文を作る。
11月18日、唐崎士愛、彦九郎の意志を継ぎ、同志を糾合するが、竹原庚甲堂で切腹する。
この年、久留米藩家老有馬守居「正之を弔う辞」を作る。

享和 2

1802

5月2日、肥前国島原の儒医、西道俊、久留米遍照院の彦九郎の墓前で割腹自殺する。
この頃、常陸小田の長島尉信、江戸で高山彦九郎の事跡を知る。後に高山彦九郎の資料を蒐集する。

享和 3

1803

2月25日、熊本藩再春館の教授富田大鳳、自家にて自刃する。久坂玄瑞はこのことを評して高山彦九郎に追従して自殺したと記している.
6月、高山彦九郎の長男高山義介、久留米の墓を訪れ慟哭する。久留米藩樺島石梁、義助と別離に際して詩を賦す。

文化 2

1805

8月、下野黒羽藩鈴木武助農喩』を著す。高山彦九郎の話を書く。

文化 4

1807

6月12日、小宮山楓軒高山彦九郎の逸事などを『楓軒偶記』として書き記す。後、評伝なども記録する。

文化10

1813

12月小宮山楓軒『懐宝日札』に彦九郎の伝聞を記す。

文化11

1814

3月2日、福岡藩儒亀井南冥、自宅の火災で自ら火裡に投じ死ぬ。一説には高山彦九郎と同志であったことから排斥されたのが原因であったという.

文化12

1815

12月1日、陸中国水沢藩高野玄斎『寛政三奇士』を描く。

文政 元

1818

8月、水杉山忠亮、「高山正之伝」を著す。

文政 3

1820

5月、久留米の儒者樺島石梁は「宮川森嘉膳小伝」の中で高山彦九郎について記す。
この頃までに「一話一言」が太田南畝よりまとめられる。上州の高山彦九郎について記す。
文政 4 1821 この頃、松浦静山、「甲子夜話」をまとめる。高山彦九郎が木曽山中で盗賊を恐れさせた話等が記される。

文政 8

1825

春、『仮名世説』が太田南畝より刊行され、高山彦九郎の孝について記す。

文政12

1829

高山彦九郎の遺品は簗次正から甥の簗紀平に引き継がれる。

天保 2

1831

4月石川桃蹊「得高山彦九郎之書紀事」を著す。

天保 5

1834

この年、水戸彰考館総裁、杉山忠亮「書高山処士真蹟後」を著す。

天保 6

1835

7月、常陸国真壁の桜任蔵、遺品を求め、細谷村の彦九郎生家後を訪ねる。後に「高山仲縄遺書記」を記す。
10月、常陸国小田の長島尉信、高山彦九郎の遺書を筆写し「高山子遺書漫録」に整理する。

天保 7

1836

この頃藤田東湖、土浦藩大久保要宛に「…高山彦九郎の遺書に幽光を発せしめたのは彼(桜任蔵)の功」と述べる。

天保 9

1838

この年三村三太之信高山彦九郎日記『高山氏安永四年北国日記』の写本を作る。

天保11

1840

5月2日杉山忠亮長島尉信より彦九郎26歳の時の前髪などを与えられる。
この年、佐賀藩士永山徳夫、水戸藩視察の際、相良芳太郎が高山彦九郎の前髪を所有しているのを知る。

天保12

1841

5月、頼山陽高山彦九郎伝」を著す。

天保13

1842

正月、真木和泉「高山正之伝」を筆写・熟読の後、感慨を欄外に記し、哀悼の和歌を捧げる。
5月、水戸彰考館総杉山忠亮題高山処士遺墨」著す。
6月、久留米藩村上量弘、水戸で高山彦九郎没50年に当たりその霊に西向再拝し「祭高山処士文并序」を記す。
6月27日、久留米の真木和泉木村重任、高山彦九郎没50年に当たり祭典を行う。
水戸天保学派(第二次水戸学)により高山彦九郎の五十年祭が催される。
6月、上州新田郡の大舘謙三郎、西遊して久留米の宮川亘理森嘉膳の子)を訪ね水盤を見、詩を賦す。
この頃より高山彦九郎林子平蒲生君平三奇士と称せられる。

弘化 2

1845

秋7月角田九華『近世叢語』続を著す。その中に高山彦九郎の評伝が書かれている。

嘉永元

1848

5月19日、陸中国高清水の針生高泉、久留米の故森嘉膳(高山彦九郎が自刃した家)の子、宮川亘理を訪ね、高山彦九郎の話を聞き日記に記している。翌日には真木和泉を訪ねる。
この年、中村弘毅より『閑度雑話』が刊行される。高山彦九郎の話を収録する。

嘉永 2

1849

1月28日付、桜任蔵、土浦藩士長島尉信宛てに松浦武四郎紹介した書簡中に「此生慕高山蒲生両勇士之跡」とある。

嘉永 4

1851

塩谷宕陰「高山正之伝」を著す。

嘉永 5

1852

12月中旬頃、吉田松陰、東北旅行の途中水戸で「高山正之伝」を見、高山彦九郎の存在を知る。

嘉永 6

1853

この年、ペリー浦賀に来航する。以後、国論が志士達らの間で沸騰する。この頃に高山彦九郎・蒲生君平林子平は寛政の三奇人として称され、三人の先駆的事蹟が志士達の記憶に蘇るようになる。
春正月、斎藤拙堂「高山彦九郎招魂墓銘序」を著す。
春、水戸の会沢正志斎「嘉永癸丑春」を著し、高山彦九郎について論じる。
この年、下総の間中雲帆、江戸谷中臨江寺蒲生君平墓に隣接し、高山彦九郎の墓を建てようとするが幕吏の猜を恐れ断念する。

安政 2

1855

この頃から、吉田松陰宇都宮黙霖との間で手紙により論争する。高山彦九郎のことがたびたび例に出される。
6月14日、薩摩藩の伊地知正治、久留米高山彦九郎の墓に石燈籠一基を寄進する。
11月、吉田松陰宇都宮黙霖宛に高山彦九郎の事を尋ね、その回答に対し高山の事跡を知らなったことをはずかしいことであったと記している。
11月2日、薩摩藩の志々目献吉川井田市郎左衛門、久留米の高山彦九郎の墓に石水盤を寄進する。
この頃、薩摩藩の中井桜州、久留米の高山彦九郎の墓を訪れ、詩を詠む。

安政 3

1856

3月、菅茶山の『筆のすさび』が刊行される。高山彦九郎の伝が書かれる。
6月、吉田松陰、野山獄で『近世叢語』などを読む。
9月29日、吉田松陰久保清太朗宛の手紙の中で、高山彦九郎の評伝を水戸に行った時に一目した。その文は名誉の作なので写して送ってほしいと書いている。
この頃までに、「寒檠綴」が浅野長祚によりまとめられる。彦九郎の自刃の真相を記す。

安政 4

1857

閏5月18日、幽室中吉田松陰「塩谷の文を読む」の中で「高山正之伝」を読み高山彦九郎の事跡を評じる。この頃、杉家幽室中に「幽室随筆」を記す。その文中『雨森芳洲先生の国王称号論跋』で、頼山陽の「高山彦九郎伝」は高山彦九郎をよく理解しないで書いたものであると記している。
9月、棚谷桂陰「三傑偉跡」を著し、高山彦九郎・林子平蒲生君平の三人を併称する。

安政 5

1858

正月23日、杉家幽室中吉田松陰「児王士常の九国、四国に遊ぶを送る叙」の中で高山彦九郎の墓を掃して祭ることが必要だと記している。
5月2日、有馬新七長島尉信より高山彦九郎筆記の冊子へ杉山忠亮が序文を認めたものを贈られる。
9月16日、平野国臣、高山彦九郎の墓を調べに久留米遍照院を訪ねる。
10月1日、平野国臣福岡藩脱藩後ただちに、彦九郎の墓前に薩摩の大久保市蔵より贈られた五両の中から石燈籠を寄付し、和歌を献じる。石燈籠には「筑前隠士平野次郎国臣」と刻されている。
11月5日来原良蔵、久留米の高山彦九郎の墓を尋ねたが知る人なく断念する。
この年、有馬新七長島尉信から贈られた高山彦九郎の遺品類を「雑録」の中に記録している。
この年、有馬新七『安政挙義記』の中で記し、高山正之の前髪のことを長島尉信より聞いている。
この頃、高山彦九郎の遺品、簗紀平より林鶴梁に伝わる。林鶴梁、彦九郎の日記を愛読し、評述文を記す。

安政 6

1859

有馬新七、「書高山彦九郎手跡之後」を著す。
3月29日、吉田松陰、小田村ほかに手紙を送る。その文中に高山彦九郎の後塵をつぐ覚悟であると記している。
10月20日、吉田松陰入江杉蔵宛に手紙を送る。その文中に高山彦九郎は大功の人で、神碑を設けることが必要であると記している。

万延 元

1860

9月13日、高杉晋作、上野細谷村の高山彦九郎の墓を訪ね、詩を賦す。
9月28日、薩摩藩の村田新八、久留米の墓に石玉垣と水鉢を寄進する。

文久 元

1861

3月15日、久坂玄瑞『俟采擇録』を著し、高山彦九郎について記す。
12月1日、吉田松陰き後、松下村塾の塾生たちは「一燈銭申合帳」を作る。その中に「高山先生伝八葉」も含まれている。
この年、久坂玄瑞「過三條橋有感」の詩を賦す。

文久 2

1862

2月12日、久坂玄瑞、夜半に「高山伝」を校正する。
2月19日、久坂玄瑞、久留米を訪れ高山彦九郎の墓をスケッチする。
9月29日、高杉晋作桂小五郎に攘夷決行前の不安な様子を手紙で伝える。その文中に高山彦九郎の節義を記している。
9月、村上俊平、集めた高山彦九郎の和歌を『正之歌集』として発刊する。
12月23日、久坂玄瑞中岡慎太郎ほか上州新田郡細谷村高山彦九郎の墓を訪ねる。
この年の末、西郷隆盛、沖永良部島の獄舎に幽閉中、高山彦九郎の忠義心をたたえる詩文を詠む。
この年、若林貞明『三奇士口碑』の文を著す。

文久 3

1863

正月、加藤桜老、京へ上り三條大橋の橋上で高山彦九郎の忠義をたたえる和歌を詠む。
この年、久留米藩木村重任、「故人物語」を著し、高山彦九郎について記す。文中に天保9年の頃、真木和泉安達近江宅を訪れ、高山彦九郎の話を聞きに来たことなどが書かれている。

慶応 3

1867

この年、右大臣岩倉具視、常陸国小田の長島家に彦九郎資料が保存されているのを聞き、宮内書記桜井能監を派遣する。

慶応 4

1868

久留米藩有馬頼咸、木村・佐田両人の建議により、猪田一之進命じて高山彦九郎の墓を修理させる。

明治 元

新政府に出仕した橋本正誠(多賀之助)は太政官に高山神社造営建言書を提出する。

明治 2

1869

2月、久留米藩知事有馬頼咸は茶臼山に招魂所を建設し、高山彦九郎の神位を祭る。
この年、久留米遍照院墓地で有馬孝三郎有馬大助堀江七五郎小河真文古松簡二加藤御楯らが、高山彦九郎祭を行う。
12月、太政官より高山彦九郎旌表の御沙汰がある。

明治 3

1870

正月、彦九郎の子孫高山石九郎とその子高山守四郎、岩鼻県に出頭し、県令より御沙汰書を受け、玄米三人扶持(金禄公債證書に換算され420円)と旧屋敷地3反7畝7歩を受取り、名字帯刀を許される。
6月、金井之恭により『高山操志』上・下が刊行される。

明治 4

1871

11月、西郷隆盛菊地容斎画に「辛未仲冬」と題した高山彦九郎をたたえる詩を賛す。

明治 5

1872

矢嶋行康、常陸国小田の長島家を訪問し、長島尉信筆者の「高山子遺書漫録」はじめ、彦九郎関係資料を求める。
常陸国小田の長島家、「高山彦九郎日記」を岩倉具視に献上する。

明治 8

1875

久留米の御楯神社境内に「高山仲縄祠堂記」碑を建てる。

明治 11

1978

3月、高山彦九郎、正四位を追贈される 。

明治 12

1879

11月、斎藤多須久矢嶋行康本島自柳・金谷権平らの出願によって金山南麓の天神山中腹に高山神社創建される。


 
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