■高山彦九郎記念館データファイルNo.5

 高山彦九郎は寛政5年(1793)6月27日(絶命は翌28日)に自刃した後、幕末から明治に至るまで、多くの人々に影響を与えました。本表は彦九郎の没後に関わった人物の一覧表です。

 平成9年度高山彦九郎記念館企画展「高山彦九郎と幕末の志士達 ―高山彦九郎が幕末の志士達に与えた影響―」(平成10年2月10日~3月15日)解説リーフレットを元に再構成した資料です。別項、高山九郎記念館データファイルNo.8高山彦九郎が幕末の志士たちに与えた影響もあわせてご覧ください。        

 本表は未完の項目もありますが、順次修正していく計画です。

                         ●主な参考文献(氏名・生年月日・経歴等に関わる)

書      名 編・著者名 出 版 社 出版年 備     考
高山彦九郎日記 全5巻  千々和實・萩原進編 西北出版 1977 「高山彦九郎全集」の増補復刻版
日本人名大辞典   平凡社 1979 「新撰大人名辭典」の復刻版 
群馬県人名大辞典   上毛新聞社 1982  
高山彦九郎読本 萩原進著 群馬出版センター  1993  
国書人名辞典   岩波書店 1993  
幕末維新人名事典 宮崎十三八・安岡昭男 新人物往来社 1994  
朝日日本歴史人物辞典   朝日新聞社 1994  

◆高山彦九郎没後関連人物一覧表

  氏   名 名・字・号・通称など 職・経歴等 彦九郎との関係
あいざわせいしさい
会沢正志斎

天明2(1782)~文久3(1863)
名安/通称恒蔵 水戸藩士・儒学者・彰考館総裁・講道館初代教授頭取・藤田幽谷の門人  嘉永6年(1853)、「嘉永癸丑春」を著し、彦九郎について論じる。
  あさのながよし  あさのばいどう
浅野長祚→浅野梅堂

文化13(1816)~明治13(1880)
名長祚/字胤卿/号梅堂・池香・蒋潭 薩摩国浅野氏の氏族・幕府に仕え浦賀奉行を経て京都町奉行となる。安政の御所造営に尽力。  安永3年(1856)「寒檠?綴」がまとめられる。彦九郎の自刃の真相を記す。
  あだち おうみ
安達近江
  久留米藩士  文久3年(1863)、「故人物語」を著し、高山彦九郎について記す。文中に天保9年の頃、真木和泉守が安達近江宅を訪れ、高山彦九郎の話を聞きに来たことなどが書かれている。
  ありまこうざぶろう
有馬孝三郎
     明治2年(1869)、久留米遍照院墓地で有馬大助堀江七五郎小河真文古松簡二加藤御楯らとともに高山彦九郎祭を行う。
  ありましんしち
有馬新七

文政8(1825)~文久2(1862)
名正義 薩摩藩士・「今高山彦九郎」といわれた。  安政5年(1858)5月2日、有馬新七は長島尉信より高山彦九郎筆記の冊子へ杉山忠亮が序文を認めたものを贈られる。この年、長島尉信から贈られた高山彦九郎の遺品類を「雑録」の中に記録している。この年、「安政挙義記」の中で記し、高山正之の前髪のことを長島尉信より聞いている。
 安政6年(1859)「書高山彦九郎手跡之後」を著す。
  ありまだいすけ
有馬大助
     明治2年(1869)、久留米遍照院墓地で有馬孝三郎有馬大助堀江七五郎小河真文古松簡二加藤御楯らとともに高山彦九郎祭を行う。
  ありま もりい
有馬守居 

()~文化11(1814)
初名純次/主膳/号是誰・阪低窩主人 久留米藩家老  寛政8年(1796)、「正之を弔う辞」を作る。
  ありま よりしげ
有馬頼咸

文政6(1823)~明治14(1881)
在位弘化3(1846)~明治2(1869)知藩事~明治4(1871)廃藩       
  久留米藩第11代藩主・中務大輔・左少将・左中将  慶応4年(1868)木村、佐田両人の建議により、猪田一之進に命じて高山彦九郎の墓を修理させる。
 明治2年(1869)2月、茶臼山に招魂所を建設し高山彦九郎の神位を祭る。
  ありまよりたか
有馬頼貴

延享2(1745)~文化9(1812)
在位天明4(1784)~文化9(1812)
  久留米藩第8代藩主・上総介・中務大輔・明善堂創設  寛政5年(1793)彦九郎没後、追悼の詩文を著す。
いしかわとうけい
石川桃蹊

1756~天保8(1837)
名久徴/字伯誠/号桃蹊 水戸藩士・彰考館書写吏・馬廻り  天保2年(1831)4月、「得高山彦九郎之書紀事」を著す。
  い だ いちのしん
猪田一之進
  久留米藩士  慶応4年(1868)有馬頼咸、木村、佐田両人の建議により、猪田一之進に命じて高山彦九郎の墓を修理させる。
  いじちまさはる
伊地知正治

文政11(1828)~明治19(1886)
通称龍右衛門/号一柳 薩摩藩士・東山道先鋒総督参謀・修史館総裁・宮内省御用係・伯爵・宮中顧問官  安政2年(1855)6月14日、久留米の高山彦九郎の墓に石灯籠一基を寄進する。
  いりえすぎぞう いりえひろき
入江杉蔵→入江弘毅

天保9(1838)~元治元(1864)
通称初め杉蔵、のち九一/名弘毅/字子遠 長州(萩)藩士・吉田松陰門下・志士  安政6年(1859)10月20日、吉田松陰は入江杉蔵宛てに手紙を送る。その文中に高山彦九郎は大功の人で、神碑を設けることが必要であると記している。
  いわくらともみ
岩倉具視 

 
文政8(1825)~明治16(1883)
  公家・左大臣
堀河康親の二男で岩倉具慶の養子・
岩倉具選の子孫
 慶応3年(1867)、常陸小田長島尉信家に彦九郎資料が保存されているのを聞き、宮内書記桜井能監を派遣する。
うつのみやもくりん
宇都宮黙霖→宇都宮真名介

文政7(1824)~明治30(1897)
名雄綱/号雪渓・雪郷/僧名黙林 安芸国加茂郡長浜の僧峻嶺の子・志士・国学者・神官  安政2年(1855)吉田松陰との間で手紙により論争する。高山彦九郎のことがたびたび例に出される。
 同年11月、
吉田松陰は宇都宮黙霖宛てに高山彦九郎のことを訪ね、その回答に対し、松陰は高山の事跡を知らなかったことを恥かしいことであったと記している。
おおくぼいちぞう
大久保市蔵 
  薩摩藩士  
  おおくぼかなめ
大久保要

寛政10(1798)~安政6(1860)
名親春 土浦藩士・藩校郁文館頭  天保7年(1836)藤田東湖は大久保要宛に「…高山彦九郎の遺書に幽光を発せしめたのは彼(桜任蔵)の功」と述べる。
  おおくぼのりひろ
大久保信弘

1839~1865
信之介 水戸藩士・天狗党事件により敦賀で死罪  林鶴梁から彦九郎の和歌1点を譲り受ける。
  おおだてけんざぶろう
大舘謙三郎

1824~1875
  新田勤王党  天保13年(1842)6月、西遊して久留米の宮川亘理(森嘉膳の子)を訪ね水盤を見、詩を賦す。
  おおたなんぽ
太田南畝

寛延2(1749)~文政6(1823)
名覃/字子耜/通称直次郎・七左衛門/号蜀山人など 幕府御家人・戯作者・文人  文政3年(1820)「一話一言」がまとめられる。上州の高山彦九郎について記す。
 文政8年(1825)に刊行された「仮名世説」では、高山彦九郎の孝について記されている。
  おがわまさぶみ
小河真文

弘化4(1847)~明治4(1872)
通称吉右衛門/変名池田八束 久留米藩士・尊攘派  明治2年(1869)、久留米遍照院墓地で有馬孝三郎有馬大助堀江七五郎古松簡二加藤御楯らとともに高山彦九郎祭を行う。
  おだむらいのすけ
小田村伊之助
→のち
楫取素彦

文政12(1829)~大正1(1912)
楫取素彦の旧姓名 長州(萩)(萩)藩士・明倫館助教・吉田松陰門下・吉田松陰の義兄  安政6年(1859)3月29日、吉田松陰は小田村伊之助・久保清太郎久坂玄瑞に手紙を送る。その文中に高山彦九郎の後塵をつぐ覚悟であると記している。
かつらこごろう  きどたかよし
桂小五郎→木戸孝充

天保4(1833)~明治10(1877)
通称小五郎のち貫治・準一郎/号松菊 長州(萩)藩士・吉田松陰門下・明治政府参議  文久2年(1862)9月29日、高杉晋作は桂小五郎に攘夷決行前の不安な様子を手紙で伝える。その文中に高山彦九郎の節義を記している。
  かとうみたて
加藤御楯
     明治2年(1869)、久留米遍照院墓地で有馬孝三郎有馬大助堀江七五郎小河真文古松簡二らとともに高山彦九郎祭を行う。
  かとうおうろう
加藤桜老

文化8(1811)~明治17(1884)
名煕・有輪/字伯敬/号桜老 笠間藩士・会沢正志斎及び藤田東湖の門人・時習館都講・私塾十三山書楼・長州(萩)藩明倫館教授・京都大学準博士・加茂別雷神社宮司・教部省中録  文久3年(1863)正月、京へ上がり三條大橋上で高山彦九郎の忠義をたたえる和歌を詠む。
  かとりもとひこ
楫取素彦小田村伊之助

文政12(1829)~大正1(1912)
旧名小田村伊之助/名希哲/字士毅/号耕堂 長州(萩)藩士出身・第2次群馬県初代県令・元老院議官・宮中顧問官・貴族院議員吉田松陰の義兄  高山神社創建に尽力。
  かないゆきやす
金井之恭

天保4(1833)~明治40(1907)
字子誠/通称文八郎・五郎/号金洞・錦鶏 上野国佐位郡島村出身の政治家・書家。金井烏洲の子。新田官軍に参加。内閣大書記官・元老院議官・貴族院議員  明治3年(1870)6月、「高山操誌」上・下を刊行する。
  かないうじゅう
金井烏洲

寛政8(1847)~安政4(1865)
名泰/字林学通称佐仲太/号烏洲・朽木翁・白沙頓翁 上野国佐位郡島村出身の画家・勤王家・金井之恭の父  
  かなやごんぺい
金谷権平
  新田郡細谷村長  高山神社創建に尽力。
  かばしませきりょう
樺島石梁交遊録
  久留米藩儒  寛政5年(1793)彦九郎没後、追悼の詩文を著す。
 享和3年(1803)6月、彦九郎の長男義助は久留米の墓を訪れ働哭する。樺嶋石梁は義助と別離に際して詩を賦す。
 文政3年(1820)5月、「宮川森嘉膳小伝」の中で高山彦九郎について記す。
  がもうくんぺい
蒲生君平

明和5(1768)~文化10(1813)
  学者・尊王家  文化12年(1815)陸中国水沢藩医高野玄斎によって高山彦九郎林子平・蒲生君平は『寛政三奇士』と描かれる。
 天保13
(1842)頃より高山彦九郎林子平・蒲生君平は三奇士と称せられる。
  からさきことちか
唐崎士愛交遊録
  播磨国龍野藩士  寛政8年(1796)11月18日、彦九郎の遺志を継ぎ同志を糾合するが、竹原庚申堂で切腹する。
  かめいなんめい
亀井南冥 →交遊録 
  福岡藩儒  文化11年(1814)3月2日、自宅の火災で自ら火裡に投じ死ぬ。一説には高山彦九郎と同志であったことから排斥されたの原因であったという。
  かわいだ いちろうざえもん
川井田市郎左衛門
     安政2年(1855)11月2日、志々目献吉と、久留米の高山彦九郎の墓に石水盤を寄進する。
  かんちゃざん
菅茶山交遊録
     安政3年(1856)3月、「筆のすさび」が刊行される。高山彦九郎の伝が書かれる。
きくちようさい
菊地容斎

天明8(1788)~明治11(1878)
諱武保/通称量平/号容斎 幕府御徒・画家  明治4年(1871)11月、西郷隆盛は菊地容斎の画に「辛末仲冬」と題した高山彦九郎を称える詩を賛す。
  木村・佐田両人   久留米藩士か  慶応4年(1868)有馬頼咸、木村、佐田両人の建議により、猪田一之進に命じて高山彦九郎の墓を修理させる。
  きむら けんじ
木村謙次交遊録
     寛政6年(1794)、「祭高山仲縄文」を著す。
  きむらしげとう
木村重任

文化14(1817)~明治17(1884)
通称三郎/号赤村・松稜 久留米藩士・儒学者・勤王家  天保13年(1842)6月27日、久留米の真木和泉とともに、高山彦九郎没50年に当たり祭典を行う。
 文久3年(1863)、「故人物語」を著し、高山彦九郎について記す。文中に天保9年(1838)の頃、真木和泉守安達近江宅を訪れ、高山彦九郎の話を聞きに来たことなどが書かれている。
くさかげんずい
久坂玄瑞

天保11(1840)~元治1(1864)
名通武/幼名誠/字實甫のち義助/号江月齋 長州(萩)藩士・吉田松陰門下・吉田松陰の義弟・志士  安政6年(1859)3月29日、吉田松陰小田村伊之助楫取素彦)・久保清太郎・久坂玄瑞に手紙を送る。その文中に高山彦九郎の後塵をつぐ覚悟であると記している。
 文久2年(1862)2月19日、久留米を訪れ高山彦九郎の墓をスケッチする。同年12月23日、中岡慎太郎ほかとともに細谷村の高山彦九郎の墓を訪ねる。
 文久元年(1861)3月15日、「俟采擇録」を著し、高山彦九郎について記す。この年、「過三條橋有感」の詩を賦す。
 文久2年(1862)2月12日、夜半に「高山伝」を校正する。2月19日、久留米を訪れ高山彦九郎の墓をスケッチする。12月23日、中岡慎太郎ほかと上州新田郡細谷村高山彦九郎の墓を訪ねる。
  く ぼ せいたろう
久保清太郎

天保2(1832)~明治11(1878)
断三 長州(萩)藩士・吉田松陰門下・代官・山口県小参事・度会県令  安政3年(1856)9月29日、吉田松陰の手紙の中で、高山彦九郎の評伝を水戸に行った時に一目した。その文は名誉の作なので写して送ってほしいと書いている。
 安政6年(1859)3月29日、
吉田松陰小田村伊之助楫取素彦)・久保清太郎・久坂玄瑞に手紙を送る。その文中に高山彦九郎の後塵をつぐ覚悟であると記している。
  くりはらよしぞう
来原良蔵

文政12(1829)~文久2(1862)
  長州(萩)藩士・志士  安政5年(1858)11月5日、久留米の高山彦九郎の墓を尋ねたが知る人なく断念する。
けんもちちょうぞう
剣持長蔵親族一覧表

元文2()~文化14()
  彦九郎の叔父  寛政6年(1794)4月2日、股野玉川の許へ高山彦九郎の叔父長蔵来訪する。股野玉川懐怛詠歌を長蔵に託す。4月21日、久留米に行き、遍照院で彦九郎の法要を行う。4月22日、筑後の同志を招き祭典を行う。
こだま
児王士常
     安政5年(1858)1月23日、吉田松陰は杉家幽室中に書いた「児玉士常の九州、四国に遊ぶを送る叙」の中で高山彦九郎の墓を掃して祭ることが必要だと記している。
  こみやまふうけん
小宮山楓軒

明和1(1766)~天保11(1840)
名昌秀/字子実/号忍軒のち楓軒/通称造酒之介・次郎衛門 水戸藩士・立原翠軒の門人・侍読・郡奉行・町奉行・御側用人  文化4(1807)6月12日、高山彦九郎の逸事などを「楓軒偶記」として記す。後、評伝なども記録する。
文化10年(1813)12月、「懐宝日札」に彦九郎の伝聞を記す。
さいごうたかもり
西郷隆盛

文政10(1828)~明治10(1877)
号南洲 薩摩藩士・明治維新の元勲  文久2年(1862)の末、沖永良部島の獄舎に幽閉中、高山彦九郎の忠義心をたたえる詩文を詠む。
 明治4年(1871)11月、
菊地容斎の画に「辛末仲冬」と題した高山彦九郎をたたえる詩を賛す。
  さいとうせつどう
斎藤拙堂

寛政9(1797)~慶応1(1865)
名正謙/字有終/号拙堂/通称徳蔵 津藩士・儒学者・藩校有造館督学  嘉永6年(1853)正月、「高山彦九郎招魂墓銘序」を著す。
  さいとうたすく
斎藤多須久

天保6(1835)~明治26(1893)            
諱佳比/字伊太郎・寛之助/通称多須久 勢多郡宮城村生まれ・国学者・神官  高山神社創建に尽力。
  さがらよしたろう
相良芳太郎
     高山彦九郎の前髪を所有する。
  さくらいよしかた
桜井能監  

生年不詳~明治31(1898)
名能監/号辰丸 宮内書記  慶応3年(1867)、岩倉具視は、常陸小田の長島家に彦九郎資料が保存されているのを聞き、宮内書記桜井能監を派遣する。
  さくらじんぞう
桜任蔵

(1812)~(1859)
名真金 水戸藩士・藤田東湖に師事・西郷隆盛吉田松陰らと交遊  天保6年(1835)7月、遺品を求め、細谷村の彦九郎生家跡を訪ねる。後に「高山仲縄遺書記」を記す。
 嘉永2年(1849)1月28日付、
長島尉信宛てに松浦武四郎を紹介した書簡中に、「此生慕高山蒲生両勇士之跡」とある。
しおのやとういん
塩谷宕陰

文化6(1809)~慶応3(1867)
名世弘/字毅侯/号宕陰 浜松侯水野忠邦に仕える。のち幕府儒官となる。  嘉永4年(1851)「高山正之伝」を著す。
  し じ(し)め けんきち
志々目献吉

生没年不詳
  薩摩藩士・尊攘派  安政2年(1855)11月2日、川井田市左衛門と、久留米の高山彦九郎の墓に石水盤を寄進する。
すぎやまちゅうりょう
杉山忠亮 

(1801)~弘化2(1845)     
通称千太郎/字子元/号復堂・致遠斎 水戸彰考館総裁  文政元年(1818)8月、「高山正之伝」を著す。
 天保5年(1834)「書高山処士真蹟後」を著す。
 天保11年(1840)5月2日、杉山忠亮、
長島尉信より彦九郎26歳の時の前髪などを与えられる。
 天保13年(1842)5月、「題高山処士遺墨」を著す。
 安政5年(1858)5月2日、
有馬新七長島尉信より高山彦九郎筆記の冊子へ杉山忠亮が序文を認めたものを贈られる。
  すずきぶすけ
鈴木武助交遊録
  下野黒羽藩家老  文化2年(1805)8月、「農喩」を著す。高山彦九郎の話を書く。
たかすぎしんさく
高杉晋作

天保10(1839)~慶応3(1867)
     
谷潜蔵/号東行 長州(萩)藩士・吉田松陰門下・志士  万延元年(1860)9月13日、細谷村の高山彦九郎墓を訪ね、詩を賦す。
 文久2年(1862)9月29日、
桂小五郎に攘夷決行前の不安な様子を手紙で伝える。その文中に高山彦九郎の節義を記している。
  たかのげんさい
高野玄斎

明和8(1771)~文政10(1827)
  杉田玄白門下・蘭方医・高野長英の養父(伯父) 文化12年(1815)12月1日、「寛政三奇士」(高山彦九郎林子平蒲生君平を描く。

「陸中国水沢藩医玄斎」の落款

  たかやすろおく
高安芦屋 

生年不詳・寛政年間(1789-1801)没
名昶/号蘆屋山人/通称荘次郎 大阪の儒者  高山彦九郎の「墓前日記」の一片を得、賛辞する。
  たかやまいしくろう
高山石九郎

   ~明治4(1871) 42才
  彦九郎の曾孫・彦九郎孫の常見恒太郎の子  明治3年(1870)正月、彦九郎の子孫石九郎とその子守四郎は岩鼻懸に出頭し、御沙汰を受け、玄米三人扶持と旧屋敷地3反7畝7歩を受け取り、名字帯刀を許される。
  たかやまぎすけ
高山義助(常見義助)→親族一覧表

天明2(1782)~安政5(1858)
  彦九郎の長男・のち桐生新宿常見善五郎の婿養子となる  寛政6年(1793)4月21日、剣持長蔵とともに久留米に行き、遍照院で彦九郎の法要を行う。享和3(1803)6月、久留米の墓を訪れ慟哭する。樺島石梁、義助と別離に際して、詩を賦す。
  たかやまもりしろう
高山守四郎

慶応1(1865)~
  彦九郎の玄孫・高山石九郎の子  明治3年(1870)正月、彦九郎の曾孫高山石九郎とその子守四郎は岩鼻県に出頭し、御沙汰を受け、玄米三人扶持と旧屋敷地3反7畝7歩を受け取り、名字帯刀を許される。
 明治25年(1893)彦九郎百年忌にあたり、蓮沼家墓地内に高山彦九郎遺髪塚を建立する。
  たなやけいいん
棚谷桂陰

文化10(1813)~明治15(1882)
名元善/字元卿/号佳陰・鳳陽・天香斎/通称善庵 常陸笠間藩医・藤田東湖と交遊  安政4年(1857)9月「三傑偉跡」を著し、高山彦九郎・林子平蒲生君平の三人を併称する。
  たにたてき・かんじょう
谷干城

天保8(1837)~明治44(1911)
  土佐藩士・陸軍軍人・政治家  間中雲帆から彦九郎の遺髪を譲り受けている。

 遺髪は昭和51年(1976)に子孫から高山神社に奉納されている。

 谷干城の祖父
谷万六(谷好井)と彦九郎は交流があった。

つのだきゅうか
角田九華

天明4(1784)~安政2(1856)
名簡/字大可・康夫/号九華/通称才次郎 豊後岡藩士・脇愚山及び大阪懐徳堂に入門・儒学者・頼山陽と交遊  弘化2年(1845)7月、近世人物逸話集の「近世叢語」続を著す。その中に高山彦九郎の評伝が書かれる。
とみたたいほう
富田大鳳交遊録
     寛政5年(1793)8月、彦九郎の死を知り前年の彦九郎との別離を追憶し、弔う詩文を作る。
 享和3年(1803)2月25日、自家にて自刃する。
久坂玄瑞はこのことを評して高山彦九郎に追従して自殺したと記している。
なかいおうしゅう
中井桜洲

天保9(1838)~明治27(1894)
名弘/号桜洲/通称横山休之進 薩摩藩士・宇和島藩士・神奈川県判事・東京府判事・駐英公使館書記官・滋賀県知事・京都府知事  安政2年(1855)久留米の高山彦九郎の墓を訪れ、詩を詠む。
  なかおかしんたろう
中岡慎太郎

天保9(1838)~慶応3(1867)
名為鎮・道正/号迂山・遠山/通称福太郎・光次・慎太郎 土佐藩郷士・志士  文久2年(1862)12月23日、久坂玄瑞ほかとともに、細谷村の高山彦九郎墓を訪ねる。
  ながくぼせきすい
長久保赤水交遊録
  水戸藩士・地理学者  寛政6年(1794)「高山彦九郎の話」を著す。
  ながしまやすのぶ
長島尉信 

天明1(1781)~慶応3(1867)
幼名:小泉新五郎/号郁子園・二齋 農政学者・名主・水戸藩士・土浦藩士  享和2年(1802)江戸で高山彦九郎の事跡を知る。後に高山彦九郎の遺品遺墨を蒐集した。
 天保6年(1835)10月、高山彦九郎の遺書を筆写し、「高山子遺書漫録」に整理する。
 嘉永2年(1849)1月28日付、
桜任蔵が長島尉信宛てに松浦武四郎を紹介した書簡中に、「此生慕高山蒲生両勇士之跡」とある。
 安政5年(1858)5月2日、
有馬新七は長島尉信より高山彦九郎筆記の冊子へ杉山忠亮が序文を認めたものを贈られる。
  なかむら
中村弘毅交遊録

生年不詳~天保5(1834)・83歳以上
名弘毅/号新斎・梅花/通称安右衛門 儒学者  嘉永元年(1848)「閑度雑談」が刊行される。高山彦九郎の話を収録する。
  ながやまとくお
永山徳夫 

享和2(1802)~弘化2(1845)
名貞武/号一水・?亭/通称十兵衛 佐賀藩士  天保11年(1840)水戸藩視察の際、相良芳太郎が高山彦九郎の前髪を所有しているのを知る。
にしどうしゅん
西道俊

()~享和2(1802)  
  肥前国島原の医師  享和2(1802)5月2日、久留米遍照院彦九郎墓前で自刃する。
はやしかくりょう
林鶴梁

文化3(1806)~明治11(1878)
名長孺/通称鐵蔵・伊太郎 幕府代官  安政5年(1858)高山彦九郎遺品が簗紀平より伝わる。彦九郎の日記を愛読し、評述文を記す。
  はりうこうせん
針生高泉

()~()
譲・欽甫・大三郎 陸中高清水  嘉永元年(1848)5月19日、久留米の故森嘉膳(高山彦九郎が自刃した家)の子、宮川亘理を訪ね、高山彦九郎の話を聞き日記に記している。翌日には真木和泉を訪ねる
ひらがはくさん
平賀白山(蕉斎)

()~文化1(1804)
名周蔵/字子英/号蕉斎・獨醒庵・白山園 安芸の儒学者  寛政6年(1794)『蕉斎筆記』「高山彦九郎」を記し、高山彦九郎の自刃について言及する。
  ひらのくにおみ
平野国臣

文政11(1828)~元治1(1864)
  福岡藩士・尊攘派志士  安政5年(1858)9月16日高山彦九郎の墓を調べに久留米遍照院を訪ねる。10月1日、福岡藩脱藩後ただちに、彦九郎の墓前に大久保市蔵より贈られた五両の中から石灯籠を寄付し、和歌を献じる。石灯籠には「筑前隠士平野次郎国臣」と刻されている。
ふじたとうこ
藤田東湖

文化3(1806)~安政2(1855)
名彪/字斌卿/通称虎之介・誠之進 水戸藩士・郡奉行・海防掛・藤田幽谷の子  天保7年(1836)、大久保要宛に「…高山彦九郎の遺書に幽光を発せしめたのは彼(桜任蔵)の功」と述べる。
  ふじたゆうこく
藤田幽谷交遊録
     寛政6年(1794)3月11日、高山彦九郎の死を聞き「祭高山処士文」を著し、慰霊祭を営む。
  ふるまつかんじ
古松簡二

天保7(1836)~()
名淵臣 久留米藩士・尊攘派志士  明治2年(1869)、久留米遍照院墓地で有馬孝三郎有馬大助堀江七五郎小河真文加藤御楯らとともに高山彦九郎祭を行う。
ほりえしちごろう
堀江七五郎

()~()
     明治2年(1869)、久留米遍照院墓地で有馬孝三郎有馬大助小河真文古松簡二加藤御楯らとともに高山彦九郎祭を行う。
まきいずみのかみ
真木和泉守

文化10(1813)~元治1(1864)
名保臣 久留米水天宮神官・勤王家  天保13年(1842)正月、「高山正之伝」を筆写・熟読の後、感慨を欄外に記し、哀悼の和歌を捧げる。
 同年6月27日、久留米藩の木村重任とともに、高山彦九郎没50年に当たり祭典を行う。
 文久3年(1863)、「故人物語」を著し、高山彦九郎について記す。文中に天保9年の頃、真木和泉守が安達近江宅を訪れ、高山彦九郎の話を聞きに来たことなどが書かれている。
  まつうらたけしろう
松浦武四郎

文政1(1818)~明治21(1888)
  蝦夷地探検家・函館府判事・蝦夷地開拓御用掛・開拓判官  嘉永2年(1849)1月28日付、桜任蔵長島尉信宛てに松浦武四郎を紹介した書簡中に、「此生慕高山蒲生両勇士之跡」とある。
  またのぎょくせん
股野玉川交遊録
  播磨竜野藩士・儒学者  寛政6年(1794)4月2日、股野玉川の許へ高山彦九郎の叔父剣持長蔵来訪する。股野玉川懐怛詠歌を剣持長蔵に託す。
 同年6月28日、竜野藩の同志を誘い高山彦九郎の一周忌を行う。
寛政8年(1796)6月28日、高山彦九郎の忌日であることから、述懐する詩文を作る。
  まつらせいざん
松浦静山

宝暦10(1760)~天保12(1841)
在位安永4(1775)~文化3(1806)
名静/字小白/通称英三郎/号静山・雪洲ほか 肥前平戸藩9代藩主・壱岐守  文政4年(1821)「甲子夜話」をまとめる。高山彦九郎が木曽山中で盗賊を恐れさせた話等が記される。
  まなかうんはん
間中雲帆

文政1(1818)~明治26(1893)
名宜之/字楨郷/号雲帆 下総猿島郡岩井の詩人・勤王家  嘉永6年(1853)江戸谷中臨江寺蒲生君平の墓に隣接し、高山彦九郎の墓を建てようとするが幕吏の猜を恐れ断念する。
みむら みた の しん
三村三太之信
     天保9年(1838)高山彦九郎日記「高山氏安永四年北国日記」の写本を作る。
  みやかわわたり
宮川亘理
  森嘉膳の子  天保13年(1842)6月、大館謙三郎、西遊して、久留米の宮川亘理を訪ね水盤を見、詩を賦す。
むらかみかずひろ
村上量弘 

文政2(1819)~嘉永3(1850)
名量弘/字子精通/称守太郎 久留米藩士  天保13年(1842)6月、水戸で高山彦九郎没50年に当たりその霊に西向再拝し「祭高山処士文并序」を記す。
  むらかみしゅんぺい
村上俊平

天保9(1838)~慶応3(1864)
  上野佐位郡境町医師村上随憲の子・志士  文久2年(1862)9月、集めた高山彦九郎の和歌を「正之歌集」として発刊する。
  むらたしんぱち
村田新八

天保7(1836)~明治10(1877)
名経麿/経満/通称新八 薩摩藩士  万延元(1860)9月28日、久留米の彦九郎の墓に石玉垣と水鉢を寄進する。
  もとじまじりゅう
本島自柳

天保11(1840)~大正13(1924)
幼名栄之助/号柳翁 新田郡太田町の医師・実業家。新田官軍に参加。町・郡・県会議員を歴任。  高山神社創建に尽力。
もりかぜん
森嘉膳交遊録
  久留米在住の儒医  彦九郎自刃時の寄留先。没後の処理に当たる。
やじまゆきやす
矢嶋行康

天保7(1836)~明治28(1895)
初名吉太郎 信州海野宿の蚕種農家・勤王家  安政元年(1854)頃から明治にかけて彦九郎の遺墨遺品を収集・整理する。高山神社創建に尽力。
  やなつぐまさ
簗次正交遊録
  中津藩士(江戸詰)  彦九郎の遺品を預かる。
  やなきへい
簗紀平
  簗次正の甥。林鶴梁の門下生。  文政12年(1829)、簗次正から彦九郎の遺品を受け継ぐ。林鶴梁に彦九郎遺品を引き渡す。
  やまもといなん
山本以南

元文1年(1736)~寛政7年(1795)
橘屋・山本左門・泰雄・伊織/号以南 僧良寛の父・越後国三島郡出雲崎の名主  寛政7年(1795)、洛北桂川に身を投じ死ぬ(高野山に身を隠したとする異説あり)。高山彦九郎と関係があったといわれる。
よしだしょういん
吉田松陰

天保1(1830)~安政6(1859)
  長州(萩)藩士・尊攘派志士・私塾松下村塾を開く  嘉永5年(1852)12月中旬頃、東北旅行の途中水戸で「高山正之伝」を見て、高山彦九郎の存在を知る。
 安政2年(1855)
宇都宮黙霖との間で手紙により論争する。高山彦九郎のことがたびたび例に出される。
 同年11月、
宇都宮黙霖宛てに高山彦九郎のことを訪ね、その回答に対し、松陰は高山の事跡を知らなかったことを恥かしいことであったと記している。
 安政3年(1856)6月、野山獄で「近世叢語」などを読む。
 同年9月29日、久保清太郎宛の手紙の中で、高山彦九郎の評伝を水戸に行った時に一目した。その文は名誉の作なので写して送ってほしいと書いている。
 安政4年(1857)閏5月18日、幽室中の「塩谷の文を読む」の中で「高山正之伝」を読み高山彦九郎の事跡を評じる。この頃、杉家幽室中に「幽室随筆」を記す。その文中「雨森芳洲先生の国王称号論跋」で
頼山陽の「高山彦九郎伝」は高山彦九郎をよく理解しないで書いたものであると記している。
 安政5年(1858)1月23日、杉家幽室中に書いた「児玉士常の九州、四国に遊ぶを送る叙」の中で高山彦九郎の墓を掃して祭ることが必要だと記している。
 安政6年3月29日、
小田村伊之助楫取素彦)ほかに手紙を送る。その文中に高山彦九郎の後塵をつぐ覚悟であると記している。
10月20日、
入江杉蔵宛てに手紙を送る。その文中に高山彦九郎は大功の人で、神碑を設けることが必要であると記している。
 文久元12月1日、吉田松陰亡き後、松下村塾生たちは「一燈銭申合帳」を作る。その中に「高山先生八葉」も含まれている。
らいさんよう
頼山陽

安永9(1781)~天保3(1832)
名襄/字子成/号山陽 儒学者・頼春水の子  天保12(1841)5月、「高山彦九郎伝」を著す。
わかばやしさだあき
若林貞明
  遠江国掛川  文久2年(1862)「三奇人口碑」の文を著す。

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