■高山彦九郎記念館データファイルNo.6

 高山彦九郎日記に現れる藩校・郷校・私塾などの一覧表です。なお、日記以外の資料に現れる藩校等や交友した人物が後に開いた私塾等も参考として掲載してあります。

●主な参考文献

書      名 編・著者名 出 版 社 出版年 備  考  
日本史総覧 IV 近世1 児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修 新人物往来社  1984  
国史大辞典  国史大辞典編集委員会 吉川弘文館 1979~1997  

高山彦九郎ゆかりの藩校・郷校・私塾等

  名  称 設立者 設立年 所  在  地 内      容
藩校等 こうじょうかん
興譲館
米沢藩       安永5年
(1776)
米沢  細井平洲が創設に尽力。

 寛政2年(1790)7月18日の「北行日記」によれば、飯田忠林の案内で興譲館に至り、片山紀兵衛神保容助(神保綱忠)のほか多くの儒生・学生と交流している。

がくしゅうどう
学習堂
伊勢崎藩 安永4年
(1775)
伊勢崎  新井雀里の著「高山芳躅誌」には、伊勢崎藩校学習堂の村士玉水浦野神村関重嶷との交遊があったことが記されている。
あしかががっこう
足利学校
足利氏 室町時代
初期
足利  安永4年(1775)8月9日の「忍山湯旅の記」によれぱ、足利名草の田部井(タメガイ)丈右衛門の話として、「足利学校は百石の御朱印にて江府へ独礼衣服拝領す、学校の□は茂木丈右衛門といふ、足利学校は三学校とて江戸の聖堂、肥前の三学寺、下野足利、右海内の三学校也と云ふ、足利は今は禅宗、本(元ヵ)の学校は北十丁斗りに小谷村といふ所(に)有り」とある。
 安永9年(1780)11月21日の「
江戸旅中日記」によれば、「輪斎(菅野綸斎)翁と語りて足利学校蔵書の事に及びて、石経の大学には伝五章補伝の意を載せたるよし聞けり、我が朱学の助けとなるべければ足下足利に至りて写し取り玉へと輪斎翁いふ、予諾す、石経は石摺の伝なりといへり」とある。
 天明元年(1781)5月28日の「江戸旅中日記」によれば、「本所四ツ目橋をこし、南松代町一丁目太田玄浩謙之明卿(太田玄浩)なる老人を尋ぬ、長沢淳平粋庵の子不怨斎の門人也、板倉美仲蘭亭等は初長沢門人也といふ、語て足利学校の事に及びて(小野)篁の学校にあらず夫より遥に後世の事也、笠原筆陳の書に考あり重ねて書抜きて進らすべしといふ」とある。

ょうこうかん
彰考館
水戸藩 寛文12年
(1672)
江戸・水戸  水戸光圀が開設した「大日本史」編纂局。

 天明元年(1781)5月2日の「江戸旅中日記」によれば、水戸家屋敷内の長久保赤水を訪ね、「水戸史館の号を彰考館といふよし」と聞いている。

しょうへいざかがくもんしょ
昌平坂学問所
幕府 寛政9年
(1797)
江戸  昌平坂学問所(昌平黌)の前身は幕府儒官林家の家塾。
 林羅山により、寛永9年(1632)に上野忍ヶ丘の私邸内に建てた孔子廟「先聖堂」が、元禄3年(1690)に徳川綱吉により神田湯島に移築され、先聖殿を「大成殿」と改称し、大聖殿及び附属の建物を総称して、聖堂と称した
 寛政9年(1797)、湯島聖堂付きの儒者
柴野栗山の建議によって、いわゆる「異学の禁」の政策がとられ、幕府直轄となった。

 
安永5年(1776)4月9日の「江戸旅行日記」によれば、「聖堂を拝して久保喜左衛門名は亨コウ字は仲通号盅齋一号號松巌ガン久保盅斎)を尋ぬ、鯛の吸物松も(ママ)抔にて馳走なり、久しく語る」とある。
 安永6年(1777)10月1日の「武江旅行記」によれば、「聖堂の学頭久保氏(久保盅斎)の宅に入(略)暫く語る」とあり、忠孝のことや、久保氏の師、林信充(大学頭)のことについて語り合っている。
 天明元年(1781)5月3日の「
江戸旅中日記」によれば、「林家の学頭茂介を尋てしばらく語り林家の世系を問はば一冊を出して見す」とあり、「信愛の子信徴林信徴)小字内記即今の林家也といふ」をはじめ、林羅山から始まる林家の系譜について詳細に記している。その後、「聖堂を拝し昌平橋を渡りやよす(八重洲)川岸」の林家(林信徴)に渋井太室を訪ね、再び林家の系図を見ている。
 寛政2年(1790)5月22日の「
寛政江戸日記」によれば、「山伏町に及んで林大学頭殿(林信徴)下屋敷に入る、長坂徳左衛門(略)を尋ね(略)、平田平三郎なるを案内にて林家代々の墓を見ることをゆるす」とあり、林羅山を始めとする林家の墓の様子を詳細に記している。

めいりんどう
明倫堂
尾張藩 天明3年
( 1783)
名古屋長島町

 天明3年(1783)9月10日・11日の「高山正之道中記」によれば、明倫堂に学館総裁の細井平洲を訪ね、書生数十人と相識となっている。
しょうとくかん
尚徳館
鳥取藩 宝暦7年(1757) 鳥取  『高山彦九郎日記』第5巻304ページに掲載された、尚徳館初代奉行箕浦世亮(箕浦靖山)が彦九郎に贈った詩文から、両者に交流があったことが確認される。
 巻215ページ掲載の、安永5年(1776)の10月12日付けと想定される(桃白鹿に関連する安永3年の記録及び彦九郎が熊沢小八郎に宛てた書簡から確認できる)柘植忠太義方(鳥取藩米子組士)から彦九郎へ宛てた書簡の追伸に、「尚々米子鷲見新助(鷲見保明)、熊沢小八郎、鳥取安藤庄助(安藤箕山)右三人之者随分無事ニ相暮し居申候間(略)」とあり、安永3年(1774)に彦九郎が米子を訪れ、尚徳館教授であった安藤箕山との交流があったことが確認できる。

こうどうかん
講道館
高松藩 安永9年
(1780)
高松  寛政元年(1789)10月14日の「寛政江戸日記」によれば、芝居町佐々木岐山所に宿し、「讃岐高松学校講道館と号す二代目より始り五六年以前に号せしとぞ」と聞いている。

じしゅうかん
時習館
熊本藩 宝暦5年
(1775)
熊本  明和5年(1768)~寛政元年(1789)、藪孤山が第2代教授。

 「筑紫日記」は彦九郎が寛政4年(1792)1月元旦を藪孤山宅で迎えているところから始り、それ以前の日記は残っていないが、1月10日の記事に「松岡氏(松岡八郎平恒豊)は(略)先に時習館にて相識となりし人也」とあり、時習館を訪問していることが確認される。13日の立春にはその日開講した時習館を訪れ、多くの人物と交流し、和歌を詠んでいる。また、熊本再訪の8月13日にも訪れている。

さいしゅんかん
再春館
熊本藩 宝暦7年
(1757)
熊本  富田大鳳が師範。

 寛政4年(1792)1月23日の「筑紫日記」によれば、「大淵(富田大鳳)再春館の教授差添十五石に五人扶持別に金を賜ふのよし」とある。

しゅうきょうかん
習教館
人吉藩 天明6年
(1786)
肥後人吉  東善次郎(白髪)が習教館初代館長。
 
 東善次郎(白髪)は寛政4年(1792)閏2月5日・6日の「筑紫日記」に現れる。6日は東白髪と深夜まで語り合い、「学館は習教館と号して城内に立ちて他所の人は見ることならぬよし」と聞いている。

 しこうどう
四教堂
佐伯藩 安永6年
(1777)
豊後佐伯  佐伯藩第8代藩主の毛利高標は、文教政策に力を注ぎ、藩校四教堂を開くとともに、天明元年(1781)には蔵書が8万冊にも達する「佐伯文庫」を設けた。
 彦九郎は寛政4年(1792)11月15日に佐伯を訪れているが、この時期の日記が欠落しており、詳細は不明である。

 
天明3年(1783)2月10日の「天明京都日記」によれば、
京都の彦九郎僑居を尋ねてきた豊後佐伯藩医の奥井春耕から、「豊後佐伯の城主毛利和泉守殿の医臣素より承はり及びぬとて予が僑居へ尋ね奉る、佐伯侯学を好みて書蔵を建てられしよし近年に講堂も建らるべしと語る博物を好まるるのよし」と聞いている。

 

学問所
 楽只斎
 如蘭斎
延岡藩 明和5年
(1768)
日向延岡  明和5年(1768)2月、城内本小路に学問所(学寮)と武芸所(武寮)を設立。
 幕末の嘉永3年(1850)に学寮を広業館と改称。

 
寛政4年(1792)7月13日の「
筑紫日記」によれば、「城内に学校有り楽只斎と号す、江戸屋敷は如蘭斎と称するよし、山本与兵衛なる儒生も有るよし」とある。

めいりんどう
明倫堂
高鍋藩 安永7年
(1778)
日向高鍋  寛政4年(1792)閏2月13・14日の「筑紫日記」によれば、「学校は明倫堂といふよし」「明倫堂より早くはまた参るべしとありけると聞ける故に主じと酌みて待つ」とある。また、再訪した7月5日には、言書に「明倫堂へよみて参らせける」として、「玉鉾の道を学びの窓ならばわれをも人の類ひと知るらむ」という和歌を詠んでいる。

ぞうしかん
造士館
薩摩藩 安永2年
(1773)
鹿児島  寛政4年(1792)4月8日の「筑紫日記」によれば、彦九郎は麻上下姿で造士館に入り、助教赤崎彦礼(赤崎海門)・教授山本伝蔵を始めとする多くの人物に会い交流する。日記には「其余相識となる人童子迄百数十人斗り」とある。13日には造士館で琉球楽を聞いたのち、山本伝蔵・赤崎源助(赤崎海門)ほか30人以上と船遊びをしており、「今日は薩太守(島津斉宣)も船遊に出てられける遠く望めり」とある。26日には「今日造士館に於て唐通事試みの事あり至る、琉人二十人斗り薩人十人斗試み有りける」とある。28日には「造士館に行て朝鮮通事試みを聞く、山本教授予を迎ふ、朝鮮俘虜十九人皆鶏林を韻を誦す、赤崎氏にも逢ふ」とある。

 
  名  称 設立者 設立年 所  在  地 内      容
郷校 かいほどう
会輔堂
菅野兼山    享保8年
(1723)
江戸深川     浪人儒者菅野兼山の誓願により幕府が敷地・資金を補助して設立された郷校。

 彦九郎は第2代の要中菅野綸斎とその子彦次郎と交遊。「江戸旅行日記」「武江旅行記」「冨士山紀行」「江戸旅中日記」「天明江戸日記」「寛政江戸日記」に現れる。

かいとくどう
懐徳堂
三星屋武右衛門(中村睦峰)・道明寺屋吉左衛門(富永芳春)・舟橋屋四郎右衛門(長崎克之)・備前屋吉兵衛(吉田盈枝)・鴻池又四郎(山中宗古) 享保9年
(1724)
大阪今橋尼ヶ崎町  好学の豪商5人が出資し、中井甃庵(中井竹山の父)と図り、その師三宅石庵(三宅春楼の父)を学主として開学した庶民教育を目的とした郷校。創設の2年後の享保11年(1726)には官許の学問所となった。

 天明2年(1782)11月25日の「天明京都日記」によれば、「竹山来月二日に開講して学校の主になるのよし、今年までは三宅春楼を本主とす、学校は今橋尼ヶ崎町壱丁目也」とあり、29晦日にも「今橋尼ヶ崎町壱丁目懐徳堂を尋ぬ、先きの主人今年没したれば竹山学校の主人となる」とあり、開講の祝いに出向くことを約している。12月2日には「懐徳堂開講のよし聞けば一樽に鯛を添えて祝す、座客殆と百人、明石侯の家士大畠官兵衛仙台侯の家士谷次左衛門中西与市兵衛など、予上段の客也、学校懸りの町人初め相識となるもの多ふし…」とある。

しずたにがっこう
閑谷学校
池田光政 寛文10年
(1670)
備前閑谷  岡山藩が庶民教育機関として設置した郷校。初め「閑谷学問所」といった。

 彦九郎の日記はないが、菅茶山の著「筆のすさび」には、彦九郎が閑谷学校を訪ねた折、閑谷学校の学制規則を一晩で書き写したエピソードが記されている。

れんじゅく
廉塾
菅茶山 寛政8年
(1796)
備中神辺  廉塾の前身は菅茶山が天明元年(1781)頃に開いた私塾「黄葉夕陽舎」。寛政8年(1796)福山藩の郷校として認められ、「廉塾」と称した。

 菅茶山の著「筆のすさび」によると、茶山が20才頃の時(明和年中か)、彦九郎は山陽道を通り神辺の茶山を訪ねている。

でんしゅうどう
伝習堂
熊本藩松井(長岡)家 宝暦7年
(1757)
肥後八代  熊本藩筆頭家老(禄高3万石)で、熊本藩の支藩的な存在であった八代城主の松井家(藩主細川氏の旧姓を与えられ長岡姓を称する)が設立した藩校的な郷学

 寛政4年(1792)2月30晦日の「筑紫日記」によれば、宇野平九郎らの案内で、城内の伝習堂を見学し、多くの人物と交流している。

  名  称 設 立 者 設立年 所  在  地 内      容
私塾
詩社
おうめいかん
鳴館
細井平洲 宝暦元年
(1751)
江戸浜町          宝暦元年(1751)神田神明町に開いた私塾が前身。宝暦3年(1753)神田柳原に転居し嚶鳴館と名づける。宝暦10年(1760)江戸大火により浜町に転居。明和7年(1770)彦九郎入門する。

 安永5年(1776)から天明2年(1782)にかけての「江戸旅行日記」「武江旅行記」「冨士山紀行」「江戸旅中日記天明江戸日記」によれば、彦九郎はたびたび嚶鳴館に平洲を訪ね語り合っている。また平洲が尾張藩校明倫堂に招かれた後も様子を聞きに行っている。

せいしょうしゃ
清嘯舎
股野玉川   江戸  江戸龍野藩邸のあった股野玉川の学塾。

 天明元年(1781)5月3・9・20・21・22日の「江戸旅中日記」に現れる。

こうこししゃ
江湖社
(江湖詩社)
市河寛斎       寛政元年
(1789)
江戸寛神田お玉が池  市河寛斎が開設した漢詩社。門人に大窪詩仏・柏木如亭・菊池五山小嶋梅外がいる。

 寛政2年(1790)11月1日の「北行日記」によれば、「小嶋酉之助(小嶋梅外)が西野(市河寛斎)へ籬が嶋の松及び詩を寄せんとて詫したるを忘れたり」とあり、再び塩釜に戻っている。

 11月12日には、「白川(白河)川原町茶屋のとら屋平助に休ふ、(略)、とら屋に宿して江戸簗次正前野達(前野良庵)への書を認む、(略)、小嶋酉之助(小嶋梅外)より市河小左衛門(市河寛斎)へ送る詩の事、(略)、届け玉はれと簗前野へ別紙にて頼みぬ」とある。


こ ぎ どう
古義堂
伊藤仁斎 寛文2年
(1662)
京都東堀川下立売上ル  伊藤東所が第3代塾主。

 天明2年(1782)11月23日の「天明京都日記」によれば、「東堀川下立売上る所古義堂へ入る、糸を土産とす、東所としばらく語る、当春但馬国出石侯講堂を構えられ開講の節食招待にて下りしよし」とある。
 天明3年(1783)2月23日の「
天明京都日記」によれば、「今に京都に浪人と号して帯刀なるものは堀川の伊藤家と是れのみ也」とある。
天明3年(1783)11月3日の「
再京日記」によれば、「古義堂に入り東所と語りて」とある。

 しすいあん
泗水庵
櫟原踅斎 安永3年(1774) 美濃垂井宿  櫟原踅斎は明和8年(1771)、泗水庵の前身、聖堂明倫堂を建てる。
 没後は合田恒斎(合田立誠の弟)が泗水庵を継いだ。


ぼうなんけん
望楠軒
若林強斎 正徳2年(1712 京都堺町通二条下る杉屋町西(のち東)側  崎門学派の学塾。西依成斎が第3代講主。

 天明2年(1782)11月23日の「天明京都日記」によれば、「西依望楠軒(西依成斎)を尋ぬ、糸を土産とす」とあり、11月24には「下立売御門の辺りにて西依義兵衛(西依成斎)に逢ふ、今年八十二荘(ママ)健の事也立ちながらしばらく語り…」とある。天明3年(1783)2月朔日には、「望楠軒に入る西依氏よろこべり」とあり、2月26日には、「西依義兵衛の宅に寄る、西依翁語て肥後熊本学校いまだ聖堂立ざることに及びて菊池武重の聖廟再興するといへる願にて叶ふたるよし語る」とあり、4月6日には「西依義兵衛来て餞別の詩一首を寄す、離盃を傾く」とある。
 
 寛政3年
(1791)4月19日の「寛政京都日記」によれば、「西依義兵衛望楠軒へ寄る、西依翁今歳九十也」とある。

こうしゅうどう
講習堂   
深原貞父   京都東堀川二条下ル
 天明2年(1782)11月25日の「天明京都日記」に現れる。

めいりんしゃ
明倫舎
手島堵庵 天明2年
(1782)
京都河原町三条上ル二丁目  石門心学者の手島堵庵が京都に開設した5箇所の心学講舎のうちの一つ。町人に対する庶民教育を担った。

 天明2年(1782)11月24日の「天明京都日記」によれば、「明倫舎」に「手嶋嘉右(左ヵ)衛門(手島堵庵)」を訪ねたが、病気で会えなかった。
 なお、天明2年(
1782)3月2・5日の「天明江戸日記」、天明3年(1783)3月19日の「天明京都日記」、10月27日の「再京日記」に、堵庵やその心学についての言及がある。

こうどうかん
弘道館
皆川淇園 文化3年
(1806)
京都中立売通室町西入ル南側
 皆川淇園は晩年自宅に学問所を開いて、弘道館と号し、門弟三千人を越えたといわれる。

ゆうらんしゃ
幽蘭社
龍草廬 元文4年(1739)以降
安永4年(1775)再興
京都  龍草廬京都に開いた漢詩社。宝暦7年(1757)龍草廬彦根藩儒となり一時休止。大坂の「混沌杜」と並び称せられた。門人に大江玄圃・岡崎盧門がいる。

さんぱくしゃ
三白社
皆川淇園 安永9年
(1780)
京都  皆川淇園赤松滄洲柴野栗山西依成斎などと結んだ漢詩社。

こんとんしゃ
混沌社
片山北海 明和2年
(1765)
大坂  片山北海の居宅・学塾「孤松館」で開催された漢詩サロン。明和2年(1765)から、片山北海が没する寛政2年(1790)まで続いた。
 初め、島山崧岳・田中鳴門・細合斗南(半斎)・河野恕斎・佐々木魯庵・葛子琴・岡田南山・大畠赤水、続いて頼春水頼杏坪篠崎三嶋尾藤二洲・古賀精里・十時梅崖ら在坂の漢詩人の多くが結集した。


ばいかそう
梅花社
篠崎三嶋 安永5年
(1776)
大坂土佐堀  篠崎三嶋が創設した漢詩社。大坂を代表する郷校「懐徳堂」と並び称せられた。

 天明2年(1782)12月4日の「天明京都日記」によれば、「書林に入て兼葭堂(木村蒹葭堂)が宅を問へる、江戸掘三丁目篠崎長兵衛(篠崎三嶋)なる人知るべしといへる故行き至て尋ぬるに堀江五丁目にて坪井屋吉右衛門と称する則ち兼葭堂なるよし、篠崎氏名は応道字は安道号をば三嶋といふ、書を克くし学を講ず」とある。

きんじゅく
欽塾
西山拙斎 安永2年
(1773年)
浅口郡鴨方村  
けいしどう
継志堂
高山畏斎の高弟   筑後津ノ江  高山畏斎の子茂太郎の日記によれば、彦九郎は寛政3年(1791)11月に継志堂を訪れているという。
 寛政5年(1793)5月5日の「
筑紫日記」によれば、「津ノ江継思(志)堂へ至る、畏斎の墓を礼す、茂太郎は黒木に至りて居らず」とある。

てきじゅく
藪塾
藪孤山   熊本  寛政4年1月1日の「筑紫日記」によれば、藪孤山宅で新春を迎え、「塾」に帰り書生と酌んでいる。

かんぎえん
咸宜園
広瀬淡窓 文化2年
(1805)
日田  寛政5年(1793)4月、幼少の広瀬淡窓に会い、淡窓の才能をたたえた和歌を詠む。

 

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