■高山彦九郎記念館データファイルNo.2

 高山彦九郎が交流した主要な人物の一覧表です。『高山彦九郎日記』の記事を中心に、関連の資料から、彦九郎との交遊の様子やエピソードを採録しています。
 データファイルNo.3「 高山彦九郎関連人物一覧表」、データファイルNo.4「 高山彦九郎親族一覧表」もあわせてご覧ください。


◆高山彦九郎の出会った人物・交遊した人物は極めて膨大であり、『高山彦九郎日記』に諱・字・号・通称や当て字(時に誤字)で記載された人物を一人ずつ同定していく作業は完了までに相当な期間を要すると想定されます。『高山彦九郎日記』の登場人物は5,000人を超えると想定されますが、その多くは人名辞典に現れません。このため表は未完成ですが、今後、順次、内容を補充し、『高山彦九郎日記』を中心に、関係資料に現れる人物をできる限り網羅して行く計画です。
◆この表には高山彦九郎が直接会っていない人物が含まれています。歴史上の人物や話題に上った人物などの場合、「場所」欄は「―」と表示してあります。また、彦九郎が訪ねたものの不在で会えなかった場合は「(地名)」、その人物の遺跡・墓・ゆかりの地などを訪ねている場合は「―(地名)」と表示しています。
◆『高山彦九郎日記』からの引用に当たっては、カタカナや特殊な文字はひらがなに修正しています。
◆表示できない文字があります。
◆高山彦九郎と特に関係が深いと考えられる人物(師友・盟友・知友など)は氏名を太字にしてあります。

主な参考文献
参考としたホームページ


◆高山彦九郎交遊録索引

区分 直接の交流が確認できる人物
太字は特に関係が強い人物)
間接的な交流をした人物 左記以外の人物
(話題に上った人物・見かけた人物・歴史上の人物・遺跡や旧宅を訪ねた人物)
天皇
公家
地下官人
飛鳥井雅威姉小路公聡油小路隆前油小路隆彭綾小路有美石山基陳五辻順仲岩倉具選宇佐(到津)公古梅小路定福正親町実光風早実秋勧修寺良顕甘露寺国長北小路祥光清岡長親倉橋康行久我信通五條為徳佐々木備後守三条実起滋野井公麗慈光寺尚仲芝山国豊芝山持豊勢多章斐勢多章純園基理鷹司輔平高辻胤長高辻福長高橋宗孝高橋宗直(図南)高松公祐富小路貞直富小路良直外山光実難波宗享(宗功)錦小路頼理錦小路頼尚西洞院時名西洞院信庸八条隆礼浜嶋志摩守東久世通庸東坊城益良平松時章藤木伊勢守伏原宣條伏原宣光船橋則賢穂波経条柳原紀光吉田良倶吉田良延冷泉為泰六角光通鷲尾隆建鷲尾隆純 光格天皇
四辻公亨
近衛経熙千種有政中山愛親東園基辰
大名 片桐貞芳  上杉鷹山
島津忠持
島津斉宣
島津久柄

田沼意次牧野貞長松平定信松浦静山脇坂安董脇坂安親
琉球王族
宜野湾王子
儒学者・
漢詩人
赤崎海門(貞幹)赤松滄洲芥川丹邱新井白蛾安藤箕山飯岡義斎飯田忠林石川滄浪石作駒石伊藤君嶺伊藤東涯伊藤東所伊藤蘭石井上四明岩垣龍渓浦野神村大江玄圃(久川靱負)大江維翰太田玄浩大塚観瀾岡崎鵠亭岡田寒泉岡白駒片山紀兵衛片山北海樺島石梁亀井南冥辛島塩井菅恥庵菅茶山菊池五山菊池魯斎木下弥一兵衛草野潜渓久保盅斎久米訂斎黒沢雉岡黒沢東蒙合田立誠河野恕斎郡山道遠小嶋梅外(大梅)小松原醇斎(剛治)財津吉恵斎藤高寿(芝山)佐々木備後守佐藤一斎佐藤尚綗(子錦)佐野山陰(少進)篠崎三嶋柴野栗山渋井太室嶋士通志村東嶼集堂迂亭集堂弓五郎神保綱忠(蘭室)菅野綸斎菅原東海村士玉水鷲見保明清田文興(儋叟)関重嶷千手興景千手廉斎(興欽)高橋容斎高本紫溟立原翠軒田中適所谷好井(伴兄)玉田黙翁塚本南岐富田大鳳中井竹山中井履軒永田観鵞中野龍田中村新斎中村鸞渓西山拙斎西山復軒西依成齋布引節斎莅戸太華萩原守道(恪斎)服部栗斎早野仰斎東白髪広瀬淡窓広津藍渓藤江龍山藤田幽谷淵貞蔵淵良蔵細井平洲股野嘉善股野玉川松本愚山万波俊休皆川淇園箕浦靖山宮原龍山宮良佐桃白鹿森嘉膳安野南岳藪孤山山口剛斎山田清斎山井青霞(備中介)山本正誼(秋水)横谷葛南頼杏坪頼春水龍世華龍草廬若槻幾斎若槻整斎脇愚山(蘭室)和田清兵衛和田登藁科松伯 市河寛斎伊藤蘭嵎
櫟原踅斎
本田四明(真郷)
御牧直斎
山村蘇門

芥川思堂蘆東山伊藤仁斎稲葉黙斎井上金峨今城周左衛門江村北海大塚孝綽荻生徂徠熊沢蕃山五井蘭洲後藤芝山高山畏斎滝鶴台太宰春台谷麋山中江藤樹中山惟貞(漸廬)成島道筑服部南郭林信徴(鳳潭)林信有林信敬(錦峯)林信充(榴岡)尾藤二洲藤崎公寛三宅尚斎三輪執斎室鳩巣山県大弐山崎闇斎横尾紫洋
国学者・神官 阿蘇惟馨阿蘇惟典荒木田尚賢荒木田久老億岐幸生唐崎常陸介坂徴白尾斎蔵玉木慎斎津久井尚重藤貞幹長瀬真幸藤塚知明松岡内記松岡仲良(雄淵)村井古巌渡辺重名 本居宣長 加賀美光章
塙保己一
有職故実家 大塚蒼梧(嘉樹)榊原香山(長俊)谷口胤禄橋本経亮
瀬名貞雄
蘭学者・蘭方医・阿蘭陀通詞 大槻玄沢神谷源内楢林重兵衛前野良庵(達)前野良沢 桂川甫周
杉田玄白
吉雄耕牛
医家 今枝世顕荻野元凱(台州・左衛門大尉)奥井春耕賀川玄吾(有斎)葛子琴(蠹庵)川角光隆後藤左一郎後藤慕庵(香四郎)鈴木蘭園(修敬)橘南谿玉木慎斎田村玄仙(津田玄仙)富田大鳳中山元倫(言倫)福井小車(敬斎)福井楓亭(柳介・大車)緑川利賓村山維益山脇東海(元冲)吉田意専 吉益東洞
本草学者 小野蘭山服部道立松岡定庵
卜占家 菅沼穀風成田朝辰(羽生朝辰)
他の学者 木村蒹葭堂〈博物学〉・工藤平助〈経世〉・長久保赤水〈地理〉・中沢道二〈心学〉・林子平〈経世〉 手島堵庵〈心学〉
石田梅岩〈心学〉・平賀源内〈博物他〉・藤田貞資〈和算〉山路徳風〈天文〉・吉沢好謙(鶏山)〈地誌〉
画人 池大雅浦上玉堂大原左金吾(呑響)蠣崎波響金子照泰紀梅亭佐竹噲々(佐貞吉)立原杏所鳥羽台麓松原右仲
篆刻家 葛子琴(蠹庵)高芙蓉(源孟彪)佐竹噲々(佐貞吉)志水南涯(菅周監)田信平(田孚)浜村六蔵(蔵六)森礼蔵(源惟良)山崕周蔵
歌人・連歌師 有賀長収香川景柄賀茂季鷹(山本右膳)慈延(大愚)澄月鷲見(すみ)保明栂井道敏(一室)梨木祐為伴蒿蹊阪昌文 小沢蘆庵
成島道筑
西行能因横瀬貞臣冷泉為村
俳人 太田可笛加賀の千代小嶋大梅(梅外)田中布舟蝶夢堀麦水松岡青羅三宅嘯山 松尾芭蕉
他の文人 池坊専弘〈華道〉・鈴木蘭園(修敬)〈音曲〉・安永検校〈音曲〉・山井青霞(備中介)〈笛〉
書肆 銭屋惣四郎 天王寺屋市兵衛
蔦屋重三郎
出雲寺和泉掾須原屋市兵衛
刀工 安部包幸伊地知正幸(伯耆守正幸)奥元平(大和守元平)水心子正秀本郷国包
武術家 江上観柳(司馬之介武経)〈柔術〉・櫛淵虚冲軒(弥兵衛・宣根)〈剣術〉・中西忠蔵〈剣術〉・中西忠太〈剣術〉・野呂喜左衛門〈弓術?〉・平瀬光雄〈弓術〉・深井半左衛門〈槍術〉・簗又七(次正)〈剣術〉
北方探検家
太田包昭木村謙次佐藤行信関赤城 青嶋俊蔵最上徳内
幕臣 野口直方松波隆起 高林弥十郎
筒井正盈
赤井越前守(忠晶)荻野梅塢蔭山外記小宮山杢之進菅沼定喜中井清太夫羽倉権九郎曲淵甲斐守(景漸)
諸藩士 岡村勝睿(三浦甚兵衛)奥村安所(小川惣左衛門・鈴木安所)蒲池喜左衛門楠瀬清蔭国枝順太夫熊沢小八郎嶋田嘉津次鈴木武助高野昌碩野田和三郎人見弥右衛門比良野貞彦藤崎公寛堀平太左衛門松井義彰脇坂内記
郷士・名主(庄屋)・商人・その他
大村彦太郎香取弥淵(深淵)革嶋文蔚(左門)上州屋勘右衛門上州屋平七徳富太多七西村近江大掾橋本道乗橋本道恭平野仁右衛門 正田隼人新田義貞
  
*重複記載があります。

高山彦九郎交遊録(50音順)

  氏  名
生没年・在任期間
姓氏 通称 職・経歴 彦九郎との関係
場 所 内 容 ・ エピソード
あおしましゅんぞう
青嶋俊蔵

宝暦元年(1751)~寛政2年(1790)     
  軏起のち政教     俊蔵 北方探検家・勘定奉行松本伊豆守秀持の臣・幕府普請役のち普請役見習

 寛政元年(1789)11月20日の「寛政江戸日記」によれば、「(前野良沢宅に)上州沼田後閑村の人にて櫛淵八弥宣根(櫛淵虚冲軒)来る、小川町裏猿楽町羽倉権九郎殿に滞留のよし、酒出でて暫く語る、今歳六月出立にて下谷坂本町二丁目青嶋俊蔵なる御普請役蝦夷へ渡りて先月二十九日に帰へる、其人に従ふて、関吉十郎字子敬(関赤城)なる者も行きしよし。沼田の城下富家の子にて学問を好める人有るを聞くそれなるべしといへば果たして然り、櫛淵氏、蝦夷物語を約して富山町田丸屋兵右衛門所へ会すべしとて立つ」とある。
 翌21日には、「富山町田丸屋兵右衛門を尋ぬるに田丸屋といへるはあらず、富山新道至て田丸屋有りて、櫛淵(櫛淵虚冲軒)と関(関赤城)とに逢ふ、蝦夷の事を尋ぬるに来春を約して、答へ詳かならず、耳環に銀など有とかたる故其銀はと問へば関氏答へてさんたんより来るのよし也、茶漬など出だす。答へ詳らかならぬ故に立つ」とある。

 青嶋俊蔵は
平賀源内の門人。
 天明5年(1785)・6年(1786)・寛政元年(1789)の3回、佐藤玄六郎(行信)
最上徳内らとともに、蝦夷地の探検に当たった。しかし、田沼意次から代わった老中松平定信により、天明の調査の後、「召し放ち」の処分となった。再度召抱えられた寛政元年(1789)の調査から帰ると最上徳内とともに、再び咎を受け、寛政2年(1790)1月20日に伝馬町揚屋に収監され、8月5日遠島が申し渡されたが、8月17日牢屋内で病死した。
 櫛淵・関の彦九郎に対する態度は青嶋らの処分と呼応するものか。

あかいただあきら
赤井忠晶


京都町奉行在任期間:安永3年(1774)3月20日~天明2年(1782)11月25日
幕臣・越前守・京都町奉行・勘定奉行・西の丸御留守居・小普請組
(京都)
 天明2年(1782)11月27日の「天明京都日記」によれば、「夜大村氏(大村彦太郎)語るは、赤井越前守(赤井忠晶)殿江戸への転役の事に付きて狂歌 足もとの赤井うちにと越路迄春をまたずに帰る雁金 とぞ、公卿の作なるべしとぞ」とある。

 
赤井忠晶は京都町奉行離任後、老中田沼意次のブレーンとして勘定奉行となり蝦夷地開発や印旛沼干拓などの事業を手がけたが、天明6年(1786)田沼意次失脚後、西の丸御留守居となり、老中松平定信就任後失脚した。

  あかさきかいもん
赤崎海門

元文4年(1739)~享和2年(1802)     
貞幹・禎幹 彦礼爰 海門・尚友軒 源助 薩摩藩校造士館教授・昌平黌経学 江戸・京都・鹿児島・筑後松崎  寛政3年(1791)5月17日の「寛政京都日記」によれば、参勤交代で薩摩に戻る途中、伏見の薩摩藩邸に滞在している松平豊後守(島津斉宣)に従行していた赤崎貞幹(海門)と彦九郎が会い、赤崎が18日に彦九郎の紹介で伏原宣條卿・岩倉具選卿・芝山持豊卿に会い、和歌をいただいたことについて、19日に、斉宣が赤崎に、「如何にして斯く公卿方へ見へつるや歌など玉ふ事は難しと」と尋ね、「高山氏に寄りて謁しつる」と答えたところ「珍事なる義に思ふて説(ママ)ばれつる」と述べたという。
 
寛政4年(1792)3月の「筑紫日記」によれば、彦九郎薩摩入国の際、手助けをしてもらう。4月2日には、赤崎海門宅で、「侯(藩主島津斉宣)も言に出でて予が来を悦びぬと聞へし」とあり、約2ヶ月にわたる薩摩滞在中、国賓的待遇(『高山彦九郎日記』5巻233ページ注参照)で遇されている。当時薩摩は京都公家派と幕府体制側に藩論が割れていたが、彦九郎は赤崎海門を軸に奔走した。
 寛政5年(1793)6月13日の「
筑紫日記」によれば、筑後松崎(福岡県小郡市)において、「晴る、禎幹(赤崎海門)着也」としか記載がないが、江戸から藩主に随行し下向途中の赤崎海門が、尊号事件で朝廷方が敗北したことやその後の薩摩のことを彦九郎に告げたと想定されている。この日以降、彦九郎の日記の記載は極端に少なくなる。

 赤崎海門は藪孤山の門人。頼春水柴野栗山と交遊。


  あかまつそうしゅう
赤松滄洲

享保6年(1723)~享和元年(1801)
初め、舟洩 国鸞 滄洲・静思翁   大川良平 赤穂藩儒・家老 京都  寛政3年(1791)3月21日の「寛政京都日記」によれば、彦九郎は西山拙斎に誘われ、大川良平(赤松滄洲)・若槻源三郎(若槻幾斎)中山元倫・小田孝作・大愚(慈延)と伴に、山崎闇斎宅跡・妙心寺を経て、御室に桜を見に行き、帰りに蛎崎波響らが加わり茶屋で酒を酌み交わしている。

 赤松滄洲は
洩通益の子で、赤穂藩医の大川耕斎の養子。両氏とも赤松氏出身のため詩文においては赤松氏を名乗る。京都では柴野栗山皆川淇園西依成斎らと交遊し、三白社と称した。また片山北海とも交友。国枝順太夫の師。

  あくたがわたんきゅう
芥川丹丘)
(芥川養軒)

宝永7年(1710)~天明5年(1785)
  彦章 丹邱・養軒 清太郎・采女 儒学者(徂徠学のち陽明学) 京都  天明2年(1782)11月26日の「天明京都日記」によれば、糸を土産に芥川養軒(芥川丹)を訪ね、「ヲ事点」の話をしている。また、「左民殿(芥川思堂)浪華に居るといふ、末子万蔵に相識となる」とある。
 天明3年(1783)4月1日・3日には芥川養軒を見舞っている。
 天明3年(1783)11月3日の「
再京日記」によれば、「栗山(柴野栗山)を訪ふて芥川養軒の宅へ入る、九月二九日(ママ)三十日より十月初め信州騒動す(浅間山噴火による飢饉のための暴動)、初め六百人斗なる所後には六千人になりて乱防(暴)し諏訪に及ぶ、小室(小諸)等の城々より防ぎて捕ふる事あり、江村北海の所にて信州福嶋より寄せたる書也とて見たるに今は静謐也とありぬ先月二十五六の日付なりき、是れ一昨日に見たりと養軒語る」とある。

 芥川丹
伊藤東涯・宇野明霞・服部南郭の門人。鯖江藩儒となった芥川思堂(元澄・左民)の父。

  あしとうざん
蘆東山


元禄9年(1696)~安永5年(1776)
岩淵 胤保・徳林 世輔・?仲・茂仲・東嶠 東山・渋民・梅陰・玩易斎 勝之助・善之助・幸七郎・東民 儒学者・仙台藩儒・刑法学者

―(陸奥磐井郡天狗田村・渋民村)

 寛政2年(1790)10月7日の「北行日記」によれば「中尊寺村案内者源七所に乞ふて宿す麦飯を出だす、東山郷長部村久五郎など同宿す、芦幸七(幸七郎・蘆東山か)の事を知りて語れり」とある。
 10月14日の「北行日記」によれば、天狗田神社司祀の金野伊平次所に宿し、蘆東民(蘆東山)のことを聞いている。
 10月15日には宝物である東民の書を見せてもらい、「天狗の社へ東民の木像を安置せんと思ふの由語れる故予よろしとて進め侍る」とある。
 この後、渋民村(岩手県一関市大東町渋民)に至り、蘆東山の跡(後裔)と称している肝煎岩淵作右衛門を訪ねている。「東山翁へとて琥珀屑を寄せける」と再び訪ねた10月16日には岩淵作右衛門とその父宇左衛門に会い、黒沢東蒙讃の東山画像を見せてもらっており、「宇左衛門孫庄太郎良覚は仏工の妙手と聞けば東山木像の事を進む、天狗社へ安置も可ならんといひし」とある。

 
蘆東山は桃井素忠・田辺整斎・吉田需軒・浅井義斎・三宅尚斎・室鳩巣の門人。仙台藩儒であったが、藩と対立し、罪を受け24年に及ぶ幽閉中、刑法書『無刑録』を書き上げた。刑法界の先駆者とされる。

あすかい  まさたけ
飛鳥井雅威

宝暦8年(1758)~文化7年(1810)
藤原 雅威 公家・歌人・右衛門督・参議・権中納言・民部卿・正二位・権大納言 京都  天明2年(1782)11月27日の「天明京都日記」によれば、「堺町夷(川)町下ル所にて大村氏(大村彦太郎)へ入る、今日庚申の日なればとて精大明神に燈明をてらしてあり、飛鳥井家の蹴鞠の事を世話せるよし」とある。
 寛政3年(1791)4月26日の「寛政京都日記」によれば、「岩倉家(岩倉具選)へ帰へる夜飛鳥井右衛門督雅威卿入らる、是より先相識る、玄関に行て対しける」とある。

 
飛鳥井家は代々蹴鞠(けまり)・和歌・書道を家職とした。
 精大明神は飛鳥井家の邸宅内に祀られた鞠の神様であり、現在は飛鳥井家邸跡(上京区今出川通堀川東入飛鳥井町)に慶応2年(1866)創建された白峯神宮の境内社となっている。

  あ そ これか(これきよ)
阿蘇惟馨

安永2年(1773)~文政4年(1820)
宇治 惟馨     伊予守 阿蘇神社大宮司・国学者・従三位 熊本  寛政4年(1792)2月14日の「筑紫日記」によれば、「阿蘇大宮司(阿蘇惟典)の嫡子伊予守惟馨より緑毛亀の歌色紙に書て送る」とある。

 阿蘇惟馨は
長瀬真幸高本紫溟の門人。阿蘇惟典の子。

 

あ そ これのり(これすけ)
阿蘇惟典

享保17年(1732)~寛政5年(1793)

宇治 惟典       阿蘇神社大宮司・歌人・従四位上 熊本  寛政4年(1792)1月7日の「筑紫日記」によれば、「高本氏(高本紫溟)新会也、大宮司惟典(阿蘇惟典)緑毛亀の歌色紙に書ひて寄す」とある。

 阿蘇惟典は
阿蘇惟馨の父。高本紫溟小沢蘆庵の門人。

あねがこうじきみあき(きんとし)
姉小路公聡

寛延2年(1749)~寛政6年(1794)
公家・参議・権中納言・従二位・権大納言 京都  寛政3年(1791)4月26日の「寛政京都日記」によれば、「姉小路中納言公総卿(姉小路公聡)の亭に入る、緑毛亀の画十枚を求めによりて進らす、森右衛門を以て挨拶す」とある。

 
姉小路公聡は天明元年(1781)日光例幣使となる。

あぶらこうじたかさき(たかちか)
油小路隆前

享保15年(1730)~文化14年(1817)
公家・権大納言・民部卿・従一位
(京都)  天明3年(1783)2月13日の「天明京都日記」によれば、「鴨川を渡り踏(蹴)上ゲの茶店にて久我家の東路立を待つ、油小路前大納言殿(油小路隆前)先を次に久我大納言殿(久我信通)也ける、高倉佐に餞別として剛卯印を寄す、右の二卿は武家伝奏にて、 勅旨なり」とある。

 
油小路隆前は油小路隆彭鷲尾隆純の父。

あぶらこうじたかもり
油小路隆彭

宝暦9年(1759)~寛政4年(1792)

公家・権中納言・従二位  寛政4年(1792)3月20日の「筑紫日記」によれば、「野野(村)市兵衛へ油小路中納言隆彭卿の古歌短冊(略)を寄せ侍る」とある。

 
油小路隆彭は油小路隆前の子。天明7年(1787)日光例幣使となる。

あ べ かねゆき
安部包幸

包幸・包光 騰雲子 幸七郎 仙台藩刀工 仙台  寛政元年(1789)12月27日の「寛政江戸日記」によれば、水心子正秀から門人がおよそ30人と聞き、その名を列挙する中に、「仙台の住本郷源之助国包今は亡し、仙台の住安部幸七郎包幸(安部包幸)同く栄吉包典長余長之助以上皆な仙台の人也」とある。
 寛政2年(1790)10月22日の「北行日記」によれば、「南鍛冶町鍛工安部幸七郎包幸(安部包幸)所へ寄る今は騰雲子包光といふのよしなり」とある。
 10月24日には、「南鍛冶町騰雲子へ至る酒出づ、国包(本郷国包)山城と号、本郷工之助田代久右衛門永重熊谷次左衛門包次荘司善八郎包倉大友宗十郎某余部忠兵衛安倫と騰雲子共に七人仙台侯の鍛工也、(略)、予騰雲子に琥珀津軽石を土産に寄せす」とある。
 11月2日には、「夜(また)鍛工阿部幸七郎(安部包幸)所へ行く」とある。

あやのこうじありよし
綾小路有美

享保7年(1722)~寛政5年(1793)

公家・正二位・権大納言 京都  寛政3年(1791)1月22日の「寛政京都日記」によれば、「岩倉家(岩倉具選)の頼みを受けて新町三条下ル所荻野左衛門大尉(荻野元凱)所へ至る、綾小路前大納言(綾小路有美)病気胗脉の事を乞う諾しける」とある。
 4月3日には「綾小路殿(綾小路有美)御神楽稽古の故使者ありける故南涯(志水南涯)所より直に至る早稽古済たりし所也、宮内卿殿と暫く語り中食の後に立ちて」とある。
 4月12日には、「綾小路家(綾小路有美)より使者、麻上下にて至り神楽歌稽古を聞く、園宰相(園基理)五辻治部卿(五辻順仲)鷲ノ尾侍従殿(鷲尾隆純)楽人安部雅楽之助等来る、中食後に立ちて」とある。
 6月13日には、「平松家綾小路家(綾小路有美)に入り皆な短冊十枚を参らせ読歌を乞う」とある。

 綾小路家は雅楽を家職とする。綾小路有美は竹内式部の門人。岩倉具選の正室は綾小路有美の娘。

  あらい  はくが
新井白蛾

正徳5年(1715)~寛政4年(1792)
  祐登 謙吉 白蛾・黄洲・龍山・古易館 織部 儒学者・卜筮者・金沢藩校明倫堂学頭 京都  天明2年(1782)11月24日の「天明京都日記」によれば、「誓願寺通り高倉西へ入る所にて新井白蛾宅へ入る、糸を土産とす、五六年以前長崎一見より薩劦鹿児嶋へ行くとぞ、、学校を見たるよし語れり、嫡子舛平を具したりといふ、江戸聖堂の如く入徳門の額は中山王と書也といへり、橘窓茶話雨森(雨森芳洲)の著を白蛾さみせり、夜に入て立つ」とある。
 寛政3年(1791)6月20日の「寛政京都日記」によれば、「堺町四条上ル所新井白蛾を尋ぬ、飯出づ、大宰府の社六度寺へ白蛾書を詫す、(略)、新井氏門愛甲胎春人吉の人相識となる」とある。
 なお、寛政5年(1793)5月8日の筑紫日記」によれば、太宰府の六度寺を訪れている(体調優れず半月ほど滞在)。

 新井白蛾は会輔堂を興した菅野兼山(菅野綸斎の父)の門人。のちに京都に移り、易学を究める。寛政3年(1791)金沢藩校明倫堂学頭となる。

   あらきだ ひさかた
荒木田尚賢

元文4年(1739)~天明8年(1788)
蓬莱 尚賢 履卿 洞屋 雅楽 伊勢神宮内宮権禰宜・従五位 (京都)・伊勢山田  天明2年(1782)12月22日の「天明京都日記」によれば、「大村氏(大村彦太郎)の妻の兄内宮御師中村采女なる人に相識となる小川通土(出)水上ル」所白木屋伝兵衛(白木屋の番頭)方に旅宿のよし、伊勢文庫の事に及びける時に中村氏語りけるは、蓬莱雅楽(荒木田尚賢)と申す者好学の人にて長崎へ行き唐人と対し今に書の往復あり、内宮文庫を再興して諸国へ募りて書籍を集む、伊勢へ行き玉はば尋ね玉へといふ」とある。
 天明3年(1783)9月14日の「
高山正之道中記」によれば、「蓬莱氏(荒木田尚賢)の斎館に斎みし居たる所へ至る深更に及ぶまで蓬莱氏村井(村井古巌)と語る」とある。

 荒木田尚賢は賀茂真淵の門人。竹内式部をかくまう。林崎文庫を拡充した。

   あらきだ ひさおゆ
荒木田久老

延享3年(1747)~文化元年(1804)
橋村・渡会・小田・宇治 正恭・正董・久老   五十槻園 弥三郎・典膳・主税主殿・斎 伊勢神宮外宮権禰宜のち内宮権禰宜・従四位下・国学者・歌人 伊勢山田  天明3年(1783)9月15日の「高山正之道中記」によれば、「宇治五十槻氏(欠)(荒木田久老)の宅へ入る是れ村井氏(村井古巌)が行くに付て予も至りし、真淵(賀茂真淵)門人にて和学者内宮祀官なり権禰宜と聞こえし」とある。

  あるが ちょうしゅう
有賀長収


寛延3(1750)~文政元(1818)

  初め長因   居貞斎・生志斎   歌人 大坂  寛政3年(1791)3月15日の「寛政京都日記」によれば、「有賀長収に途に相識となる事有り」とある。

 有賀長収は有賀長伯の孫、有賀長因の子。門人多数。


  あんどう きざん
安藤箕山


元文3(1738)~天明元年(1781)

  子憲  箕山 庄助  儒学者・尚徳館教授 伯耆米子  『高山彦九郎日記』第5巻(215ページ)によれば、安永5年(1776)の10月12日付けと想定される((桃白鹿に関連する安永3年の記録及び彦九郎が熊沢小八郎に宛てた書簡から確認できる)柘植忠太義方(鳥取藩米子組士)から彦九郎へ宛てた書簡に、「一昨年は」とあり、また追伸に、「尚々米子鷲見新助(鷲見保明)、熊沢小八郎、鳥取安藤庄助(安藤箕山)右三人之者随分無事ニ相暮し居申候間(略)」とあり、安永3年(1774)に彦九郎が米子を訪れた際、交流していることが確認される。

 安藤箕山は荻生徂徠に私淑し、明和元年(1764)に米子に私塾を開く。安永2年(1773)に鳥取藩校尚徳館教授となるが間もなく辞す。門下は1000人余と言われる。鷲見保明 熊沢小八郎・柘植忠太はその門人。
 後世、河田東岡・箕浦靖山とともに、鳥取藩学会の3傑と称された。

いいおかぎさい
飯岡義斎
(篠田徳庵)


享保2年(1717)~寛政元年(1789)
  孝欽 徳安 義斎・澹寧   儒学者・儒医 大坂  天明2年(1782)11月23日の「天明京都日記」によれば、「新町西口山本町篠田徳安宅へ入る、今は弟に譲りて徳安と称さしめ己れは飯岡義斎といふ、澹寧先生と号す」とある。
 3月21日にも白髪橋の北篠田徳安を訪ねているが不在で会えなかった。
 寛政元年(1789)12月8日の「寛政江戸日記」によれば、この日頼千秋(頼春水)等を訪ねており、「大坂
澹寧(飯岡義斎)十一月八日身まかる」と記している。

 飯岡義斎は頼春水尾藤二洲の義父。山口剛斎の師。


  いいだ
飯田忠林


生年未詳~文化7年(1810)
  有倫・忠林 子育 幽■(氵に閒)   儒学者・米沢藩儒医・医学館好生堂総裁 米沢  寛政2年(1790)7月15日~23日「北行日記」によれば、米沢滞在中、飯田忠林(飯田有倫)宅に寄留し、米沢藩の神保容助(綱忠)片山紀兵衛莅戸太華藁科松伯らの訪問を受けたり、藩校興譲館莅戸太華宅などを訪ねたりしている。

 飯田
忠林は佐藤中陵(本草学者)・細井平洲の門人。

  いけのたいが
池大雅

享保8年(1723)~安永5年(1776)
  幼名又次郎のち勤、無名

公敏・貸成・戴成 竹居・九霞・大雅堂・三岳道者・霞樵 秋平 文人画家・書家 京都  安永6年(1777)4月6日の「丁酉春旅」によれば、彦九郎は、甲州鰍沢宿(山梨県鰍沢町)のなべや平右衛門所で同宿となった加藤忠次郎と京都六条御前廻油小路東へ入る所日野屋忠次なる売薬のものと語り合うなかで、池大雅の話題となり、「我れ(彦九郎)また奇談なしやと云へば、京都に奇人あり大雅堂(池大雅)と云ふ知り玉ひしやと問ふ、我れ曰知音(ちいん)也、日野屋が曰く、先年大雅堂冨士山の麓に三四十日滞留して毎日出でて冨岳を繪がけり、宿の主じ繪を囑(たの)めり、大雅堂が曰、京師へ歸りて後克く繪がきて遣わさんと云ひ京へ歸へる、其後彼の宿の主じが子京へ三度まで上りて乞へどもかかずに後遂にかかずなりぬ、大雅堂は如何に乞へばとて我が心にむかねばゑかく事なし尊大せる人と覚え侍りぬ如何思召玉ふやと云ふ、吾れ(彦九郎)曰く、昔年(年代不明:明和元年〈1764〉または安永3年〈1774〉か)京師に上がりし時彼れ(池大雅)が家を訪ふ、大雅堂は甚だ恭敬厚き人也、餞別にとて繪二枚を成せり、是れを我れに送る、我が歸る時庭上に手をつき送りぬ、如此人也尊大はなき者と思ふ、彼れは書畫共によくまた學あり隠者の事云ふべきやと云へば座中のもの共に大いに驚き云ひけるは、如何なる御方様にて渡り給ふや先より知れ申さず疑ひ居れり明かし玉へという」とある。

 池大雅は
高芙蓉の親友であり、彦九郎を大雅と結びつけたのは芙蓉と考えられている。妻は南画家の玉蘭。

  いけのぼうせんこう
池坊専弘

宝暦11年(1761)~天明6年(1786)
小野          華道家・権律師・池坊39代・六角堂頂法寺執行

京都  天明3年(1783)10月29日の「再京日記」によれば、(大村彦太郎邸において)「池の坊専弘(池坊専弘)に相識となる妹子入道専務(小野妹子)より三十九代也といへり」とある。

 池坊専弘は池坊専純の子。安永4年(1775)15歳で家元を継承。「立華十九ヶ条」「池坊歴代生花絵巻」「専弘立華図」などを著す。

  いしかわそうろう 
石川滄浪 

延享2年(1745)~天明3年(1783)
  清     滄浪 清平・東助 儒学者 細谷・江戸  天明7年(1787)6月3日の「墓前日記」によれば、「新田郡長岡村地頭水野小十郎殿(旗本・1450石・水野元休)の頼みによりて知行所へ参りたるものなるが、一昨日、喪に籠らせらるるを承はり、今日長岡村より態態参れりとて、苫屋の前に拝手す、先づ是れ(へ)とて苫屋の内に入らしめ、相識となる、姓名住所を記るし懐中より出だせり、浪人石川東助名は濁字は清平号滄浪、奥州伊達郡保原人、当時江戸下谷三味線堀水野小十郎殿に寄宿とぞ、焼香して拝伏す」とあり、彦九郎と服喪について語り合ったのち、7月江戸での再会を約している。
 寛政元年(1789)12月18日の「
寛政江戸日記」によれば、「石川藤助(石川滄浪か)所へ入る、浅草織田出雲侯(丹波柏原藩・2万石・織田信憑・出雲守)の屋敷(柏原藩下屋敷・台東区浅草四丁目付近か)の辺也、他出にて門人石川寿三に申し置く」とあり、また寛政2年(1790)5月16日には、「浅草阿部川丁(台東区元浅草三丁目付近か)馬労(ママ)丁柳田直次郎殿地面へ移りたる石川東助(石川滄浪)を尋ぬ、左伝の会読にて古林好節西川元泰渡部元泉等会す、熟生は山口惣次郎土屋寿三両人也、書生帰て後茶飯に酒出づ、宿して語り寅の刻を過す」とある。

 石川滄浪は井上金峨の門人。武蔵六浦(金沢)藩主米倉昌晴(1万2000石)の賓師となる。
 彦九郎の日記の記述は人名辞典類における石川滄浪の没年と矛盾点があるが、記して後考を待つ。


  いしだばいがん
石田梅岩

貞享2年(1685)~延享元年(1744)
  興長 梅岩(梅巌) 勘平 石門心学者  天明2年(1782)3月2日の「天明江戸日記」によれば、「金井氏懐中に石田勘平(石田梅岩)が著したる齊□(家)論二冊を入る、去年□やり者江戸よりも剃髪のものを大に用て講訳(釈)せしむ京の人也、□□手嶋氏(手島堵庵)の類いなるべし」とある。
 3月5日には、「伊藤蘭石宅へ寄りて絹糸を土産とす、石田勘平(石田梅岩)手嶋氏(手島堵庵)より事に及むで蘭石語りけるに、京都より町屋へ説きしもの帰京の後は米田一貫なるもの彼の僑居の跡を預りて説く、予が相識也初め医人也塩丁即ち彼の居也といへり」とある。
 天明2年(1782)12月4日の「天明京都日記」によれば、「赤沢恭節(略)、亡父をば(杉浦)千輔宗恒号を止斎といひ石田勘平(石田梅岩)高弟なり、深田氏は小栗源五郎了雲といへる者のに学を受けしよし、宗之己れが作りたる図説やうのものを取り出だし学談す、また朱子実記の事を語る、久しふして出で」とある。

 石田梅岩は小栗了雲の門人。商家に奉公しながら勉学に励み、石門心学と呼ばれる倫理学の開祖となる。門人に手島堵庵・斎藤全門・富岡以直らがいる。

  いしづくりくせき
石作駒石

元文5年(1740)~寛政8年(1796)
  士幹 駒石・■(草かんむりに肥)坡 貞一郎・完一郎 儒学者・木曽代官山村蘇門家臣・名古屋留守居役・勘定役・家老 江戸・木曽福島  天明2年(1782)10月22日の「上京旅中日記」によれば、木曽福島宿(長野県木曽郡木曽町)で伊沢小一兵衛改め石作定一郎(石作駒石)について記している。
 寛政2年(1790)5月20日の「寛政江戸日記」によれば、芝新門前の山村甚兵衛(山村蘇門)屋敷内の石作貞(定)一郎を訪ねている。
 寛政2年(1790)11月26日の「
北行日記」によれば、東北行の帰途、京都に急行中の彦九郎は木曽福島の石作定一郎宅を訪ね、「金子壱両」を借りている。
 寛政2年(1790)12月7日の「寛政京都日記」によれば、「(大村彦太郎から)金子五両を借る、福嶋石作貞一郎へ一両(略)返弁の書を認め(侍)る」とある。


 石作駒石は南宮大湫の門人。

いしやまもとつら
石山基陳

延享元年(1744) ~文政3年(1820)
藤原
基陳 公家・大蔵卿・参議・権中納言・正二位・権大納言  寛政4年(1792)4月24日の「筑紫日記」によれば、「正幸(伊地知正幸)に石山基陳卿古歌短冊を寄す」とある。

 石山家は壬生家の分家。筆道を家職とする。

いずもじいずみのじょう
出雲寺和泉掾



書肆 京都  天明3年(1783)11月13日の「再京日記」によれば、「三条境町西へ入る所なる出雲寺和泉(出雲寺和泉掾)か宅へと志して姉の小路の境町へ至るに早や町門閉ちて入る事許さす、二条へ帰へり河原町を南へ松原へ至り遂に寺町五条上ル所書肆天王寺屋所へ入る、市兵衛(天王寺屋市兵衛)父をは応禎といひて宇士新(宇野明霞)の弟子にて学才ありて荀子の跋をせるものにぞありける」とある。

 江戸初期に京都で開業した書肆。江戸にも出店。代々、出雲寺和泉掾を名乗る。

いちかわかんさい
市河寛斎

寛延2(1749)~文政3(1820)
初め山瀬 世寧 子静・嘉祥 寛斎・西野・半江・江湖詩老 小左衛門 儒学者・漢詩人・昌平黌学頭・江湖詩社社主・富山藩儒(広徳館教授)  寛政2年(1790)11月1日の「北行日記」によれば、「小嶋酉之助(小嶋梅外)が西野(市河寛斎)へ籬が嶋の松及び詩を寄せんとて詫したるを忘れたり」とあり、再び塩釜に戻り、「藤塚知明所に入り彼れの西野(市河寛斎)への詩を懐中に納む」とある。
 11月12日には、「白川(白河)川原町茶屋のとら屋平助に休ふ、(略)、とら屋に宿して江戸簗次正前野達(前野良庵)への書を認む、(略)、小嶋酉之助(小嶋梅外)より市河小左衛門(市河寛斎)へ送る詩の事、(略)、届け玉はれと簗前野へ別紙にて頼みぬ」とある。


 
市河寛斎は上野国甘楽郡(群馬県南牧村)出身。市河蘭台(好謙)の子、市河米庵の父。父蘭台・関松窓・大内熊耳の門人。昌平黌に学ぶ。寛政異学の禁に伴い、昌平黌学頭の職を追われ、寛政元年(1789)、江戸お玉が池に漢詩社「江湖社」を開設、菊池五山小嶋梅外・柏木如亭・大窪詩仏の師。寛政3年(1791)富山藩儒となる。細井平洲井上金蛾と交流。

  いちじ  まさよし
伊地知正幸
(伯耆守正幸)

享保18年(1733)~文政元年(1818)
2代正良・のち正幸 次右衛門・仲蔵・平覚 薩摩藩刀工・伯耆守 鹿児島  寛政4年(1792)3月28日の「筑紫日記」によれば、「肥後斎藤権之助(斎藤芝山)より伊地智平覚(伊地知正幸)への書佐藤鉄蔵へ詫す」とある。
 4月24日には、「山ノ口宗助を具して竪野伊地知平覚伯耆守平幸(伊地知正幸)所へ入る、次男強太継ひて鍜(鍛か?)工をなす、(略)、予正秀(水心子正秀)に語りし如く正幸に語る、(略)、正幸(伊地知正幸)に石山基陳卿古歌短冊を寄す」とある。
 4月27日には、「鍛工正幸(伊地知正幸)返礼として来りけるとぞ」とある。
 5月22日には、「立野なる正幸(伊地知正幸)所に入り(ここ一行半濃厚に抹消)」とある。

 
伊地知正幸は奥元平(大和守元平)と並ぶ、この時期(新々刀)薩摩を代表する刀工。斎藤高寿(斎藤芝山)と交遊。

いちはらていさい
櫟原踅斎


享保8年(1723)~寛政12年(1800)
栗田 初め信八・篤好 踅斎・泗水庵俳号:君里 守佐・主佐・修助 本陣・酒造家・儒学者・泗水庵主 (美濃垂井)・(奥州)  天明3年(1783)4月9日の「天明下向日記」によれば、、「垂井駅に至り問屋に休ふ、時に久米順利(久米訂斎)の弟子櫟原イチハラ守佐(櫟原踅斎)へ伝言す、守佐一つに大坂屋七兵衛と号す」とある。
 寛政2年(1790)10月10日の「北行日記」によれば、「(赤生津村藤倉主一郎宅において)礼服して祠堂を見る祠前六帖敷外八畳敷也、久米順利(久米訂斎)画像自賛を見す、(略)、美濃垂井櫟
イタ原通助(櫟原踅斎)方より送れるよし、道遠(藤倉主一郎の父、郡山道遠)は順利(久米訂斎)門人也」とある。

 
櫟原踅斎は家督を子の栗田文吾に譲ったのち久米訂斎の門人となる。
 明和8年(1771)に聖堂明倫堂、安永3年(1774)に私塾泗水庵を開設。櫟原踅斎没後は同門の合田恒斎(合田立誠の弟)が継いだ。

  いつつじありなか
五辻順仲

延享2年(1745)~没年未詳
公家・非参議・右馬権頭・右衛門佐・治部卿・正三位 京都  寛政3年(1791)1月6日の「寛政京都日記」によれば、「岩倉家(岩倉具選)へ帰へる、(略)、無人なるが故に取次ぐ、五辻民部大輔殿(五辻順仲の子か)年礼(略)」とある。
 4月12日には「綾小路殿(綾小路有美)より使者、麻上下にて至り神楽歌稽古を聞く、園宰相(園基理)五辻治部卿(五辻順仲)鷲ノ尾侍従殿(鷲尾隆純)楽人安部雅楽之助等来る、中食後に立ちて」とある。


 五辻順仲は寛政9年(1797)53歳で落餝。五辻家は神楽を家職とした。

  いとう くんれい
伊藤君嶺


延享4年(1747)~寛政8年(1796)
源・塩田 栄吉 士善 君嶺 文四郎 儒学者・福井藩儒 京都  寛政2年(1790)12月26日の「寛政京都日記」によれば、「帰へりて岩倉家(岩倉具選)に宿す時に伊藤栄吉(伊藤君嶺)に相識となる、酌む」とある。
 寛政3年(1791)2月26日には、「上御霊馬場(京都市上京区)伊藤文四郎栄吉士善号は君嶺所へ入る吸物酒出づ」とある。
 3月5日には、彦九郎は富小路殿(富小路貞直か)・三位殿(岩倉具選)・志津摩(宮本包継)・寛蔵(槻木勘助弟)・伊藤文四郎
栄吉(伊藤君嶺)とともに鞍馬山に遊んでいる。

 伊藤君嶺は塩田子蔦の子。伊藤錦里の養嗣子。

いとう じんさい
伊藤仁斎

寛永4年(1627)~宝永2年(1705)

維貞・のち維禎 敬斎・誠修・仁斎古義堂 源吉・源佐・源七・鶴屋七右衛門

儒学者・古義堂初代塾主  天明7年(1787)6月3日の「墓前日記」によれば、祖母の服喪中に彦九郎を訪ねてきた石川滄浪から、「江戸学生喪祭の礼疎かなるを嘆息し京師伊藤仁斎親の喪を寺中小庵に執り、子孫克く礼を守れる事を嘆賞す」と聞いている。

 
伊藤仁斎は京都の堀川に家塾古義堂を開き、門弟三千人を集めた。古義学の祖といわれる。伊藤東涯・伊藤梅宇・伊藤介亭・伊藤竹里・伊藤蘭嵎の父。

いとう とうがい
伊藤東涯

寛文10年(1670) ~元文元年(1736)
  長胤 原蔵・源蔵・元蔵

東涯 紹述先生 儒学者・古義堂第2代塾主  安永4年(1775)2月22日・3月4日の「乙未の春旅」に現れる。

 
伊藤東涯は古義堂を開いた伊藤仁斎の子。伊藤東所の父。高橋宗直の師。

  いとう とうしょ
伊藤東所

享保15年(1730)~文化元年(1804)
  善韶 忠蔵 東所・施政堂   儒学者・古義堂第3代塾主 京都  天明2年(1782)11月23日の「天明京都日記」によれば、「東堀川下立売上る所古義堂へ入る、糸を土産とす、東所(伊藤東所)としばらく語る、当春但馬国出石侯講堂を構えられ開講の節食招待にて下りしよし」とある。
 天明3年(1783)2月23日には、「今に京都に浪人と号して帯刀なるものは堀川の伊藤家と是れのみ也」とある。
 天明3年(1783)11月3日の「
再京日記」によれば、「古義堂に入り東所(伊藤東所)と語りて」とある。

 伊藤東所は伊藤東涯の第3子。叔父伊藤蘭嵎に学ぶ。

いとう らんぐう
伊藤蘭嵎

元禄6年(1693)~安永7年(1778)
長堅 才蔵 蘭嵎・応躔・啓斎 儒学者・和歌山藩儒・古義堂教授  安永4年(1775)2月25日の「乙未の春旅」に現れる。

 
伊藤蘭嵎は伊藤仁斎の第5子、伊藤東涯・伊藤梅宇の弟。幼くして父仁斎を亡くし、兄東涯に養われる。和歌山藩儒であったが、東涯の没後、幼少の伊藤東所を養い、古義堂を継承した。

  伊藤蘭石           儒学者か(門人あり) 江戸  安永9年(1780)の「冨士山紀行」に2日、安永9年(1780)・天明元年(1781)の「江戸旅中日記」に9日、天明2年(1782)の「天明江戸日記」に3日現れる。
 天明2年(1782)3月5日の「天明江戸日記」によれば、「伊藤蘭石宅へ寄りて絹糸を土産とす、石田勘平(石田梅岩)手嶋氏(手島堵庵)より事に及むで蘭石語りけるに、京都より町屋へ説きしもの帰京の後は米田一貫なるもの彼の僑居の跡を預りて説く、予が相識也初め医人也塩丁即ち彼の居也といへり」とある。

 
江戸の友人。神田住。
 『高山彦九郎日記』の「江戸旅中日記」安永9年(1780)11月16日の注には「伊藤東涯の子孫伊藤蘭嵎の子か」とある。

いなばもくさい
稲葉黙斎

享保17年(1732)~寛政11年(1799)
正信 黙斎 又三郎 儒学者 ―(東金  寛政2年(1790)6月24日の「北行日記」によれば、「桜木清重郎を尋ぬ長井筑前守殿(永井筑前守直廉・寛政元年長崎奉行となる)殿へ付きて長崎へ行きぬといふ、子伝重郎も他出にて番頭彦左衛門出でて挨拶す、稲葉木(黙)斎清名幸谷セイナカウヤに居るといふ南四十丁斗有りとぞ」とある。

 
稲葉黙斎は稲葉迂斎の次男。稲葉迂斎・野田剛斎(佐藤直方門人)の門人。諸侯を教え、天明元年(1781)、父迂斎の弟子、鵜澤孝七郎近義を頼って上総清名幸谷(千葉県山武郡大網白里町)に住し、私塾「孤松庵」を開いた。

  いのうえきんが
井上金峨

享保17年(1732)~天明 4年(1784)

立元 純卿 金峨 文平 儒学者  天明7年(1787)6月3日の「墓前日記」によれば、「浪人石川東助名は濁字は清平号滄浪(石川滄浪)」が服喪中の彦九郎を訪ね、服喪について語り合う中で、「彼レは金峨(井上金峨)門に遊びて尾崎周平を長者とす、金峨親の忌日には前七日斎みし、後三日斗り謹みたり」とある。
 寛政元年(1989)12月18日の「寛政江戸日記」によれば、「富東作名は龍字は雲卿を尋ぬ、(略)、父は井ノ上嘉膳(井上蘭台)関栄一金峨(井上金峨)などに付きて学びたりなど語れり」とある。

 
井上金蛾は笠間藩医井上寛斎の子。古義学の川口熊峯、のち折衷学の井上蘭台の門人。徂徠学を批判、折衷学の祖となる。江戸駒込で謝金を取って塾を開いた。晩年寛永寺法親王に仕えた。

  いのうえしめい
井上四明

享保15年(1730)~文政2年(1819)
初め戸口 仲龍 四明・佩弦園   儒学者・高田藩のち岡山藩儒・侍講 江戸  寛政元年(1989)10月3日の「寛政江戸日記」によれば、中島常足の案内で井上四明に会い、熊沢蕃山の系譜・事跡について聞いている。
 11月1日には、井上仲(四明)を訪ねた折、入浴のため出るのが遅くなった四明が作った詩を記している。

 
井上四明は戸口孝広の子。井上蘭台の門人・養子。

今枝世顕
世顕 礼陽 六有 栄顕 医家 京都  寛政3年(1791)1月23日の「寛政京都日記」によれば、「室町下立売を上る所今枝栄顕所へ入る、栗山(柴野栗山)所にて相識れる人也九条家へ仕ふ饅頭に飯出づ」とある。

  いまき しゅうざえもん
今城周左衛門
(今城峴山)


寛延元年(1748)~文化3年(1806)

  世綱 公紀 峴(山偏に見)山・硯山 周左衛門 儒学者(折衷学)・信濃松本藩儒・崇教館教授  天明2年(1782)11月26日には、「皆川文蔵(皆川淇園横尾文助今木周左衛門(今城周左衛門)の三儒生公儀より召される事ありと委細に資衡大江玄圃語りける」とある。

 
今城周左衛門は曽我部容所の門人。

いわがきりゅうけい
岩垣龍渓
(岩垣彦明)

寛保元年(1741)年~文化5年(1808)
三善 彦明 亮卿・孟厚 龍溪 ・後に栗翁 長門介 儒学者・大舎人 (京都)  寛政3年(1791)5月1日の「寛政京都日記」によれば、岩垣長門介(岩垣龍渓)を訪ねたが不在で会えなかった。
 5月27日にも、富小路貞直卿とともに、富小路竹屋町下る所に岩垣長門介(岩垣龍渓)を訪ねたが会えなかった。

 
岩垣龍渓は宮崎筠圃・清原家・伏原宣條皆川淇園の門人。澄月と交流。村山惟益の師。

  いわくら とものぶ(ともかず)
岩倉具選

宝暦7年(1757)~文政7年(1824)
淳吉・家具・具選 子数 落飾して可汲   公家・右近衛権少将・近江介・右近衛権中将従三位 京都  京都における彦九郎の重要な支援者のひとり。彦九郎の寄寓先。
 「天明京都日記」に16日、「再京日記」に12日、「寛政京都日記」に161日、「筑紫日記」に8日現れる。
 天明3年(1783)10月25日の「再京日記」によれば、寄寓先の白木屋番頭伝兵衛から、町の宿老に「帯刀の御方多く寄るあり急ぎ立たしめたまえ…」と言われたと宿移りを告げられ、その後岩倉卿が引き受けてくれた。岩倉邸滞在期間は全体で約200日に及ぶ。 
 なお、「具選」を「とものぶ」とする事典類が多いが、寛政2年(1790)12月26日の「寛政京都日記」によれば、「岩倉家具卿具選
カズ卿と改めらる」とある。

 岩倉具選は彦九郎没後、病と称し出仕を怠り、江戸に滞在、このため、勅勘をこうむり永蟄居の処分を受けている。
 岩倉具選は権大納言柳原光綱の子。柳原紀光の弟。治部大輔岩倉広雅の養子。室は道子。岩倉具視の祖。高芙蓉から篆刻を学ぶ。


うえすぎようざん
上杉鷹山

宝暦元年(1751)~文政5年(1822)

藩主在任
明和4年(1767)~天明5年(1785)

藤原 勝興・治憲 世章 鷹山・南亭・餐霞館・鳳陽・稽古堂白鶴台・来章閣・紫霞園・休々斎   大名・米沢藩9代藩主 (米沢)  安永6年(1777)9月30日の「武江旅行記」によれば、細井平洲から「上杉侯(上杉鷹山)」の善政を聞き、「我聞て曰、侯の仁心天道感ありて水あれども恙なく□□□死る命は忽活く□□すべし賞すべし」と記している。
 寛政2年(1790)7月19日の「北行日記」によれば、莅戸太華宅で、「予を饗するが為に中殿(上杉鷹山)より魚を賜ふと語れり、中殿とは前侯治憲事(略)、其の養父侯(上杉重定)を大殿と称するの故に中殿とは号せり、(略)、侯より賜ひしといへるは岩名といへる魚を最もとす」とある。
 7月22日米沢藩儒の片山紀兵衛は「那須国造の碑」の読み方を彦九郎に教わるように中殿(上杉鷹山)から命じられたと語っている。 

 上杉鷹山は日向高鍋藩主秋月種美(2万7000石)の次男。米沢藩主上杉重定の養子。藩財政の立て直しに尽力し名君と称された。
細井平洲滝鶴台渋井太室に師事。藩校興譲館を創設。

 う さ きんこ
宇佐公古

 いとうづ きんこ

(到津公古)

享保19年(1734)~享和2年(1802)
宇佐 公古 宇佐八幡宮大宮司従三位・非参議 京都  寛政3年(1791)6月20日の「寛政京都日記」によれば、「北小路殿(北小路祥光)へ入りて宇佐大宮司( 宇佐公古)僑居を尋ぬ椹木町烏丸西へ入る北側とぞ」とある。
 6月21日には、「晩に宇佐大宮司公古を尋ぬ、 神武帝の御時なる菟狭津彦命より六十二代の孫とぞ歌を能くす」とある。

 
宇佐氏は宇佐八幡宮の大神宮家。江戸時代は宮成家と到津家の二家が大宮司となった。
 宇佐八幡宮(宇佐神宮)は現在の大分県宇佐市にあり、全国に40000社を超える八幡宮の総本社。

うめがこうじ さだふく
梅小路定福

寛保3年(1743)~文化10年(1813)
藤原 定福 公家・参議・権中納言・正二位・権大納言 京都  寛政3年(1791)4月20日の「寛政京都日記」によれば、「岩倉家に帰へるに三位殿(岩倉具選)鴨河より帰へられて慈光寺殿(慈光寺尚仲)に諸卿宴して有り、至りてよと進(勧)めらるる故夜に慈光寺家の士と尚仲卿へ入る」とあり、富小路殿(富小路良直か)・北小路殿(北小路祥光)・姉小路殿(姉小路公聡か)・高辻殿(高辻福長か)・梅小路殿(梅小路定福)らと酌んでいる。

  うらがみぎょくどう
浦上玉堂 

延享2年(1745
)~文政3年(1820
幼名磯之進・孝弼・弼 君輔 玉堂・玉堂琴士・穆斎 兵右衛門 岡山新田藩士・文人画家 京都  寛政3年(1791)4月6日の「寛政京都日記」によれば、「雨止みて南涯(志水南涯)所へ至る、浦上□(兵)右衛門紀弼字君輔浦上玉堂)来り相識となる、自画を寄せて予が書を乞う、元宣(十三童菅元宣)が緑毛亀へ予が作るの歌を書して与え侍る、酒出でて酔に及ぶ」とある。

 浦上玉堂は岡山藩の支藩である備中岡山新田藩(鴨方藩)の藩士。50歳の時脱藩し、全国を遍歴、晩年は京都に住む。玉田黙翁・多紀藍渓の門人、長瀬真幸の師。谷文晁・皆川淇園辛島塩井高本紫溟頼春水菅茶山立原翠軒立原杏所木村蒹葭堂・田能村竹田・頼山陽と交遊。琴・文・書・画を能くした。

  うらの じんそん
浦野神村
(浦野知周)

延享元年(1744)~文政6年(1823)
知周   神村・耦叟 仁左衛門・次郎兵衛・平太左衛門

伊勢崎大目付・伊勢崎藩学習堂教授 伊勢崎  新井雀里の著「高山芳躅誌」によれば、浦野神村は彦九郎の知友とされる。

 浦野神村は
村士玉水の門人。

江上観柳
(江上司馬之介)

寛延元年(1748)~寛政7年(1795
  武経義秀・武秀     司馬之助 揚心古流三世・柔術家 江戸  天明元年(1781)5月1日の「江戸旅中日記」によると、「簗(簗又七)と共に麻布東町の辺新屋敷なる所にて服部主膳殿(旗本)地内にて江上司馬之介(江上観柳)宅を尋ね近頃ここに移りて稽古所の普請せる所なり」とある。この時を含め3度会えなかったが、5月20日には「新屋敷江上義秀(江上観柳)宅に入る在宿にて酒を出し饗す」とあり、その系譜を聞き、夜まで語り合っている。
 
天明2年(1782)3月5日の「天明江戸日記」によれば、「江上氏観柳と名を改め弟子益々進むよし」とある。
 3月16・17日には互いの意見を交し合っている。
 寛政元年(1789)11月18日の「寛政江戸日記」によれば、有馬侯(久留米藩)邸の椛島
勇吉(樺島石梁所において「語りて江上義秀が事に及びけるに、弓削氏(弓削周介・久留米藩儒)迎ひとして江上所へ至るに他出にて妻のみ在りて九年以前の儘にて高山様来らせ玉はず観柳帰へり次第申し聞かすべしいひて返へらしめける、観柳は算法者藤田権平(藤田貞資)太田源蔵と三人心友のよし也」とある。
 寛政2年(1790)6月4日の「寛政江戸日記」には、江上観柳に房総(北行)遊行を告げ宿している。


 
江上観柳は叔父阿部観柳から柔術の揚心古流を引き継ぎ、芝赤羽の心光院近くに道場を開いた。
 『高山彦九郎日記』第3巻69ページの注では「江上義秀―剣客江上観柳」とある。
 

えむら ほっかい
江村北海

正徳3年(1713)~天明8年(1788)
初め伊藤 君錫 北海 伝左衛門 儒学者・漢詩人・宮津藩京都留守居役  天明3年(1783)11月3日の「再京日記」によれば、「栗山(柴野栗山)を訪ふて芥川養軒の宅へ入る、九月二九日(ママ)三十日より十月初め信州騒動す(浅間山噴火による飢饉のための暴動)、初め六百人斗なる所後には六千人になりて乱防(暴)し諏訪に及ぶ、小室(小諸)等の城々より防ぎて捕ふる事あり、江村北海の所にて信州福嶋より寄せたる書也とて見たるに今は静謐也とありぬ先月二十五六の日付なりき、是れ一昨日に見たりと養軒語る」とある。

 江村北海は播磨出身。福井藩儒伊藤龍洲の次男。長兄伊藤錦里は経学、江村北海は詩、弟清田文興(儋叟)は文をもって知られた。丹後国宮津藩士江村毅庵の養子となり跡を継いだ。
 京都で詩の結社「賜杖堂」をつくった。
 当時、大坂の片山北海・江戸の入江北海とともに「三都三北海」と呼ばれた。


おおえ げんぽ
大江玄圃
(久川靱負)


享保14年(1729)~寛政6年(1794)

生年は享保13年(1728)とも
  資衡  穉圭 玄圃・時習堂 久川靱負 儒学者(徂徠学)・漢詩人 京都  天明2年(1782)11月26日の「天明京都日記」には、「久川靱負(大江玄圃)を尋ぬ、資衡先づ栗原信貞自殺の事を語り、書生をしてあやまらしむるものは高山子なるべし如何様にも公の真似克く仕そこなひと申し侍りし四海に毒を流されしとて笑へり、信貞初め草蘆(龍草廬)へ門入せむとて庭に笠をしきて半日斗り居りたれど主人あるものにて紹介なき方へは出で逢はずと申したるにより詮方なく去りて西依(西依成斎)氏へ入る、是れも肯んせずして其後ち西依の僕が途中に見懸けたる様子甚だやつれたりける故へ持ち合ふ所の銭三十斗り路用になし玉へとて与えたれど人の物をば遂に受けずと辞して受けず、竹田村に入て自殺せり」」とある。
 天明3年(1783)11月5日の「再京日記」によれば、「岩倉家へ入りて少将殿(岩倉具選)と語る、時に久川靱負(大江玄圃)来たりて遺文草稿を見す予昔時を語て落涙に及べり」とある。
 寛政2年(1790)12月28日の「寛政京都日記」によれば、「岩倉家(岩倉具選)を出で三条小川西へ入る所久川靱負(大江玄圃)を尋ね久く語る、中食出づ、時に雪降る」とある。

 寛政3年(1791)4月2日には、「三条小川西へ入る玄圃(大江玄圃)所へ入る緑毛亀見度よしいへる故に黒印を与へ侍る、(略)、玄圃所にて門人播州の五百倉イヲワイ尚敬に相識となる」とあり、翌4月3日には、「玄圃父子(大江玄圃・大江維翰)門人も来れりける」とある。

 大江玄圃は龍草廬から詩文、岡白駒から古文、宮崎筠圃から書法を学んだ。大江維翰の父。


大江維翰
 おおえ らんでん
(大江藍田)


  (1757)~天明8年(1788)
維翰 伯祺 藍田 久川玄圃
儒学者 京都  『高山彦九郎日記』第5巻274ページに、彦九郎に贈った大江維翰の詩が掲載されている。
 寛政3年(1791)4月3日の「寛政京都日記」によれば、「穂波殿(穂波経条)より使者緑毛亀を見られ度よし黒印を参らせ南志水南涯)所へ入る、穂波筑前守経条卿(穂波経条)緑毛亀見に至らる、玄圃父子(大江玄圃とその子)門人も来れりける」とある。

 大江維翰は天明8年(1788)没しており、この子は大江荊山か。
 なお、『高山彦九郎日記』第5巻274ページに、彦九郎に贈った大江維寧の詩が掲載されている。

 大江維翰は大江玄圃の長子。
 大江荊山:名は維緝、字は仲煕、号は荊山、通称は久川雄蔵。宝暦13年(1763)~文化8年(1811)

大川良平→
赤松滄洲


  おおぎまち さねみつ
正親町実光

安永6年(1777)~文化14年(1817)  
藤原 実光       公家・左権中将・播磨介・蔵人頭・参議・権中納言兼左衛門督・正二位・権大納言 京都  寛政3年(1791)4月15日の「寛政京都日記」によれば、「芝山家(芝山持豊)へ入る、今日岩倉家(岩倉具選)に難波少将殿(難波宗功)入らる松原金吾従ふ、難波殿に見ゆ、正親町中将殿(正親町実光)入らる取次ぎける」とある。

 正親町実光の父、正親町公明
正二位・権大納言・武家伝奏)は尊号事件で議奏中山愛親とともに、老中松平定信から処分を受ける。

おおた かてき
太田可笛


宝暦2年(1752)~文化12年(1815)
忠重 鹿笛・のち可笛・萩庵・七斎 恒助・七左衛門 俳人 日向城ヶ崎  寛政4年(1792)6月17日の「筑紫日記」によれば、「(城ヶ崎南村六郎兵衛所において)深更に至るまで南村六郎兵衛太田常助俳号可笛(太田可笛)高木長左衛門南村円蔵と語る」とあり、翌日も、南村六郎兵衛・南村円蔵・太田可笛と、「皆な礼服」し焼酎を酌んでいる。
 
 大淀川(赤江川)河口に開けた城ヶ崎(宮崎市)は、上方交易の河口港である赤江港を擁して隆盛を誇り、江戸時代から明治時代初期にかけて俳句を中心とした町民文化が栄え、太田可笛ら多くの俳人を輩出し、「城ヶ崎俳壇」と呼ばれた。可笛はその中心人物。
 太田可笛は蝶夢の門人。

  太田包昭
(太田常庵)
包昭 常庵    


(紀行家)

京都  天明3年(1783)3月14日の「天明京都日記」によれば、「芙蓉翁(高芙蓉)(略)奥州の人太田包昭(略)に相識になるべきを進めける、太田氏はゑぞ(蝦夷)へ行きて自由に往来せしもの」とある。
 3月17日には、高芙蓉の手紙を持参してきた太田常庵(太田包昭)に会い、「ゑぞ(蝦夷)へ渡りたる人にて克く産物地理を知る、九州薩マ(薩摩)へも渡りたるよし、ゑぞの事一巻の書に認め且つ地図を作るという」とあり、蝦夷地と九州の様子を詳細に聞き取り記録している。
 寛政2年(1790)7月14日の「北行日記」によれば、「(福島)本と町伊勢児長兵衛所へ寄る、常庵(太田包昭)は京都へ去夏より上り居るのよし、多古(蛸)薬師の境町近江屋七兵衛所にて尋ぬれば知るるのよし今は西海へも趣ぬるやとぞ」とある。
 12月19日の「寛政京都日記」によれば、「境町蛸薬師を西に入る所近江屋七兵衛方へ至りて太田常庵への書を残す、太田氏大坂へ行しよし」とある。
 寛政3年(1791)1月8日には、「近江屋に寄りて太田常庵(太田包昭)大坂の逗留所を尋ぬ大坂立売堀完喰屋橋山本町木の下公民所に居るのよし」とある。
 2月13日には、「蛸薬師堺町西に入る太田常菴(太田包昭)旅宿を訪ふ、太田氏予が長崎遊行の為に三条橋を渡り川ばた孫橋井筒屋甚兵衛所へ案内す」とある(彦九郎の九州旅行の目的の一つが長崎行きであることを示す記事)。
 4月18日には、「大村氏(大村彦太郎)へ至りて(略)、太田常菴(太田包昭)予を尋ね来りて遂に大村氏が宅に於て対す、公辺に娘を取戻したるに付て予に謀る事有り」とある。

 
太田包昭は安永2年(1773)奥州福島を発して、松前・箱館・江指(江刺)を巡り産物を収集、蝦夷地に関する伝聞記事を「蝦夷風土記」にまとめている。
 「蝦夷風土記」については、北海道大学図書館所蔵。
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/kyuki/doc/0A000420000000.html

  おおたげんこう
太田玄浩
  玄浩   儒学者か 江戸  天明元年(1781)5月28日の「江戸旅中日記」によれば、「本所四ツ目橋をこし、南松代町一丁目(江東区大島2丁目付近か)太田玄浩謙之明卿(太田玄浩)なる老人を尋ぬ、長沢淳平粋庵の子不怨斎の門人也、板倉美仲蘭亭等は初長沢門人也といふ、語て足利学校の事に及びて(小野)篁の学校にあらず夫より遥に後世の事也、笠原筆陳の書に考あり重ねて書抜きて進らすべしといふ」とある。
 閏5月7日には、「五井藤九郎(五井蘭洲)初江戸に下りて津軽侯の儒臣と成しとき、悉く文字を問はれたる斗りにて学術のさた一度もあらねば、尸位素餐(しいそさん)也といひて大坂へ帰りしときけりと太田玄浩物語也」とある。
 天明2年(1782)3月20日の「天明江戸日記」によれば、「本所四ツ目松代町太田氏(太田玄浩)の宅に入る」とあり、「今日太田氏(太田玄浩)が語りけるに、鳴島道筑(成島道筑)南郭(服部南郭)に因て徂来(ママ)(荻生徂徠)に相見し文を学ばむとす、徂来驕慢の形ちにて先づ小右衛門(服部南郭)に談し候へといふて打合はず…」とある。

 
長沢淳平粋庵・長沢不怨斎は宇都宮藩戸田家の藩儒。
 享保19年(1734)江戸日本橋本石町に幕府が開いた人参座において和人参を製した町医者太田玄浩(岩永玄浩)と同姓同名だが、同一人物かどうかは不明。岩永玄浩は本草学者の松岡恕庵(松岡定庵の父)に学び町医者となる。享保頃の人。生没年未詳。

おおつかかんらん
大塚観瀾

宝暦11年(1761)~文政8年(1825)
静・静氏 子倹 観瀾・梅楼・拙斎・考槃窩 太一郎 儒学者・高鍋藩儒・藩校明倫堂教授・総奉行・侍講 日向高鍋  寛政4年(1792)閏2月11日の「筑紫日記」によれば、「椎木村酒店久右衛門所に休ふ時に六つ過ぎ也、酒客と語りて大塚多一郎(大塚観瀾)事に及び遂にわらじをぬぎて宿するにはなりぬ」とあり、翌閏2月12日には、「上江ウハエ郷小薄ヲンヅキ村金丸市兵衛所に入りて大塚多一郎(大塚観瀾)へ書を寄す江戸勤め也」とある。
 高鍋を再訪した7月3日の「筑紫日記」によれば、「大塚太一郎(大塚観瀾)より書を寄せて昼時に来るとありける故帰へりて待ちぬ、大塚太一郎上下にて来る酒肴を寄す、(略)、大塚氏(大塚観瀾)に唐扇子一箱に芝山持豊卿高詠短冊を寄す」とある。
 翌7月4日には、
「大塚太一郎静(大塚観瀾)僕を馳せて書を寄す約の如く座論梅を尋ね辰平(宿所高美屋庄六の子)も従へり、(略)、座論梅を見る始め元木は失せて枝葉はびこりて地につき十余に分る、叢の中に有り凡そ十間四方の内十余株になりぬ、砂土原領城主(薩摩藩支藩の佐土原藩・当時の藩主は島津久柄)も見らるるよし」とあり、「寉山大塚静(大塚観瀾)」が作った漢詩と彦九郎が詠んだ和歌言書座論梅を尋ねて くさむらをここやかしこと文月に梅の匂ひを尋来にけり」を記している。

 
大塚観瀾は大塚精斎(久米訂斎・宇井黙斎の門人)の子。京都で宇井黙斎、のち大坂で御牧直斎山口剛斎に学ぶ。また、幸田誠之・渋井太室服部栗斎の門人となる。江戸藩邸で世子侍講となり、岡田寒泉・尾藤二洲・頼春水柴野栗山と交遊
 寛政5年(1793)に高鍋藩校明倫堂教授、文化6年(1809)には総奉行・侍講となる。

  おおつかそうご 
大塚蒼梧
おおつかよしき
(大塚嘉樹)

享保16年(1731)~享和3年(1803)
嘉樹 子敏・敏卿 蒼梧・茅園・老邁・駿岳 市郎右衛門 有職故実家 江戸  天明元年(1781)閏5月3日の「江戸旅中日記」によれば、「浜丁永井求馬大江尚敬(永井尚敬)会合の処に至る、会読長門本の平家物語也、出席野口辰之助藤直方(野口直方)榊原源太郎源長俊(榊原香山)坂昌文源貞古(阪昌文か)大塚市郎右衛門橘嘉樹(大塚蒼梧)森家(赤穂藩・森忠賛・2万石)の臣布引拙斎源高敬(布引拙斎)加藤遠江守殿(大洲藩・加藤泰候・6万石)家士石田仲右エ門殿(ママ)賢道松平右近将監殿(館林藩・松平武寛・5万4000石・奏者番)家臣荒井休斎太神克昌松平周防守殿(石見浜田藩・松平康福・5万5400石・老中)家士伊ノ下新右衛門源新津軽越中守殿(弘前藩・津軽信寧・4万6000石)家士比良野助三郎源貞彦(比良野貞彦)上田孫右衛門源勝賢酒井左衛門尉殿(鶴岡藩・酒井忠徳・14万石)家士人見意順源貞公、主を始め予が至るを悦びける」とある。
 翌、閏5月4日には、「朝食の後嚶鳴館を出てかや場丁大塚
市郎右衛門(大塚蒼梧)所へ至る昨日至るべきと約せしによって也、大塚氏鎧直垂を出して見す、無位無官の礼服を問ひけるに素襖なり、併今の素襖は領を合す仕立なれば古例にあらず闕腋とも位襖共称すば胸をおほふを以て例とすと語る、 天子常に召せ玉ふ御直衣ヲノフシといふもの也、礼服に召させ玉ふば黄櫨染カフロセンと申物也といひり、予すそころもの事を問へば、直綴シキトツといひて僧衣なるべし、今の僧のきる衣は即じきとつ也と大塚氏いへり」とある。
 天明3年(1783)1月18日の「天明京都日記」によれば、「二位殿(伏原宣條)大塚氏(大塚蒼梧)の書を開らかれて野口辰之助(野口直方)門入せむと欲す知れりやとありける、相識ぬ入門を許し給へといひし」とあり、2月1日には「二位殿(伏原宣條)また申されけるは、先きに語りし大塚市郎右衛門(大塚蒼梧)方より申し越せし野口辰之介(野口直方)此方への入門の願ひ其元のいひる故ともなしに只入門を許容せるよし文を認めて関東へ下だすとありける、忝(かたじけ)なきよし答へ申す、近々浪華へ下るべし論語の板の義承はるべしていひば二位殿(伏原宣條)よろこばれける」とある。

 
大塚蒼梧は京都で滋野井公麗から故実を学び、江戸で武家故実家伊勢貞丈と交流。黒沢雉岡服部栗斎に師事。
 
  おおつかたかやす
大塚孝綽

享保4年(1719)~寛政4年(1792)       
初め良能・孝綽 子裕 頤亭・容与園 大助 儒学者(朱子学)・田安家大番・侍読・幕臣・田安家番頭         安永4年(1775)柴野栗山が京都から郷里へ帰る(乙未の春旅)彦九郎に贈った「送高山生序」によれば、栗山は江戸において会うべき人物として、「保仲通(久保盅斎、冢大佐(大塚孝綽)、平明徳(平城治平)、沢右仲(黒沢雉岡)、岡伯和(岡井赤城)」の5人の名を挙げている。
 天明2年(1782)3月16日の「天明江戸日記」によれば、久保仲通(久保盅斎)から、大塚大佐(大塚孝綽)が語った話として、遠州秋葉山の麓にある船明フナキラ村に住む林五右衛門が、九里山中に入った山里に、古に京都から移り住んだという人々を訪ねた話を聞いている。
 
 大塚孝綽は尾張藩士大塚嘉保の5男。田安家家臣となり、松平定信の師となる。柴野栗山後藤芝山と交遊。黒沢雉岡を田安家に推挙。松平定信老中就任時、寛政の改革に関わる。

 なお、高山彦九郎と会っているかどうかは、彦九郎の日記では確認できていない。

  おおつきげんたく
大槻玄沢

宝暦7年(1757)~文政10年(1827)       
茂質 子煥 磐水・芝蘭堂・半酔半醒 玄沢 仙台藩医(江戸定詰)・蘭学者・幕府天文方蛮書和解御用         江戸  寛政2年(1790)5月2日の「寛政江戸日記」によれば、前野良沢宅で会っている。
 6月3日には大槻玄沢を訪ね、弟大槻良達に会い、
工藤平助宅で朝食を取っている。

 大槻玄沢は仙台藩支藩の一関藩藩医大槻玄梁の長子。建部静庵の門人。安永7年(1778)江戸に出て、
杉田玄白前野良沢に蘭学を学び、その号を一文字ずつもらう。
 天明5年(1785)長崎に遊学し本木良永・吉雄耕牛に学び、翌年、本藩である仙台藩の藩医となる。蘭学塾の芝蘭堂を設け、橋本宗吉・稲村三伯・宇田川玄真・山村才助らの門人を育てた

  おおはらさきんご
大原左金吾
(おおはらどんきょう)
大原呑響

宝暦11年(1761)?~文化7年(1810)
熊谷 雲卿 呑響・墨斎 観次(貫治・寛治)左金吾 画家・書家・経世家・松前藩主侍講 京都  寛政3年(1791)2月13日の「寛政京都日記」によれば、「志水南涯に逢ふ、大原欽治(大原左金吾か)なるに相識となる、松前の弟蛎崎矢二郎(蠣崎広年(波響)寓居へ参る、行かせ玉はずやと進む、諾し侍る、大原氏に別れ(略)、遂に木屋町三条上ル升屋座敷蛎崎矢次郎寓居へ尋ぬ、大原欽治論語講釈の所也」とある。
 翌2月14日には、「大原欽治所へ至らんとする途中に南涯に逢ふに欽治いまだ帰へらず、其養父嘯山(三宅嘯山
に逢ふて語る。中興鑑言を借しける。嘯山は三宅緝明の族也」とある。
 3月19日には、蠣崎広年(波響)宅で、大原寛治(大原左金吾)に会い、寛治は彦九郎のことを「木鐸先生」と呼んだと記している。この日の日記には「大原寛次」との記載もある。

 大原左金吾は藤塚式部(知明)井上金峨・伊賀風山の門人。蠣崎波響
の師。仁和寺宮・大典・六如・菅茶山・村瀬栲亭・皆川淇園蒲生君平頼山陽らと交友。嘯山(三宅嘯山の養子。

  おおむらひこたろう
大村彦太郎
  商全     彦太郎 商人・6代目白木屋主人 京都  「天明京都日記」に39日、「再京日記」に22日、「寛政京都日記」に63日、「筑紫日記」に1日現れる。また、彦九郎の日記には、養子・嫡子・妻などのほか白木屋の番頭が9名、使用人が10名現れる。

 
京都における彦九郎の支援者の一人。彦九郎の寄寓先で、大村邸を訪ねる多くの文人・学者等と交流した。主な人物は次のとおり。
 池坊専弘太田包昭革嶋文蔚滋野井公麗中井蕉園中井竹山梨木祐為村山維益安永検校横谷葛南脇坂内記
 彦九郎は
商全のことを「永全」と記している。
 
  おかざきこくてい
岡崎鵠亭


明和3(1766)~天保3(1832)
元軌 伯則 鵠亭・槲亭・鵠汀・霞亭 彦太郎・彦五郎 儒学者・漢詩人 京都  天明3年(1783)11月6日の「再京日記」によれば、「玄圃子(大江玄圃)へ至りて語る、(略)、圃子の弟富岡伝兵衛資□及び岡崎彦太(岡崎鵠亭)名は元軌字は伯則橋本重三郎に相識となる」とある。

 岡崎鵠亭は岡崎廬門の子。

  おかだかんせん
岡田寒泉

元文5年(1740)~文化13年(1816)
  初め善里のち恕 初め中卿のち子強 泰斎・寒泉・招月楼・冷水 清助・又次郎・式部 儒学者・幕府代官・昌平黌講師 江戸  天明7年(1787)6月29日の「墓前日記」によれば、「寒泉岡田清助(岡田寒泉)黒大豆を食として麻の実を煎じ湯として飲み、是れを以って飢餓をしのぎ、数十日飯食を用ひずして足れるの術を撰び、公儀へ申し板行して世に広めんとせるよし、(略)、寒泉兼て此の物語有りつる、果たして試みたる事覚ゆと云いし」とある。
 寛政元年(1789)10月3日の「寛政江戸日記」によれば、「瀬名源五郎(瀬名貞雄)は諸家の系図江戸中の事に通じたるによりて奥右筆組頭同格にて御土圭の間御次に於て老中壱人若老中壱人にて申渡さる、柴野彦助(柴野栗山)へは躑躅の間に於て申し渡さる、先月十日岡田清助(岡田寒泉)には奥御祐筆部屋に於て老中列座若御老中待座にて牧野備後守殿申し渡さるとぞ頼千秋(春水)が語りし」とある。
 寛政元年(1789)10月13日の「寛政江戸日記」によれば、彦九郎は筑戸下(牛込新小川町)の岡田寒泉宅を見舞っている。
 11月15日には、「林家に入て根本生と語る、当十一日林大学頭(林信敬)柴野彦助(柴野栗山)岡田清助(岡田寒泉)三人を白河侯(松平定信)の召され、何成共御為に成る事は申上べし、儒者は祝の詩作りて奉る斗が奉公にはあらず口を閉ぢて居りては済まぬ事、此方に限らず何れ老中共へ遠慮なく何成共申出ずべし此事老中へ知らせ置きぬとありけるにより三人共に得と工夫仕り申上ぐべしとて立ちしとぞ」とある。


 
岡田寒泉は村士淡斎・村士玉水井上金峨の門人。寛政元年(1789)柴野栗山とともに聖堂取締りを命ぜられる。のち常陸5万石の代官となる。寛政の三博士のひとり。

  おかはっく
岡白駒
(岡田白駒・岡龍洲)

元禄5年(1692)~明和4年(1767)
河野・岡田 白駒 千里 龍洲 太仲 儒学者・肥前蓮池藩儒 京都  天明2年(1782)11月20日の「天明京都日記」によれば、「真如堂前なる迎称寺(迎称院)へ入りて龍先生(岡白駒)へ墓参す、寺へ入て白銀一つをおさめ侍る」とある。
 
12月11日には岡白駒の子の井沢彦謙君光を播磨国高砂に訪ね、12日にはのことについて聞かれ語り合っている。
 天明3年(1783)11月8日の「再京日記」によれば、「予は谷氏の麻上下を着して真如堂前迎称寺(迎称院)中へ入りて龍先生(岡白駒)の墓へ拝す、今年十七年に当る」とある。

 寛政3年(1791)1月26日の「寛政京都日記」によれば、高橋図南の墓に詣でた後、「(真如堂法輪院の)門を出て迎照寺(迎称院)中に入り龍洲岡(岡白駒)先生の墓を拝す、寺へ白銀を寄す」とある。

 岡白駒は播磨国網干出身。初め、摂津西宮で医者をしていたが、のち京都で儒学を修める。
河野恕斎・井沢君光の父。妻は宗寿。那波魯堂・西山拙斎藪孤山皆川淇園の師。
 
彦九郎の京都における最初の師。
 真如堂は京都市左京区浄土寺真如町にある天台宗鈴聲山真正極楽寺の通称。迎称院・法輪院はそれぞれその塔頭。

  おかむらかつさと
岡村勝睿
(三浦甚兵衛・三浦秀緝・三浦頴明)
        八十八 津山藩江戸留守居 播磨高砂・播磨野尻・京都・江戸  天明2年(1782)12月12日の「天明京都日記」によれば、「(河野恕斎弟の高砂町井沢君光宅に)夜に及むで三浦甚兵衛秀緝ヒデアキラ字頴明(岡村勝睿)吉栖ヨシズ済民来れり酒出て語る」とあり、これ以降17日まで毎日会っている。
 12月13日には、「明日黙翁(玉田黙翁)を尋るに頴明(岡村勝睿)案内すべきの定め也、頴明は迂斎(稲葉迂斎)の孫平左衛門(三浦平左衛門)の子也、迂斎妻は黙翁異母の妹也といふ」とあり、翌日、三浦平左衛門宅に立ち寄った後、一緒に野尻村(加古川市志方町野尻)の玉田黙翁宅を訪ね、2泊している。
 天明3年(1783)3月9日には、「六日には三浦甚兵衛(岡村勝睿)井沢喜左衛門より書を持ちて予が留守中に両度迄尋ねたれば返礼として寄宿山田精次郎(山田清斎)の宅へ尋ぬ花見に出でたれ逢はず、山田氏と語りて祖考の事に及びける」とあり、翌10日には「(彦九郎僑居に)朝三浦秀緝(岡村勝睿)謝として来る」とあり、のちやって来た「安植(脇坂内記)」とともに、三人で伏見桃山に花見に出かけている。
 天明3年(1783)4月6日の「京日記」によれば、三浦秀緝(岡村勝睿)は彦九郎に餞別として和歌二首贈っている
 寛政元年(1789)10月10日の「寛政江戸日記」によれば、「(寄留先の前野良沢宅に戻ったところ)昨日越後守殿留守居岡村八十八見舞いぬといふ三浦甚兵衛(岡村勝睿)が事也」とある。
 この後、寛政元年(1789)・2年(1790)の「寛政江戸日記」によれば、鍛冶橋の内、越後侯津山藩上邸に岡村八十八(岡村勝睿)を7回訪ねている。また岡村八十八は前野良沢宅を上記を含め3回訪ねている。
 寛政元年(1789)10月30日には、「鍛冶橋の内松平越後侯の留守居岡村八十八所(へ)入る酒出でて夜に及ぶまで語る」とあり、岡村が天橋立で雪の日に野宿した際詠んだ歌を記し、岡山侯(池田治政)が大力であることや岡山侯と白川侯(松平定信)との関係などを聞いている。この晩、彦九郎は林家中島常足宅に泊まり、岡村氏が林家に入門したいと言うことを伝えている。翌11月1日には「岡村が林家入門の事を役人迄通じて其事成るのよし」とある。

 美作津山藩5万石(当時)越前松平家第5代、松平越後守康哉の江戸上屋敷は現在の千代田区丸の内二丁目、東京駅付近にあった。

おぎゅうそらい
荻生徂徠

寛文6年(1666) ~享保13年(1728)
物部 雙松 茂卿 徂徠 惣左衛門・物茂卿 儒学者(古文辞学)  安永9年(1780)6月13日の「冨士山紀行」によれば、甲州桂川にかかる猿橋に至り、幡野久兵衛所から成島道筑撰の猿橋碑の碑文の写を記録したのち、「物茂卿(荻生徂徠)の書」を見せてもらい、「物茂卿甲州に行きし時に爰に宿る」とある。
 天明元年(1781)5月2日の「江戸旅中日記」によれば、水戸家屋敷内の長久保赤水を訪ね、「板行せし赤水著作の日本図」を見ている。その夜は赤水宅に宿り、赤水がその詩稿の中で豊臣秀吉のことを「豊王」と記していることについて、彦九郎は「春秋」「左氏が伝」、赤水は「徂徠(荻生徂徠)春台(太宰春台)」「白石(新井白石)」の名を出して議論している。
 閏5月7日には、「新橋に及んで平明徳(平城治平)と暫く語る、平明曰、徂徠(荻生徂徠)春台(太宰春台)等は学才はいかにもある人なれど心は凡下也たとへば犬猫に虎の皮を蒙らせたるが如しと存すといふ」とある。
 
天明2年(1782)3月20日の「天明江戸日記」によれば、「今日太田氏(太田玄浩)が語りけるに、鳴島道筑(成島道筑)南郭(服部南郭)に因て徂来(ママ)(荻生徂徠)に相見し文を学ばむとす、徂来驕慢の形ちにて先づ小右衛門(服部南郭)に談し候へといふて打合はず…」とある。
 寛政2年6月22日の「北行日記」によれば、「給田村(千葉県長生郡長南町)金坂外記所に於て中食す、外記頗手跡を好めり物茂卿(荻生徂徠)には母方の縁遠く続き子廸(宇佐美恵助か)は別して近しと語る」とあり、「此(茗荷沢村)南に佐坪村(同長生郡長南町)とて有り始め物茂卿(荻生徂徠)父流落して居り落ち後に本能に卜居すといへり」とある。
 6月23日には、「腰当村渋谷村を経て本納町(千葉県茂原市本納)に入る(略)、名主久兵衛所に至り語る、荻生村乾壱里にあり茂卿(荻生徂徠)爰を称す
(と脱か)いふ説も有とぞ、松か枝村(山武市松ヶ谷)五里艮にあり爰に茂卿(荻生徂徠)の父の墓有りとぞ、茂卿(荻生徂徠)兄をば荻生春竹とて爰に残りて医業をなす、娘有りて僕其の夫となり其れに子有り春竹と号し近頃迄有りしが今は断絶すといふ」とある。

 
荻生徂徠は館林藩主(のち幕府将軍)徳川綱吉の侍医荻生景明(方庵)の子。弟は徳川吉宗の侍医荻生北渓。
 朱子学を批判し、同様に朱子学を廃した伊藤仁斎の古義学(堀川学)と対抗する古文辞学(蘐園学派)を確立した。
 幼くして学問にすぐれ林春斎林鳳岡に学んだが、父の蟄居に伴い、上総国本納村(千葉県茂原市本納)、のち下横地村(山武市下横地・祖母の墓が同地にある)他に移った。上総各地で11年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくった。芝増上寺前に私塾を開いた後、柳沢吉保に仕官し、吉保の失脚後は私塾蘐園塾を開いた。享保7年(1722)以後は徳川吉宗の信任を得て、その諮問にあずかった。
 門人に太宰春台服部南郭・安藤東野・山縣周南・安藤東野・平野金華・根本武夷・山井崑崙・宇佐美恵助らがいる


 おき さちなり
億岐幸生

~文化10年(1813)
隠岐国造家40代当主・隠岐玉若酢神社祠官 京都  寛政3年(1791)2月12日の「寛政京都日記」によれば、「夜に及んで吉田出在家に逗留せる隠岐国造(億岐幸生)を尋ぬ酒出で語る」とある。
 3月24日には、「三条小橋にて隠岐国造隠岐臣幸生尋ぬ萩原殿(萩原員幹)の弟萩原由次(治)殿来り居らる、予乞ふて駅鈴を謹み見る」とある。
 3月27日には、「西山拙斎語るに、隠岐国造へ成田龍亭尋ねて唐紙取て 時有明天子 霊器彰中州 と書ひて東国へ下りしよし」とある。

 
駅鈴とは奈良時代に各国にあった「駅」に置かれ、役人が旅する際に身分証として使用された「鈴」のこと。彦九郎が拝観した隠岐国造家の駅鈴(2点)は現在、全国で唯一残っているもので、古代交通の貴重な史料として国重要文化財に指定されている。
 億岐幸生は西依成斎の門人。

おぎのげんがい
荻野元凱
おぎのたいしゅう
(荻野台州)

元文2年(1737)~文化3年(1806)
子元 台州・鳩峰
左仲・左中・左衛門大尉 医家・宮廷医官・左衛門大尉・典薬大允・幕府医官(医学館教授)・尚薬・従五位下・河内守 京都  天明3年(1783)11月2日の「再京日記」によれば、「今日新町三条下ル所にて荻野左衛門大尉(荻野元凱)を尋ぬる事あり」とあり、11月14日にも会っている。
 寛政3年(1791)1月8日の「寛政京都日記」によれば、「荻野左衛門大尉へ入る、村田生取次ぐ、内裏嶋白砂寄す」とある。
 1月22日には「岩倉家(岩倉具選)の頼みを受けて新町三条下ル所荻野左衛門大尉所へ至る、綾小路前大納言(綾小路有美)病気胗脉の事を乞う諾しける」とある。
 7月11日には、「荻野左衛門大尉に於て上州の人田辺道逸名淳字は真卿に相識となる素より予が名を知る」とある。
 寛政4年(1792)6月10日の「筑紫日記」によれば、「(飫肥)宿りに帰へれば門川杏林名祐乾来る荻野左衛門大尉門人にて京都にて相識也」とある。

 
荻野元凱は加賀金沢出身。越前の奥村良筑(良竹)の門人。宮廷医官から、寛政9年(1797)に幕府医官となるが、間もなく辞し、再び宮廷医官となる。

おぎの ばいう
荻野梅塢

天明元年(1781)~天保14年(1843)
長・菫長 元亮 梅塢・楳塢・蛇山病夫 八百吉 幕臣・天守番  寛政元年(1789)11月12日の「寛政江戸日記」によれば、「夜に入りて前野(前野良沢)へ帰へる、荻野八百吉(荻野梅塢か)今歳九つ摩利支天の申し子也とぞ、(克く)日月辰天文の事を語るに大に蛮書の意に当る事ありて老人(前野良沢)感ずること甚だし、蛮書に火星をまるす(マルス)といひて軍神と号す、まるす即印度にて称する摩利支天也あれば奇といふべし」とある。

 
荻野梅塢は天台宗に精通し、少年時、天台小僧と称された。

おくいしゅんこう
奥井春耕

子柔 春耕 佐伯藩医 京都  天明3年(1783)2月1日の「天明京都日記」によれば、「豊後佐伯侯毛利和泉守殿(毛利高標・のち伊勢守)の医臣奥井春耕名は寛なる人相識ならむ事を欲して来たりしとぞ」とある。
 2月10日には、「奥井春耕名は寛字は子柔豊後佐伯の城主毛利和泉守殿の医臣素より承はり及びぬとて予が僑居へ尋ね奉る、佐伯侯学を好みて書蔵を建てられしよし近年に講堂も建らるべしと語る博物を好まるるのよし、忠孝の人賞賜の事もあらば其のあらまししるされたるもの予が為めに寄せられよといひける、春耕諾す、盃を出だしける」とある。

 
3月24日には、「未の刻に及むで僑居に帰へる、(略)、奥井春耕南岐(塚本南岐)と語り居る」とある。

 豊後佐伯藩は2万石。8代藩主の毛利高標(もうりたかすえ)は学問を奨励し、藩学四教堂(しこうどう)、8万巻の蔵書のあった佐伯文庫を開設した。

  おくむらあんしょ
奥村安所
(小川惣左衛門・鈴木安所)
        竜助・竜介 旗本中島三左衛門家臣のち備後福山藩主阿部伊勢守家臣 江戸  安永9年(1780)11月14日から天明2年(1782)3月24日の間に、安所宅に30泊しており(「江戸旅中日記天明江戸日記」)、彦九郎の日記に現れる、江戸での彦九郎の寄留先としては、中津藩中屋敷内前野良沢の69泊、旗本高林家内大叔父石井相馬宅40泊に次ぐ。
 最初、表四番町(千代田区九段北三丁目・靖国神社境内付近)の
旗本中島三左衛門(中島行敬・伊予守・800石)の家臣。天明7年(1787)6月5・6・23日の「墓前日記」によれば、「中島老主人(三左衛門の父行道)の金子のことにより」主家を出奔、小川惣左衛門と変名し浪人となり、借金を申し出る手紙が彦九郎・長叔(剣持長蔵)要叔(蓮沼要右衛門)家兄(高山専蔵)に届いている。
 寛政元年(1789)10月5日の「
寛政江戸日記」によれば、「猿楽町の阿部侯の上邸鈴木安所所へ寄る」とあり、鈴木安所と名乗り、備後福山藩主阿部伊勢守(阿部正倫・寺社奉行・老中・10万石)の家臣となっていることが確認される。これ以降安所宅へたびたび出入りし、寛政2年(1790)6月7日、蝦夷を目指す北行の出立の日にも立ち寄っている。

 江戸の友人。彦九郎の親族とも交流がある。

  おくもとひら
奥元平
(大和守元平)

延享元年(1744)~文政9年(1826)

元平     孝左衛門・幸左衛門・次郎兵衛 薩摩藩刀工・大和守 薩摩  天明5年(1785)7月13日の「北上旅中日記」によれば、藪塚村で休憩中、金山城時代から鍛冶を生業としているという新田郡強戸村の荒井嘉兵衛に、「薩摩の元平(奥元平)羽州の正秀(水心子正秀)天下二人の鍛工なり。正秀とは交わり厚し、予正秀へいわば門人易かるべし」と話している。
 寛政4年(1792)5月10日の「筑紫日記」によれば、「西田橋を渡り西田常磐なる大和守元平(奥元平)所へ入る奥幸左衛門と称す、弟をば正左衛門元武次右衛門元安といふ、元平四十九歳予が尋ぬる事を説
(ママ)ぶ、予正秀(水心子正秀)に語りしが如くに語るに感涙して諾す、(略)、洲崎鉄砲の賭を見にとて元平と行く」とある。
 5月13日には、「元平(奥元平)所へ至る、西洞院三位信庸卿(西洞院信庸)の詠短冊を寄す」とある。
 5月22日には、「元平(奥元平)所へ入る、兄弟三人共に別盃を酌む(ここ三行半大きく濃厚に抹消す)語る元武予に小刀を寄す」とある。


 
奥元平は奥元直の子。伊地知正幸(伯耆守正幸)とともに、この時期(新々刀)薩摩を代表する刀工。橘南谿と交流。

  おざわ ろあん
小沢蘆庵

享保8年(1723)~享和元年(1801)
玄仲・玄中 蘆庵・観荷堂・図南亭・孤鴎 七郎・帯刀・大学

歌人 (京都)  寛政3年(1791)3月12日の「寛政京都日記」によれば、岩倉家(岩倉具選)に従って嵐山に遊ぶ途中、太秦の小沢蘆庵宅に立ち寄るが蘆庵の体調が優れず会えなかった。

 小沢蘆庵は
澄月伴蒿蹊慈延とともに冷泉門下の平安和歌四天王と称された。上田秋成・蒿蹊と交流。
 彦九郎没後、蒲生君平が小沢蘆庵宅に寄寓している。


  お の らんざん
小野蘭山


享保14年(1729)~文化7年(1810)
佐伯 職博 以文  蘭山・朽匏子・衆芳軒 喜内 本草学者・幕府医学館教授 京都  天明3年(1783)11月2日の「再京日記」によれば、「河原町夷川上ル所にて亀屋が裏にて小野希慱(職博)蘭山を尋ぬ」とあり、「むべかずら」「野木爪(瓜)(ときわあけび・まるあけび)」「うるひ(おおばぎぼうし)」のことを聞いている。
 寛政2年(1790)12月20日の「寛政京都日記」によれば、「間ノ町丸太町下ル所小野蘭山を尋ぬ、奥州(江刺郡黒石村)正法寺黒蝋石を寄す、(略)、蘭山と久く語りて」とある。
 3月2日には、「蘭山小野氏へ玉芙蓉を見する事あり」とある。

 
小野蘭山は松岡恕庵(松岡定庵の父)に本草学を学ぶ。寛政11年(1799)71歳のとき京都から江戸に移り、幕府の医学館で本草学を講じた。門人は木村蒹葭堂・飯沼慾斎・杉田玄白・谷文晁ら1000人余に及び、江戸時代最大の本草学者といわれる。

かがみ みつあき
加賀美光章

正徳元年(1711)~天明2年(1782)
  光章   桜塢・河上 小膳・台前・信濃守

神官・国学者・環松亭

 安永6年(1777)4月6日の「丁酉春旅」によれば、「甲府を出でてにら崎の方へ行く、道龍王新田といふ所あり、是れ山縣山縣大弐)が兄の居りし所といふ、(略)、弟(山縣大弐)は江戸に出て学ぶ。甲州に居りし時は加賀見氏(加賀美光章)に就きて学ぶ、後にも交りありし故に明和中捕られて詮議に預りける、(略)、信濃(加賀美光章)は恙なし、甲州一の学者のよし風聞あり、儒歌道文章共になるといふ」とある。

  かがわかげもと
香川景柄

延享2年(1745)~文政4年(1821)
松田 景柄   梅月堂四世・黄中・香中・諍部 新蔵・俊蔵・府生

歌人徳大寺家地下官人・従六位・陸奥介 京都  寛政3年(1791)3月24日の「寛政京都日記」によれば、「西洞院入道(西洞院信庸)殿へ入る梅月堂(香川景柄)来る、(略)、入道殿に真卿(ママ)が事を語る梅月堂が取次にて見へしよし語らる」とある。
 6月27日・7月12・7月18日にも梅月堂に立ち寄っている。

 
香川景柄は香川景平の養嗣子、景樹・景欽・景嗣の養父。

  かがわ げんご
賀川玄吾

(賀川有斎)

享保18年(1733)~寛政5年(1793)
三浦 満卿 徳夫 有斎 玄吾 産科医 京都  天明2年(1782)11月18日の「天明京都日記」によれば、「くたびれて歩し難かりければ香川玄吾(賀川玄吾)なるもの堀川に於て竹を取て与へ予が杖として歩せしめける、先づ休ませ玉へとて己れが宅へいざなふて入る」とあり、香川が今日、彦九郎を見かけたことを語り、「彼れが父は玄説(賀川玄悦)とて産論を克くして皆川皆川淇園)が文にて□(子)玄子産論なる書を出だすといへり、木曽(三留野宿)にて養伯(佐々木養伯)が咄にて産論のことを聞ける也、吾火燵に入れて休ませける」とある。
 寛政2年(1790)12月14日の「寛政京都日記」によれば、「香川源吾
賀川玄吾)に逢ふ、昔年江州関の津といへる所より駕籠にて迎ふ、途中にて僕を木に搦(から)め彼の駕籠の者の共源吾をはぎ取らんとしけるに、手鑓を以てつき二盗に創付げ(ママ)たりければ逃げ去りぬとぞ、香川氏は武術を好める人也、久しく語りて去る、一醫人と醫論の後取りひしぎたる事も有りけるとぞ」とある。
 寛政3年(1791)4月3日の「寛政京都日記」によれば、香川源吾
賀川玄吾)が20年ほど前に「鳥羽の淵」で緑毛亀を見つけた話を記している。

 賀川玄吾皆川淇園の協力により産科医学書「子玄子産論」を著した賀川玄悦(子玄)の長子であるが、家を出て開業。家業は娘婿賀川玄迪(子啓)が次いだ。産科医賀川蘭斎の父

  かきざきはきょう
蠣崎波響

宝暦14年(1764)~文政9年(1826)
源・松前 広年 世詁・世祜・維年 波響・杏雨・東岱・梅春舎・梅痩舎 矢次郎・金介・金助・将監 12代松前藩主松前資広の5男・画家・陸奥梁川藩(松前家)家老・松前藩家老 京都  寛政3年(1791)2月13日の「寛政京都日記」によれば、「木屋町三条上ル升屋座敷蛎崎矢次郎(蠣崎波響)寓宿へ尋ぬ、大原欽治(大原呑響)論語講釈の所也、ヲットセイ吸物酒及び菓子出でて語る」とあり、蝦夷十二人の画(「夷酋列像」)を見せてもらい、大原呑響と蠣崎波響から画をもらっている。また、「松前渡海の事を乞ふに成り難きよしに答へける」とあり、前年9月津軽宇鉄で断念した蝦夷地への渡海を懇願したが、断られている。
 2月24日には、「(小田医三とともに)蛎崎(蠣崎波響)寓居へ入る、蝦夷十二人の像を見せ蝦夷物語にて暮れける」とある。
 3月14日には、「田中左大夫布舟(田中布舟松岡山季坊青蘿(松岡青羅)へ酒壱升を寄す、蝦夷絵見まかほしかりける故三人を伴いて蛎崎広年(蠣崎波響)へ告げ生簀(いけす)へ入りて食し酌みつ酔ひ(に)及びて広年所へ入りて蝦夷絵を見す」とある。
 3月19日には、「蛎崎広年へ入る、明日伏原家(へ入)約束して立つ」とあり、3月20日には、「朝白鳥小膳を以て広年(蠣崎波響)使いとして病と称し伏原家(伏原宣條)謁見延引を乞ふ、予伏原家へ其と告ぐ」とある。
 3月21日には彦九郎は西山拙斎に誘われ、大川良平(赤松滄洲)若槻源三郎(幾斎)中山元倫・小田孝作・大愚(慈延)と伴に、山崎闇斎宅跡・妙心寺を経て、御室に桜を見に行き、帰りに蠣崎波響らが加わり茶屋で酒を酌み交わしている。
 3月23日には、「蛎崎氏よりアベセを返弁す」とあり、彦九郎が蠣崎波響にオランダ語文法書を貸していたことがわかる。
 4月2日と4月11日には蠣崎波響を見舞っている。
 5月3日には、「蛎崎が約を変ぜし事に及びけるに、(略)、遂に蛎崎氏へ入る、主用と号して出でず」とある。
 5月29日には、「岩倉家へ帰へりて人を具し広年所(蠣崎波響)へ至り蝦夷絵十二枚を借り岩倉家(岩倉具選)伏原家(伏原宣條)平松家(平松時章)へ見せ参らす」とある。
 6月14日・7月6日にも蠣崎波響を訪ねているが他出(を称し)会えなかった。
 これ以降、彦九郎は蠣崎波響を訪ねていないが、伏原宣條へ蠣崎波響を紹介しようとする彦九郎の意図に対し、蠣崎が警戒している様子が読み取れる。

 
なお、函館市中央図書館所蔵の寛政3年(1791)7月12日付け「蠣崎矢次郎(波響)宛て佐々木長秀(佐々木備後守)書状」によれば、佐々木備後守が波響から預かった「夷酋列像」を7月11日、宮中に持参し、叡覧に供しているが、高山彦九郎の日記には何ら記載がないことから、両者の連絡が途絶えていたことが想定される。

 蠣崎波響は松前で
大原呑響(左金吾)に師事。京都では円山応挙に学ぶ。皆川文蔵(淇園)菅茶山・村瀬栲亭と交友。

  かげやま げき
蔭山外記


享保7年(1722)~天明7年(1787)
  廣迢     亀之丞・小八郎・外記

小名浜代官・西の丸裏門番頭

 寛政元年(1789)12月14日の「寛政江戸日記」によれば、前野良沢宅で相識となった前野悦右衛門(「上方御郡代石原清右衛門殿内」)から、最初に仕えた女ノ浜(小名浜)代官蔭山外記が15年ほど前、救荒策として拠出させた1000両を運用した話を聞いている。

 蔭山外記が天明の大飢饉の際に行った救済策によって救われたことを感謝して、天明6年(1786)その功績をたたえ建立された碑が福島県いわき市に残る。

かざはやさねあき(なる)
風早実秋


宝暦9年(1759) ~文化13年(1816)
藤原
実秋 公家・従三位・右権中将・正三位・参議・従二位・権中納言・正二位 京都  寛政3年(1791)3月8日の「寛政京都日記」によれば、「風早三位藤原実秋ナル卿(風早実秋)と外山修理権大夫光実卿(外山光実)に見へける」とある。
 4月26日には、「風早殿(風早実秋)に入る、緑毛亀の画五枚を進らす、小幡帯刀対す」とある。
 5月8日には、「帰りて芝山殿(芝山持豊)へ入りて源氏帚木(ははきぎ)巻講釈聴聞す、風早殿(風早実秋)八条殿(八条隆礼)甘露寺(甘露寺国長)殿出席也、今日帚木の巻講釈卒業也」とある。
 7月18日には、九州行の餞別として和歌の短冊をもらっている。

 彦九郎は実秋を「実ナル」と記している。

かじゅうじ よしあき
勧修寺良顕

明和2年(1765)~寛政7年(1795)
藤原
良顕 公家・右中弁・蔵人頭・参議兼右大弁・従三位 京都
 寛政3年(1791)3月30日の「寛政京都日記」によれば、「晩に及んで芝山殿(芝山持豊)へ至る、和歌会始め也、歌客二三十人予は公卿の席へ出づ、鷲ノ尾大納言殿(鷲尾隆建)勧修寺当ノ弁(頭弁)殿(勧修寺良顕)甘露寺殿(甘露寺国長)穂波殿(穂波経条)と酌みける、予が始の歌芝山殿直しありて」とある。
 7月3日には「予は芝山殿へ又た入り源氏夕顔巻の講釈を聴聞す、八条殿(八条隆礼)勧修寺弁殿(勧修寺良顕)出席也」とある。
 7月18日には、九州行の餞別として「勧修寺殿(勧修寺良顕)」から和歌の短冊をもらっている。
 寛政4年(1792)3月3日・5月30日の「筑紫日記」によれば、餞別の「勧修寺良顕卿高詠」をそれぞれ、深水宗安、渡辺吉左衛門に贈っている。

 
勧修寺良顕は芝山国豊(芝山持豊の養子)の兄。
 頭弁(とうのべん)とは弁官(主に中弁)から任用された蔵人頭のこと。

  かたぎりさだよし
片桐貞芳

元文5年(1740)~文化2年(1805)

藩主在任
寛延3年(1750)~天明7年(1787)

  初め貞陳・貞芳     宗習 大和小泉藩第6代藩主・従五位下・石見守 江戸  江戸における彦九郎の支援者のひとり。
 天明4年(1784)7月3日の頼春水春水日記」によれば、「高山彦九郎同道、片桐矦(片桐貞芳)え参る、終日唔言」とある。
 寛政元年(1789)10月5日の「寛政江戸日記」によれば、「仙台川岸の裏(江東区佐賀付近か)にて片桐老侯(片桐貞芳)へ入る、辰巳久兵衛松下平馬出づ、先月二十八日借る所の南鐐(二朱判銀)二片を返へす」とあり、12月13日には「次正(簗次正)語るは片桐侯より松下平馬を以って二十両は成り難きの断り有るよし」、12月15日には「甲ヒの渡し(鎧の渡し
)を渡りて新大橋を越へ仙台川岸の後ろなる片桐侯の隠宅へ入る、先づ松下平馬辰巳久兵衛等に恩借金のことをいひ久ふして老侯に逢ふて語る、二十二日参るべしと約して立つ、肥前唐津の産するめ播州三日月の産なる鮎を老侯の寄せられける」、12月22日には「深川に至り片桐侯の隠宅へ入りて証書を替え都合十三両を借る、今日借る所は八両也、壱両をば松下平馬返金す、猶三両を松下等に借らん事を乞ふて会輔堂に寄る」、12月28日には「新大橋を渡り越片桐老侯へ入りぬるに三士共に借さず」とある。
 寛政2年(1790)5月16日・19日・23日には、片桐老侯の末子の病気を見舞っている。6月2日には「片桐侯隠居仙台河岸によりて病を問い遊行(北行)を告げて(略)」とある。


 片桐貞芳は大和小泉藩、1万1000石、第6代藩主。室(前室)は龍野藩第4代藩主脇坂安興の息女(のち離別)。継室は森褧の息女。長男片桐貞彰は第7代藩主。

  かたやま きへえ
片山紀兵衛

  一興     紀兵衛 儒学者・米沢藩校興譲館総監 米沢  寛政2年(1790)7月15日~23日の「北行日記」によれば、片山紀兵衛は彦九郎の米沢滞在中、毎日のように懇談している。18日には興譲館に彦九郎を迎えており、22日には「那須国造の碑」の読み方を彦九郎に教わるように上杉鷹山から命じられたと語っている。

 片山
紀兵衛(一興)は片山観光一積紀兵衛)の子。
 片山観光は
細井平洲の門人で、神保容助(綱忠)とともに藩学興譲館の興隆に尽力。上杉鷹山の子顕孝の師範。寛政元年(1789)没。

  かたやまほっかい
片山北海

享保8年(1723)~寛政2年(1790)          
  猷・徽猷 孝秩 北海 忠蔵 儒学者・漢詩人・混沌社盟主 大坂  天明3年(1783)3月21日の「天明京都日記」によれば、大坂の懐徳堂を出たのち、片山忠蔵(片山北海)を訪ねて、「伏原殿伏原宣條)より伝語ありといへば彼れよろこびて二位殿(伏原宣條)の事を尋ねける昔年伏原家に居りたる人也」とあり、彦九郎は片山北海から扇面の書と富岻山(富士山)の詩をもらっている。

 片山北海は宇野士新(明霞)の門人。北海の門人は3000人といわれ、
木村蒹葭堂師。在坂の漢詩人を結集した「混沌社」には葛子琴河野恕斎篠崎三嶋・細合半斎・頼杏坪頼春水らがいる。三都三北海の一人。越後出身。

  かつしきん
葛子琴
 かつ とあん
(葛蠹庵)
(橋本貞元)

元文4年(1739)~天明4年(1784)
葛城・橋本 小琴 蠹庵・小園・御風楼・宝石斎 貞元 漢詩人・医家・篆刻家 京都  天明3年(1783)1月3日の「天明京都日記」によれば、橋本貞元葛子琴や高芙蓉の家族と共に節分の儀式の行われる禁裏に入ろうとしたところ、法躰の子琴のみ入れなかった。彦九郎が「法躰にはあらず医士也、入る事許るし玉へ」と番士にかけ合うが、「医師也とも剃髪は僧に准んず、元日より七くさ迄は入る事堅く禁せり」と言われ入れなかったことを記している。

 葛子琴は高芙蓉・菅谷甘谷・兄楽効の門人。片山北海混沌社に参加。木村蒹葭堂河野恕斎中井竹山頼春水・岡公翼らと交友。書・篆刻・笙・篳篥を能くした。


  かつらがわほしゅう
桂川甫周

宝暦4年(1754)~文化6年(1809)
  国瑞 月池・公鑑・無碍庵・雷晋/震庵・世民

甫謙・甫安・甫周 蘭方医・地理学者・幕府奥医師・医学館教授

(江戸)

 寛政2年(1790)5月29日の「寛政江戸日記」によれば、(築地の)桂川甫周を訪ねているが留守で会えなかった。

 桂川甫周は
前野良沢杉田玄白に蘭学を学び、「解体新書」の翻訳に参加。

  香取弥淵
(香取深淵)
            江戸  彦九郎の友人。塗師町(千代田区鍛冶町)権三郎店住。
 「寛政江戸日記」に現れる。寛政元年(1789)10~12月には「弥淵」、寛政2年(1790)5・6月には「深淵」と記されるが、改名か錯誤かは不明。
 寛政元年(1789)10月22~28日には、彦九郎から「鎮得霊神(祖母りん)」への代参を頼まれ、上州細谷村を訪ね、「政徳(蓮沼政徳)」・「長叔(剣持正業)」からの書簡や彦九郎の3子からの和歌を前野良沢へ届けている。
 寛政2年(1790)6月7日には、奥州(蝦夷)行に出立する彦九郎を江戸橋近くの木更津河岸まで見送っている。


  かねこてるやす
金子照泰

享保9年(1724)~文政4年(1821)
  照泰     重右衛門 沼田藩(土岐家)御絵図師 江戸・利根郡大原
 安永9年(1780)11月13日の「江戸旅中日記」によれば、江戸へ上る中山道の道中知り合い、桶川宿の「千代間六郎兵衛」の宿で、深更まで語り合っている。翌日も板橋駅まで語りながら同道し、再会を約している。
 11月18日には、奥村安所宅で佐藤尚とともに会っている。
 天明5年(1785)7月14日の「北上旅中日記」によれば、
「大原なる金子重右衛門照泰が辺に着く、予を迎へてよろこべり、昔年予を待て共来らねばとて太田に於て予を尋ぬれ共頃日は他国也と聞きて細谷迄至らずとて止みぬと語る、(略)、予礼服して伏原殿(伏原宣條)の染筆孝子不匱永錫爾類清宣條書とありし一枚を与へけるに、麻上下白木三方にて謹みて受けぬ、終夜物語りす」とある。
 7月15日には照泰
が記録した「一昨年の大変(天明3年7月の浅間山噴火)」の絵図を見せてもらい大略を写し、利根・沼田地方の地誌や歴史について聞いている。

 高山彦九郎が金子照泰に与えた伏原宣條の書は、現在、沼田市の重要文化財に指定されている。

  かばしませきりょう
樺島石梁

宝暦4年(1754)~文政10年(1828)
  公礼 世儀 石梁・万年 勇七・勇吉 儒学者・久留米藩校明善堂教授 江戸  彦九郎とは心友。
 寛政元年(1789)11月18日の「
寛政江戸日記」によれば、「有間(馬)侯(筑後久留米藩・21万石・有馬頼貴)の邸にて樺島勇吉名公礼字世儀(樺島石梁)所へ入る吸物酒出づ」とあり、有馬侯の儒臣弓削周介・古賀春庵・石梁の兄小森田勘四郎等とともに漢詩や和歌を交わしながら語り合っている。彦九郎は4年前に石梁から富士登山に誘われたが国へ帰るので行けなかった、とある。また石梁から有馬侯領分産の筑後国上妻郡鹿子尾茶(福岡県八女郡黒木町笠原産出の茶・同地は八女茶発祥の地)をもらっている。

 樺島石梁は宮原南陸・細井平洲の門人。柴野栗山・古賀精里・菅茶山頼春水らと交友した。

  かまち  きざえもん
蒲池喜左衛門

享保13年(1728)~寛政5年(1793)
正定 崑山 喜左衛門 熊本藩士・奉行・中老 熊本  寛政4年(1792)1月29日の「筑紫日記」によれば、「藪氏(藪孤山)へ入りて語りて出て蒲地(蒲池)喜左衛門所へ入る、吸物酒にて語る、次男伝吉三男覚三郎及び妻も出でて饗す、語りて夜に及べり」とある。
 2月5日には「蒲地(蒲池)喜左衛門より詩を寄す」とある。
 2月10日には「蒲池覚三郎と共に出で其父へ歌を寄す、先に予が方へ詩を寄す、代筆なれば自筆を乞ふ、予は斯く悪筆也といひつつよみて書し覚三郎へ渡し侍る、
 唐詩をたひける事の嬉しさに読てぞ寄る大和言の葉 となん」とある。
 また、彦九郎8月熊本再訪の際も会っている。

 
蒲池喜左衛門は片岡朱陵の門人。堀平太左衛門とともに熊本藩宝暦の改革を担う。
 彦九郎は「蒲地」とも書いている


 
かみやげんない
神谷源内


生没年未詳
弘孝 二洲 源内 中津藩士・蘭学者 江戸  寛政元年(1789)12月2日の「寛政江戸日記」によれば、「今日簗氏(簗次正)に於て神谷源内に逢ふ」とある。

 
神谷源内は藩主奥平昌高の命を受け、文化7年(1810)に馬場佐十郎とともに日蘭辞書『蘭語譯撰』を編纂した。またオランダ商館長ヅーフから蘭名を与えられた。前野良沢から蘭語を学んだとされる。

  かめいなんめい
亀井南冥

寛保3年(1743)~文化11年(1814)
  道載・道哉 南溟のち南冥・信天翁・狂念居士

主水 儒医・儒学者(徂徠派)・漢詩人・福岡藩校甘棠館祭酒  天明元年(1781)5月14日の「江戸旅中日記」によれば、「彦国(石津彦国)嚶鳴館入門の故彼れが寓居を問ふ、(略)、彦国南溟堂(亀井南冥)が送別の語を出して見す、(略)、ついで人の寄せたる詩を見す」とあり、亀井南冥の漢詩とその門人らの名を記している。
 5月23日「筑前国亀井道載(亀井南冥)薩州へ遊びて、薩藩貴族冠諸源といへる詩人俳句ありて、薩侯よろこびなくして帰るという、是は侯の将軍家を憚ってのことなり、道載の南遊紀行に載てありといふ、(略)、みな大寛(伊藤大寛・寛蔵)が語る所也」と記している。
 上記記事の注(『高山彦九郎日記』第2巻・45ページ)によれば、寛政3年(1791)彦九郎九州行の折、対面しているという。

 亀井南冥は広瀬淡窓の師。「南遊紀行」は亀井南冥の著した長崎・肥後・薩摩への紀行文。


  かもの すえたか
賀茂季鷹
(山本右膳)


宝暦4年(1754)~天保12年(1841)
山本 季一・季福のち季鷹   生山・雲錦   地下官人・有栖川宮諸大夫・歌人・国学者・京都賀茂別雷(上賀茂)神社祀官・正四位下・安房守

江戸・京都  寛政元年(1789)10月16日・17日の「寛政江戸日記」によれば、八丁堀紺屋町に山本右膳(賀茂季鷹)を訪ねている。
 寛政2年(1790)6月6日には、彦九郎が奥州(蝦夷)へ旅立つにあたり、季鷹は銚子・津軽・青森へ紹介状を書いてくれている。
 寛政3年(1791)5月5日の「寛政京都日記」によれば、上賀茂神社で催された競馬(くらべうま)見物の折、「山本右膳(賀茂季鷹)も父の病気によりて江戸より上りて見物に出づ」とある。


 賀茂季鷹は安永2(1773)から寛政5年(1793)の間、江戸に住み、加藤千蔭・村田春海ら江戸派の歌人と交る。帰京後は、上賀茂社祠官となり、伴蒿蹊小沢蘆庵など歌人文人と交遊した。

  からさきひたちのすけ
唐崎常陸介

元文2年(1737)~寛政8年(1796)
士愛・信徳・玉成 宝愛・百道・八百道 赤斎・瓊山 常陸介・淡路守 磯宮八幡宮祠官・国学者・勤王の志士 京都  聖護院親王の邸で彦九郎と出会い意気投合したが、彦九郎が自刃するとその意思を継いで柄崎八百道と変名して同士の糾合に尽力。しかし志の成り難きをを憤って寛政8年(1796)竹原庚申堂で自刃。死に先立ち日常の記録や書簡類を焼却したという(『森銑三著作集』続編別巻ほか)。
 天明2年(1782)3月19日の「天明江戸日記」によれば、服部栗斎から、唐崎常陸介が3、4年前に山崎闇斎の旧宅を買い戻し祠堂を建てる計画を「闇斎門派」に働きかけていたことを聞いている。同意・不同意両論のあるこの計画に対して、彦九郎は不同意と記している。
 寛政3年(1791)6月29日の「寛政京都日記」によれば、「芸州竹原祠官柄崎常陸介源士愛
コトチカ字は宝愛号は赤斎一の仮名八百道(唐崎常陸介)来る素より互に知りて遂に語る、赤崎彦礼(海門)が語に得て予が京留の事知れりとて岩倉家(岩倉具選)へ尋ねて」とあり、外出先の若槻子寅(若槻源三郎(幾斎))宅で会っている。その後、伏原宣條卿・岩倉具選卿等の公家を彦九郎に紹介してもらっている。

 唐崎常陸介は谷川士清の門人。頼春水と交遊。安芸竹原の人。

  からしまえんせい
辛島塩井

宝暦4年(1754)~天保10年(1839)
  憲・知雄 伯彜 塩井 才蔵 熊本藩儒・侍講・昌平黌講師・藩校時習館教授 熊本  寛政4年(1792)1月2日の「筑紫日記」によれば、藪孤山宅で「辛才蔵(辛島塩井)」に会い、夕刻、高本紫溟宅に出向いた後、訪ねて来た辛島塩井と深更まで語り合っている。
 1月13日には、藩校時習館を訪問した際、夜訪ねてきた長瀬七郎平(長瀬真幸
)・安野形助(安野南岳)・辛嶋才蔵と酌み交わし、「殆ど鷄鳴に及ぶ」とある。
 2月10日には辛島
塩井宅に出向き、塩井の父義助光輔(翼之・清渓)から、伏原家への書の依頼を受け、また子の啓太に和歌を詠み与えている。
 8月の熊本再訪時にも会っている。

 
辛島塩井は高本紫溟の門人。

  かわすみみつたか
川角光隆
  光隆     孫兵衛 牛久藩医・歌人 京都・江戸  寛政元年(1789)12月6日の「寛政江戸日記」によれば、竹川町伊藤良助所で相識となり、「川角光隆は山口仲之進殿(牛久藩主山口弘致・1万5000石・大坂加番・大番頭・大坂定番)の医臣にて、歌を好み芝山持豊卿の父重豊卿の門人なるよし」とある。
 12月10日には、伊藤弘(良助)とともに、「榎坂の上山口伸(仲)之進殿の内川角光隆へ入る」とあり、梅花の生花や伏見親王御製の歌袋に高倉殿の和歌を懸け、焼き物・濁り酒、さらには清酒吸物肴などで歓待を受けている。その際18年前(明和8年〈1771〉となるが日記なし・安永4年〈1775〉との指摘もあるがこれも日記なし)の1月17日に、京都の宮中で行われた舞楽を拝観した折知り合った川角
孫兵衛であることを思い出し、互いに再会を喜び、和歌を読みあっている。
 12月25日にも、山口侯の邸に川角光隆を訪ねている。

 
川角光隆は芝山持豊の父芝山重豊の門人。

かわしま さもん
革嶋左門
(革嶋文蔚)
文蔚 君豹 青山か 左門・左郷 郷士・革嶋家第25代 京都・洛外川島村
 天明3年(1783)2月12日の「天明京都日記」によれば、「帰りて袴になりて大村氏(大村彦太郎)に至る、約の如く脇坂(脇坂内記)も来り居る、川嶋左門(革嶋左門か)座にあり久ふして逢ふ、頃日肥後の熊本より帰へりて細川侯仁君なるよし語れり、酒を酌で語り深更に及むて(略)」とある。これ以降大村家でたびたび会っているが、2月14日には、祇園の茶店中村屋で、白木(大村彦太郎)・川嶋(革嶋左門)・脇坂(脇坂内記)と酌んでいる。
 天明3年(1783)11月13日の「再京日記」によれば、「翁(高芙蓉)と三条に於て別れ予は大村氏(大村彦太郎)に入りて宿す、脇坂氏革嶋氏(革嶋左門)来り居らるる、主じと語りて夜を明かす」とあり、14日には、「帰りて永全(大村彦太郎)良全安植(脇坂内記)革嶋左郷源文蔚字は君豹(革嶋左門)及び谷松屋(庵)(谷松屋か)など酌み侍る」とある。18日には、「芙蓉軒(高芙蓉)を出でて大村氏(大村彦太郎)に入る、今日内々にて火薪の祭り也とて宴有りける、青山革嶋氏七律一首を寄す且つ鷺山脇坂氏(脇坂内記)と名酒とこの花送れり、革嶋氏予を送らむとて来れる也しばらく酌むで出で夷川に於て別る」とある。
 寛政2年(1790)12月1日の「寛政京都日記」によれば、「大村氏へ帰へるに川嶋左門(革嶋左門)来り居る、共に寝ねる旧を語る」とある。
 寛政3年(1791)2月7日には、「今夜大村氏へ寄る竹屋忠兵衛と酌みて居る所也、横谷友直(横谷葛南)も来る共に酌みける、川嶋左門(革嶋左門)遅れて来る、十日夜は伏見より帰るさに川嶋氏に宿し語るべきに約し岩倉家(岩倉具選)へ帰る」とある。
 2月10日には「(伏見からの帰路、高瀬・鴨川・塔ノ森・久世の渡・桂川・牛カ瀬・下津林村を経て)川嶋村に至る、川嶋左門(革嶋左門)横谷藤馬(横谷葛南)と吸物酒にて語りて夜半に及ぶ」とある。
 『高山彦九郎日記』第5巻(237ページ)には、鷺山(脇坂内記)と青門(革嶋左門)との連名で、天明3年(1783)11月17日付の金山(彦九郎の号)宛ての書簡が掲載されている。、
 また、同書(278ページ)には彦九郎に宛てた革島文蔚の送別詩文「奉送仲縄高山君帰毛州」が掲載されている。

 
彦九郎は「川嶋」のほか「革嶋」(「再京日記」の一部)と書いているが、両者とも大村彦太郎脇坂内記との組合せのみで現れることから、同一人と考えられる。
 革嶋氏は中世において山城国葛野郡近衛家領川島荘(京都市西京区)を本貫とする国人領主。江戸時代は川嶋村を家領とする鷹司家に仕える郷士となる。
 革嶋文蔚の姉は中井竹山の妻となっており、革嶋家は竹山の尽力により、安永4年(1775)から旧縁の肥後熊本藩細川家の援助を受けた。
 
  
かんちあん
菅恥庵


明和5年(1768)~寛政12年(1800)
菅波 晋宝・晋葆 信卿・圭二 恥庵 儒学者 備後神辺か  『高山彦九郎日記』第5巻293ページに、「菅晋寶(菅恥庵)」の贈答詩文が掲載されている。

 菅恥庵は菅茶山の末弟。西山拙斎の門人。京都に出て私塾を開く。

  かんちゃざん
菅茶山

寛延5年(1748)~文政10年(1827)
菅波 晋師 礼卿 茶山 喜太郎・百助・太中・太仲

儒学者・漢詩人・福山藩大目付格 備後神辺  菅茶山の著「筆のすさび」によると、茶山が20才頃の時、彦九郎は山陽道を通り神辺の茶山を訪ね、その後、備前の郷校閑谷学校へ行っている。

 菅茶山は那波魯堂の門人、
西山拙斎頼春水葛子琴中井竹山らと交友。のちに郷校廉塾を開く。

  かんろじ  くになが 
甘露寺国長

明和8年(1771)~天保8年(1837)
藤原
国長 公家・侍従・中宮権大進・右小弁・蔵人・左小弁・左衛門権佐・参議・左大弁・権中納言・権大納言・従一位 京都  寛政3年(1791)3月9日の「寛政京都日記」によれば、「芝山持豊卿へ入る、穂波殿(穂波経条)八条少将殿(八条隆礼)甘露寺侍従殿(甘露寺国長)日賀単称尼出席にての帚木(ははきぎ・「源氏物語」第2帖)の講有り、八条殿甘露寺殿には始めて見ゆ」とある。
 4月3日・5月8日にも、芝山家の源氏講釈で会している。
 4月11日には、「甘露寺侍従殿へ入る、 緑毛亀をよめる 侍従国長 
風のさわかぬみよとをのかすむふちをみとりの亀も出けん とぞ」とある。
 寛政4年(1792)1月2日の「筑紫日記」によれば、「本町宮津屋代助姓は古田氏を尋ぬ甘露寺国長卿の高詠を寄す、古田正友といふ」とある。

 
甘露寺国長は甘露寺篤長の子。文化5年(1808)日光例幣使となる。
 甘露寺家は勧修寺一門の嫡流で、笛・儒学を家職とした。

きくち  ござん
菊池五山

安永元年(1772)~安政2年(1855)
  桐孫 無絃 五山・娯庵・小釣舎 佐太夫 儒学者・高松藩儒 江戸  寛政元年(1789)10月4日の「寛政江戸日記」によれば、「小石川御門の内(千代田区飯田橋三丁目または三崎町三丁目)讃岐侯(讃岐高松藩・12万石・松平頼起)の邸板倉重之進(カ)所へ入る病気也、止まりて宿す、(略)、菊池佐太夫(菊池五山か)谷本芸斎片岡愛三郎等皆な相識となる、麦飯酒茶出づ、(略)、夜半に及ぶまで人々と語りぬ」とある。

 
菊池五山は後藤芝山柴野栗山・昌平黌市河寛斎の門人。

きくち  ろさい
菊池魯斎

享保3年(1718)~寛政12年(1800)
武敏 慎父 魯斎 一學 儒学者・佐土原藩儒 日向佐土原  寛政4年(1792)6月24日の「筑紫日記」によれば、「菊池一角(一学か)田原勘右衛門へ書を寄す、(略)、夜田原勘右衛門親弥ミチ案内にて菊池一角武敏魯斎字は慎父(菊池魯斎)所へ入る語りて学校の事を進めける寅の刻に及んで宿りに帰へる」とある。
 6月26日には、「菊池一角干菓子の麁(そ)なるを持参して見舞ふ学校の談有り、今日も船通はず、田原勘右衛門来る、時習館の図詩文詩(衍)を菊池にも借す」とある。
 7月1日には、「十文字新馬場菊池一角所へ入り」とあり、7月2日には、「菊池一角来り居る其の子要助武明も後れて来り焼酎を酌みぬ、一角干菓子を寄す」とある。

 
菊池魯斎は京都で医学を学んだのち、三宅尚齋・久米訂斎の門人となる。

きたのこうじよしみつ
北小路祥光

宝暦13年(1763)~文政2年(1819)
藤原
公家・弾正少弼・右京大夫・参議・従二位 京都  寛政3年(1791)4月22日の「寛政京都日記」によれば、「北小路弾正少弼殿(北小路祥光)入らるる、紀州へ至りし蠻船当月朔日頃二艘先づ着き紀州の士を以て尋ぬるに清よりひかつ国へとて出でたる船漂流のよし答ふ、其後多ふく船見へ互に火炮を飛ばすのよし語らる」とある。
 5月2日には、岩倉三位殿(岩倉具選)・北小路殿(北小路祥光)・慈光寺殿(慈光寺尚仲)・東久世殿(東久世通庸)に従い三十三間堂で行われた平瀬光雄の通し矢をを見学している。
 6月20日には「北小路殿(北小路祥光)へ入りて宇佐大宮司(宇佐公古)僑居を尋ぬ椹木町烏丸西へ入る北側とぞ」とある。
 7月9日には「北小路殿(北小路祥光)より歌一首を寄せらる急ぎ至り謝す」とあり、17日には「北小路殿(北小路祥光)へ入り歌の礼謝す」とある。

 
北小路祥光は日野資枝の二男。北小路光教の養子。

き ばいてい きゅうろう
紀梅亭
(紀九老)

享保19年(1734)~文化7年(1810)
時敏 子恵 梅亭(楳亭)・九老人 立花屋九兵衛 画家 京都  天明2年(1782)12月25日の「天明京都日記」によれば、「高辻新町西へ入る所にて梅亭(紀梅亭)なる画工の宅へ入りて扇面を絵がくを見侍る、梅亭蕪村が弟子也」とある。
 天明3年(1783)1月26日には、「志水南涯梅亭(紀梅亭)と共に伊勢へ出立せる、昨年予が参宮の志しあるに付て初まりたるにより予も送らんと思ひしかと雨天故酒壱樽を餞別として見舞ふて出て江口氏へ行く、今ま出立といへる処也」とある。

 
紀梅亭は岩城藍田の門人。与謝野蕪村から絵と俳諧を学んだ。天明8年(1788)近江大津に移住。山水画に長じた。

きのした やいちべえ
木下弥一兵衛

宝暦3年(1753)~文化12年(1815)
正直 観水・愛山堂 弥一兵衛 儒学者・高松藩儒 京都
 天明3年(1783)1月7日の「天明京都日記」によれば、「木ノ下与一兵衛(木下弥一兵衛)に相識となる順庵(木下順庵)の孫なるよし、装束を付くるを以て家とす」とある。
 3月7日には、「(翌日高松藩儒に召しだされて出立するという菊地八太夫宅において)座に木ノ下(木下弥一兵衛
)氏在り」とある。
 寛政3年(1791)4月17日の「寛政京都日記」によれば、「(加茂葵祭に出かけた折、上加茂において)木ノ下弥一兵衛に逢ふて楽人の所へ至るに相識れる人多ふし」とある。

 
木下与一兵衛は木下順庵の末裔で、金沢藩儒木下閑の長男。柴野栗山に学び、室町出水で塾を開く。

ジノーン
ぎのわん  おうじ

宜野湾王子
第13回江戸上り(慶賀使)正使 (京都伏見)  寛政3年(1791)1月17日の「寛政京都日記」によれば、「甲斐権介殿今日琉球人伏見入を見物に行かれ晩に至りて帰へらる、予是を聞て伏見に行かんとして、(略)、予袴になりわらじ付けて出づ、(略)、伏見尼ヵ崎丁橘石見介(南谿)所へ夜九つ(午前0時前後)に及んで着く」とある。
 1月18日には、「浅井江軒案内にて林彦作所へ至り彦作案内にて嶋津淡路守(島津忠持)屋敷に入り琉球人を見る、下部四五人居る是れ路次楽人なるのよし也、与那城
ヨナグスクなると言うと言を交ゆ克く通ずる也、薩摩言葉と覚ゆ、琉人等互に語るは聞え難し」とある。
 1月19日には「楽の音聞ゆ、津国屋理兵衛に至りて琉人を見る、おひづり(笈摺)の如きものを着たるが楽人也其余は広袖に前へ帯して惣髪也、京橋を経て今戸橋に至るに船に乗る旗多く立ちぬ六郎次馬上其次に琉人宜野湾王子駕籠に乗る老人と見ゆ、嶋津石見朝(
)乗也」とある。

 
琉球国中山王府は将軍の代替わりに際して「賀慶使」、琉球国王の代替わりに際して「謝恩使」を幕府に派遣しており、「江戸上がり」といわれた。人数はそれぞれ100人の使節に加え、薩摩藩主や諸役人が加わり1000人を超える大行列となった。
 「江戸上がり」は江戸時代を通じて18回行われたが、徳川家斉の第11代将軍襲職の際に派遣された、第13回江戸上りの慶賀使正使である宜野湾王子が江戸へ参府したのは寛政2年11月~12月(江戸到着11月21日・出達12月27日)のため、彦九郎が見たのは琉球への帰路と考えられる。


きむら けんかどう
木村蒹葭堂

元文元年(1736)~享和2年(1802)
  鵠のち孔恭 初め千里のち世粛 巽斎・遜斎・蒹葭堂 坪井屋吉右衛門 文人・博物学者・本草学者・商人(酒造業ほか) 大坂  天明2年(1782)12月4日の「天明京都日記」によれば、「書林に入りて蒹葭堂(木村蒹葭堂)が宅を問へる、江戸堀三丁目篠崎長兵衛(篠崎三嶋)なる人知るべしといへる故行き至て尋ぬるに堀江五丁目にて坪井屋吉右衛門と称する則ち蒹葭堂なるよし、篠崎氏名は応道字は安道号を三嶋といふ、書を克くし学を講ず、出でて堀江に至らむとして遅そし、故に義斎(飯岡義斎)宅へ入りける」とある。
 天明3年(1783)3月21日には、「堀江なる
蒹葭堂(木村蒹葭堂)を尋ぬ折節不快にて逢わず、予出でむとしければ妻女を以ていふ様は、素より御高名を承われば出でて御目に懸りたき事ながら、今朝より吐瀉致し甚だけがらわしく候えば明日也とも少しく快く致し御目に懸りたければ又また此の辺りを経させ玉はば入らせ玉はれといふ、予答へけるは、明日南都の方へ立ちぬれば以来の事に致すべし病気保養あれよといひて立たせむとせしがまた止めて菓子抔出だしてもてなし遺憾の様子をあらわしける、蒹葭堂は坪井吉右衛門といひて酒造家也書及び雅物を集めて甚だ好事家知らずということなし姓は木村とす、芙蓉翁(高芙蓉)昔より懇意にて伝語あり語る」とある。

 
木村蒹葭堂のサロン』の「高山彦九郎来訪」によれば、『蒹葭堂日記』には「三月廿一日、江戸高山彦九郎皆病中不遇」とあり、「この危険なアナーキスト革命家の合力を求めての面会強要には、病気を申し立てて、玄関払いするより仕方なかったろう」と記している。
 また、同書「高山彦九郎『京日記』」によれば、木村蒹葭堂は
天明3年(1783)「11月11日の彦九郎の再訪の時は、一応面会したらしい」とあるが、これに該当する「再京日記」は、11月8日後半から11日までの部分が欠落しており、彦九郎日記からの検証は不能である。

 木村蒹葭堂は津島桂庵・小野蘭山・鶴亭・池大雅高芙蓉片山北海の門人。江村北海田文興(儋叟)草廬らを始めとして、全国各地から訪れる学者・文人・大名・異国人ら様々な人物と交わる。片山北海を盟主とした詩文結社混沌社の基礎を作ると共に、典籍書画・地図・博物標本など膨大なコレクションを公開した。
 上記以外に交遊した主な人物は次のとおり。
 細合半斎・葛子琴篠崎三嶋・鳥山崧岳・頼春水・趙陶斎・中井竹山・加藤宇万枝・建部綾足・上田秋成・木内石亭・佐竹噲々・小石元俊・皆川淇園・与謝野蕪村・山岡浚明・加藤謙斎・浦上玉堂・六如上人・十時梅厓・増山雪斎(正賢)・大槻玄沢松浦静山蠣崎波響大原呑響・朽木昌綱・本居宣長・司馬江漢・春木南湖・釧雲泉・丸山応挙・ケルレル・青木木米・佐藤一斎・谷文晁・太田南畝・田能村竹田

  きむら けんじ
木村謙次

宝暦2年(1752)~文化8年(1811)
  子虚 礼斎・酔古堂・酔古山館 謙次・謙次郎 北方探検家 常陸久慈  寛政2年(1790)7月6日の「北行日記」によれば、久慈郡天下野村の木村謙次を訪ね、謙次が記録した久慈郡岩手村の孝子音吉の話を日記に写している。

 木村謙次は立原翠軒・原南洋・古益東洞の門人。寛政5年(1793)には立原翠軒の建議により水戸藩の命を受け蝦夷を探検。寛政10年(1798)には立原翠軒の推挙により、近藤重蔵に従い、最上徳内らと共に蝦夷・国後・択捉を探検。

きよおかながちか
清岡長親

安永元年(1772) ~ 文政4年(1821)
藤原
長親 公家・非参議・宮内大輔・大内記・式部権大輔・文章博士・少納言・侍従・勘解由長官・正三位・式部太夫
京都  寛政3年(1791)2月4日の「寛政京都日記」によれば、「五条殿(五条為徳)なる佐野儒生(佐野山陰)を問ふに他出、書生及び清岡殿(清岡長親・『高山彦九郎日記』注による)安部伊勢介等と御節会の戯をなして」とある。
 5月25日には、「五条家(五条為徳)佐野少進(佐野山陰)所へ入る清岡殿(清岡長親)居らる」とある。

 
清岡家は五条家の分家。儒道を家職とした。

くさの せんけい
草野潜渓

正徳5年(1715)~寛政8年(1796)
佐藤のち草野 士龍 潜渓・草雲 雲平 儒学者・熊本藩校時習館助教 熊本  寛政4年(1792)正月元旦の「筑紫日記」によれば、「草野雲平老人草野潜渓)の屋敷に入る、暫く語りて立つ」とある。
 2月11日には「草野雲平を訪ふ、吸い物酒肴数々沽酒沽□ならずといへるによりてよめる」として、和歌を詠んでいる。
 2月23日には「草野翁へ寄る七十八歳とぞ」とある。


  くしぶちきょちゅうけん 
櫛淵虚冲軒
(櫛淵弥兵衛・櫛淵宣根)

寛延元年(1748)または寛延2年(1749)~文政2年(1819)
  宣根   虚冲軒 八弥・のち弥兵衛 剣術家・神道一心流創始・一橋家家臣 江戸  寛政元年(1789)11月20日の「寛政江戸日記」によれば、「(前野良沢宅に)上州沼田後閑村の人にて櫛淵八弥宣根(櫛淵虚冲軒)来る、小川町裏猿楽町羽倉権九郎殿幕臣・のち日田代官・西国筋郡代となる)に滞留のよし、酒出でて暫く語る、今歳六月出立にて下谷坂本町二丁目青嶋俊蔵なる御普請役蝦夷へ渡りて先月二十九日に帰へる、其人に従ふて、関吉十郎字子敬(関赤城)なる者も行きしよし。沼田の城下富家の子にて学問を好める人有るを聞くそれなるべしといへば果たして然り、櫛淵氏、蝦夷物語を約して富山町田丸屋兵右衛門所へ会すべしとて立つ」とある。
 翌21日には、「富山町田丸屋兵右衛門を尋ぬるに田丸屋といへるはあらず、富山新道至て田丸屋有りて、櫛淵(櫛淵虚冲軒)と関(関赤城)とに逢ふ、蝦夷の事を尋ぬるに来春を約して、答へ詳かならず、耳環に銀など有とかたる故其銀はと問へば関氏答へてさんたんより来るのよし也、茶漬など出だす。答へ詳らかならぬ故に立つ」とある。
  
 櫛淵虚冲軒は利根郡月夜野後閑村(みなかみ町)生まれ。篤農家櫛淵弥兵衛宣久の子。父から相伝の天真正伝神道流を学び、のち微塵流・直心影流・柔術の揚心流・薙刀の無敵流などを修め、その長所をとって神道一心流を創始する。40才で江戸に出て、神田小川町に道場を開く。のち一橋家に召し出される。
 青嶋俊蔵は寛政元年(1789)の蝦夷調査から帰ると最上徳内とともに、再び咎を受け、寛政2年(1790)1月20日に伝馬町揚屋に収監され、8月5日遠島が申し渡されたが、8月17日牢屋内で病死している。
 櫛淵・関の彦九郎に対する態度は青嶋らの処分と呼応するものか。

くすのせきよかげ
楠瀬清蔭

寛保3年(1743)~寛政2年(1790)
清蔭 子樹 南溟 六郎左衛門
土佐藩士 ―・江戸  天明3年(1783)10月27日の「再京日記」によれば、「土佐家士楠瀬六郎左衛門(楠瀬清蔭)なるもの谷氏(谷好井)予が事を語りて心通のよし聞こえし、久しく語りて伴兄(谷好井)が僑居を出で(略)」とある。
 寛政元年(1789)11月13日の「寛政江戸日記」によれば、「奥平中邸へ帰へるに門番土佐より御客来有りと告ぐ、急ぎ前野(前野良沢)へ入るに谷伴兄(谷好井)楠ノ瀬六郎左衛門清蔭字は子樹号は南溟(楠瀬清蔭)吉田勝助行倫馬淵弥内好礼等待ち居る」とあり、和歌を詠みあっている。 

 
楠瀬清蔭は谷好井(伴兄)の兄の谷北溪(真潮)・川谷薊山・横山竹林・福原五岳・荻野六兵衛の門人。天明3年(1783)大坂諸役手先遣役、天明8年(1788)江戸勘定頭。駿府で没する。
 『高山彦九郎日記』第5巻317ページに楠瀬清蔭が彦九郎に贈った和歌が掲載されている。

  くどう へいすけ
工藤平助

享保19年(1734)~寛政12年(1801)
  球卿 元琳 万光 周庵のち平助 仙台藩医・経世家 江戸  寛政2年(1790)6月3日の「寛政江戸日記」によれば、前野良沢宅を出て大槻玄沢宅に立ち寄ったのち、工藤平助宅で朝食を取っている。

 
工藤平助は和歌山藩医長井常安の三男。仙台藩医工藤丈庵の養子。天明3年(1783)ロシア研究書の「赤蝦夷風説考」を著す。青木昆陽・服部南郭の門人。前野良沢・中川淳庵・桂川甫周大槻玄沢林子平と交遊。

  くにえだじゅんだゆう
国枝順太夫

享保10年(1725)~天明2年(1782)
  士謙   潜龍窟 順太夫 播州龍野藩士  『高山彦九郎日記』第5巻211ページに、安永4年(1775)8月付けの「国枝順太夫 光」から彦九郎に宛てた書簡が掲載されている。
 安永5年(1776)4月7日の「
江戸旅行日記」によれば、「播州□□國枝順太夫、石原眞吾、股野嘉膳方へ翰を認め明日渡す」とある。
 天明2年(1782)11月29日の「
天明京都日記」によれば、懐徳堂中井竹山を訪ね、「国枝氏」の自殺について語り合っている。

 彦九郎の盟友。
 国枝順太夫は龍野藩普請奉行国枝又兵衛の次男。
赤松滄洲玉田黙翁の門人。中江藤樹熊沢蕃山に私淑。播磨龍野藩(5万1000石・脇坂安親の少壮急進派の勤王家で、藩政改革を企て、藩主に直諫・重大な謀をなしたため怒りを買い、安永9年(1780)兄宅に禁足となり、天明2年(1782)6月18日自決。

   くぼ ちゅうさい
久保盅斎(「」は「中」に、脚が「皿」)


享保15年(1730)~天明5年(1785)
  亨・泰亨 仲通 盅斎・松巌 喜左衛門・二郎右衛門 儒学者・讃岐高松藩士・昌平黌員長・一ツ橋家儒員 江戸  安永4年(1775)柴野栗山が京都から郷里へ帰る(乙未の春旅)彦九郎に贈った「送高山生序」によれば、栗山は江戸において会うべき人物として「保仲通(久保斎)、冢大佐(大塚孝綽)、平明徳(平城治平)、沢右仲(黒沢雉岡)、岡伯和(岡井赤城)」の5人の名を挙げている。
 安永5年(1776)4月9日の「
江戸旅行日記」によれば、「聖堂を拝して久保喜左衛門名は亨コウ字は仲通號盅齋一號松巖ガン久保)を尋ぬ、鯛の吸物松(ママ)も抔にて馳走なり、久しく語る」とある。
 安永6年(1777)10月1日の「
武江旅行記」によれば、「聖堂の学頭久保氏(久保)の宅に入(略)暫く語る」とあり、忠孝のことや、久保氏の師、林信充(大学頭)のことについて語り合っている。
 安永9年(1780)11月20日の「江戸旅中日記」によれば、「永田場馬場新道久保次郎右衛門(久保斎)宅へ入り五事略(新井白石著)を返へす」とある。
 天明2年(1782)3月16日の「天明江戸日記」によれば、「さざい尻久保仲通の宅へ入りて祠堂の事を謀る」とあり、暮れまで語り合っている。

 
 久保
後藤芝山の門人、のち昌平黌に学び、一橋家儒員となる。柴野栗山と交友。

くまざわ こはちろう
熊沢小八郎
鳥取藩米子城代荒尾家家臣・150石 伯耆米子  安永5年(1776)3月17日の「江戸旅行日記」及び「古河のわたり」によれば、下総古河町郊外大堤村(茨城県古河市)の鮭延寺を訪ね、「熊澤子(熊沢蕃山)」の墓を熊澤氏(その子孫の熊沢小八郎:次段参照)の依頼により調査している。
 『高山彦九郎日記』第5巻30ページ掲載された、彦九郎から熊沢小八郎に宛てた書簡(ただし発送されなかったものと考えられている)には、「去る甲午(安永3年〈1774〉)者貴国不思議余歴拝謁仕、御曽祖 蕃山先生(熊沢蕃山)之月忌に参合、御宝物迄拝見仕候」とあり、安永5年(1776)3月17日に蕃山先生の墓を訪ねた折の報告をしている。
 また、同巻215ページに掲載されている、安永5年(1776)の10月12日付けと想定される(桃白鹿に関連する安永3年の記録からも裏付けられる)柘植忠太義方(鳥取藩米子組士)から彦九郎へ宛てた書簡に、「一昨年は」とあり、また追伸に「尚々米子鷲見新助(鷲見保明)、熊沢小八郎、鳥取安藤庄助右(安藤箕山)三人之者随分無事ニ相暮し居申候間(略)」とあり、安永3年(1774)に彦九郎が米子訪れ、交流していることが確認される。

  くまざわばんざん
熊沢蕃山

元和5年(1619)~元禄4年(1691)
  伯継   蕃山了介・息游軒 左七郎・二郎八・助右衛門

岡山藩士・儒学者・経世家

―(古河)

 安永5年(1776)3月17日の「江戸旅行日記」及び「古河のわたり」によれば、下総古河町郊外大堤村(茨城県古河市)の鮭延寺を訪ね、「熊澤子(熊沢蕃山)」の墓をその子孫の熊澤氏(熊沢小八郎)の依頼により調査している。
 寛政元年(1989)10月3日の「
寛政江戸日記」によれば、林大学頭邸内の学徒中島常足の案内で備前岡山藩儒井上四明に会い、「熊沢蕃山」の系譜・事跡について聞いている。
 
 熊沢蕃山は中江藤樹の門人で、陽明学を学ぶ。
 熊沢蕃山は
幕政を批判したため、古河藩に幽閉され同地で客死した。
 
  く め ていさい
久米訂斎


元禄元年(1699)~天明4年(1784)
  順利 断治 訂斎・簡兮 断二郎・新二郎 儒学者 京都  天明2年(1782)11月24日の「天明京都日記」によれば、「室町通り丸太町下ル所久米断二郎(久米訂斎)を尋ぬ今年八十四、老人よろこびて語る、糸を土産とす」とある。
 また、3月20日にも「久米順利(久米訂斎)の宅へ見舞酒壱樽を携えける、しばらく語りて(略)」とある。
 天明3年(1783)4月6日の「京日記」によれば、京都を離れるに当たっての餞別の和歌一首が久米順利から贈られている。
 天明3年(1783)4月9日の「天明下向日記」によれば、「垂井駅に至り問屋に休ふ、時に久米順利の弟子櫟原
イチハラ守佐へ伝言す、守佐一つに大阪屋七兵衛と号す」とある。
 寛政2年(1790)10月10日の「北行日記」によれば、藤倉龍蔵道遠から「久米順利画像自賛」を見せてもらい記録しており、「美濃垂井櫟
イタ原通助方より送れるよし、道遠順利門人也」とある。

 
久米訂斎は三宅尚斎の門人、娘婿となる。

  くらはしやすゆき
倉橋康行

安永8年(1779)~安政5年(1858)
安部 公家・非参議・右馬頭・中務権少輔・中務少輔・刑部卿・正二位 京都  寛政3年(1791)3月20日の「寛政京都日記」によれば、「富小路三位殿(富小路良直)左衛門佐殿(富小路貞直)北小路殿(北小路祥光)錦小路中務大輔殿(錦小路頼尚)倉橋右馬頭(倉橋康行)岩倉三位殿(岩倉具選)緑毛亀見らる、是れより岩倉殿(岩倉具選)富小路御父子(富小路良直富小路貞直)倉橋殿(倉橋康行)と見生(壬生)に至りて狂言を見る」とある。

 
倉橋家は代々陰陽道を家職とした

  くろさわ ちこう
黒沢雉岡

正徳3年(1713)~寛政8年(1796)
  万新  新卿・眞卿  雉岡 右仲 儒学者・田安家侍読 江戸  安永4年(1775)柴野栗山が京都から郷里へ帰る(乙未の春旅)彦九郎に贈った「送高山生序」によれば、栗山は江戸において会うべき人物として「保仲通(久保盅斎冢大佐(大塚孝綽)、平明徳(平城治平)、沢右仲(黒沢雉岡)、岡伯和(岡井赤城)」の5人の名を挙げている。
 安永7年(1778)4月21日の「戊戌季春記事」によれば、「夢に儒生黒澤右仲(黒沢雉岡)酒を持して来り予に進めてのましむ、是レによりて快ろよく且ツ台村墓参もなるべき程に至りしと夢見て目覚めぬ」とある。
 天明元年(1781)5月28日の「
江戸旅中日記」によれば、黒沢右中(右仲・黒沢雉岡)所へ入る在宿にて暫く語る、(略)、暮に及びて黒沢氏を出奥村氏(奥村安所)へ帰る」とある。

 黒沢雉岡は林鳳岡に学び、柴野栗山久保盅斎らと交友。大塚孝綽の推挙により田安家侍講となる。老中松平定信に諮問を与える。医業にも通じた。武州児玉(埼玉県本庄市)出身。

  くろさわとうもう
黒沢東蒙 

享保14年(1729)~寛政6年(1794)
  信良  子方  東蒙・東蒙山人   儒医 江戸  寛政元年(1789)11月2日の「寛政江戸日記」によれば、「奥州より東蒙(黒沢東蒙)来りて服部服部栗斎に滞留すせ(ママ)るよし」とあり、11月11日には「三斎小路(港区虎ノ門1丁目)服部善蔵服部栗斎所に入りて黒沢東蒙を訪ふ、語りて(略)」とある。
 寛政2年(1790)10月16日の「北行日記」によれば、蘆東山の跡と称している肝煎岩淵作右衛門とその父宇左衛門に会い、黒沢東蒙讃の東山画像を見せてもらっている。

 
黒沢東蒙は陸前登米郡新田村出身。遊佐木斎・京都の石王塞軒の門人。傍ら医学を学ぶ。晩年江戸に遊び、柴野栗山尾藤二洲服部栗斎らと交友した。

ご い らんしゅう
五井蘭洲


元禄10年(1697)~宝暦12年(1762)
  純禎 子祥 蘭洲・冽庵・梅塢 藤九郎 儒学者・懐徳堂講師・津軽藩儒・懐徳堂助教

 天明元年(1781)閏5月7日の「江戸旅中日記」によれば、「五井藤九郎(五井蘭洲)初江戸に下りて津軽侯の儒臣と成しとき、悉く文字を問はれたる斗りにて学術のさた一度もあらねば、尸位素餐(しいそさん)也といひて大坂へ帰りしときけりと太田玄浩物語也」とある。

 五井蘭洲は五井持軒の子。京都古義堂伊藤東涯に入門。懐徳堂の中井甃庵に招かれて講師の一人となるが、江戸へ出る。江戸在住中に一時津軽藩に仕えたが、大坂に戻る。以後、甃庵を補佐し、助教として懐徳堂の教育を支えた。甃庵の子の中井竹山中井履軒は、帰坂後の蘭洲から教育を受けた。

こうかくてんのう
光格天皇

明和8年(1771)~天保11年(1840)

在位:安永8年(1779)~文化14年(1817)

  師仁のち兼仁       天皇 (京都)  寛政3年(1791)3月15日の「寛政京都日記」によれば、「今十五日芝山持豊卿謹みて語られけるは、先月唐鑑御会の御時に天上(光格天皇)の御沙汰ありける、続いて予(芝山持豊)も清二位殿(伏原宣條)申されける 天子(光格天皇)能く知食(しろしめ)して有ける也と語られける、若槻氏も聞ける事也」とある。
 翌3月16日の夜、代々天皇の侍医をしている山科里安の家で「美酒に佳肴」を振舞われた折、里安の父山科泰安は、「ある時」、「上様(光格天皇)」が「高山彦九郎といへるものを知れるや」とお尋ねになったので、「名をば久しく承はりぬれども相識にはあらぬよし」とお答えしたところ、「聖護院の人になりて舞楽拝見せしにや、佐々木備後守と並びて拝見せし気質は色々のもの也など委(くわ)しく知食してぞ有ける」と、お言葉があったと彦九郎に話す。その日、岩倉家(岩倉具選)に帰ってから詠んだ歌が「我をわれとしろしめすぞや 皇の玉の御こへのかかる嬉しさ」である。


 『高山彦九郎日記』の同日の注によれば、「愛国百人一首」に採録された「しろしめすかや」は、『高山操志』(明治3年・金井之恭編)の誤りがそのまま流布したためとあり、彦九郎は上記のとおり書いている。
 なお、この和歌を緑毛亀と関連づける言説があるが、寛政3年(1791)3月16日の「寛政京都日記」によれば、彦九郎が志水南涯から、琵琶湖で見つかった緑毛亀が届いたことを手紙で知らされ見に行ったのが、同日(山科泰安と会う前)のことであり、直接の関係は認められない。


ごうだ りっせい 
合田立誠

生年不詳~文化8年(1811)     
越智 立誠 伯業 榕斎  源二郎源次郎)・栄蔵 儒学者・徳島藩儒・藩校寺島学問所教授

京都

 天明2年(1782)11月25日の「天明京都日記」によれば、「油小路下立売上る所合田源次郎名は立誠字は伯業(合田立誠)宅を尋ぬ榕斎といへるよし」とあり、阿波侯の儒臣であった祖先の系譜について聞いている。

 合田立誠は阿波徳島藩儒、合田如玉(1725~1781)の長男。弟は合田恒斎。
 京都に住み、のち寛政3年(1791)徳島藩の最初の藩校である寺島学問所教授となる。

 合田如玉は柴野栗山・那波魯堂を藩儒に推挙した。

  こうの  じょさい
河野恕斎

寛保3年(1743)~安永8年(1779)
岡のち河野 子龍 白潜 如斎・鶴皐・南濱 忠右衛門 儒学者・肥前蒲池藩儒 大坂  安永3年(1774)1月16日の「甲午春旅」によれば、「若路銀等に差支有之ば大坂に而は河野忠右衛門(河野恕斎)、京都に而は廣瀬理(兵衛)芙蓉敬齋子に而借り候而道中苦しみ無之様にとの深切の物語」とある。
 安永6年(1777)4月6日の「丁酉春旅」によれば、「大坂河野氏(河野恕斎)の言ひによりて岩下仲説を尋ぬ」とある。
 安永7年(1778)3月28日の「戊戌季春記事」によれば、細谷村を訪ねた細井平洲門下の子篤(荻原千介)が浪花を経て、肥後・熊本学校(時習館)へ行くということについて、大坂河野氏(河野恕斎・藪生(藪孤山)の名を出し、心がけを語っている。
 天明2年(1782)11月28日の「天明京都日記」によれば、「恕斎子(河野恕斎)に沈香(略)、下寺町なる光明寺へ入りて案内を乞ふて墓参す、恕斎河野先生の墓と木牌を墓上に立つ、(略)寺へ白銀を納めける」とある。
 12月17日には、河野恕斎弟の井沢君光と深夜まで「酒肴あまたにて」語り合い、井沢君光から中井竹山に河野恕斎の墓の碑銘を書いてもらうよう頼まれている。
 12月20日には「懐徳堂(中井竹山)へ寄る恕斎子の墓碣の字を書せむ事を乞ふに頼千秋(頼春水)へ譲りて応ぜず」とある。
 
 
河野恕斎は彦九郎の明和の頃からの知友。恕斎は彦九郎の師である岡白駒の子で、井沢君光の兄。片山北海混沌社に参加。藪孤山らと交流。

  こう ふよう
高芙蓉
(大島芙蓉・源孟彪)

享保7年(1722)~天明4年(1784)
源・大島 孟彪 孺皮 芙蓉・氷壑山人・中岳画史・□(草かんむりに函)富岻山房 大島逸記近藤斎宮 篆刻家・儒学者
京都・四日市  安永2年(1773)1月16日の「赤城行」によれば、彦九郎は高芙蓉の依頼で新田大島氏調査のため伊香保に赴いている。
 安永4年(1775)2月18日の「乙未の春旅」によれば、この日「京都丸太町油小路西へ入處」の高芙蓉宅を出立し、若狭・北陸道経由で郷里細谷村へ向かっている。
 天明2年(1782)~3年(1783)の「天明京都日記」「京日記」「天明下向日記」「高山正之道中日記」「再京日記」によれば、高芙蓉が89日現れる。
 彦九郎は高芙蓉の助力により、吉田神道家から祖父伝左衛門貞正の神号及び許状を受けている。また彦九郎は芙蓉から「剛卯」の印を刻んでもらっている(天明3年(1783)4月2日)。
 寛政3年(1791)7月11日の「寛政京都日記」によれば、「芙蓉(高芙蓉)の跡を訪ねんとて、(略)、上鳥羽左リ恋塚浄禅寺袈裟が墓下鳥羽にて恋塚寺とて墓碑有り安永の文也ける、(略)、芙蓉行軒源子訓書なる額を見てよめる」とあり、和歌を詠んでいる。

 高芙蓉はその祖が新田大島氏という縁から、京都滞在中の彦九郎の面倒を何かと見ており、彦九郎の寄寓先であった。芙蓉の紹介で京都の学者文人や公家の間に出入りできたといわれる。
 
 高芙蓉の祖父は元水戸藩士で、職を免ぜられ甲斐に移住。父は医師の大島尤軒。上京し儒学・有職故実・書画を学び、篆刻に秀でた。
 池大雅・韓天寿ともに富士山・立山・白山に登り、そろって三岳道者を号した。印章学を大成、皆川淇園柴野栗山に「印聖」と称揚された。木村蒹葭堂と交遊、門人に 志水南涯(菅周監)・森礼蔵・青木木米がいる。
 なお、出身地の甲斐国高梨郡にちなみ「高」を名乗ったとされるが、甲斐に「高梨郡」という地名は存在していない。
 天明4年(1784)水戸藩支藩の宍戸藩(1万石・現笠間市平町・藩主は定府)に儒員として招かれるが、江戸藩邸到着直後に病没する。


こおりやま
郡山道遠

(藤倉龍蔵)

~寛政8年(1796)・70才
龍蔵 東山郷赤生津村  寛政2年(1790)10月9日から13日の「北行日記」によれば、彦九郎は郡山道遠宅に5日間、逗留している
 10月9日には、「長部を経て赤生津村(奥州市前沢区)に入る、前沢三沢氏の家士の来るに逢ふ予が尋ぬるを先きに藤倉氏に告ぐ、藤倉主一郎に途に逢ふて遂に宿す、その父龍蔵道遠(郡山道遠)岩井堂へ講釈に至りて家には在らず、今は郡山に復す、その子道弘(藤倉主一郎)入魂に饗応せり小豆飯を出だす、寛政元年五月蜂屋又左衛門差し出したる書を見す」とあり、伊達綱村(旨山)・西行・伊達吉村(獅山)・冷泉為村・郡山道遠の和歌を記している。
 10月10日には、「礼服して祠堂を見る祠前六帖敷外八畳敷也、久米順利(久米訂斎)画像自賛を見す、(略)、美濃垂井櫟
イタ原通助(櫟原踅齋)方より送れるよし、道遠は順利(久米訂斎)門人也」とあり、小川民部仲之・白井栄治秀雄・岡田英安の和歌を記し、藤倉主一郎道弘と和歌を詠みあい、道弘と敵討ちについて語り合っている。
 10月11日には、「立たんとして又た宿す」とあり、三宅尚斎行や道遠の和歌を見せてもらい、濁酒を飲み、語り合っている。
 10月12日には、道弘と和歌を詠みあい、三宅尚斎久米訂斎の書を見せてもらい、酒を飲みながら語り合っている。

 10月13日には、「赤生津を立つ、別盃の後出づ道弘送り出づ」とある。

 郡山道遠は久米訂斎の門人。櫟原踅齋とは同門。

 
こ が のぶみち
久我信通

延享元年(1744)~寛政7年(1795
 
源(村上源氏)         公家・権大納言・正二位 ・武家伝奏 ・右近衛大将・内大臣
 
京都  天明3年(1783)2月13日の「天明京都日記」によれば、「鴨川を渡り踏(蹴)上ゲの茶店にて久我家の東路立を待つ、油小路前大納言殿(油小路隆前)先を次に久我大納言殿(久我信通)也ける、高倉佐に餞別として剛卯印を寄す、右の二卿は武家伝奏にて、 勅旨なり」とある。
 寛政3年(1791)1月12日の「寛政京都日記」によれば、寄寓先の岩倉具選邸において、「久我右大将(久我信通)(略)取次ぐ」とある。
 4月15日には「久我殿(久我信通)関東より帰京明日也とて使者あり」とある。

 久我家は清華家のひとつ。笛を家職とした。

こじまばいがい
小嶋梅外
(小嶋大梅)

安永元年(1772)~天保12年(1841
児島とも 元徽 克従・稚節 止斎・梅外・大梅・大梅居・孤山・唯阿弥・剰庵瓢齋 酉之助・吉右衛門 漢詩人・俳諧師 塩竈・(白河)  寛政2年(1790)10月28日の「北行日記」によれば、「藤塚式部知明字は子章号塩亭(藤塚知明)へ入る、江戸より小嶋酉之助名は元徽字は克従号は止斎(小嶋梅外)も来遊して出でぬ」とあり、29日・11月1日・2日にも会い、詩を贈られている。
 11月1日には「小嶋酉之助が西野(市河寛斎)へ籬が嶋の松及び詩を寄せんとて詫したるを忘れたり」とあり、再び塩竈に戻
り、「藤塚知明所に入り彼れの西野(市河寛斎)への詩を懐中に納む、遂に宿す、知明元徽と深更迄語る」とある。
 11月12日には、「白川(白河)川原町茶屋のとら屋平助に休ふ、(略)、とら屋に宿して江戸簗次正前野達への書を認む、(略)、小嶋酉之助(小嶋梅外)より市河小左衛門(市河寛斎)へ送る詩の事、(略)、届け玉はれと簗前野へ別紙にて頼みぬ」とある。


 
小嶋梅外は山本北山・市河寛斎・鈴木道彦の門人。
 市河寛斎が結成した江湖詩社では柏木如亭・大窪詩仏・菊池五山と並び称されたが、50才頃俳諧師に転じ、奥州を遊歴した。

ごじょうためのり
五条為徳

宝暦13年(1763)~文政6年(1823) 
菅原 公家侍従・少納言・文章博士・大内記・式部大輔・参議・長門権守・右大弁・権中納言・正二位・権大納言

京都  寛政2年(1790)12月13日の「寛政京都日記」によれば、「五条殿(五条為徳)の第(邸の意)へ入り佐野小進(佐野山陰)を尋ぬ」とある。
 7月12日には「佐野小進へ寄る、桑原殿にも見ゆ一角(五条家雑掌)にも逢ふて西国下りを告ぐ、五条殿(五条為徳)へ語を残す」とある。
 寛政3年(1791)1月30日には、「東坊城殿(東坊城益良)へ入り玉芙蓉を出だす、五修(条)少納言殿(五条為徳)居らる青赤白黒の玉を見せらる」とある。

 
五条為徳は享和3年(1803)日光例幣使となる。
 五条家は菅原道真を祖とし、「紀伝道(中国の歴史書や詩文の研究・教授)」を家職とし、代々文章博士に任じられた。高辻家は本家に当たる。五条為徳は五条為俊の養嗣子。五条為俊は元文6年(1741)生まれ、天明3年(1783)没。
 

  後藤左一郎
(後藤栗庵・藤徽)
  督・徽 季介・子慎 栗庵 左一郎   京都  寛政2年(1790)12月20日の「寛政京都日記」によれば、「中立売新町(略)西ヘ入る所にて後藤左一郎(後藤栗庵か)所へ入る琥珀を寄す、暫く語て」とある。

 
『高山彦九郎日記』第4巻12ページの頭注によれば、「後藤左一郎―名医と謂はれし後藤良ママ山の通称であるが彼は享保十八年に歿してゐるからその子孫か、後考を俟つ」とある。
 後藤艮山(ごとうこんざん)は江戸に生まれ、林鳳岡に学んだのち京都に移住。独学で医を学び一家をなす。香川修庵・山脇東洋の師。万治2年(1659)~享保18年(1733)。

  ごとう  しざん
後藤芝山


享保6年(1721)~天明2年(1782)
  世鈞 守中 芝山 弥兵衛 高松藩儒・藩校講道館初代総裁  天明2年(1782)3月16日の「天明江戸日記」によれば、「古文孝経序跋を見するに仲通(久保)甚だ珍らしくぞ見る、今文孝経鄭氏が註も世にあるものにて讃州高松侯の儒臣後藤彌兵衛(後藤芝山)なるが写し取りて在りといへる故予進めて板におこし玉へといひし」とある。

 
後藤芝山は守屋義門・菊池黄山の門人。父の代に一時帰農していたが、藩主に見出され江戸に遊学、昌平黌に入り、のち藩儒となる。
 後藤芝山が「四書五経」につけた訓点は漢文訓読法のひとつで、「後藤点」と呼ばれた。
 後藤芝山は
桃白鹿大塚孝綽と交遊、藤貞幹柴野栗山菊池五山の師。

  ごとう  ぼあん
後藤慕庵

後藤香四郎・後藤衡陽

元文元年(1736)~天明8年(1788)
  求之 衡陽 ・慕庵 香四郎 医家 京都  天明2年(1782)11月22日の「天明京都日記」によれば、「中立売新町西ヘ入る所にて後藤香四郎(後藤慕庵)を尋ぬ、糸を土産とす、玉川(股野玉川)近親股野敬介といへるもの讃州小池礼介なる後藤門人の弟子にて今年後藤氏へ来りしよし語る、龍野和田謙堂は後藤門人のよし、久しふ語りて」とある。
 天明3年(1783)4月6日には、「後藤香四郎古語書して寄す」とある。

 
後藤慕庵は後藤椿庵の子。後藤艮山(後藤左一郎)の孫。後藤慕庵は門人400名を抱えたという。

  このえ つねひろ
近衛経熙

宝暦11年1761)~寛政11年1799
藤原     後予楽院   公家従一位・内大臣・右大臣
(京都)  寛政3年(1791)2月24日の「寛政京都日記」によれば、「駒井(岩倉家の臣駒井雅楽之進正康)と共に出でて近衛殿(近衛経熙 )参内を見る、板輿三つ也是は元服の故にはれのよし」とある。

  こまつばらじゅんさい
小松原醇斎

生没年未詳
  充義・礼儀 仲拡 醇斎・捨己斎 剛治 儒学者・伊勢崎藩校学習堂教授 江戸  寛政元年(1789)10月13日の「寛政江戸日記」によれば、彦九郎は「日本橋青物新道(中央区日本橋1丁目か)」の小松原剛治(小松原醇斎)宅を訪ね、預けてあった衣服を着て出かけ、前野良沢の所へ泊まっている。
 12月15日には、「青物丁新道、小松原剛治へよりて、袴を改めて出づ、牧野佐渡侯
丹後田辺藩主牧野宣成・3万5000石)の邸、野田和三郎に逢ふて、古今傳授の折の禮謝を述ぶ」とある。
 12月30日には小松原の病気を見舞っている。

 小松原醇斎は村士玉水の門人。安永4年(1775)伊勢崎藩校学習堂の教授となる。

   こみやま  もくのしん
小宮山杢之進

(小宮山謙亭)


元文2年(1689)~安永3年(1774)
初め辻 昌世 君延 謙亭 杢之進・幼名:源三郎 幕府代官   安永9年(1780)6月30日の「冨士山紀行」によれば、「高橋岡右衛門(彦九郎の友人・江戸小日向近辺在住か)甲斐國南田中村(山梨県笛吹市一宮町田中)の貞婦栗女碑の文を予に致す、是れは小宮山杢之進殿の支配所に而(して)其(そ)の貞なる事を憐れまれ三輪執齋に乞ふて碑の文をせらる事は享保年中、文はかな交り也、高橋氏は小宮(山脱)家に生れたる人故是を所持す、執齋の眞書なるべきよし也」とある。
 
天明2年(1782)12月24日の「天明京都日記」によれば、「村瀬氏(村瀬久太夫・克忠)は執斎(三輪執齋)と相識にて広沢(細井広沢か)とも親しみ小宮山木工(杢)之進をも知れる人にて芙蓉(高芙蓉)賀州にて懇意のよし安田丹三語る」とある。

 
小宮山杢之進は太宰春台・稲葉迂斎の門人。初代甲州石和代官。農政・有職故実に通じた

さいぎょう
西行

元永元年(1118)~建久元年(1190)
佐藤 義清       左衛門尉・僧侶・歌人 ―(宇治・敦賀・相模小磯・象潟・野田・束稲山・熊本・津名木)  安永3年(1774)2月10日の「甲午春旅」によれば、「朝熊岳(あさまがたけ・三重県伊勢市)の麓河原町西行法師の住し舊跡今は尼寺也」とある。
 安永4年(1775)3月13日の「
乙未の春旅」によれば、「色の濱(福井県敦賀市色浜)といふ名所なり、ますを(ますほ)貝とて貝あり、西行法師至りて見るといふ」とある。
 安永5年(1776)9月20日の「
小田原行」によれば、「切通しを出で小磯(神奈川県中郡大磯町)也、鴫立澤(しぎたつさわ)十二銅にて虎が木像を見る、自作のよし尼形なり、又西行像は文覺がなた(鉈)にて作るといふ、俳人三千風菴主の由、百年斗の石塔あり、近年の菴主を鳥醉といふ、ゆるき(淘綾)郡なり」とある。
 寛政2年(1790)8月13日の「
北行日記」によれば、「時に思ひけるは鳥海の難所を越へて今日に遊ぶ楽み甚だし、よめる、西行の歌を思ひてよめる 岩が根をわれふみ越えて象潟やまことおしまも及ばざりけり」とある。
 8月15日には、蚶満寺(秋田県にかほ市
象潟町)に立ち寄り、西行和歌桜近くにある句碑の俳句を記録している。
 9月16日には、「野田の玉川見んとて」とあり、野田(岩手県久慈郡野田村)に至り、「西行屋敷とて松生ひて少し平らかなる所有り西行三年爰(ここ)に居りしと伝ふ」とある。こののち
能因の和歌を記している。
 10月9日には、「長部と赤生津の間に束稲山(岩手県西磐井郡平泉町と一関市との境)とて名所あり、西行の歌 
みちのくのたばしね山の桜花吉野の外にかかるべしとは」とある。
 寛政4年(1792)1月25日の「
筑紫日記」によれば、「林葉雨所へ至る、泉水よろし、吸物酒数有り、象潟に有りし西行の像頓阿作なるを能見堂に得たりとて見す」とある。
 3月3日には、「浜崎を越へ坂を登り(略)、爰(ここ)に右ぎ西行彫刻せしと伝ふる布袋の石仏ありまた地像也共云う、歌坂を下る西行歌あり」とある。


さいつ よししげ
財津吉恵


享保13年(1728)~寛政10年(1798)
吉恵 十郎兵衛 儒学者・高鍋藩儒・藩校明倫堂師範 日向高鍋  寛政4年(1792)7月3日の「筑紫日記」によれば、「千手春太郎(千手興景)に逢ふ、宇津宮養軒より財津十郎兵衛(財津吉恵)同貞市郎への書を千手氏へ託す」とある。
 7月5日には、「財津吉恵
シゲ来る」とある。

 財津吉恵は久米訂斎の門人。

さいとうしざん
斎藤芝山

寛保3年(1743)~文化5年(1808)
初め米良氏 高寿 権佐・権輔 芝山 権之助 儒学者・熊本藩士 熊本  寛政4年(1792)1月1日~2月24日、7月28日~8月17日の「筑紫日記」によれば、2度の熊本滞在中、斎藤高寿(斎藤芝山)とたびたび会っている。
 1月20日には、「斎藤高寿所へ至るに西村近江(西村近江大掾)よりの書去冬十一月廿三日の出にて九月伏原二位殿(伏原宣條)逝去のよし高寿へ申来る」とある。
 3月28日には、「長崎楢林重兵衛より林与一郎への書及び肥後斎藤権之介(斎藤芝山)より伊地知智平覚(伊地知正幸)の書佐藤鉄蔵へ詫す」とある。

 
斎藤芝山は独学により儒学を学ぶ。徂徠学に精通した。 

さかきばらこうざん
榊原香山
(榊原長俊)


享保19年(1734)~寛政9年(1797)
子章 香山・五陵・忘筌斎 源太郎・一学
幕臣・有職故実家 江戸  天明元年(1781)5月8日の「江戸旅中日記」によれば、「森家(赤穂藩・森忠賛・5万5000石)の臣布引節斎(布引拙斎)与力榊原源太郎(榊原香山)などいふ人ありて兵器等の古物を知り折々古物の会ありて目ききすといふ、節斎古城新城の城取の図を集め貯ふ」とある。
 閏5月3日には、「浜丁永井求馬大江尚敬(永井尚敬)会合の処に至る、会読長門本の平家物語也、出席野口辰之助藤直方(野口直方)榊原源太郎源長俊(榊原香山)坂昌文源貞古(阪昌文か)大塚市郎右衛門橘嘉樹(大塚蒼梧)森家の臣布引拙斎源高敬(布引拙斎)加藤遠江守殿(大洲藩・加藤泰候・6万石)家士石田仲右エ門殿
(ママ)賢道松平右近将監殿(館林藩・松平武寛・5万4000石・奏者番)家臣荒井休斎太神克昌松平周防守殿(石見浜田藩・松平康福・5万5400石・老中)家士伊ノ下新右衛門源新津軽越中守殿(弘前藩・津軽信寧・4万6000石)家士比良野助三郎源貞彦(比良野貞彦)上田孫右衛門源勝賢酒井左衛門尉殿(鶴岡藩・酒井忠徳・14万石)家士人見意順源貞公、主を始め予が至るを悦びける」とある。

 
榊原長俊は有職故実家の伊勢貞丈の門人。駿府勤番を宝暦3年(1753)と天明3年(1783)の2回勤める。「駿河国志」のほか刀剣や「東鏡」に関わる著述がある。

  さかしるし 
坂徴 

元禄10年(1697)~天明5年(1785)
  士謙 水母・荻軒・秋斎 文中 国学者 京都  天明2年(1782)11月25日の「天明京都日記」によれば、 「油小路丸太町上ル所坂秋斎(坂徴)を訪ふ、木賊山のとくさを一本土産とす、髪を蒙りて書に向ふて居りし、予■(手偏に遊の旁)行上人の形の如しといへは仏徒は好まずといへる故しからば赤松子仙人の如しといひて笑ふて立ツ」とある。
 天明3年(1783)4月6日の「京日記」によれば、久米順利(久米訂斎)嶋一閑・坂秋斎(坂徴)から餞別の和歌各一首をもらっている。
 天明3年(1783)11月4日の「再京日記」によれば、油小路丸太町上ル所に水母老人(坂徴)宅を訪ねている。

 
坂徴は京都で講席を張り、門人を指導した。

  さ さ き びんごのかみ
佐々木備後守
(佐々木良斎・佐々木長秀)
長秀 茂伯 良斎 地下官人・従六位下・采女佑・聖護院宮諸大夫・備後守

京都聖護院村  寛政3年(1791)1月9日の「寛政京都日記」によれば、「聖護院村に若槻源三郎敬(若槻幾斎)所に入りて(略)、佐々木備前(ママ)守(佐々木備後守)宅へ入る、(略)、共に出でて又た佐々木備前(ママ)守の所に入りて語りて遂に宿す、西山拙斎と語る、佐々木備後守長秀字茂伯良斎と号す、其子左兵衛長憲鍵蔵豹蔵とて三人子有り、京都聖堂の事を謀る事あり」とある。翌1月10日も佐々木宅に泊まり、「長秀拙斎」と語り合っている。
 1月19日には、佐々木備後守の案内で、佐野少進若槻幾斎西山拙斎・若槻菊太郎(若槻整斎)らとともに宮中内侍所の舞楽を見学している。
 2月29日には、「暮れに佐々木備後守へ寄り若槻源三郎(若槻幾斎)へ至る、西山拙斎無仏斎(藤貞幹)と酌る所也、予も共に酌みて遂に宿す」とある。
 3月26日には、「西山(西山拙斎)と佐々木良斎(佐々木備後守)へ入る若槻氏(若槻幾斎)も来たり語る、酒出づ、達天会を催し玉へ抔(など)良斎進めける」とある。
 寛政3年(1791)7月12日付け函館市中央図書館所蔵の「蠣崎矢次郎(蠣崎波響)宛て佐々木長秀(佐々木備後守)書状」によれば、佐々木備後守が波響から預かった「夷酋列像」をこの日、宮中に持参し、叡覧に供している。

 
『国書人名辞典』掲載の「幕臣・天文家の佐々木長秀」と、姓・名・字・号・受領名が全く同一であるが、彦九郎の日記の記述と合わないため、別人と考えられる。
 
  さたけ かいかい
佐竹噲噲(噲々)

(噲は口偏に會)

(佐貞吉)

元文3年(1738)~寛政2年(1790)
  貞吉 応謙・昏昏 噲噲・売酒郎・坐馳 彦四郎 南画家・篆刻家・酒屋(竹酔館) 京都  天明3年(1783)2月28日の「天明京都日記」によれば、「噲々(佐竹噲噲)が家に入る路次門に 我酒天下本橆両只是臭銅十七文 比酒屋杉をも門に立たされば昼はうれどもよるうらぬなり とありける画工にしてさけを売る、異風の器にこんにゃくを肴としざこを添ゆ下直にて雅客(がかく)のみ、唐本の前漢書を置きぬ、噲々素より相識りし事故呼び出してしばらく酌み居たる所へ久川靱負父子大江玄圃大江維翰越智周二に富□□次郎なるを具して来る大いに飲みて別る」 とある。

 佐竹噲噲は
池大雅の門人。

  さとう  いっさい
佐藤一斎


安永元年(1771)~安政6年(1859)
  信行・担 大道 一斎・愛日楼・老吾軒 幾久蔵・捨蔵 美濃岩村藩士・儒学者(陽明学)・林家塾長・岩村藩家老・昌平坂学問所儒官
江戸  寛政元年(1789)11月1日の「寛政江戸日記」によれば、「井上仲(井上四明)を尋ぬ、(略)、佐藤規矩蔵信行(佐藤一斎)と共に出でて(略)」とある。

 
佐藤一斎は井上四明・鷹見星皐・中井竹山皆川淇園・林簡順・林信敬・林述斎(大学頭・岩村藩主松平乗蘊の3男衡)の門人。佐久間象山・山田方谷・大橋訥庵・安積艮斎・横井小楠・渡辺崋山の師。
 『高山彦九郎日記』のこの日の記事の注によれば、「佐藤規矩蔵―佐藤一斎」としている。


  さとう ゆきのぶ
佐藤行信


生没年未詳
    行信   玄六郎 幕府御普請役・北方探検家 江戸  寛政元年(1789)11月30日の「寛政江戸日記」によれば、「今日伴兄(谷好井)が語るは佐藤源六(佐藤行信)嶋廻りの節難風にて土佐へ着きける時に谷丹内対したるに□し筆記二冊成りしとぞ」とある。
 寛政2年(1790)5月24日には、「佐藤源六(佐藤行信)は久奈尻(国後)エトロフを越えウルツペといふ所まで至りしとぞ老人(小幡元珉)語れり」とあり、翌5月25日に本郷森川宿の佐藤を訪ねるが不在のため伝言を残している。
 6月2日に再び訪ね、「森川宿佐藤源六を尋ね暫く語りて(略)」とある。

 佐藤
行信は天明5年(1785)・6年(1786)、青嶋俊蔵最上徳内らとともに、蝦夷地の探検に当たった。

  さとう  
佐藤尚綗(糸偏に冏)
(佐藤尚絅)

生没年未詳

藤原 子錦  尚綗 藍水 郷助 儒学者          江戸  頼春水の天明4年(1784)閏1月22日付け「春水日記」によれば、「夕方、高山彦九郎・佐藤郷助(佐藤子錦・尚綗)、来話」とあり、5月18日にも「高山彦九郎・佐藤郷助、来話」とある。
 彦九郎の日記では、「武江旅行記」に3日、「戊戌季春記事」に1日、「冨士山紀行」に3日、「江戸旅中日記」に15日、「天明江戸日記」に9日、「天明京都日記」に1日、「寛政江戸日記」に22日現れる。
 寛政元年(1789)10月3日~6日の「寛政江戸日記」によれば、彦九郎が、服部善蔵(栗斎)頼千秋(春水)細井平洲鈴木(奥村)安所・氷室陽右衛門・服部道立菅野輪斎(綸斎)菅原文蔵(文造・東海)・和気
(カ)藤九郎今は八九郎〈隆慶橋讃侯の下邸和気孫三郎所〉に、佐藤尚綗が中風(脳卒中)になったことを触れ廻っている。
 また、10月6日には、菅原文造(東海)から、「
佐藤尚在所は、奥の栗原郡月館(築館)の辺、八つくぬぎ村(宮城県栗原市八樟)」と聞いている。
 寛政2年(1790)5月17日の「寛政江戸日記」によれば、佐藤尚
綗は前野良沢を訪ね、彦九郎と良沢に、不自由となった右手に代えて左手で書いた詩を贈っている。

 
佐藤尚綗は高山彦九郎のごく親しい友人。経歴未詳

さ の さんいん
佐野山陰
(佐野少進)


寛延4年(1751)~文政元年(1818)
藤原 憲・之憲 元章 山陰・靖恭先生 少進 儒学者・五条家儒生・阿波徳島藩儒 京都  京都の友人。「天明京都日記」に3日、「寛政京都日記」に22日現れる。
 
 天明2年(1782)11月22日の「天明京都日記」によれば、高芙蓉宅で田信平とともに佐野小進(少進・佐野山陰)と相識となる。「佐野氏菅家五条家(五条為徳の養父五条為俊)の門人」とある。
 天明3年(1783)1月17日には、清涼殿東庭で催された舞楽を江口氏とともに拝観した折、佐野小進・谷伴兄・菊池八太夫が彦九郎を「見懸けて来たり集まる」とある。
 寛政2年(1790)12月13日の「寛政京都日記」によれば、「五条殿(五条為徳)の第へ入り佐野小進を尋ぬ、仇英画徴明書なると号せる聖跡一巻を見す、予土産として内裏嶋白砂 籬嶋の梅の花貝を寄す、久く語りて出づ」とある。   
 寛政3年(1791)1月7日には、白馬の節会拝観の折、紫宸殿前の庭上において、西山拙斎・若槻菊太郎(若槻幾斎の子)とともに佐野小進に会っている。
 2月17日には、「五条家(五条為徳)佐野儒士を尋ねて語る晩に及べり、言及んで学校進め参らせたる事を語る」とある。
 5月15日には、「五条家(五条為徳)佐野小進所に於て賢聖障子の事にて柴野(柴野栗山)が誤書を出したるを見る」とある。
 
 佐野山陰は阿波助任(徳島市)の浪人佐野貞行の子。安永6年(1777)上洛。京都の西村清河・菅原為俊(五条為俊)の門人。寛政4年(1792)阿波徳島藩儒となり、『阿波志』の編纂を行う。
 彦九郎は「小進」と記している。

さんじょうさねおき
三条実起

宝暦6年(1756) ~文政6年(1823)
実起 公家・内大臣・従一位・右大臣 京都  寛政3年(1791)1月4日の「寛政京都日記」によれば、「(岩倉家において)高辻式部権大夫殿(高辻福長か)三条少将殿(三条実起か)年頭祝詞予(高山彦九郎)取次也」とある。

じえん
慈延
(大愚)

寛延2年(1749)~文化2年(1805)
塚田   大愚 吐屑庵   天台僧 ・ 歌人 京都  寛政3年(1791)2月12日の「寛政京都日記」によれば、「大愚(慈延)と蝶夢所に入りける時に雨暫く降る事あり」とある。
 3月21日には彦九郎は西山拙斎に誘われ、大川良平(赤松滄洲)若槻源三郎(
若槻幾斎中山元倫・小田孝作・大愚(慈延)らと伴に、山崎闇斎宅跡・妙心寺を経て、御室に桜を見に行き、帰りに蛎崎波響らが加わり茶屋で酒を酌み交わしている。

 
慈延は小沢蘆庵澄月伴蒿蹊とともに冷泉門下の平安和歌四天王と称された。

  しげのい  きんかず
滋野井公麗

明和4年(1767)~天明元年(1781)
藤原 公麗       公家・大宰権帥・権大納言・正二位 ―(京都)  天明3年(1783)4月7日の「京日記」によれば、「大村永全宅(大村彦太郎)より出立す、山本卜泉滋野井□□大納言公麗卿(滋野井公麗)の古歌書せられたるを以て餞贐として来る予出でて対す」とある。
 
 
滋野井家は神楽を家職とした。滋野井公麗は祖父公澄の薫陶を受け有職故実に精通した。

 
  じこうじ  ひさなか
慈光寺尚仲

明和4年(1767)~文政2年(1819)

      公家・右衛門佐・正四位下・民部権大輔 京都  寛政3年(1791)3月14日の「寛政京都日記」によれば、「岩倉家(岩倉具選)へ帰へり富小路殿さそひにより芝山家へ行く、富小路貞直卿慈光寺民部権大輔源尚仲卿(慈光寺尚仲)と嵐山へ遊ぶ」とある。
 4月8日には、「叡山へ登るに従ふ、慈光寺尚仲卿へ寄る具選卿(岩倉具選)来らる」とある。
 5月2日には、岩倉三位殿(岩倉具選)・北小路殿(北小路祥光)・慈光寺殿(慈光寺尚仲)・東久世殿(東久世通庸)に従い三十三間堂で行われた平瀬光雄の通し矢をを見学している。


  しのざきさんとう 
篠崎三嶋 

元文2年(1737)~文化10年(1813)
応道 安道 三島・郁洲・梅花堂(梅花書屋)・屋号 伊予屋

長兵衛 紙商・儒学者・家塾梅花書屋塾主 京都  天明2年(1782)12月4日の「天明京都日記」によれば、「書林に入て兼葭堂(木村蒹葭堂)が宅を問へる、江戸掘三丁目篠崎長兵衛(篠崎三嶋)なる人知るべしといへる故行き至て尋ぬるに堀江五丁目にて坪井屋吉右衛門と称する則ち兼葭堂なるよし、篠崎氏名は応道字は安道号をば三嶋といふ、書を克くし学を講ず」とある。

 
篠崎三嶋は兄楽郊、ついで菅甘谷に師事。紙商伊予屋を閉じ、大坂を代表する私塾「懐徳堂」と並び称せられた「梅花社」を安永5年(1776)創設。片山北海混沌社の同人ともなり、田中鳴門・葛子琴尾藤二洲頼春水頼杏坪らと交流。大坂出身。

  しばの りつざん
柴野栗山

元文元年(1736)~文化4年(1807)
  邦彦 彦輔 栗山・古愚軒 彦助 儒学者・ 阿波徳島藩儒・昌平黌教授 京都・江戸・京都  安永4年(1775)2月に柴野栗山は京都から故郷へ帰る(「乙未の春旅」)彦九郎に「送高山生序」を贈っている。この中で、栗山は江戸において会うべき人物として「保仲通(久保冢大佐(大塚孝綽)、平明徳(平城治平)、沢右仲(黒沢雉岡)、岡伯和(岡井赤城)」の5人の名を挙げている。
 安永6年(1777)10月7日の「武江旅行記」よれば、佐藤尚綗とともに「栗山子(柴野栗山)」を訪ね、語り合っている。
 天明3年(1783)4月朔日の「天明京都日記」よれば、「栗山(柴野栗山)に入る筆を餞別す」とあり、4月6日の「京日記」によれば、「栗山(柴野栗山)は古語を書して寄す」とある。
 天明3年(1783)11月13日の「再京日記」によれば、「栗山(柴野栗山)へ入りて語る餞別として系紙の本一冊を寄す」とある。
 寛政元年(1789)10月3日の「寛政江戸日記」によれば、「瀬名源五郎(瀬名貞雄)は諸家の系図江戸中の事に通じたるによりて奥右筆組頭同格にて御土圭の間御次に於て老中壱人若老中壱人にて申渡さる、柴野彦助(柴野栗山)へは躑躅の間に於て申し渡さる、先月十日岡田清助(岡田寒泉)には奥御祐筆部屋に於て老中列座若御老中待座にて牧野備後守殿申し渡さるとぞ頼千秋(春水)が語りし」とある。
 11月15日には、「林家に入て根本生と語る、当十一日林大学頭(林信敬)柴野彦助(柴野栗山)岡田清助(岡田寒泉)三人を白河侯(松平定信)の召され、何成共御為に成る事は申上べし、儒者は祝の詩作りて奉る斗が奉公にはあらず口を閉ぢて居りては済まぬ事、此方に限らず何れ老中共へ遠慮なく何成共申出ずべし此事老中へ知らせ置きぬとありけるにより三人共に得と工夫仕り申上ぐべしとて立ちしとぞ」とある。
 寛政3年(1791)5月15日の「寛政京都日記」によれば、「五条家佐野小進(山陰)所に於て賢聖障子の事にて柴野(柴野栗山)が誤書を出したるを見る」とあり、7月18日には、栗山のことを「柴野姦儒」と書いており、関係が悪化していることが読み取れる。


 矢嶋行康コレクションに
古愚軒(柴野栗山)を訪ねた彦九郎を描いた肖像画がある。
 柴野栗山は讃岐国三木郡牟礼村(香川県高松市牟礼町)出身で、後藤芝山の門人。江戸に出て林復軒に学ぶ。その後、阿波徳島藩儒となるが、京都に住むことを許され堀川に塾を開いた。京都では赤松滄洲皆川淇園西依成斎らと交遊し、三白社と称した。長久保赤水賀川子啓(玄迪)・屋代弘賢・杉田玄白とも交流した。のち幕府から、岡田寒泉とともに聖堂取締りを命じられ、寛政異学の禁を実施した。尾藤二洲・古賀精里とともに「寛政三博士」と称される(古賀精里に代え岡田寒泉とする場合もある)。

しばやまくにとよ
芝山国豊

天明元年(1781)~文政4年(1821)
藤原 国豊   公家・正三位・非参議 京都  天明3年(1783)11月18日の「再京日記」によれば、「芝山殿(芝山持豊)に入りて(略)」嫡子高宇丸国豊殿(芝山国豊)を呼びて行末長く入魂あらるる事乞ふ所也とありける、実は勧修寺殿の二男にして今年三才也、血脉に帰へるとて持豊卿よろこばる」とある。
 寛政2年(1790)12月3日の「寛政京都日記」によれば、「芝山前宰相持豊卿(芝山持豊)へ入る、義子高宇丸国豊(芝山国豊)今歳十歳にて和歌を克くせらる、五歳の時より歌書を読み九歳より歌詠有るのよし語らる」とある。
 寛政3年(1791)7月18日には、九州行の餞別として和歌の短冊ほかをもらっている。

 
芝山国豊は芝山持豊の養子。勧修寺光経逸の子、勧修寺良彰の弟。芝山家は勧修寺家の分家にあたる。

  しばやまもちとよ
芝山持豊

寛保2年(1742)~文化12年(1815)
藤原 持豊 盈成 成風   公家・左兵衛督・参議・権中納言・正二位・権大納言・歌人 京都  京都における彦九郎の支援者のひとり。
 天明京都日記」に1日、「京日記」に2日、「再京日記」に7日、「寛政京都日記」に67日、「筑紫日記」に12日現れる。
 天明3年(1783)4月3日の「天明京都日記」によれば、彦九郎が「芝山左兵衛督正三位持豊卿(芝山持豊)」を訪ねた折、「烏帽子にて出でられ懇切に語られける」とある。
 寛政3年(1791)1月16日の「寛政京都日記」によれば、「菓子一箱を呈」し、芝山持豊卿を訪ね、「飯にかわらけ出でて大に語る」「夫人も出でてかわらけにて礼有りける」とある。
 寛政3年(1791)6月11日の「寛政京都日記」によれば、「芝山家に入りて短冊六十枚を参らせ、諸卿へ読歌書し玉はれと乞ふ。知己の公卿のみ也」と記しており、彦九郎が九州下向の際、志士に配布する和歌の短冊を提供している。

 
芝山持豊は明和事件に連座したが難を免れた。澄月の庇護者。芝山国豊の養父。

  しぶい たいしつ
渋井太室

享保5年(1720)~天明8年(1788)
  孝徳 子章 太室 平左衛門 儒学者・下総佐倉藩儒・昌平黌都講 江戸・(高鍋)  天明元年(1781)5月3日の「江戸旅中日記」によれば、「やよす(八代州=八重洲)川岸林家(林信徴)の門内にて太室(渋井太室)を訪ふてまた林家の系図を見る」とある。
 天明2年(1782)3月12日の「
天明江戸日記」によれば、「太室(渋井太室)所へ寄りて祠堂の図を借らむとす無之由」とある。
 寛政4年(1792)閏2月13日の「
筑紫日記」によれば、高鍋郊外中鶴村(宮崎県児湯郡高鍋町) の「琴弾松」を見学した折、「佐倉渋井孝徳(渋井太室)撰」による源重之の歌碑を見て、和歌を詠んでいる。

 渋井
太室は井上蘭台林信充(榴岡)の門人、名越南渓・秋山玉山・滝鶴台・南宮大湫・細井平洲と交遊。

  しま しつう
嶋士通

生没年未詳
源  雅修 士通 藍園 画家 京都  『高山彦九郎日記』第5巻210ページに、安永4年(1775)2月16日付で「高山彦九郎様 副 拙画二幀」と嶋世通から彦九郎に宛てた書簡が掲載されている。署名は「雅修」とあることから、嶋世通は嶋士通と同一人物と考えられる。
 天明2年(1782)11月23日の「天明京都日記」によれば、「黒門下売立上ル嶋志通法を尋ぬ、其父一閑斎対す、御即位の図作るよし、糸を土産とす」とある。
 天明3年(1783)4月1日には、「嶋一閑及び子士通へ見舞て」とある。
 4月6日の「京日記」によれば、久米順利(久米訂斎)・嶋一閑・坂秋斎から餞別の和歌各一首をもらっている。

  
  しまだ  かつじ
嶋田嘉津次
(島田撫松)

宝暦5年(1755)~文政2(1819)
  貞孚   撫松 嘉津次 熊本藩士・町奉行・大奉行・中老 熊本  寛政4年(1792)1月10日の「筑紫日記」によれば、「高本氏(高本紫溟)に帰へるに嶋田勝治(嶋田嘉津次)より菊池苔桑酒を寄す、(略)、嶋田嘉(嶋田嘉津次)詩一首寄す」とある。
 1月14日には、「今日嶋田勝治(嶋田嘉津次)足袋二足を寄す」とある。
 1月27日には、「夜は嶋田勝次(嶋田嘉津次)来る語る」とある。

 
嶋田嘉津次は藪孤山の門人。

しまづただもち
島津忠持

明和3年(1766年)~天保2年(1831年)

藩主在任:
天明5年(1805)~文化13年(1816年)
大名・日向佐土原藩第9代藩主・淡路守 ―(京都・佐土原)  寛政3年(1791)1月18日の「寛政京都日記」によれば、「浅井江軒案内にて林彦作所へ至り彦作案内にて嶋津淡路守(島津忠持)屋敷に入り琉球人を見る、下部四五人居る是れ路次楽人なるのよし也、与那城ヨナグスクなると言を交ゆ克く通ずる也、薩摩言葉と覚ゆ、琉人等互に語るは聞え難し」とある。
 寛政4年(1792)7月2日の「筑紫日記」によれば、「当城主嶋津淡路守(島津忠持)隠居へ
(はカ)五十九歳但馬守(島津久柄)殿といふ、予が出だしたる時習館の図及び詩歌但州(島津久柄)の命じて写させられけるよし」とある。

 
佐土原藩は日向佐土原(宮崎県宮崎市佐土原町)に藩庁を置く2万7千石の藩。薩摩藩の支藩とされる。島津忠持は島津久柄の三男。

  しまづ なりのぶ
島津斉宣

安永2年(1773)~天保12年(1841)

藩主在任:
天明7年(1787)~文化6年(1809)
      渓山 虎壽丸のち又三郎 大名・薩摩藩第10代藩主・豊後守・薩摩守・修理大夫 (京都・薩摩)  寛政3年(1791)5月17日の「寛政京都日記」によれば、参勤交代で薩摩に戻る途中、伏見の薩摩藩邸に滞在している松平豊後守(島津斉宣)に従行していた赤崎貞幹(海門)と彦九郎が会い、赤崎が18日に彦九郎の紹介で伏原宣條卿・岩倉具選卿・芝山持豊卿に会い、和歌をいただいたことについて、19日に、斉宣が赤崎に、「如何にして斯く公卿方へ見へつるや歌など玉ふ事は難しと」と尋ね、「高山氏に寄りて謁しつる」と答えたところ「珍事なる義に思ふて説(ママ)ばれつる」と述べたという。
 寛政4年(1792)4月2日の「筑紫日記」によれば、赤崎宅において、「吸物酒肴数を尽し飯に蕎麦出づ、侯(島津斉宣)の狩得て捕たる鹿に台所
(ママ)より寄せたりとぞ侯よりの饗の様子(カ)にて菓子其外多ふく食類出づ、侯も言に出でて予が来を悦びぬと聞こへし、遂に夜半迄語る」とある。
 4月13日には、造士館で歓迎の宴があり、桜島をながめながら、船中で酒宴が催された同時刻に「薩太守(島津斉宣)」も船遊しているのが遠くに見えたとある。

  しまづ ひさもと
島津久柄

享保19年(1734)~文化2年(18051)

藩主在任:
宝暦3年(1753)~天明5年(1805)
      万寿丸・又四郎 大名・日向佐土原藩第8代藩主・淡路守・但馬守 ―(江戸・日向佐土原)  天明元年(1781)5月20日の「江戸旅中日記」によれば、「嶋津の分地に嶋津但馬守(島津久柄)といへるあり」とあり、江上観柳が呼び出した善右衛門から聞いた佐土原藩家老の家禄没収、再興の話を詳しく聞いている。
 寛政4年(1792)7月2日の「筑紫日記」によれば、「当城主嶋津淡路守(島津忠持)隠居へ
(は五十九歳但馬守(島津久柄)殿といふ、予が出だしたる時習館の図及び詩歌但州(島津久柄)の命じて写させられけるよし」とある。

 
佐土原藩は日向佐土原(宮崎県宮崎市佐土原町)に藩庁を置く2万7千石の藩。薩摩藩の支藩とされる。島津久柄は島津忠持の父。

  しみず なんがい
志水南涯
(菅南涯・菅周監・菅原南涯)


生没年未詳
菅原 周監 子文 南涯 勝右衛門 画人・篆刻家 京都  天明2年(1782)12月21日の「天明京都日記」によれば、「今日芙蓉翁(高芙蓉)の宅にて田中信蔵(田中適所)なる人に相識となる越前府中(福井県越前市・旧武生市)の産とぞ、志水勝右衛門(志水南涯)に相識となる森礼義(森礼蔵)と同なじく芙蓉印刻の高弟也」とある。
 天明3年(1783)1月15日には、「志水周監志水南涯の絵を初めて見る靍をゑがけり」とある。
 寛政3年(1791)3月16日の「寛政京都日記」によれば、「志水南涯より書を寄せて江州高嶋郡地内村中川六左衛門なる縁家の所より湖中より得たりし緑毛亀を送り越したるのよし告げ来る、至り見るに甲長さ金尺二寸七分横壱寸九分にてぞ有ける二三日以前に得たるよし也、小児疱瘡まじないの為めとて亀と盃せしめんとて群聚ス」とある。
 上記を含め、「天明京都日記」10日、「京日記」に2日、「高山正之道中記」と再京日記」に各1日、「寛政京都日記」に74日現れる。
 
 
志水南涯は京都における友人。高芙蓉の門人。丸太町新町西入ル住。

  しむら とうしょ 
志村東嶼 

宝暦2年(1752)~享和2年(1802)
  時恭・直 仲敬 東嶼・東州 吉之助・義申・東蔵 儒学者・昌平黌舎長・仙台藩大番士・仙台藩儒 仙台  寛政2年(1790)10月26日の「北行日記」によれば、林子平の兄嘉膳宅に滞在中、「高橋義蔵名は有則字は叔省号は東渓(高橋容斎)、志村東蔵名は時泰(時恭)字は仲敬号は東洲(志村東嶼)来る、吸物酒飯出でて大いに語る、下野国弥藤治丹治(弥藤次丹治)が事を語りて時泰に紀事を乞ふ、深更に及んで文章成る、東渓東洲帰へる時に門外に送る、子平子(林子平)は東渓を送りて其家に至りて宿す」とある。
 
上記記事中の「志邨時恭(志村東嶼)」筆の「弥藤次丹治」の文章は『高山彦九郎日記』第5巻285ページに掲載。

 志村東嶼は陸前江刺郡黒羽堂村の人。河村潤安の門人。昌平黌に入り舎長となる。寛政元年(1789)仙台藩大番、次いで藩儒となる。詩文に通じた。

 

  しゅうどううてい  
集堂迂亭
しゅうどうがくざん
(集堂学山)

元禄13年(1700)~天明4年(1784)
  元成 慎甫 学山晩年:迂亭 安左衛門 阿波徳島藩士・奥小姓・江戸藩邸目付役・儒学者・藩公侍読 江戸  天明2年(1782)3月19日の「天明江戸日記」によれば、「稲荷橋阿州侯の屋敷(徳島藩・25万7000石・江戸下屋敷・中央区入船及び湊)に入て集堂弓五郎師宅を尋ぬ、(略)、其父迂亭(集堂学山)名は元成字は慎甫年八十三、是れもよろこび出でて久しく語れり、鳩巣の門人にて室子の書ば悉く集めて版行す」とあり、室鳩巣の記録について語り合っている。
 3月24日に再び集堂宅を訪ね、弓五郎の弟与之丞や父集堂迂亭から酒飯のもてなしを受け、室鳩巣の書のことについて語り合っている。

 
集堂学山は室鳩巣の門人で、その著作を整理出版した。柴野栗山が墓碑を書いている。集堂弓五郎の父。

  しゅうどう
集堂弓五郎
  惟忝 希粛 大嶼 弓五郎 阿波徳島藩儒 江戸  天明2年(1782)3月19日の「天明江戸日記」によれば、服部栗斎から集堂氏が祠堂の図を載せた「聞録」という書を持っていると聞き、「稲荷橋阿州侯の屋敷(徳島藩・25万7000石・江戸下屋敷・中央区入船及び湊)に入て集堂弓五郎師宅を尋ぬ」とあり、弓五郎やその父集堂迂亭(集堂学山)と語り合っている。弓五郎は「聞録」を延岡藩の杉山宇八郎に貸した覚えがあるとして杉山宛ての手紙を彦九郎に渡している。
 3月24日に再び集堂宅を訪ね、弓五郎の弟与之丞や父集堂迂亭(集堂学山)から酒飯のもてなしを受け、語り合っている。
 寛政元年(1789)12月23日の「寛政江戸日記」によれば、「稲荷橋阿波侯の邸に入る、集堂弓五郎に逢ふて本山忠次郎所に至る、予が貧困を痛みて二分を寄す」とある。

 
集堂弓五郎は集堂迂亭の子。服部栗斎の門人。

  しょうざん
嘯山
(三宅芳隆・三宅嘯山

享保3年(1718)~享和元年(1801)
三宅 芳隆 之元(子元)・文中 嘯山・葎亭・滄浪居・橘斎・鴨流軒碧玉江山人   俳人・儒学者・医家・仁和寺侍講・青蓮院侍講 京都  寛政3年(1791)2月14日の「寛政京都日記」によれば、「大原欽治(大原左金吾)所へ至らんとする途中に南涯(志水南涯)に逢ふに欽治いまだ帰へらず、其養父嘯山(三宅芳隆)に逢ふて語る、中興鑑言を借しける、嘯山は三宅緝明の族也」とある。

 
嘯山は蝶夢・蕪村・几董・芥川丹・六如と交遊。

  上州屋勘右衛門             江戸  神田鍛冶町二丁目(千代田区鍛冶町)住。彦九郎は祖父・祖母の神主(しんしゅ)を預けており、たびたび奠拝(てんぱい)に訪れている。
 寛政元年(1789)10月3日~寛政2年(1790)6月5日の間に32日現れる。

 
上州屋の屋号を持つことから、同郷者に対しサービスを提供する稼業か。

  上州屋平七             江戸  牛込赤城明神下の改代町(新宿区改代町)大谷善七店の住人。
 安永5年(1776)4月5日~寛政2年(1790)6月6日の間に27日現れ、合計5泊している。

 
上州屋の屋号を持つことから、同郷者に対しサービスを提供する稼業か。

  しょうだはやと
正田隼人 
  義伸       郷役人(寺社奉行支配・江戸城年始登城)

 安永7年(1778)3月19日の「戊戌季春記事」によれば、「正田隼人が徳川村に寄る所の一翰を届しむ」とある。

 新田郡徳川郷(徳川村とされる場合もある)は徳川氏父祖発祥の地とされ幕府から特別な扱いを受けていた。天正19年(1591)、徳川家康は徳川郷総石高450石のうち100石を満徳寺(のち縁切寺となる)、50石を永徳寺、300石を同郷百姓領とし、守護不入・諸役御免の朱印地とした。貢租公課は免除され、村の支配は正田隼人(代々「隼人」を称した)にゆだねられた。

  しらお さいぞう
白尾斎蔵

宝暦12年(1762)~文政4年(1821)
本田 親白   親麿・国柱・鼓泉・瑞楓 助之進・斎蔵 国学者・薩摩藩士 鹿児島  寛政4年(1792)5月17日の「筑紫日記」によれば、造士館生、山下正助の案内で白尾才蔵国柱(白尾斎蔵)宅を訪れ、明け方まで語り合っている。
 5月22日には、
富小路良直卿の春夜宴桃李園序染筆を贈り、別盃を酌み交している。
 5月24日には、書簡、歌、文章、山陵考(白尾国柱著『神代山陵考』)、坊津紀行、唐扇一本を贈られている。
 8月に再度熊本へ行った時、白尾斎蔵の「山陵考」を長瀬真幸
に見せ、由来を抜き書きしている。

  じんぼつなただ
神保綱忠

寛保3年(1743)~文政9年(1826)
  綱忠・行簡・善弥 子廉 蘭室・宜雨堂 容助 儒学者・米沢藩校興譲館督学・大目付 米沢  寛政2年(1790)7月15~23日の「北行日記」によれば、彦九郎は米沢滞在中、神保容助(神保綱忠)と毎日のように懇談している。

 神保綱忠は
細井平洲の門人で、片山紀兵衛(観光)とともに藩学興譲館の興隆に尽力。上杉鷹山の学友。

すいしんし まさひで
水心子正秀
かわべまさひで
(川部正秀)


寛延3年(1570)~文政8年(1825)
川部 宅英のち英国のち正秀晩年は天秀   水心子 三治郎・儀八郎 山形藩秋元家刀工 江戸・(赤湯)  天明5年(1785)7月13日の「北上旅中日記」によれば、藪塚村で休憩中、金山城時代から鍛冶を生業としているという新田郡強戸村の荒井嘉兵衛に、「薩摩の元平(奥元平)羽州の正秀(水心子正秀)天下二人の鍛工なり。正秀とは交わり厚し、予正秀へいわば門人易かるべし」と話している。
 寛政元年(1789)10月6日の「
寛政江戸日記」によれば、「浜丁秋元侯の邸(山形藩中屋敷・秋元但馬守・6万石・日本橋浜町3丁目)水心子正秀所へ寄る、宿らせ玉へとて止むれ共急ぎて立ちて…」とあり、12月15・18・22・27・28日にも正秀宅を訪ね(22・27日には宿泊している。
 
12月22日には、「秋元侯の邸にて正秀を尋ぬ、遂に水心子に宿す、大洲侯(伊予大洲藩・6万石・加藤泰済・遠江守)の臣戸田勘介、研師忠兵衛、西尾隠岐守殿(遠江横須賀藩・3万5000石・西尾忠移)鍛冶中塚初蔵三秀、土佐の鍛冶木村久太郎国道、山形結城正武弟清七武秀等と語る」とある。
 
12月27日には、正秀の門人およそ30人と聞き、その名を列挙している。
 12月28日には、「正秀相州正宗嫡伝綱広に門入のよし」とあり、「寒暖圭(寒暖計)一に寒熱升降なるものを見る」とある。
 
寛政2年(1790)7月26日の「北行日記」によれば、「(赤湯)町を出でて新田にて正秀(水心子正秀)が兄の宅を尋ぬ他出にて藤助なるものへ申し置く、兄の名をば太兵衛と云ふ」とある。

 水心子正秀は安永3年(1774)山形藩主秋元永朝に召抱えられる。天明元年(1781)日本橋浜町の山形藩中屋敷に定住する。
 水心子正秀は彦九郎に銘入り刀を打っている。


  すがぬまこくふう
菅沼穀風


生没年未詳
(宝暦~天明の人)
穀風 五嶺   梅荘
卜筮者・相法家 京都  天明3年(1783)4月1日の「天明京都日記」によれば、「(岩倉殿〈岩倉具選〉)菅沼枝叟(菅沼穀風のことか)に相さしめ候へとて予を留め語らる」とある。
 10月27日には、「木屋町二条下ル二丁目にて紫龍梅荘菅沼源穀風宅に入りて相を見す」とあり、将来を占ってもらっている。
 天明3年(1783)11月15日の「再京日記」によれば、「芙蓉山房(高芙蓉)へ至りて(略)、荊山和田氏守神原翁菅沼梅荘(菅沼穀風)来れり」とある。

 
 『高山彦九郎日記』第5巻289ページ(天明3年4月1日)の頭注によれば、「菅沼枝叟―易者の菅沼源穀風の事か、度々相を見せたる記事あり」とある。

菅沼定喜

 
定喜 新三郎 旗本・目付・京都東町奉行・勘定奉行・下野守 ―(江戸・京都)  天明元年(1781)5月30日の「江戸旅中日記」によれば、「先づ菅沼新三郎殿(菅沼定喜)頃日御徒目付となる、入りて中野寛治を訪ふ、朋輩小林繁右エ門に相識となる、(略)、菅沼家千弐百五十石の家禄のよし」とある。
 寛政3年(1791)2月1日の「寛政京都日記」によれば、「東町奉行菅沼下野守(菅沼定喜)家老小林吉右衛門へ入る夜に及んで帰へる」とある。

  すがの りんさい
菅野綸斎

生年未詳~寛政11年(1799)
  要中 子和 綸斎 勘兵衛 儒学者・会輔堂2代堂主 江戸  江戸旅行日記」に1日、「武江旅行記」に1日、「冨士山紀行」に1日、「江戸旅中日記」に2日、天明江戸日記」に5日、寛政江戸日記」に3日現われる。
 安永5年(1776)4月5日の「
江戸旅行日記」によれば、「菅野氏(綸斎)に至る、加納遠江守殿(伊勢八田藩・1万石・若年寄・加納久堅か)内小泉十兵衛と云ふ人に逢ふ」とある。
 天明2年(1782)3月17日の「
天明江戸日記」によれば、「会輔堂に入る、祖考の事を語りて祀堂の事を謀る」とあり、綸斎から伊南左膳という人物を紹介されている。
 3月20日には、
会輔堂の綸斎と共に伊南左膳(源八重平)宅へ行った折、彦九郎は「祠堂の談のみ兼てはありぬ、輪斎翁の言に初めて霊社の号のなる事をば知れり」と伊南に話している。
 のち、彦九郎は
伏原宣條卿などの支援で京都の吉田神道家から祖父貞正の神号を受けている。
 3月23日には、「今日輪斎(綸斎)の子彦次郎浪華一本亭上様に於て御料理頂戴の後寿の字を賜はる因りて」狂歌を詠んだと聞いている。
 寛政元年(1789)10月6日の「寛政江戸日記」によれば、「会輔堂」へ入る輪斎(綸斎)父子と語
(る脱カ)輪斎の歌爰に載せ侍りぬ、輪斎七十一、十月三日朝卯の刻生るとあり、綸斎・伊南八重平の和歌を記している。

 
菅野綸斎は父、菅野兼山が設立した郷校会輔堂を継承した
 
彦九郎は「輪斎」と書いている。

  すがわらとうかい
菅原東海 

元文4年(1739)~文政11年(1828)
  東海  文造 儒学者 江戸  寛政元年(1789)10月5日の「寛政江戸日記」によれば、「(霊岸寺中豊□寮の)菅原文蔵(菅原文造・菅原東海)に逢うて、佐藤尚中風を告ぐ。遂に宿す。茶・菓子を出して語る。酩酊故に酒をば辞して止みぬ」とある。
 翌6日には、菅原東海から
佐藤尚の出身地について聞いている。
  
 
菅原東海は細井平洲の門人。仙台出身。会津藩主や豊後佐伯藩主などへ出教授した。

  すぎた げんぱく
杉田玄白

享保18年(1733)~文化14年(1817)
  子鳳 玄白   若狭小浜藩蘭方医・外科医 江戸  寛政元年(1789)11月13日の「寛政江戸日記」によれば、寄寓先の前野良沢の家に夜帰ったところ、その日杉田玄白が訪ねて来たことを聞いて、「逢わず遺憾とす」と記している。

 杉田玄白は「解体新書」を
前野良沢・中川淳庵らとともに翻訳した。大槻玄沢・宇田川玄真の師。平賀源内の盟友。
 子に養子で跡を継いだ杉田伯元、実子で別家を立てた杉田立卿がいる。

  すぐり ぎょくすい
村士玉水

享保14年(1729)~安永5年(1776)
  宗章・元章 幸蔵・行蔵 玉水・一斎   儒学者・信古堂主・伊勢崎藩儒 伊勢崎  村士玉水は彦九郎の師といわれる。伊勢崎藩校学習堂の命名者。門人に服部栗斎岡田寒泉小松原醇斎(剛治)等がいる。父村士淡水は三宅尚斎の門人で、福山藩儒。

  すずき あんしょ
鈴木安所
  おくむらあんしょ
奥村安所
               
  すずき らんえん
鈴木蘭園
(鈴木修敬)

寛保元年(1741)~寛政2年(1790)
子雲 蘭園 修敬  医家・音曲家 京都  天明3年(1783)2月26日の「天明京都日記」によれば、「南岐(塚本南岐)を具して二条木屋下ル所鈴木修敬(鈴木蘭園)を尋ぬ他出也」とある。
 天明3年(1783)4月4日の「京日記」によれば、「鈴木修敬(鈴木蘭園)来る酒を出だして語れり」とあり、4月6日には、「鈴木修敬(鈴木蘭園)返礼す」とある。
 
天明3年(1783)11月23日の「再京日記」によれば、「夜に入りて鈴木修敬(鈴木蘭園)宅に入りて谷氏を待ても来らず」とある。

 鈴木蘭園は広く諸学に通じ、特に琴に長じた。門人に中川壺山がいる。

  すずき ぶすけ
鈴木武助

享保17年(1732)~文化3年(1806)
藤原 正長   蘭庭・為蝶軒   黒羽藩家老・民生家 下野黒羽  寛政2年(1790)11月13日の「北行日記」によれば、「黒羽領也、鈴木武助江戸へ召され褒賞ありしよし聞きぬ」とある。
 11月14日には、「武右衛門を以て宿役人共留るによりて遂に宿す、年寄藤田勘兵衛同三郎兵衛助成役稲沢文蔵三人の者共礼服して来る、三郎兵衛文蔵黒羽へ至り鈴木(鈴木武助)へ予来る(
を脱か)告るのよし、(略)、夜中年寄勘兵衛三郎兵衛助成文蔵礼服して来り鈴木よりの言を述ぶ、後武右衛門又委細に鈴木(鈴木武助)よりの言を述べたり、大いによろこぶののよし」とある。
 11月15日には、「越後国御代官広瀬伊八郎殿去年越堀見付文蔵なる茶店にて鈴木(鈴木武助)よりの百姓への書付を見られて借りて江戸へ行かれ是れを越中侯(松平定信)へ達し遂に鈴木氏を公儀へ召され称誉の言ありとぞ」とあり、「黒羽へ入る、(略)、鈴木武助藤原正長所へ入る礼服して出で迎ふ、宿す、吸物酒肴麺出づ」とある。
 11月16日には、「飯酒の後に立つ、南鐐八片、及び絹衣一つ菊花を寄す」とある。
 寛政2年(1790)12月15日の「寛政京都日記」によれば、「下野国黒羽城鈴木武助へ金壱両返弁の書堀越駅丸屋助右衛門へ金子(きんす)壱分返弁の書表封は藤田源蔵へ一封とす、境町二条上ル所万屋弥五兵衛家方へ渡し(略)」とある。
 1月25日には、「大村氏(大村彦太郎)より下野国黒羽の士鈴木武助正長よりの書を届けたり正月5日認のよし、金子慥(
)に請取のよし、別紙に同() 将軍家十一月廿二日に吹上に於て老中若老三奉行等侍座百姓公事御裁許向御直御見聞被遊候よし申来る」とある。

 
文化2年(1805)、鈴木武助が著した勧農書「農喩」の中で、彦九郎から聞いた天明の大飢饉の惨状から、飢饉へ備えを説いている。これは、当時の幕府の農政改革の参考資料にされている。
 なお、上記、寛政2年の彦九郎の書に対する鈴木武助の返書が『高山彦九郎日記』第5巻252ベージに掲載されている。


すはらや   いちべい
須原屋市兵衛


 ~安永8年(1779)初代
 ~文化8年(1811)2代

書肆
 天明3年(1783)4月15日の「天明下向日記」によれば、『信州地名考(信濃地名考)』の著者吉沢好謙(鶏山)の子大黒屋吉沢彦五郎(孝道ヨシミチ・子篤)を問屋依田清右衛門に呼んでもらい、高芙蓉へ同書を送ってもらうよう依頼し、版元が「須原や市兵衛(須原屋市兵衛)」であることや吉沢好謙の号「鶏山」の由来などを聞いている。

 須原屋市兵衛は江戸最大の書肆(書物問屋・版元)であった須原屋茂兵衛から暖簾分けした書肆のひとつ。福内鬼外(平賀源内)の『神霊矢口渡』、杉田玄白らの『解体新書』、長久保赤水の『大清広輿図』、林子平の『三国通覧図説』などを出版した。

すみ  やすあきら
鷲見保明
(鷲見慶明・鷲見休明)

寛延3年(1750)~文化5年(1808)
慶明・保明・休明 子休 淡成舎・忘言亭 權之丞・権之丞・新助 儒学者・鳥取藩士・藩主侍講・米子組士筆頭役・歌人 伯耆米子  『高山彦九郎日記』第5巻(215ページ)所収の、安永5年(1776)の10月12日付けと想定される(桃白鹿に関連する安永3年の記録及び彦九郎が熊沢小八郎に宛てた書簡から確認できる)柘植忠太義方(鳥取藩米子組士)から彦九郎へ宛てた書簡の追伸に、「尚々米子鷲見新助(鷲見保明)、熊沢小八郎、鳥取安藤庄助(安藤箕山)右三人之者随分無事ニ相暮し居申候間(略)」とあり、安永3年(1774)に彦九郎が米子を訪れ、交流していることが確認される。

 鷲見保明は安藤章(安藤箕山)の門人。紀行、歌日記に優れ、米子歌壇を形成。箕浦靖山と交流。
 安永3年(1774)当時、鷲見家の当主は鳥取藩米子組筆頭役の鷲見権之丞慶貞(520石)で、鷲見保明はその長男。
 保明は安永4年(1775)3月の父慶貞の死に際し、27ヶ月にわたり喪に服している(なお、彦九郎の3ヶ年にわたる服喪は天明6年(1786)から天明9年(1789)であるが関連は不明)。


せいた
清田文興
 せいた たんそう
(清田儋叟)

享保4年(1719)~天明5年(1785)

元琰・君錦 孔雀楼・千秋斎・孔雀楼 文興・文平 儒学者・福井藩儒
福井・―(桶川)  安永4年(1775)3月18日の「乙未春旅」によれば、「禮服して問屋へ行清田文興宅を問、大工町の牢屋前を通り下谷町清田絢(清田文興)宅に入少語て出」とある。
 天明元年(1781)閏5月9日の「江戸旅中日記」によれば、鴻巣の蒲焼酒店で休憩中に知り合った越中富山の密田顕から聞いた話の中で、飛騨から木曽へ抜ける山中で宿を乞い、主に、俳句、和歌を贈ったものの、「よき御心かけなり」「存せしに違いひたり」と言われたため、「立時に清田文皐(清田文興か)が書を与ひたりければ主じよろこびてヶ様なる方と見請まいらせしといひて改めたり、(略)、と語る」とある。
 
 
清田文興は福井藩儒伊藤龍洲の3男。長兄伊藤錦里は経学、次兄江村北海は詩、清田文興(儋叟)は文をもって知られた。父の本姓清田を継いだ。京都生まれ、幼少のころを播磨明石で過ごし明石藩儒梁田蛻厳に学ぶ。始め徂徠学を修めたが、後に朱子学に転じ、越前福井藩儒となる。清田龍川(江村北海の三男)の養父。

せきしげたか
関重嶷

宝暦6年(1756)~天保7年(1836)
  重嶷 子岐 睡峒・喚醒 助五郎・此面 儒学者・伊勢崎藩校学習堂学頭・伊勢崎家老 伊勢崎か  新井雀里の著「高山芳躅誌」によれば、初対面の折、関重嶷の遠祖が彦九郎の遠祖高山遠江守と同じ新田義貞十六旗の篠塚伊賀守と知り、「元享己来の知己なりしものを」と親戚のように交わったという。
 『高山彦九郎日記』第5巻220ページに、天明初年(1781)と考えられる「晩秋三日」付けの関重孝から彦九郎に宛てた書簡が掲載されている。

 関重嶷は
彦九郎の肖像画を描いている。

  せきせきじょう
関赤城

明和3年(1766)~文化5年(1808) 
  龔(「龍」の 脚に「共」) 子敬 赤城 文太郎 ・吉十郎 北方探検家・兵学者・儒学者・丸岡藩儒 江戸  寛政元年(1789)11月20日の「寛政江戸日記」によれば、「(前野良沢宅に)上州沼田後閑村の人にて櫛淵八弥宣根(櫛淵虚冲軒)来る、小川町裏猿楽町羽倉権九郎殿(幕府代官か)に滞留のよし、酒出でて暫く語る、今歳六月出立にて下谷坂本町二丁目青嶋俊蔵なる御普請役蝦夷へ渡りて先月二十九日に帰へる、其人に従ふて、関吉十郎字子敬(関赤城)なる者も行きしよし。沼田の城下富家の子にて学問を好める人有るを聞くそれなるべしといへば果たして然り、櫛淵氏、蝦夷物語を約して富山町田丸屋兵右衛門所へ会すべしとて立つ」とある。
 翌21日には、「富山町田丸屋兵右衛門を尋ぬるに田丸屋といへるはあらず、富山新道至て田丸屋有りて、櫛淵(櫛淵虚冲軒)と関(関赤城)とに逢ふ、蝦夷の事を尋ぬるに来春を約して、答へ詳かならず、耳環に銀など有とかたる故其銀はと問へば関氏答へてさんたんより来るのよし也、茶漬など出だす。答へ詳らかならぬ故に立つ」とある。

 沼田材木町荒物商清水屋関権兵衛の子。寛政元年(1789)閏6月幕府普請役青嶋俊蔵に従い、蝦夷地を訪れた。江戸で開塾し、柳川藩・福岡藩・久留米藩に出仕。寛政6年(1794)越前丸岡藩主有馬誉純に儒官として出仕した。
 関が従った青嶋俊蔵は寛政元年(1789)の蝦夷調査から帰ると最上徳内とともに、再び咎を受け、寛政2年(1790)1月20日に伝馬町揚屋に収監され、8月5日遠島が申し渡されたが、8月17日牢屋内で病死している。
 櫛淵・関の彦九郎に対する態度は青嶋らの処分と呼応するものか。
 
せ た  のりあや
勢多章斐

宝暦11年(1761)~文政7年(1825) 
中原 章斐 地下官人・明法博士・大判事・正四位上 京都  天明3年(1783)1月6日の「天明京都日記」によれば、「明日北の陳拝見せむが為めに芙蓉翁(高芙蓉)よりの書を持て久我(家)雑掌辻近江守遣(検)非違使判官上晋(カ)目勢多大判事(勢多章純)の宅へ江口氏行く、予は行くに及ばず」とある。
 1月7日には、「熨斗目麻上下にて拝礼し江口氏と共に東坊城家へ至り北の陳拝見の後(略)、(勢)多大判事(勢多章純)の宅に至る、正面に大判事左右に遣(検)非違使八人座す皆な巻纓(まきえい)老懸(おいかけ)弓矢を帯す、平ら屋なぐひ(平胡籙)也」とあり、装束を詳しく記している。また「予と江口氏にも大判事の子弾正忠(勢多章斐か)相伴にて吸物酒出づ」とある。

 
「北の陳(陣)拝見」とは「御弓始めの儀」拝観の意か。
 勢多章斐は勢多章純の子。

せ た  のりずみ
勢多章純

享保19年(1739)~寛政7年(1795) 
中原 章純 適斎 地下官人・明法博士・大判事・正四位 京都  天明3年(1783)1月6日の「天明京都日記」によれば、「明日北の陳拝見せむが為めに芙蓉翁(高芙蓉)よりの書を持て久我(家)雑掌辻近江守遣(検)非違使判官上晋(カ)目勢多大判事(勢多章純)の宅へ江口氏行く、予は行くに及ばず」とある。
 1月7日には、「熨斗目麻上下にて拝礼し江口氏と共に東坊城家へ至り北の陳拝見の後(略)、(勢)多大判事(勢多章純)の宅に至る、正面に大判事左右に遣(検)非違使八人座す皆な巻纓(まきえい)老懸(おいかけ)弓矢を帯す、平ら屋なぐひ(平胡籙)也」とあり、装束を詳しく記している。また「予と江口氏にも大判事の子弾正忠(勢多章斐か)相伴にて吸物酒出づ」とある。
 2月20日には「辻近江守及び大判事(勢多章純)へ各酒二升を寄せて北の陣拝見を謝しける」とある。

 勢多章純は勢多章斐の父。

  せ な  さだお
瀬名貞雄

正徳6・享保元年(1716)~寛政8年(1796)
今川 貞雄 士雄 狐阡軒・阡翁・亀文 幼名:巳之助・弌福・源五郎・主膳

旗本・500石・奥右筆所詰同心組頭格・寄合・故実家  寛政元年(1789)10月3日の「寛政江戸日記」によれば、「瀬名源五郎(瀬名貞雄)は諸家の系図江戸中の事に通じたるによりて奥右筆組頭同格にて御土圭の間御次に於て老中壱人若老中壱人にて申渡さる、柴野彦助(柴野栗山)へは躑躅の間に於て申し渡さる、先月十日岡田清助(岡田寒泉)には奥御祐筆部屋に於て老中列座若御老中待座にて牧野備後守殿申し渡さるとぞ頼千秋(春水)が語りし」とある。

  ぜにや そうしろう
銭屋惣四郎
(佐々木惣四郎)
佐々木 春行 惣四郎 書肆・版元・銭屋竹苞楼第2代 京都  天明3年(1783)11月2日の「再京日記」によれば、「芙蓉軒(高芙蓉)へ入りける、書林銭屋宗四郎(銭屋惣四郎)来り居りける」とある。
 11月5日には、「(高芙蓉と)しばらく語りて出で寺町小池下ル処銭屋宗四郎(銭屋惣四郎)所へ至て本朝孝子伝を買ふて」とある。

 11月20日には、「芙蓉軒(高芙蓉)へ帰れば、(略)、妻の父奥田嘉兵衛及び書林銭屋宗四郎(銭屋惣四郎)居りける是れととも盃礼せり」とある。

 銭屋惣四郎は高芙蓉伴蒿蹊・上田秋成と交遊。伴蒿蹊の『近世畸人伝』など、国学や漢学の書籍を多数出版。
 竹苞楼は天明8年(1788)の京都大火後、寺町通姉小路上る西側に移転再建される。元治元年(1864)の蛤御門の変で焼失後、同地で再建された建物が古書店として残っている。

せんじゅかげおき
千手興景

宝暦13年(1763)~天保元年(1830)
初め興重・興景 春太郎 儒学者・高鍋藩儒・明倫堂師範 日向高鍋  寛政4年(1792)閏2月13日の「筑紫日記」によれば、「途に千手春太郎(千手興景)に相識となる、学校は明倫堂といふよし」とある。
 翌閏2月14日には、「千手春太郎(千手興景)返礼として来る寝ねて知らず、明倫堂より早くはまた参るべしとありけると聞ける故に主じと酌みて待つ、定平を以て千手春太郎(千手興景)へ書を寄す返書使有り袴にて至るに千年(手)千太郎興欽
カネ千手廉斎・八太郎か)春太郎興重(千手興景)母共に酒を出だして酌み侍る、(略)、今日船橋則賢卿の高作を千手春太郎(千手興景)に寄せける」とある。
 再訪した7月3日には、「千手春太郎(千手興景)に逢ふ、宇津宮養軒より財津十郎兵衛(財津吉恵:明倫堂師範)同貞市郎への書を千手氏へ託す、祇園社を拝し下箕の江なる千手千太郎宅へ尋ぬ国分煙草を寄す他出、(略)、千手八太郎(千手廉斎)来る大に酌ぬ」とある。

 千手興景は千手廉斎の長子。
 千手千太郎については不明。

せんじゅれんさい
千手廉斎 
 せんじゅおきかね
(千手興欽)
(千手広斎)
元文2年(1738)~文政2年(1819)
三浦 一静・一誠 始め興譲・興欽 廉斎・広斎 剛之・八太郎 儒学者・高鍋藩儒・明倫堂師範・代官・師範 日向高鍋  寛政4年(1792)閏2月14日の「筑紫日記」によれば、「千手春太郎(千手興景)返礼として来る寝ねて知らず、明倫堂より早くはまた参るべしとありけると聞ける故に主じと酌みて待つ、定平を以て千手春太郎(千手興景)へ書を寄す返書使有り袴にて至るに千年(手)千太郎(八太郎か)興欽カネ(千手廉斎)春太郎興重(千手興景か)母共に酒を出だして酌み侍る、(略)、今日船橋則賢卿の高作を千手春太郎(千手興景)に寄せける」とある。
 再訪した7月3日には、「千手春太郎(千手興景)に逢ふ、宇津宮養軒より財津十郎兵衛(財津吉恵:明倫堂師範)同貞市郎への書を千手氏へ託す、祇園社を拝し下箕の江なる千手千太郎宅へ尋ぬ国分煙草を寄す他出、(略)、千手八太郎(千手廉斎)来る大に酌ぬ」とある。

 
千手廉斎は千手興応の子。千手興景の父。内藤有全・宇井黙斎の門人。
 藩の学問所創設を藩主秋月種茂(上杉鷹山の実兄)に建言、安永7年(1778)創設の明倫堂教授となる。

 千手千太郎については不明。

そのもとよし
園基理

宝暦8年(1758)~文化12年(1815)
藤原 公家・右権中将・蔵人頭・参議・権中納言・権大納言・正二位
京都  寛政3年(1791)3月19日「寛政京都日記」によれば、「芝山殿(芝山持豊)へ入る、穂波筑前守殿(穂波経条)園宰相中将殿(園基理)高松刑部大輔殿(高松公祐)出席にて草菴集講訳(釈)有り」とある。
 3月24日には、芝山家(芝山持豊)へ帰へり草菴集講訳(釈)を聞く、出席穂波殿(穂波経条)園殿(園基理)日賀等也ける」とある。
 4月12日には、「綾小路殿(綾小路有美)より使者、麻上下にて至り神楽歌稽古を聞く、園宰相(園基理)五辻治部卿(五辻順仲)鷲ノ尾侍従殿(鷲尾隆純)楽人安部雅楽之助等来る、中食後に立ちて」とある。

 
園家は青山流の生花・雅楽・神楽を家職とした。
 『草菴集(草庵集)』は南北朝時代の僧・歌人の頓阿が著した自撰家集(歌集)。

たかつかさすけひら
鷹司輔平

元文4年(1739)~文化10年(1813

関白在任:
天明
7年(1787~寛政3年(1791

藤原 幼名:淳宮・輔平   法名:理延   公家・内大臣・右大臣・従一位・左大臣・関白 京都  寛政3年(1791)1月1日の「寛政京都日記」によれば、「境町御門の内東側なる鷹司関白殿(鷹司輔平)の第に入る」「申の下刻に及んで関白同道にて参内也」とある。
 3月28日には「関白鷹司公の舘に入る、局染川なるへ藤井豊前取次にて関白殿(鷹司輔平)内府殿(
久我信通か)御覧南涯(志水南涯)と予と各綿壱把を賜ひける」とある。また翌日も関白の屋敷を訪ね礼を述べている。
 鷹司輔平は閑院宮直仁親王第三皇子。桜町天皇の猶子。関白一条兼香の養子。内大臣鷹司基輝の養嗣子。

  たかつじたねなが
高辻胤長
(高辻世長)

元文5年(1740)~享和3年(1803)
菅原 世長のち胤長 延年     公家・式部大輔・右大弁・参議・権中納言・正二位・大納言 (京都)  天明2年(1782)11月23日の「天明京都日記」に高辻黄門(高辻胤長)が現れる。
 天明3年(1783)1月4日には、高芙蓉から、「菅家東坊城家」への入門を勧められたのに対し、高辻家(高辻胤長)入門についての希望を語っている。

 
高辻家は、菅原道真を祖とし、紀伝道(中国の歴史書や詩文の研究・教授)を家職とし、代々、文章博士に任ぜられた。
 東坊城家は高辻家から分かれた五条家の分家で、高辻家と同様、紀伝道を家職とし、代々、文章博士に任ぜられた。

  たかつじとみなが
高辻福長

宝暦11年(1761)~文政2年(1819)
菅原 福長     公家・侍従・少納言・大内記・文章博士・式部権大輔・右大弁・参議・権中納言・正二位

京都  寛政3年(1791)1月4日の「寛政京都日記」によれば、「(岩倉家において)高辻式部権大夫殿(高辻福長か)三条少将殿(三条実起か)年頭祝詞予取次也」とある。

 
『高山彦九郎日記』の「寛政京都日記」寛政3年(1791)1月4日の注によれば、「高辻式部権大夫―高辻世長か」とあるが、高辻世長(高辻胤長)は安永8年(1779)に権中納言、天明8年(1788)に大納言となっていることから、寛政元年(1789)に式部権大輔となった、その子の高辻福長が妥当と思われる。

  たかの しょうせき 
高野昌碩
(高野陸珍亭)


宝暦10年(1760)~享和2年(1802)
藤原 龍・世龍  子隠  陸沈亭・千比呂 昌碩のち文助 医師・水戸藩士・郡奉行 常陸太田  寛政2年(1790)7月2日の「北行日記」によれば、「太田町小沢九郎兵衛所へ立原氏(立原翠軒)の書を伝へ宿せんとせしが他出にて高野昌碩所へ案内して昌碩より中島屋伊十郎所へ宿せしめる」とある。
 7月5日には、「高野氏(高野昌碩)に寄るに今夜は留り玉へとて止む、(略)、終夜高野氏と語る」とあり、高野昌碩・遊方子・坐光寺為寿の和歌、徳川光圀の漢詩などを記している。
 本居宣長の来訪者記録「来訪諸子姓名住国
聞名諸子」によれば、寛政4年(1792)4月12日の条に以下の記述がある。
四月十二日來ル 
 一、水戸太田 高野昌碩
名ハ龍 小澤九郎兵衛コンイノ由 醫也 京學ニ上ル由 
 一、上野國新田 高山彦九郎 
奇人ノ由
 本居宣長はこの日、訪ねてきた高野昌碩から彦九郎の名を聞いたと考えられる。
 『高山彦九郎日記』第5巻(295ページ)に、常北高野竜(高野昌碩)から彦九郎に宛てた贈答詩文が掲載されている。

 高野昌碩は立原翠軒小宮山楓軒と交遊。寛政3年(1793)立原翠軒の推挙により水戸藩御目見格となり、寛政11年(1799)水戸藩に出仕、郡奉行となる。

たかはしようさい
高橋容斎
(高橋東渓)


享保11年(1726)~享和3年(1803)

有則 叔省 容斎・東渓 義蔵 儒学者・仙台藩儒・藩校養賢堂教授・侍講 仙台  寛政2年(1790)10月26日の「北行日記」によれば、林子平の兄嘉膳宅に滞在中、「高橋義蔵名は有則字は叔省号は東渓(高橋容斎)、志村東蔵名は時泰字は仲敬号は東洲(志村東嶼)来る、吸物酒飯出でて大いに語る、下野国弥藤治丹治が事を語りて時泰に紀事を乞ふ、深更に及んで文章成る、東渓東洲帰へる時に門外に送る、子平子(林子平)は東渓を送りて其家に至りて宿す」とある。

 
仙台藩儒高橋玉斎次男。兄、高橋周斎も仙台藩儒。

  たかはしむねたか
高橋宗孝


宝暦12年(1762)~文化12年(1815)
宗孝       地下官人・有職家・御厨子預・采女正・備前守・正五位下・大監物 京都  天明3年(1783)1月16日の「天明京都日記」によれば、「内膳司浜島志摩守の家へ入る、其の父播磨守に相識となる、布衣烏帽子を懸け日の御門を入りて紫宸殿の東階の下志摩守の陳せし処に至り、其傍ら御厨子所高橋采女正(高橋宗孝)是れへとて招かる故予は高橋の陳に居る、(略)、采女正のいざないによりて恐れみ謹みて殿上に於て御酒司の酒内膳司の酒膳御厨子所の御膳を拝見し奉る事あり、今夜をあらればしり踏歌の御節会と申し奉る」とある。
 天明3年(1783)4月4日の「京日記」によれば、「高橋采女正(高橋
孝)若狭椎しばの筆一箱を持参餞別す、(略)、高橋若狭守(高橋宗直)より禁裏御膳米に和歌一首を寄す」とある。
 天明3年(1783)11月7日の「再京日記」によれば、「高橋若狭守(高橋宗直)へ入る、大いに語る、采女正(高橋
直)も来り居りぬ」とある。
 寛政3年(1791)1月6日の「寛政京都日記」によれば、「高橋采女正宗孝の所へ至り明日の御節分会拝見の事謀る、成ると成らざるは知らねと共参るべきに定めて出づ」とあり、翌1月7日には高橋采女正(高橋
宗孝)とともに清涼殿「白馬御節会」を見学している。

 
高橋宗孝は高橋宗直(図南)の外孫。

  たかはしむねなお
高橋宗直
(高橋図南)


元禄16年(
1703天明5年(1785
宗直   図南・文敬先生   地下官人・有職家・御厨子所預・采女正・若狭守・従四位上 京都  天明3年(1783)1月8日の「天明京都日記」によれば、「岡崎高橋若狭守(高橋宗直)を尋ぬ、谷氏(谷伴兄)もここにありてしばらく語る、公家衆より寄せられたりとて高橋翁被風(ひふ)を着くせり」とある。
 4月3日には、「高橋若州老人(高橋宗直)を尋ねける所道う半ん屋敷なる所にて湖月及び俊鳳が庵へ入りて若州老人に逢ふ」とある。
 天明3年(1783)4月4日の「京日記」によれば、「高橋采女正(高橋)若狭椎しばの筆一箱を持参餞別す、(略)、高橋若狭守(高橋
宗直)より禁裏御膳米に和歌一首を寄す」とある。
 天明3年(1783)11月7日の「再京日記」によれば、「高橋若狭守(高橋
宗直)へ入る、大いに語る、采女正(高橋)も来り居りぬ」とある。
 寛政2年(1790)5月26日の「寛政江戸日記」によれば、谷好井(谷伴兄)宅で高橋若狭守(高橋
宗直)が無仏斎(藤貞幹)のことを詠んだ狂歌を記している
 寛政3年(1791)1月26日の「寛政京都日記」によれば、「麻上下にて真如堂法倫
ママ院(法輪院)へ白銀を寄せ宰相なる僧案内にて高橋図南(高橋宗直)の墓を拝す、今年七回忌に当る」とあり、墓碑の内容を記録している。

 
高橋宗直は伊藤東涯・野宮定基・滋野井公澄・吉見幸和の門人、柴野栗山の師。和歌・古典に通じた。晩年、東岡崎に隠棲し、歌人の小沢蘆庵澄月と交流。
 真如堂は京都市左京区浄土寺真如町にある天台宗鈴聲山真正極楽寺の通称。法輪院はその塔頭のひとつ。

  高林弥十郎           旗本・800石 …   大叔父石井相馬(蓮沼政重)が出仕した旗本。小日向台町五軒町(文京区小日向1丁目)住。
 
 安永5年(1776)3月20日から安永9年(1780)7月20日までの間に、高林弥十郎家内の石井相馬宅に40泊しており(「江戸旅行日記
冨士山紀行」)、彦九郎の日記に現れる江戸での彦九郎の寄留先としては、中津藩中屋敷内の前野良沢の69泊に次ぐ。

たかまつきんすけ
高松公祐

安永3年(1774)~嘉永4年(1851)
藤原 公家・刑部大輔・左近衛権少将・左権中将・参議・権中納言・正二位 京都  寛政3年(1791)3月19日の「寛政京都日記」によれば、「芝山殿(芝山持豊)へ入る、穂波筑前守殿(穂波経条)園宰相中将殿(園基理)高松刑部大輔殿(高松公祐)出席にて草菴集講訳(釈)有り」とある。
 4月4日には、「芝山卿(芝山持豊)へ入る、草菴集の講訳也、高松殿(高松公祐)穂波殿(穂波経条)日賀也」とある。

 
高松公祐は高松季昵の子。
 『草菴集(草庵集)』は南北朝時代の僧・歌人の頓阿が著した自撰家集(歌集)。


  たかもと しめい
高本紫溟

元文3年(1738)~文化10年(1813)
原田のち李 伝八・順 子友・李順 紫溟・万松廬・川観の舎・せみの屋・田舎珍夫

 
慶順・慶蔵・敬蔵 儒学者・熊本藩医・熊本藩校時習館教授 熊本  寛政4年(1792)正月元旦の「筑紫日記」によれば、この日以降、2月23日までの熊本滞在中何度も会い、大部分は「高本氏」「李順」(高本紫溟)宅に、宿泊している。
 8月1日から20日までの熊本再訪期間中も同様である。

 
高本紫溟は秋山玉山の門人。辛島塩井安野南岳長瀬真幸の師。脇蘭室(愚山)本居宣長と交遊。

  たかやまいさい
高山畏斎

享保12年(1727)~天明4年(1784)
  一之   畏斎 可三郎のち金次郎

儒学者(崎門学者)・久留米藩儒

―(筑後津江)

 高山畏斎の子茂太郎の日記によれば、彦九郎は寛政3年(1791)11月に継志堂を訪れているという。
 彦九郎の「筑紫日記」は寛政4年(1792)1月元旦、熊本から始まっており、それ以前は欠落していることから、彦九郎の直前の足跡が確認できる。
 寛政5年(1793)5月5日の「筑紫日記」によれば、「津ノ江継思(志)堂へ至る、畏斎の墓を礼す、茂太郎は黒木に至りて居らず」とある。

 
高山畏斎は大坂に出て留守希斎に学ぶ。帰郷後塾を開く。天明3年(1783)久留米藩に招かれるが、翌年病没。没後、高弟がその墓近くに私塾「継志堂」を建てている。なお、「継志堂」の名は仙台藩儒志村東嶼の命名による。

  たきかくだい
滝鶴台

宝永6年(1709)~安永2年(1773)
もと引頭 長愷(忄に豈)   鶴台 亀松のち弥八 萩藩士・儒医・萩藩主侍講

 安永6年(1777)4月3日の「丁酉春旅」によれば、甲州街道猿橋宿において、猿橋の碑文のことを聞き、「長門國瀧彌八(滝鶴台)も當所に宿りて披見せしとなん」とある。
 安永9年(1780)6月13日の「冨士山紀行」によれば、「明和庚寅夏六月瀧鶴臺(滝鶴台)爰に尋て徂徠(荻生徂徠)が書を見初狩驛より寄せたる文章也とて出して見す」とある。

 滝鶴台は小倉尚斎・山県周南・服部南郭太宰春台・平野金華・秋山玉山に学ぶ。細井平洲山脇東洋・吉益東洞と交遊し、上杉鷹山の師ともなっている。国史・律令・和歌・仏典・医学に通じ、書を能くした。

だざいしゅんだい
太宰春台

延宝8年(1680)~延享4年(1747)
千之助・純 徳夫 春台・紫芝園 弥右衛門 儒学者・但馬出石藩士・下総伊久実藩士・紫芝園主  天明元年(1781)5月2日の「江戸旅中日記」によれば、水戸家屋敷内の長久保赤水を訪ね、「板行せし赤水著作の日本図」を見ている。その夜は赤水宅に宿り、赤水がその詩稿の中で豊臣秀吉のことを「豊王」と記していることについて、彦九郎は「春秋」「左氏が伝」、赤水は「徂徠(荻生徂徠)春台(太宰春台)」「白石(新井白石)」の名を出して議論している。
 閏5月7日には、「新橋に及んで平明徳(平城治平)と暫く語る、平明曰、徂徠(荻生徂徠)春台(太宰春台)等は学才はいかにもある人なれど心は凡下也たとへば犬猫に虎の皮を蒙らせたるが如しと存すといふ」とある。

 
太宰春台は信濃飯田出身。中野撝謙・荻生徂徠の門人。服部南郭とは徂徠の古文辞学(蘐園学派)同門であるが、南郭が文学・歴史・詩歌など詩文面を継承したのに対して、春台は経世論を継承した。

  たちばななんけい
橘南谿
(宮川春暉)   

宝暦3年(1753)~文化2年(1805)
宮川
春暉 恵風 南谿・梅華仙史 石見介 儒学者・医家・内膳司史生・石見介・従六位下・旅行家        京都伏見  寛政3年(1791)1月16日の「寛政京都日記」によれば、「(踏歌節会の催された宮中月花門辺の回廊において)内膳司の属宦内膳司史生橘石見介(橘南谿)なると語る佐野嘉兵衛門人也、予が事を師及び越前良民太次兵衛にて聞知るといひて大に懇意になりぬ」とある。
 1月17日には、「九条竹田を過ぎ伏見尼ヵ崎丁橘石見介所へ夜の九つに及んで着く、酒出でて天明迄語り寝ぬ、岩倉殿(岩倉具選)七絶を橘氏に寄せらる、浅井江軒吉田春卿に相識となる」とあり、翌18日には浅井江軒の仲介で「島津淡路守(島津忠持・薩摩藩支藩の佐土原藩主2万7000石)屋敷」を訪ね、琉球人と会っている。
 2月9日には、伏原三位殿(伏原宣條)から預かった青葉笛を携え、「伏見なる橘石見介」を訪ねるが不在のため妻に渡している。
 2月10日には、「橘石見介所へ入る吸物酒にて語る、京都学校の事を語る事あり」とある。
 5月21日には、「西洞院二条上る所東側橘南渓(谿)講習の所へ寄りける」とある。
 また6月5日には、「西遊記東遊記全部二十冊を返弁す」とある。これらは彦九郎の旅行の手引きとなっている。

 
橘南谿は伊勢久居藩士宮川保長の子。佐野酉山の門人。京都に出て医学を独学、大坂で香川南洋・小石元俊と交流。天明2年山陽・九州・四国を巡歴、蘭学に接し、帰京後、天明3年(1783)自ら執刀した解剖を行う。天明4年(1784)から信濃・北陸・東北を巡歴。帰京後朝廷に召される。旅の記録『西遊記』『東遊記』を著す。和歌を能くした。

  たちはらきょうしょ
立原杏所

天明5年(1785)~天保11年(1840)
  子遠・遠卿 杏所・東軒・玉琤舎・香案小史 甚太郎・任太郎

南画家・水戸藩士 水戸  寛政2年(1790)6月30日の「北行日記」によれば、水戸城下の立原翠軒宅を訪ね、5才の息子甚太郎(立原杏所)にも会い「能く字を臨写す」と記している。

 
立原杏所は小泉壇山・宮部雲錦・林十江・谷文晁の門人。渡辺華山・椿椿山と交遊。

  たちはらすいけん
立原翠軒

延享元年(1744)~文政6年(1823)
  伯時 東里・此君堂・翠軒 甚五郎 儒学者・水戸藩士・彰考館総裁 江戸・水戸  「立原翠軒年譜」(『立原翠軒』前田香径編・立原善重発行・昭和38年)によれば、天明6年(1786)「高山彦九郎水戸に来る」とある。期日の記載はないが9月14日と12月の記事に挟まれる。
 この年の8月24日に祖母りんが没しており、その後、彦九郎は3年喪に服しているが、この時期、翌年6月1ヶ月間の墓前日記」以外に日記を欠き、彦九郎の動向は不明である。水戸行は彦九郎が行った儒葬の方法の調査のため訪れたものか。
 寛政元年(1789)10月6日の「
寛政江戸日記」によれば、水戸藩邸内で会い、扇子2本を餞別として立原翠軒に渡している。
 寛政2年(1790)6月30日の「
北行日記」によれば、水戸城下の翠軒宅を訪ね、5才の息子甚太郎(南画家の立原杏所)にも会い「能く字を臨写す」と記している。
 7月2日には、「太田町小沢九郎兵衛所へ立原氏(立原翠軒)の書を伝へ宿せんとせしが他出にて高野昌碩所へ案内して昌碩より中島屋伊十郎所へ宿せしめる」とある。


 立原翠軒は谷田部東壑・田中江南・大内熊耳・細井平洲・松平楽山の門人。藤田幽谷小宮山楓軒高野昌碩木村謙次・友部正介の師。長久保赤水と交遊。のち藤田幽谷と対立した。書画・篆刻・七弦琴に長じ、書にも秀でた。

  たなかてきしょ
田中適所


享保10年(1725)~享和元年(1801)
  允孚   適所 信蔵 医家・阿波徳島藩儒・越前鯖江藩儒 京都  天明2年(1782)12月21日の「天明京都日記」によれば、「今日芙蓉翁(高芙蓉)の宅にて田中信蔵(田中適所)なる人に相識となる越前府中の産とぞ」とあり、12月24日には「釜の座二条下ル所田中信蔵を尋ぬしばらく語りて」とある。

 田中適所は奥村南山の門人。

たなか ふしゅう
田中布舟

享保19年(1734)~文化5年(1808)75才
布舟・俳号:暮桜亭 左太夫・鍵屋孫右衛門 酒造家・俳人
京都  寛政3年(1791)3月14日の「寛政京都日記」によれば、「鴨川に手水し三条橋を渡りぽんと町四条上ル所大六なる旅宿井沢次郎平瓜涼を問ふ、田中左大夫布舟(田中布舟)松岡山季坊青蘿(松岡青羅)へ酒壱升を寄す、蝦夷絵見まかほしかりける故三人を伴いて蛎崎広年(蠣崎波響)へ告げ生簀(いけす)へ入りて食し酌みつ酔ひ(に)及びて広年所へ入りて蝦夷絵を見す、(略)、播州布舟が所へ上州新田の誹(俳)人玞牛なるが宿りけるに予が事を尋ねけるに孝行先生の事なるかといひしとぞ布舟語る」とある。

 
田中布舟は播磨高砂の酒造家。菊岡布仙・松岡青羅の門人。蕪村・高井几菫・一茶と交流。
 寛政2年(1790)10月16日、松岡青羅を宗匠とする二条家の俳諧に列席。

  たにぐちたねさち(たねよし)
谷口胤禄

明和5年(1768)~文政9年(1726)
平/ 始め久田    胤禄     故実家・式部省に入り式部小録のち式部小丞・正六位下 京都  天明3年(1783)10月24日の「再京日記」によれば、伏原(伏原宣條)家において、「谷口阿松クママツ平胤禄タネヨシ(谷口胤禄)なるものに相識となる年十六、久田舎人なる儒生の子にて谷口文助なる儒生の養子になりたるもの也、久田谷口共に谷左仲(谷麋山)の門人也」とある。

 谷口胤禄は久田蘭州の子、谷口立直の養嗣子。


  たにびざん
谷麋山


明和5年(1768)~安永2年(1773)
子祥・沖天 麋山・眉山・芙蓉精社 左仲 儒学者

 天明3年(1783)10月24日の「再京日記」によれば、伏原(伏原宣條)家において、「谷口阿松クママツ平胤禄タネヨシ谷口胤禄)なるものに相識となる年十六、久田舎人なる儒生の子にて谷口文助なる儒生の養子になりたるもの也、久田谷口共に谷左仲(谷麋山)の門人也」とある。
 寛政3年(1791)3月23日の「
寛政京都日記」によれば、西山拙斎・若槻源三郎(若槻幾斎を案内して伏原二位殿(伏原宣條)を訪ねた折の話として、「浦野常栄門人肥後の人加藤英秀なるものの語りし事とて水石を移したりつるに水多ふく出で後で煮たるにより石枯れて水出でざりし事、谷左仲(谷麋山)は阿波国の人近隣石工の所にて石を割りつるに龍出でて去る石に其跡残る、京都にて龍をとかげ程の物伝へ登りて雲に乗して去り大坂八軒屋にて旅僧龍を遣ひぬとて術をあらわせし事三事共左仲見たりしとと語りし事、雷砧石家に伝え招りし事二位殿語らる」とある。

 谷麋山は阿波出身、谷静斎の子。伊藤東涯の門人となり、京都に住した。

  たによしい
谷好井
(谷伴兄)


寛保2年(1742)~文化2年(1805)
大神 伴兄のち好井   採薇 万六 土佐藩士・儒学者・国学者 京都・江戸  天明3年(1783)1月5日の「天明京都日記」によれば、「土佐国谷重遠の孫万六伴兄(来)る、去巳歳に予を尋る事三度にて逢へりとよろこぶ」とある。
 1月16日には「内膳司浜島志摩守の家へ入る、(略)、布衣烏帽子を懸け日の御門を入りて紫震殿の東階の下志摩守の陳せし処に至り、其傍ら御厨子所高橋采女正高橋宗孝)是れへとて招かる故予は高橋の陳に居る、浜島氏より弁当出づ、谷伴兄(谷好井)及び土佐侯の臣宮路氏なるもの両人布衣にて高橋氏に従ふ」とある。
 天明3年(1783)4月6日の「京日記」によれば、「谷伴兄来て月日の貝袖(ママ)に和歌一首を添えて餞別とす、 
流れ来て土佐によるもの袖貝につつむこころは知る人ぞしる 谷伴兄は大神とす」とある。
 天明3年(1783)10月27日の「再京日記」によれば、「土佐家士楠瀬六郎左衛門楠瀬南溟なるもの谷氏予が事を語りて心通のよし聞こえし、久しく語りて伴兄が僑居を出で(略)」とある。11月7日には「谷伴兄予が来るを待ち居る、酒出でて語る、遂に爰(ここ)に宿す」とある。
 寛政元年(1789)11月7日の「寛政江戸日記」によれば、「土佐侯の邸に及びて谷伴兄を尋ぬる、(略)中長屋に至りて谷伴兄に逢ふ、大いによろこびける」とある。
 11月13日には、「奥平中邸へ帰へるに門番土佐より御客来有りと告ぐ、急ぎ前野(前野良沢)へ入るに谷伴兄(谷好井)楠ノ瀬六郎左衛門清蔭字は子樹号は南溟(楠瀬清蔭)吉田勝助行倫馬淵弥内好礼等待ち居る」とあり、和歌を詠みあっている。 
 寛政2年(1790)5月9日の「寛政江戸日記」によれば、「江上(江上観柳)を出て土佐侯の中邸谷萬六所へ入る、伴兄名を好井と改といふ、土佐の藩中竹下鉄(欽ヵ)十郎の童子昨日赤羽橋に於て予に礼敬す、帰りて谷氏に告げたるよし、(略)、好井と久しく語りて羽生朝辰(成田朝辰)処へ入る」とある。
 5月26日には「江上において朝食し谷好井所へ入て金子の事を談す、好井諾せり」とある(前日の記事「房総奥羽より松前蝦夷の遊行を思い出つ(出ヵ)」を受けるものと考えられる)。また好井の家族の構成を詳しく記している。
 5月28日には「早朝大酒のみて出て土佐侯の好井所へ入り約束の如く金三両を貸す」とある。
 6月5日には「朝観柳(江上観柳)処より谷好井へ至りて遊行を告げぬ」とある。

 寛政2年(1790)5月26日の「寛政江戸日記」によれば、高橋若狭守(高橋宗直)が谷伴兄(谷好井)宅で無仏斎(藤貞幹)のことを詠んだ狂歌を記している。

 谷好井は江戸・京都を往来し諸家と交わり、江上観柳長久保赤水らと交遊した。彦九郎の遺髪を保持した谷干城の祖父。

たぬま おきつぐ
田沼意次

享保4年(1719)~ 天明8年(1788)
意次 大名・相良藩主・侍従・従四位下・老中首座
 天明3年(1783)3月21日の「天明京都日記」によれば、大坂懐徳堂中井竹山を訪ね、京都の学校建設計画について語り合う中で、「予(彦九郎)また言ひけるは、当時京都の様子を思ふに武家を恐るる事甚だしく此学校も如何なるべき歟公家の力のみにては成就斗り難し先生等の心如何にといへば、当時田沼(田沼意次)抔(など)の心を寄する事ならば何か有らむ高山中納言ともいふ程の人公家にはあらでは成就斗り難し公何率(卒)力を添へ玉はれ関東の事は公の心にある事なりと進む、大坂には先生(中井竹山)京には芙蓉(高芙蓉)あり克く心を用いて成就あらせ玉へ諸儒成り難き事のみいふといひし」とある。

たまき しんさい
玉木慎斎

享保19年(1734)~文化11年(1814)
橘   惟一 五一 慎斎 医家・国学者 京都聖護院村  天明3年(1783)1月13日の「天明京都日記」によれば、脇坂安植(脇坂内記)とともに洛外へ出かけた折、「聖護院村玉木氏の宅へ入りて谷伴兄を訪ふ、あるじ玉木慎斎に相識となる、先づは是れに入らせ玉へともてはやしけれども安植急ぎ帰らむ事を欲せしまま出でて」とある。これより以前の1月8日にも玉木宅に谷を訪ねているが他出であった。
 天明3年(1783)10月26日の「再京日記」によれば、「玉木慎斎宅へ入る重ねて上京あらば拙宅に宿されよとありける」とある。
 11月7日には「おたつ(御辰)稲荷」近くの寂隠斎惟一(玉木慎斎)の宅に入り、翌日の昼過ぎまで滞在しているが、惟一から易斎(『高山彦九郎日記』の注では「玉木葦斎の誤りか」とある)に伝えられた神道書のことを聞いている。また、11月8日には「慎齋予が為めに湯を立て食膳を預
(ママ)けて馳走せり」とある。
 寛政2年(1790)12月27日の「寛政京都日記」によれば、「聖護院に懸かり藤木伊勢守へ尋ぬ、玉木慎斎へ寄る、酒出でて語る、予が江戸へ出でたるを知りぬ」とある。
 寛政3年(1791)1月11日から7月16日の間に、7回玉木慎斎を訪ねている。
 7月18日には、「玉木慎斎より扇子二本を寄す」とある。

 玉木慎斎は京都聖護院村の医家玉木正英葦斎の子。玉木葦斎は垂加神道を大成し、門人に吉見幸和・岡田正利・松岡雄淵(松岡仲良)・谷川士清・竹内式部・兵頭守敬・谷垣守がいる。

  たまだもくおう
玉田黙翁

元禄10年(1697)~天明5年(1785)
  信成   黙翁・虎渓庵 弥内・久左衛門 儒学者・虎渓精舎舎主 播磨野尻村・京都  安永6年(1777)4月13日の「丁酉春旅」によれば、駿府の孝子八助と会った際、「播州虎渓」「玉田太郎」(玉田黙翁)のことに話が及んでいる。
 天明2年(1782)12月14日の「
天明京都日記」によれば、龍野行の帰路、股野玉川の書翰を携えて、玉田黙翁を訪ねるが不在のため、子の新内と火燵に入って雑談している。
 12月15日には、玉田黙翁に会い、火燵に入って「国枝氏(
国枝順太夫)」のことや彦九郎の「救民五一の法」などについて深更まで語り合っている。
 12月16日には、朝、彦九郎は高砂へ帰ろうとするが引き止められ、「予また他へ語らる事なかれとて大学寮企の事を語れば、先づ小学を建つる事よろしといひける」とあり、「八ツ」時(午前1時から3時)まで語り合っている。
 天明3年(1783)11月17日の「
再京日記」によれば、高芙蓉の家で玉田黙翁と語り合っている。

 玉田黙翁は三宅尚斎の門人、
股野玉川浦上玉堂の師。梁田蛻巌と交友。

たむら げんせん
田村玄仙
(津田玄仙)


元文2年(1737)~文化6年(1810)
初め津田 兼詮 積山・屏塵舎 玄仙 医家 上総畑沢村  寛政2年(1790)6月10日の「北行日記」によれば、「同村(畑沢村)(略)に田村玄仙兼詮なる儒医ありと聞ける故尋ね侍る、書斎にて大豆煎香煎飯膳酒肴にて馳走す、小松原父子(小松原醇斎(剛治)・小松原恭斎か)杉田父子(杉田玄白・杉田伯元か)桐生の長沢新介野田和三郎等皆な相識れりと語る、勧学治体なる一冊の書を著述し版行したるを牧野の臣石原なる人白川侯(松平定信)へ顕はしたるにより今年正月六日仕官の心あらば二百石斗にて招かんの内意ありつれども仕への心はあらず、八州の医人の(勧)医学校を願はんとする事(を)書に筆して答へける、其(後)何共沙汰あらずと語れり、(略)」とある。

 田村玄仙は元白河藩侍医津田玄琳(玄隣)の子。陸奥国岩代桑折村生まれ。父津田玄琳、水戸の芦田松意、京都の饗庭道庵の門人。京都・大坂を経て江戸で開業。のち上総国馬籠村の医家、田村家に入り、田村玄仙を名乗る。松平定信 からの侍医招聘を固辞した。東国の名医として広く知られ、原南陽・和田東郭(泰純)・恵美三白と交流。

ちくさ ありまさ
千種有政

寛保3年(1743)~文化9年(1812)
公家・参議・権中納言・武家伝奏・正二位・権大納言
―(京都)
 寛政3年(1791)3月25日の「寛政京都日記」によれば、「時に明廿六日千草殿(千種有政)幣使(日光例幣使)発足今晩より明日廿六日巳の刻迄神事有之候の由御触有り」とある。

 
千種有政は寛政3年(1791)の日光例幣使となる。

ち よ
千代
(加賀の千代)

元禄16年(1703)~安永4年(1775)
      法名:素園   俳人 加賀松任  安永4年(1775)3月21日の「乙未の春旅」によれば、「表具や福益屋忠兵衛俳人千代素園が養子に成るとぞ、尋ぬ、白烏といふ也、短冊を千代と丸岡の儒士と三枚を送る」とある。

 千代は表具師福増屋六兵衛の子。16・7歳の頃より女流俳人として全国的な名声を得た。千代尼・千代女・加賀の千代とも呼ばれた。この年の9月8日没。
 白鳥は、千代の養子(六兵衛を称す)の俳号。

  ちょうげつ
澄月

正徳4年(1714)~寛政10年(1798)
西山 融阿   澄月・垂雲軒・酔夢庵・酔雲軒   僧(浄土)・歌人 京都  寛政3年(1791)7月16日の「寛政京都日記」によれば、澄月宅を訪ねて菓子を食べながら語り合っており、「澄月歌の物語し蛎崎氏(蛎崎波響)へ送りたるを読み聞かす事有」とある。

 
澄月は備中玉島生まれ。武者小路実岳の門人。門人に木下幸文・西山拙斎・石井宗澄らがいる。
 澄月は小沢蘆庵慈延伴蒿蹊とともに冷泉門下の平安和歌四天王と称された。

  ちょうむ
蝶夢

享保17年(1732)~寛政7年(1795)
  九蔵   洛東・五升庵・泊庵/俳号:蝶夢   俳人・帰白院(浄土)11世住職 京都  寛政3年(1791)1月11日の「寛政京都日記」によれば、「(佐々木備後守宅において)湖月(岡田湖月か)、蝶夢来たりて語る、酒出づ、蝶夢には初対面也」とある。
 2月12日には、「大愚(慈延)と蝶夢所に入りける時に雨暫く降る事あり」とある。

 
蝶夢は宗屋の門人、一柳と交遊。
 住職を辞したのち、洛東岡崎五升庵に隠棲。芭蕉研究に大きな貢献をした。


つかもとなんき
塚本南岐
景福 南岐 彦七 儒学者か 京都  天明3年(1783)1月8日の「天明京都日記」によれば、「大津の産塚本彦七南岐なる者に相識となる」とある。
 寛政2年(1790)12月28日の「寛政京都日記」によれば、「葵足(渋谷葵足)語るに塚本彦七南岐丹波国船井郡大戸村佃周蔵と改めけるよし」とある。
 天明京都日記」に27日(上記含む)、「京日記」に2日、「再京日記」に3日、「寛政京都日記」に1日現れる。

 塚本南岐は京都の友人。彦九郎僑居に同居し、彦九郎を助ける。事跡は不詳であるが、京に学ぶ学生の一人と考えられる。

 
つ く い なおしげ
津久井尚重

国学者(有職故実家)か 京都  天明3年(1783)2月10日の「天明京都日記」によれば、「津久井尚重予が僑居を訪ふ」とある。
 2月15日には、「津久井尚重へ入れば釜を懸けて迎へ飯を出だす」とあり、「大野氏」「垂水広信」のことや尚重の著作「大槐秘抄註解」「公事根源抄集解」「類聚氏骨拾要鈔」「南朝編年記畧」「年中行事歌合抄」「新葉集作者考」「若州国司代々記」について聞いている。
 天明3年(1783)4月3日の「京日記」によれば、「津久井尚重餞別の和歌一首を来り寄す」とあり、これは『高山彦九郎日記』第5巻323ページ所収和歌と見られる。

 天明3年(1783)11月13日の「再京日記」によれば、「中長者町室町西へ入る所にて津久井尚重所へ至る」とある。

 津久井尚重は『南朝編年記略』や『南朝皇胤紹運録』を著す。

つたやじゅうざぶろう
蔦屋重三郎


寛延3年(1750)~寛政9年(1797)
初め丸山・喜多川 柯理   蔦唐丸・薛羅館・耕書堂/屋号:蔦屋 重三郎・蔦重 書肆・版元・狂歌作家 (江戸)  寛政元年(1789)12月28日の「寛政江戸日記」によれば、「通油町(中央区日本橋大伝馬町の一部)蔦ツタ屋重三郎所にて行成(平安時代の能書家藤原行成)本三冊買ふて」とある。

 
蔦屋重三郎は山東京伝の黄表紙・洒落本、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵などを出版した。また、喜多川歌麿・十返舎一九・滝沢馬琴らを食客とさせた。

  つついまさあきら
筒井正盈
  初め尚方     亀松・左膳 旗本2200石・御書院番  筒井正盈は上野国新田郡細谷村1569石(6給の相給地)のうち503石を知行し、高山家蓮沼家はその知行地の名主であった。
 
筒井正盈は筒井政憲(長崎奉行・江戸南町奉行・大目付格ロシア使節応接掛)の義父。

てしま とあん
手島堵庵

享保3年(1718)~天明6年(1786)
  信・喬房 応元 堵庵・東郭・五楽舎 近江屋源右衛門・嘉左衛門

商人・石門心学者 (京都)  天明2年(1782)11月24日の「天明京都日記」によれば、「川原町三条上ル二丁目にて明倫舎に入る、手嶋嘉右(左ヵ)衛門(手島堵庵)は病気にて弟子中嶋道順なるもの代として人に示めす、屋宅の広さ八十畳斗りとぞ、江戸へは中沢道二なるもの下りて示めすといふ、予尾張屋五郎兵衛なるものに伝語を詫して立つ」とある。
 他に天明2年(1782)3月2・5日の「
天明江戸日記」、天明3年(1783)3月19日の「天明京都日記」、10月27日の「再京日記」にも、堵庵やその心学についての言及がある。

 手島堵庵は石田梅岩の門人。五楽舎・修正舎・時習舎・明倫舎・恭敬舎と在世中五つの講舎を開設した。門人に中沢道二・柴田鳩翁がいる。

田信平
(田孚)


生没年未詳
篆刻家
京都  天明2年(1782)11月22日の「天明京都日記」によれば、高芙蓉宅で佐野小進(山陰)とともに相識となる。「田氏は富小路二条下ル所豊前中津の医人也」とある。

 
田信平は豊前中津出身。柴野栗山池大雅と交流。

天王寺屋市兵衛 書肆 京都  天明3年(1783)11月13日の「再京日記」によれば、「三条境町西へ入る所なる出雲寺和泉(出雲寺和泉掾)か宅へと志して姉の小路の境町へ至るに早や町門閉ちて入る事許さす、二条へ帰へり河原町を南へ松原へ至り遂に寺町五条上ル所書肆天王寺屋所へ入る、市兵衛父をは応禎といひて宇士新(宇野明霞)の弟子にて学才ありて荀子の跋をせるものにぞありける」とある。

 
とうていかん
藤貞幹


享保17年(1732)~寛政9年(1797
藤原 貞幹 子冬 無仏斎・好古・亀石堂 叔蔵 国学者・考証学者 京都  天明3年(1783)11月8日の「再京日記」によれば、「藤叔蔵(藤貞幹)へ入る石を寄す」とある。
 寛政2年(1790)5月26日の「寛政江戸日記」によれば、谷伴兄(谷好井)宅で高橋若狭守(高橋宗直)が無仏斎(藤貞幹)のことを詠んだ狂歌を記している。
 寛政3年(1791)2月29日の「寛政京都日記」によれば、「暮れに佐々木備後守へ寄り若槻源三郎(若槻幾斎)へ至る、西山拙斎藤無仏斎(藤貞幹)と酌る所也、予も共に酌みて遂に宿す」とある。

 
藤貞幹は京都仏光寺中の僧家の子。後藤芝山柴野栗山の門人。考証・歌学・篆刻に長じた。

  とがい みちとし
栂井道敏
(栂井一室)


享保7年(1722
)~寛政3年(1791
  道敏   一室 藤兵衛 歌人・書肆 京都  寛政3年(1791)4月24日の「寛政京都日記」によれば、「芝山殿(芝山持豊)に入る、栂井トガイ一室(栂井道敏)に相識となる名は道敏トシといふ歌人也」とある。

 烏丸光胤・武者小路実岳・日野資枝の門人。小沢蘆庵伴蒿蹊澄月と交流した。

  とくとみ ただしち
徳富太多七

~文化14年(1817)
  久貞     太多七  惣庄屋 肥後津名木(水俣)  寛政4年(1792)3月朔日の「筑紫日記」によれば、「惣庄屋徳富太多七子茂重(茂十郎)(略)内にて(略)」とあり、3月2日には「惣庄屋所へ深水宗安と行く、茂重と酌む父太多七も帰へりて相識となり語りて夜明けたり、太多七名は久貞茂重名は申貞(貞申)」とある。
 3月4日には徳富氏らの案内で肥薩国境の
矢筈岳に登っている。

 徳富太多七
とその次男茂十郎(明和7(1770)~文化7(1810))は徳富蘇峰・徳富蘆花の玄祖父・曽祖父にあたる。

 とば だいろく
鳥羽台麓

元文4年(1739)~文政6年(1823)
希聡 叡父 台麓・石隠・十斗 満七郎 画家 京都  天明2年(1782)11月19日の「天明京都日記」によれば、「(高芙蓉宅に戻り)、夜鳥羽万七(鳥羽台麓)なる人に相識となる、号を十斗といひ又石陰共いへるよし、絵を克くす」とある。
 寛政3年(1791)1月22日の「寛政京都日記」によれば、「(岩倉家の依頼により荻野元凱宅に出向いた折)鳥羽万七郎(鳥羽台麓)来る宅は高辻室町東に入ル北側とぞ」とある。


  とみたたいほう
富田大鳳
(富田日岳)

宝暦12年(1762)~享和3年(1803)

  鯤・大鳳 伯図 日岳・大鳳 大淵・守膳 儒医・熊本再春館師範 熊本  寛政4年(1792)正月元旦の「筑紫日記」によれば、この日以降、2月23日までの熊本滞在中、たびたび会い、「富田氏」(富田大鳳)宅にも宿泊している。父富田春山とも交わり深い。

 富田大鳳は斎藤芝山・鏡野凌雲・本田四明と交遊。

  とみのこうじさだなお
富小路貞直


宝暦11年(1761)~天保8年(1837)
藤原 貞直 子貞 蘭渓・俳諧号:如泥   公家・非参議・大膳権大夫・民部大輔・左衛門佐・正三位・刑部卿・治部卿・歌人 京都  寛政3年(1791)3月14日の「寛政京都日記」によれば、「岩倉家(岩倉具選)へ帰へり富小路殿さそひにより芝山家へ行く、富小路貞直卿慈光寺民部権大輔源尚仲卿(慈光寺尚仲)と嵐山へ遊ぶ」とあり、和歌を詠みあっている。
 4月9日には「富小路殿へ入る、酌みて学校のことを語る、(略)、貞直卿と真如堂(真正極楽寺・京都市左京区浄土寺真如町にある天台宗の寺院)の開帳を見る」とある。
 5月26日には「貞直卿の所に入て謀る事あり、深更に及んで(略)」とある。
 
 
富小路貞直は伏原宣條の子。富小路良直の養子。加藤千蔭に師事し、本居宣長と親交があった。和歌・俳諧・書を能くした。

  とみのこうじよしなお
富小路良直

延享3年(1746)~享和2年(1802)
藤原 初め与直・良直       公家・非参議・刑部少輔・左兵衛権佐・従二位 京都  寛政3年(1791)2月11日の「寛政京都日記」によれば、「富小路左衛門佐(富小路良直)殿に入る吸物酒にて語らる、夜に入りて近鄰神足駿河(中世に桂川西岸西岡の神足城に拠った神足こうたり氏の子孫か)自来り迎るにより富小路殿に従ふて至る、六角殿(六角光通)及び錦小路中務大輔殿(錦小路頼尚)酌みて居られける、詠曲出づ、酔ふて遂に宿す、酒肴数を尽くしける」とある。
 3月20日には、「富小路三位殿(富小路良直)左衛門佐殿(富小路貞直)北小路殿(北小路祥光)錦小路中務大輔殿(錦小路頼尚)倉橋右馬頭岩倉三位殿(岩倉具選)緑毛亀見らる、是れより岩倉殿(岩倉具選)富小路御父子(富小路良直・富小路貞直)倉橋殿と見生(壬生)に至りて狂言を見る」とある。
 寛政4年(1792)5月21日の「筑紫日記」によれば、「今日伊貫包物せるが故に富小路良直卿の春夜宴桃李園序を書せられたるを与へ侍る」とあり、5月22日には、「暮れて韃靼鼕白尾才蔵国柱(白尾斎蔵)所へ入り富小路良直卿の春夜宴桃李園序染筆を寄す」とある。

 
富小路良直は富小路貞直の義父。富小路家は和歌・俳諧を家職とした。

とやま みつざね
外山光実

宝暦6年(1756)~文政2年(1821)
藤原 資幹のち光実 公家・歌人・修理権大夫・正三位・参議・従二位・権中納言・正二位 京都  寛政3年(1791)3月8日の「寛政京都日記」によれば、寄留先の岩倉具選邸において、「外山修理権大夫(しゅりごんのだいぶ)光実(外山光実)卿に見へける」とある。
 5月21日には、「外山修理大夫殿へ入る頃日尋ね有りし謝也卯蔵を見せ参らす、北小路殿(北小路祥光)も入らる、酒出でて」とある。
 6月20日には、「(略)外山殿へ入り暫く語る、短冊へ読歌を書せらる、外山家の士村上造酒画を詫して岩倉家(岩倉具選)の賛を乞ふ」とある。
 6月27日には、「外山殿へ入る、村上造酒が願ひによりて猪画へ岩倉家(岩倉具選)の賛を書せられて達し侍る、(略)、造酒に与へ侍る、画は烏丸家の二男のよし、外山殿と語る」とある。
 7月17日には、「外山殿へ入る、歌一首を寄せらる」とある。
 寛政4年(1792)4月14日の「筑紫日記によれば、「其(小田醫三)の子善之丞所へ入る外山光実卿読歌短冊を寄す」とある。

 
外山光実は烏丸光胤の子、外山光任の養嗣子。和歌に秀で、門人に板倉勝彪・塙保己一がいる。文化3年(1806)日光例幣使となる。

なかい せいだゆう
中井清太夫

生没年未詳

      九敬 清太夫 幕臣・甲府代官・小名浜代官

 天明元年(1781)5月28日の「江戸旅中日記」によれば、「大寛(伊藤寛蔵)語りけるは、甲府御代官中井清太夫は野口氏が妻の父也、支配所の孝子善人好学の人をば四壁に書して常に見楽とす、他の代官は田地へ縄を入れ出して、公儀の益とするを以て事とす、清太夫は然らず山に入て薬草抔(など)心(試)みて民に利を得さしめて運上を上げしめ抔致す人也、野口氏頃日中に甲州へ至り玉はば尋ね玉はるべし、公の如き尋ね居至らば中井氏大に悦ぶべし抔いふ」とある。

 
中井清太夫は安永6年(1777)甲府代官に就任。のち小名浜代官となる。

  なかい ちくざん
中井竹山

享保15年(1730)~享和4年(1804)
  積善 子慶 竹山居士・同関子・渫翁・雪翁 善太 儒学者・懐徳堂学主 京都・大坂  『高山彦九郎日記』第5巻206ページに、中井善太(中井竹山)から彦九郎に宛てた安永4年(1775)正月13日付けの書簡が掲載されている。
 天明2年(1782)11月25日の「天明京都日記」によれば、大村彦太郎から「竹山(中井竹山)来月二日に開講して学校(懐徳堂)の主になるのよし、今年までは三宅春楼を本主とす、学校は今橋尼ヶ崎町壱丁目也」と聞いている。
 11月29日には、「今橋尼ヶ崎町壱丁目懐徳堂を尋ぬ、先きの主人(三宅春楼)今年没したれば竹山学校の主人となる」とあり、龍野藩(播磨龍野藩・5万1000石・藩主脇坂安親国枝順太夫の自殺の一件を聞いている。また、12月2日開講の祝いに出向くことを約している。
 12月2日には「懐徳堂開講のよし聞けば一樽に鯛を添えて祝す、座客殆と百人、明石侯の家士大畠官兵衛仙台侯の家士谷次左衛門中西与市兵衛など、予上段の客也、学校懸りの町人初め相識となるもの多ふし(略)」とある。
 12月3日には「懐徳堂へ至て竹山(中井竹山)へ上京の意を語り且つ龍野の様を問ふ事あり」とある。
 12月5日には、懐徳堂に入り、「懐徳堂主人(中井竹山)先づはとて酒飯を出だす、(略)、竹山言ひけるは、公(彦九郎)の誠実一
度聞て感心せざるものなけれどもまた怪む人多ふし、必らず旅行には人を具し玉へ従者あらば怪しむものすくなかるべしと進めける、酔に及むで立つ」とあり、播州龍野へ向けて出立した。
 12月20日には、龍野・高砂からの帰路、再び懐徳堂に立ち寄っている。彦九郎は高芙蓉から聞いた菅家私塾を大学とする企てを語ったところ、竹山も高辻家(高辻胤長)からその計画を諮られており、設計図、「観光院」という名称、「山崎派」「徠派」「竹ノ内等」を禁ずべき講師の選任について聞いている。また、「竹山今年五十三其子を遠蔵曾剛
マスヒロ字伯毅(曽弘・中井蕉園か)といふ、二子を七郎曾縮マスナヲといふ」とある。
 天明3年(1783)3月21日には、「懐徳堂へ寄る、竹山(中井竹山)と語て京師学校の事に及びければ図を出だして見す、予言ひけるは、観光院の号おだやかならず改め玉はば宜しからむといへば、かりに付けたる号なれば何れにも改めらるる事也と答へける」とあり、武家を恐れている公家だけで成就する事が難しいとの問いに対し、竹山は「当時田沼(田沼意次)抔の心を寄する事ならば何か有らむ高山中納言ともいふ程の人公家ではあらで成就斗り難し公何卒つ力を添へ玉はれ関東の事は公の心にある事なりと進む」とある。
 寛政3年(1791)3月22日の「寛政京都日記」によれば、「大村氏(大村彦太郎)に入りけるに竹山子(中井竹山)の子延蔵(遠蔵・中井蕉園)来り居る」とある。
 4月14日には、「夜大村氏(大村彦太郎)へ入る、未だ竹山(中井竹山)上らず」とある。
 4月18日には、「大村氏(大村彦太郎)へ寄る、竹山(中井竹山)酌みて居る」とあり、紀州に来た蛮船二艘のことを語っている。
 5月20日には、「夜芝山家を立ち大村氏(大村彦太郎)へ竹山(中井竹山)大坂より上り居りて暫く語る」とある。
 寛政4年(1792)3月25日の「筑紫日記」によれば、「赤崎海門来る大に説(悦)べり、(略)、竹山(中井竹山)より詫したる足利又太郎よりの詩をも渡す」とある。


 中井竹山は懐徳堂第二代学主中井甃庵の長男。中井履軒の兄。懐徳堂助教五井蘭洲に師事し、服部栗斎とは同門。竹山は度々白木屋(大村彦太郎)に出入りしていた。天明8年(1788)には来坂した老中松平定信から諮問を受け、「草茅危言」を献呈。葛子琴(蠹庵)菅茶山尾藤二洲細井平洲股野玉川藪孤山横谷葛南頼春水らと交友。脇愚山(蘭室)佐藤一斎の師。妻は革嶋文蔚の姉。
 中井竹山の祖父(中井甃庵の父)中井玄端は播州龍野藩医。

  なかい りけん
中井履軒

享保17年(1732)~文化14年(1817)
  積徳 処叔 履軒幽人・天楽楼主人 徳二 儒学者・懐徳堂講師・水哉館主 京都  天明2年(1782)11月29日の「天明京都日記」によれば、懐徳堂中井竹山を訪ねたのち、中井徳二(中井履軒)宅を訪ねている。
 天明3年(1783)3月21日には、「馬喰町の半中橋と難波橋の間に居れる中井徳次履軒(井履軒)を訪ふ是れも他出にて言を置て出でける」とある。
 寛政3年(1791)2月16日の「寛政京都日記」によれば、「亥の刻斗に中村安右衛門源弘毅
字子郷号は梅花(中村新斎)所に入りて語りて宿す、履軒(中井履軒)が著したりし通語を見て評する事有り」とある。

 中井履軒は懐徳堂第二代学主中井甃庵の二男。中井竹山の弟。懐徳堂助教五井蘭洲に師事。私塾水哉館を開く。

  なかえ  とうじゅ
中江藤樹


慶長13年(1608)~慶安元年(1648)
  惟命 嘸軒・顧軒 与右衛門・藤樹先生 儒学者 ―(近江高島)  安永4年(1775)2月23日の「乙未の春旅」によれば、江州高島郡小川村(滋賀県高島市)に「藤樹(中江藤樹)の古跡」を訪ね、「藤樹の書院」や藤樹・その母・子の中江常省の墓について詳しく記している。この日は講堂を守る志村周介宅に泊まり、終夜藤樹のことについて語り合っている。
 安永6年(1777)5月2日の「丁酉春旅」によれば、彦九郎は中山道上尾宿で、対馬藩宗対馬守(宗義暢・侍従)に従行する中江藤樹玄孫の中江登(元輝・蘭亭)を訪ね、「10年以内に藤樹の子孫に伝える」と志村周介と約束した、藤樹の子孫の墓参がないことや小川村の様子を伝え、中江登の事情を聞くとともに、対馬や朝鮮国のことについて夜明け前まで話し込んでいる。

 中江藤樹は陽明学の祖と言われる。熊沢蕃山・淵岡山(淵貞蔵の祖父)の師。没後、近江聖人と尊称される。

   ながくぼ せきすい
長久保赤水

享保2年(1717)~享和元年(1801)
  玄珠 子玉 赤水 源五兵衛 地理学者・水戸藩主侍講 京都・江戸・水戸  『地政学者 長久保赤水』(長久保片雲著・暁印書館・昭和53年)によれば、安永4年(1775)2月、赤水は関西に旅をした折、柴野栗山宅で彦九郎と初めて会っている。
 なお、「立原翠軒年譜」(『立原翠軒』前田香径編・立原善重発行・昭和38年)によれば、安永3年(1774)2月「赤水(長久保赤水)京に於て高山彦九郎と初めて会見」とある。また、同書によれば、安永9年(1780)3月「高山彦九郎江戸に赤水(長久保赤水)を訪ふ」とある。
 天明元年(1781)5月2日の「江戸旅中日記」によれば、水戸家屋敷内の長久保赤水を訪ね、「板行せし赤水著作の日本図」を見ている。その夜は赤水宅に宿り、赤水がその詩稿の中で豊臣秀吉のことを「豊王」と記していることについて、彦九郎は「春秋」「左氏が伝」、赤水は「徂徠(荻生徂徠)春台(太宰春台)」「白石(新井白石)」の名を出して議論している。
 5月25日には小石川水戸家に赤水を訪ね、水戸領介川から産出する「土殷孽(どいんけつ・「けつ」の字は草冠に「辟」、脚は「子」)」という「石鍾乳の類」(褐鉄鉱の一種か)を見せてもらい、赤水に産物会に出品するよう勧めている。また「赤水天文の事語る予聊(いささか)悟ることあり、彩色の日本図を赤水出して見す」とある。

 長久保赤水は鈴木玄淳・名越南渓の門人。柴野栗山岡田寒泉黒沢雉岡中井竹山尾藤二洲頼春水と交流。
 水戸藩第6代藩主徳川治保の侍講となり、江戸の水戸藩邸に住む。日本で初めて経緯度線が入った地図『改正日本輿地路程全図』、いわゆる「赤水図」を安永8年(1779)に著した。赤水図は明治に至るまで広く使用された。立原翠軒が総裁を務める彰考館で『大日本史』の「地理志」の編纂にあたる。
 彦九郎は長久保赤水から天文・地理に関して多くを学ぶ。


なかざわ どうに
中沢道二

享保10年(1725)~享和3年(1803)
義道 亀屋久兵衛 機織業・石門心学者 京都  天明2年(1782)11月24日の「天明京都日記」によれば、「川原町三条上ル二丁目にて明倫舎に入る、手嶋嘉右(左ヵ)衛門(手島堵庵)は病気にて弟子中嶋道順なるもの代として人に示めす、屋宅の広さ八十畳斗りとぞ、江戸へは中沢道二なるもの下りて示めすといふ、予尾張屋五郎兵衛なるものに伝語を詫して立つ」とある。
 寛政2年(1790)12月12日の「寛政京都日記」によれば、「夜は高倉丸太町上ル西側井上四郎兵衛所に於て中沢道二夜講の所へ至る、具選卿(岩倉具選)は先きに入られける、中庸の講釈と号し其云ふ事禅法の意也、三位卿に従ふて帰へる」とある。

 家業である機織りを営むが、四十半ばに手島堵庵の門人となり、石門心学の修業に励む。堵庵の命で江戸に下り、心学講舎参前舎を拠点に関東・東北など広範囲にわたる布教活動を行った。

  ながせ まさき
長瀬真幸

明和2年(1765)~天保6年(1835)
  真幸   田蘆・双松園 七郎平 熊本藩士・国学者 熊本  寛政4年(1792)1~2月・8月の「筑紫日記」によれば、高本氏(高本紫溟)宅や時習館でたびたび会っている。
 2月12日には「頃日長瀬氏(長瀬真幸)より緑毛亀の歌十二首を集めて寄せ其余緑毛亀の詠寄せ来る所有りぬ」とある。
 熊本再訪の8月7日には、「夜に入て高本家へ帰へりて宿す、長瀬真幸万葉東歌の所を持ちて打寄りて読む事有り深更迄語る」とある。
 8月10日には「長瀬真幸来り楠子弁疑を借りて今夜来り語るべしとて帰へる」とある。


 長瀬真幸は
草野潜渓高本紫溟本居宣長・長野清良・伊勢貞春の門人、村田春海・加藤(橘)千蔭・塙保己一と交流。万葉研究に業績があり、暦法・神道・音楽などにも通じた。

  ながた かんが
永田観鵞
(永田中原)

元文3年(1738)~寛政4年(1792)
  忠原 俊平 観鵞・東皋・黎祁道人

  儒学者・書家 京都  天明3年(1783)2月11日の「天明京都日記」によれば、「冨岻山房(高芙蓉)に至る、永田俊平(永田観鵞)に相識となる」とある。
 寛政3年(1791)1月8日の「寛政京都日記」によれば、「(岩倉家に)永田俊平来る、久ふして逢う」とある。

 永田観鵞は服部蘇門・江村北海の門人。経史に通じ、暦方も能くした。能書家としても知られる。岡崎鵠亭は娘婿。

  なかにしちゅうぞう
中西忠蔵

生年未詳~天明5年(1785)
  子武     忠蔵 中津藩士・中西派一刀流剣術家 江戸  天明元年(1781)4月29日の「江戸旅中日記」によると、「下谷徒町に入り中西剣士の宅を探り得て一樽を以て見舞ふ、(略)、暫にして中西忠蔵対す、吸物酒出て語る」とある。
 5月27日には、「簗(簗次正)氏予を進めて中西氏へ行かんといふ、(略)、下谷泉橋通加藤遠江守殿(伊予大洲藩・6万石・加藤泰候・上屋敷)裏門前(台東区台東4丁目付近か)
中西忠蔵宅へ入る、はや四ツ過る頃にてみな寝たり、中西父子内弟子共起きて語る、忠蔵高松侯のやしきへ至り何れの国にての事か狼にあはれし事ありといふ如何と問はる故予物語せり」とあり、翌日には剣術稽古で簗次正の剣術を見学している。
 天明2年(1782)3月21日の「天明江戸日記」によれば、「中西忠蔵所へ簗氏(簗次正)共に至りける酒出でて酔ひに及ぶ、遂に簗氏も予と共に中西氏に宿す」とある。

 3月21日には、中西氏の誘いにより、簗氏と水野壱岐守殿(安房北条藩・1万5000石・水野忠韶)物頭高橋甚左衛門とともに「江戸在荻久保(現・荻窪)」「上荻久保八幡別当山伏大泉院」を訪ね、夕方まで酒を酌み、悪路の泥濘に苦労しながら戻り、夜明けに簗氏宅に帰っている。

 
中西忠蔵は中西派一刀流創始者の中西忠太子定(中津藩士)の子。2代を継ぎ、その道場は江戸第一の大道場といわれた。
 中西忠蔵は宝暦の頃、現在の剣道の基となる防具を考案した。


  なかにしちゅうた
中西忠太

宝暦5年(1755)~享和元年(1801)
  子啓     猪太郎・忠太 中西派一刀流剣術家 江戸  天明元年(1781)4月29日の「江戸旅中日記」によると、「暮に及んで中西(中西忠蔵)氏を立つ嫡子中西猪太郎(中西忠太)にも相識となる」とある。
 寛政元年(1789)12月18日の「寛政江戸日記」によれば、「下谷中西猪太郎(中西忠太)所へ入る吸物酒出づ」とある。

 中西忠太は中西派一刀流第3代、中西忠蔵の子、千葉周作の師。

なかの りゅうでん
中野龍田

宝暦6年(1756)~文化8(1811)

秀文または季文 東海 三郎
儒学者・画家 京都  寛政2年(1790)12月12日の「寛政京都日記」によれば、渡部図書(蓬州園・蓬壺堂・有無庵)宅で相識となっている。
 『高山彦九郎日記』第5巻(297ページ)に、中野煥(中野龍田)から彦九郎に宛てた贈答詩文が掲載されている。

 
中野龍田は尾張出身。桑名藩儒の兄中野春洞に従い桑名に移り、のち京都へ移る。安永9年岡崎藩儒となるが2年で戻る。天明2年(1782)四辻大納言の師となる。岡田新川の門人、十時梅厓(とときばいがい)と交流。

  なかむらしんさい
中村新斎

生年未詳~天保5年(1834)・83歳以上
弘毅 士卿(郷) 新斎・梅花 安右衛門 儒学者 京都  寛政3年(1791)2月10日の「寛政京都日記」によれば、橘石見介(南谿)宅で相識となっている。
 2月16日には、「中村安右衛門源弘毅
字子郷号は梅花(中村新斎)所へ入りて語りて宿す、履軒(中井履軒)が著したりし通語を見て評する事有り、夜半に及んで寝ぬる」とある。
 2月28日にも中村安右衛門所に泊っており、「吸物酒出づ」とある。

 中村新斎は京都の人。 嘉永元年(1848)に刊行された中村新斎の「閑度雑談」に高山彦九郎の話が収録されている。

なかむららんけい
中村鸞渓
(中村徳勝)

正徳2年(1712)~寛政2年(1790)
徳勝 士建・子建 彌作 儒学者・大溝藩儒 (近江大溝)・大津  安永4年(1775)2月24日の「乙未の春旅」によれば、「大溝中村彌作(中村鸞渓)を訪他行也」とあり、翌2月25日には、「大津に至り中村彌作名徳勝字士達(中村鸞渓)を尋ぬ、蘭嵎(伊藤蘭嵎)より贈文□蔵よりの贈文を見せ且其姪丹羽(波)國福智(知)山の臣河崎直右衛門改平馬其子榮之進十四歳の書を送る」とある。

 
中村鸞渓は伊藤蘭嵎の門人。用人・大目付・侍講などをつとめ、天明5年(1785)文芸奉行となって藩校脩身堂創設にあたった。

なかやま
中山言倫

明和4年(1767)~文政3年(1820)
子徳 自取 言倫 医家 京都  寛政3年(1791)1月24日から7月16日の間の「寛政京都日記」に14日現われる。彦九郎は「中山元倫」と記している。
 1月24日には、西山氏(西山拙斎)より中山氏へ来らせ玉はば忝(かたじけな)しと申し越す故中山元倫名は鼎(懋か)宅へ入る、貞蔵名は惟貞字は子幹号は漸廬(中山惟貞)が子也、父の為に元倫喪服せり、(略)」とある。
 3月21日には、彦九郎は西山拙斎に誘われ、大川良平(赤松滄洲)・若槻源三郎(若槻幾斎)・中山元倫・小田孝作・大愚(慈延)と伴に、山崎闇斎宅跡、妙心寺を経て、御室に桜を見に行き、帰りに蛎崎波響らが加わり茶屋で酒を酌み交わしている。
 4月4日には、「今日中山元倫に詫して四十六士論評(赤松滄洲が著した赤穂義士論)
を滄洲(赤松滄洲)へ返弁す」とある。
 4月14日には、「下賀茂みかげ(御蔭)祭拝見」に出かけ、「菊太郎(若槻整斎)孝恂(西山復軒)文治中山氏(中山元倫)等」とともに茶店で休んでいる。
 6月18日には、「南涯(志水南涯)へ至り滄洲(赤松滄洲)へ寄り中山元倫へ入りける、佐渡の人美濃部玄淳と相識となる」とある。
 6月26日には、「(若槻源三郎(若槻幾斎)宅に)中山元倫来る、四月頃加賀国へ異船着く人は乗らず一木を掘りて船とす箱の内に韃の服二つ有りその外二品異物也、昔佐渡に一木を掘りて船としたるが海浜に寄る事有り長さ十五間と語りし」とある。
 7月16日には、「今日山(中
)山元倫へ寄りける長崎への書を詫す」とある。

 中山言倫の父、中山惟貞(なかやまこれさだ・漸廬)は佐渡河原田出身の儒学者。那波魯堂の門人。西山拙斎菅茶山佐々木良斎慈延(大愚)と交遊。天明年間、京都の聖護院で塾を開く。のち聖護院門跡の盈仁入道親王の侍講となる。延享2年(1745)生まれ、寛政2年(1790)12月20日死去。
 中山言倫は父、中山惟貞に従い14歳で京都に出る。和田東郭の門人となり、医家となる。西山復軒菅茶山と交遊。

  なかやまなるちか
中山愛親

寛保元年(1741)~文化11年(1814)
藤原 愛親 仁甫 惜陰堂・雲裳存庵   公家・正二位・権大納言・議奏 (京都)  寛政3年(1791)4月17日の「寛政京都日記」によれば、加茂葵祭りの見学に出かけた彦九郎は行列の中に「加茂伝奏中山殿(中山愛親)」や弁官の「柳原殿(柳原紀光の子、柳原均光か)」を認めている。

 中山愛親は尊号事件で
武家伝奏正親町公明とともに、老中松平定信から処分を受ける。
 現在までのところ、「高山彦九郎日記」中、確認できる中山愛親の記述は本記事のみである。

なしのきすけため
梨木祐為

~享和元年(1801)
下鴨神社祠官・歌人・正四位下・上総介 京都  天明2年(1782)12月22日の「天明京都日記」によれば、「(大村彦太郎宅において)梨ノ木三位の孫下加茂なる興路上総介(梨木祐為)に相識となる名を祐為といひて奇人なり」とあり、祐為の和歌を記し、「正親町一位の聟柳沢氏(柳沢吉保)和歌を好めるによりて梨ノ木三位は関東へ下り綱吉将軍へある時に神書を講じ其講ずる中に加茂あをい(葵)祭の事をいふ、将軍家あをいを以て家紋とせる縁によりて遂にあをい祭も再興なし北村季吟も関東へ下り素より朋友の事なれば力をそえたると祐為語りぬ」とある。
 天明3年(1783)1月10日には、下加茂社に
梨木祐為を訪ね、その子縫殿にも会っている。
 寛政3年(1791)4月14日の寛政京都日記によれば「麻上下にて下加茂みかげ(御蔭)祭拝見の為めに出づ、(略)、祐為父子に逢ふ」とあり、4月17日には、「今日辛酉加茂葵祭拝見に出づ、(略)、祐為に逢ふて語りつ走馬を見る烏帽子にて乗る、祐為の所に於て赤飯を食す」とある。

 
梨木祐為は冷泉為村の門人。近世三十六歌仙として有名。一生に詠んだ歌は十万首に達したといわれる。
 梨木三位は名を祐之(すけゆき)といい、下加茂社の祠官・歌人、正三位。寛永年間、賀茂祭を再興した。

ならばやしじゅうべえ
楢林重兵衛

寛延3年(1750)~享和元年(1801)
通・高広 達天 重兵衛 阿蘭陀通詞・大通詞 (仙台)・長崎?・(薩摩)  寛政2年(1790)10月23日の「北行日記」によれば、「長崎吉尾幸作(吉雄耕牛)楢林重兵衛堀門十郎井ノ上孫四郎唐人番小野文平酒屋次三郎皆な林子平の知己也」とある。
 寛政4年(1792)3月28日の「筑紫日記」によれば、「長崎楢林重兵衛より林与一郎への書及び肥後斎藤権之介(斎藤芝山)より
伊地知智平覚(伊地知正幸)への書佐藤鉄蔵へ詫す」とある。彦九郎の長崎における日記は現存しないが、上記の記事から、長崎訪問の際、楢林重兵衛と何らかの交流があったことが想定される(ただし、楢林重兵衛は後述するように蟄居処分中)。
 
 
オランダ通詞は長崎奉行配下の世襲の地役人で、オランダ語の通訳として、外交・貿易業務・文化交渉にあたった。
 
楢林家の祖楢林鎮山(栄休)は通詞職を辞したのち、楢林流外科を創始(二男栄久が継承)。楢林重兵衛は通詞職を継いだ嫡男量右衛門系4代。
 
楢林重兵衛は寛政2年(1790)に起きた、いわゆる誤訳事件に連座し入牢、寛政3年(1791)には吉雄耕牛・本木仁太夫とともに、松平定信から5年間の蟄居処分を受けており、彦九郎長崎訪問はこの期間内にあたる。

なるしまどうちく きんこう のぶみち
成島道筑
(成島錦江・信遍)

元禄2年(1689)~宝暦10年(1760)
初め平井 鳳卿・信遍 帰徳・子陽 錦江・芙蓉道人 道筑己之助・忠八郎 幕臣・儒学者・歌人  安永6年(1777)4月6日の「丁酉春旅」によれば、甲州桂川にかかる猿橋のそばに宝暦5年(1755)建立された「鳴嶋道筑(成島道筑)」の石碑を記している。
 安永9年(1780)6月13日の「冨士山紀行」によれば、甲州桂川にかかる猿橋に至り、「昔年(安永6年)爰に宿りし時に幡野久兵衛所に猿橋碑銘の寫などあると聞く、翌日尋ね入りて見む事を乞ひしが他出にて本意を遂げず、今年また経歴するを幸として幡野氏の宅へ寄りて乞ふ、久兵衛安き事成とて見す、予爰に載せ置く」とあり、「東都 錦江 鳴 鳳卿(成島道筑)」撰の猿橋碑の碑文を記録している。
 天明2年(1782)3月20日の「天明江戸日記」によれば、「今日太田氏(太田玄浩)が語りけるに、鳴島道筑(成島道筑)南郭(服部南郭)に因て徂来
(ママ)荻生徂徠)に相見し文を学ばむとす、徂来驕慢の形ちにて先づ小右衛門(服部南郭)に談し候へといふて打合はず…」とある。
 
寛政2年(1790)10月26日の「北行日記」によれば、「鳴嶋道筑(成島道筑)をば御はしの道筑と呼びしとぞ子平子(林子平)の語る所也」とある。
 
 
成島道筑は松平下総守家臣平井金右衛門信体の三男、成島道雪の養子。徳川吉宗に出仕・冷泉為綱・為久・為村の門人で、江戸堂上派歌人。荻生徂徠服部南郭の門人。詩・歌・書画を能くした。奥州白河出身。

  なるた ともとき
成田朝辰
(羽生朝辰)


宝暦9年(1759)~天保4年(1833)
羽生 朝辰   狸庵・狸隠道人・檪山・淡水斎 源十郎 中津藩士・卜占家 細谷・江戸  天明7年(1787)6月の「墓前日記」によれば、羽生朝辰(成田朝辰)は細谷村の彦九郎宅を一ヶ月の間に2度訪ねており、6月25日には彦九郎から長々と意見されている。
 寛政元年(1789)10月26日の「
寛政江戸日記」によれば、「簗氏(簗次正)の室大病に因て築地に至りて羽生朝辰(成田朝辰)に語りて上州伊勢崎家士川田金左衛門(簗次正室の前夫)に告げしむ、朝辰酒を出だす、共に出でて神田に至り勘右衛門森重蔵所にて南鐐を借らんとするに他出にて(佐藤尚に至りて南鐐を借りて、朝辰路用とす、次正(簗次正)より書にたばこ入れ一を寄せ、十二章(ヵ)めに来たりねと申し越す」とある。
 なお、朝辰は「
寛政江戸日記」中(寛政元年10月~12月・寛政2年5~6月)に上記を含め35日に現れる。

 成田朝辰は
簗次正の弟。中津藩に仕え砲術に長じたが、職を辞し卜占家となる。
 狸を好み、狸の絵を能くした。


  なんばむねたか
難波宗享
(難波宗功)

明和7年(1770)~文化5年(1808)
藤原 宗功・寛政8年に宗享

  公家・非参議・侍従・左権少将・左権中将・正三位 京都  寛政3年(1791)4月9日の「寛政京都日記」によれば、「富小路(富小路貞直)殿へ入る、(略)、貞直卿と真如堂(真正極楽寺・京都市左京区浄土寺真如町にある天台宗の寺院)の開帳を見る、舟屋茶店に入りて竹宮に酌む時に難波少将(難波宗功)も入られける、酔ふて竹が手を取りて難波殿の前に居らしむる事有り」とある。
 4月15日には「今日岩倉(岩倉具選)家に難波少将殿入らる松原金吾従ふ、難波殿に見ゆ」とある。

 7月9日には「難波殿へ入る松原金吾対せり」とある。

 
難波宗功は難波宗城(正二位権大納言)の子。難波家は代々蹴鞠を家職とした。

にしきこうじ よりただ
錦小路頼理

明和4年(1767)~文政10年(1827)
丹波 頼理 公家・典薬頭・右馬頭・中務権少輔・中務大輔・正三位・修理大夫

京都  寛政3年(1791)4月8日の「寛政京都日記」によれば、「是れより錦小路中務権少輔(錦小路頼理)殿も共に山中(叡山)を越へらる」とある。
 寛政4年(1792)2月23日の「筑紫日記」によれば、「錦小路頼理卿高詠を寄せし」とあり、5月20日にも「錦小路頼理卿高詠短冊(略)寄せける」ある。

にしきこうじ よりなお
錦小路頼尚

寛保3年(1743)~寛政9年(1797)
丹波  頼尚       公家・式部大丞・典薬助・典薬頭・図書頭・中務少輔・中務大輔・修理大夫・正三位 京都  寛政3年(1791)2月11日の「寛政京都日記」によれば、「夜に入りて近鄰神足駿河(中世に桂川西岸西岡の神足城に拠った神足こうたり氏の子孫か)自来り迎るにより富小路殿(富小路良直)に従ふて至る、六角殿(六角光通)及び錦小路中務大輔殿(錦小路頼尚)酌みて居られける、詠曲出づ、酔ふて遂に宿す、酒肴数を尽しける」とある。
 寛政4年(1792)2月25日の「筑紫日記」によれば、「錦小路頼尚卿の高詠を与ふ」とあり、3月5日には「錦小路頼尚卿詠をば織田醫生へ与へ侍る(略)」とある。

 
錦小路頼尚は竹内式部の門人。錦小路頼理の父。典薬頭は錦小路家が世襲した。

  にしのとういんときな
西洞院時名


生年未詳~寛政5年(1793
)70歳
時名   風月・云々   公家・正四位下・少納言・侍従 京都  寛政3年(1791)1月3日の「寛政京都日記」によれば、「西洞院信庸卿へ入りて入道殿(西洞院時名)へ玉芙蓉を出だす」とある。
 7月17日には「西洞院信庸卿云々入道殿(西洞院時名)へ見へて西国出立を告ぐ」とある。

 
西洞院時名は竹内式部の門人。宝暦事件に連座し、停官永蟄居を命ぜられた。のち赦される。西洞院時名は西洞院信庸の父。

にしのとういんのぶつね
西洞院信庸


宝暦8年(1758)~寛政12年(1800)
信庸       公家・正三位・佐兵衛督・参議・従二位 京都  寛政3年(1791)1月3日の「寛政京都日記」によれば、「西洞院信庸卿へ入りて入道殿(西洞院時名)へ玉芙蓉を出だす、信庸卿持参有る、信庸卿何卒京都近所に居られよと進めらるる事しばしば也」とある。
 7月17日には「西洞院信庸卿云々入道殿(西洞院時名)へ見へて西国出立を告ぐ」とある。

 
西洞院信庸は西洞院時名の子。

 
にしむらおうみだいじょう
西村近江大掾
扇子商 京都・(熊本)  天明3年(1783)3月28日の「天明京都日記」によれば、「新町丸太町上ル所額屋九湖堂衣棚下立売下ル所扇子屋西村近江大掾所へ入る」とある。 
 
寛政4年(1792)1月20日の「筑紫日記」によれば、「斎藤高寿(斎藤芝山)所へ至るに西村近江よりの書去冬十一月廿三日の出にて伏原二位殿(伏原宣條)逝去のよし高寿へ申来る」とある。

  にしやませっさい
西山拙斎

享保20年(1735)~寛政10年(1798)または寛政11年(1799)
坂本 士雅・子雅 拙斎・石顚・緑天・雪堂・至楽居華岳・匤廬・坂下莬麿・山陽逸民

友吉 儒学者・医家・漢詩人 備中鴨方・京都  天明3年11月2日の「再京日記」によれば、寺川夷川上るにて大川良平(赤松滄洲)僑居を問ふ、良平ひげ長し語る事久し、備中西山氏(西山拙斎)の語とて虎渓の事を識りて、 玉田非玉頑石自珎黙翁不黙忘(妄)言欺人 とぞ聞こへし」とある。
 また、寛政3年(1791)1月7日から5月15日までの「寛政京都日記」に、38日現れる。
 寛政3年(1791)1月7日の「寛政京都日記」によれば、彦九郎は白馬の節会(あおうまのせちえ)が行われている宮中紫宸殿の庭で、西山拙斎・佐野小進・若槻菊太郎(若槻整斎)に会っている。
 1月12日には「(岩倉具選邸において)昨日西山拙斎玉芙蓉取り出でて是れ生野(生野銀山か)にて得たる紫水晶也、内をすかして見られよ富士の形山頂に雪見へて奇也、天覧に備はりたるのよし」とあり、1月25日には「玉芙蓉を予に詫
(ママ)して諸卿の歌を乞える」とあり、これ以降、岩倉具選婦人・西洞院信庸・平松殿(平松時章か)・東坊城殿(東坊城益良)・五条少納言殿(五条為徳)・村山以文(村山維益)・小野蘭山伏原宣條・大村周全(大村彦太郎の子)・大村永周に見せている(2月6日に返却)。
 1月19日には、佐々木備後守・西山(西山拙斎)若槻菊太郎らとともに宮中で舞楽を見学している。
 2月29には、「暮れに佐々木備後守へ寄り若槻源三郎(若槻幾斎)所へ至る、西山拙斎藤無仏斎(藤貞幹)と酌る所也、予も共に酌みて遂に宿す、拙斎次子光淳(西山復軒)に逢ふ、先年備中へ尋ねたりし時に逢ふたりと語れり」とあり、これ以前からの彦九郎との交流が確認できる。
 3月1日には、「西山氏に金子二両を借る事あり」とあり、3月13日には、若槻源三郎(若槻幾斎)宅へ入り拙斎(西山拙斎)に借る所の二両を返へす」とある。
 3月12日には、「岩倉家(岩倉具選)へ従ふて嵐山に遊ぶ、(略)、嵐山遊行多ふし、西山(西山拙斎)佐々木(佐々木備後守か)若槻(若槻幾斎か)其外知己の人多ふく遊ぶ」とある。
 3月21日には、彦九郎は西山拙斎に誘われ、大川良平(赤松滄洲)若槻源三郎(幾斎)中山元倫・小田孝作・大愚(慈延)らと伴に、山崎闇斎宅跡・妙心寺を経て、御室に桜を見に行き、帰りに蛎崎波響らが加わり茶屋で酒を酌み交わしている。
 5月2日には、「西山拙斎国へ立とて若槻佐々木栄健中山元倫等送り来る、富小路殿(富小路良直か)暫く拙斎(西山拙斎)若槻敬(若槻幾斎)と語らる」とあり、彦九郎は「西斎(西山拙斎)」に玉芙蓉の和歌を贈っている。

 
西山拙斎は備中鴨方(岡山県浅口市)の医家西山恕玄の子。大坂・京都で、古林見宣・岡白駒・那波魯堂に学ぶ。澄月から和歌を学ぶ。幕府儒官柴野栗山に異学の禁を説いた。菅茶山頼春水と交遊し、六如上人と詩窮社を結んだ。安永2年(1773)、鴨方に私塾欽塾を開く。
 西山拙斎とは若槻幾斎宅で頻繁に会っていることから、この時期、拙斎は同宅に寄留していたものか。
 彦九郎とは岡白駒の同門。

にしやま
西山復軒

宝暦11年(1761)~天保11年(1840)
孝恂 復軒 儒学者・医家・備中松山藩藩校有終館教授 備中鴨方・京都  寛政3年(1791)2月29日の「寛政京都日記」には、「暮れに佐々木備後守へ寄り若槻源三郎(若槻幾斎)所へ至る、西山拙斎藤無仏斎(藤貞幹)と酌る所也、予も共に酌みて遂に宿す、拙斎(西山拙斎)次子光淳(西山復軒)に逢ふ、先年備中へ尋ねたりし時に逢ふたりと語れり」とあり、これ以前からの彦九郎との交流が確認できる。
 3月17・18・19日にも西山父子(西山拙斎・西山復軒)に会っている。
 4月14日には、「下賀茂みかげ(御蔭)祭拝見」に出かけ、「菊太郎(若槻整斎)孝恂(西山復軒)文治中山氏(中山元倫)等」とともに茶店で休んでいる。

 西山復軒は西山拙斎の次子。柴野栗山若槻幾斎の門人。広島藩復古堂督学、備中松山藩藩校有終館教授となり、のち父創設の欽塾を継ぐ。

  にしよりせいさい
西依成斎

元禄15年(1702)~寛政9年(1797)
  正固・のち周行 潭明・のち儀平 成斎・望楠軒 門平のち儀平・儀平衛・儀兵衛

儒学者(崎門学派)・望楠軒書院第三代講主 京都  天明2年(1782)11月23日の「天明京都日記」によれば、「西依望楠軒(西依成斎)を尋ぬ、糸を土産とす」とあり、11月24には「下立売御門の辺りにて西依義兵衛(西依成斎)に逢ふ、今年八十二荘(ママ)健の事也立ちながらしばらく語り」とある。
 天明3年(1783)2月朔日には、「望楠軒に入る西依氏よろこべり」とあり、2月26日
には、「西依義兵衛の宅に寄る、西依翁語て肥後熊本学校いまだ聖堂立ざることに及びて菊池武重の聖廟再興するといへる願にて叶ふたるよし語る」とあり、4月6日には「西依義兵衛来て餞別の詩一首を寄す、離盃を傾く」とある。
 寛政3年(1791)4月19日の「寛政京都日記」によれば、「
西依義兵衛望楠軒へ寄る、西依翁今歳九十也」とある。

 西依成斎は前原丈軒・若林強斎・小野鶴山(強斎女婿)の門人。赤松滄洲柴野栗山皆川淇園らと交遊し、三白社と称した。門人に藪孤山・古賀精里がいる。小野鶴山の跡をを継ぎ、望楠軒書院第三代講主となる。

  にったよしさだ
新田義貞

正安3年(1301)頃~延元3年・建武5年(1338)
源  義貞 小太郎 正四位下・左近衛中将  「乙未春旅」・「小田原行」・「丁酉春旅」・「高山正之道中日記」・「墓前日記」に現れる。
 安永4年(1775)2月の「乙未春旅」では、2月15日に敦賀金ヶ崎(福井県敦賀市金ヶ崎)、16日に杣山城跡(福井県南条郡南越前町阿久和)と新田氏の遺跡を訪ねた後、18日は灯明寺畷(福井市新田塚町)の「新田義貞の冢」に至り、石碑について記録し、かつて湊川に楠正成の墓を訪ねた折のこととの違いについて記している。19日には坂井郡長崎(坂井市丸山町長崎)の「長林寺(山)稱念寺とて時宗の寺あり、ここに新田義貞の像あり」とあり、義貞の位牌・石碑について詳しく記録している。
 天明7年(1787)6月26日の「墓前日記」によれば、「今年七月二日は新田義貞450年忌に当れり」とあり、「要叔(高山要右衛門正穏)」に名主に話してその日村人を休日とし、義貞を顕彰すべきと勧めるが拒絶され、「予心に怒る」とある。翌27日には、訪ねてきた太田町の橋本道恭に、新田郡中に触れを出し、7月2日を休みにして、新田義貞を顕彰するよう情熱的に語るが、消極的な返事しかなく、
彦九郎は「予時に只尽し玉へとて止みける」とある。

 新田義貞は新田氏本宗家第8代。上野国新田荘由良郷(太田市由良町)生まれ。鎌倉北条氏を滅ぼし、建武の新政の一躍を担う。鎌倉攻略直後から同族の足利尊氏と対立。義貞は後醍醐天皇側に立ち各地を転戦するが、越前国藤島荘灯明寺畷で戦死する。墓は坂井市丸山町長崎の称念寺にある。
 彦九郎の遠祖高山遠江守重栄が新田義貞馬廻十六騎の一人として活躍したことが『太平記』に見え、これを読んだ彦九郎に大きな影響を与えたとされる。
 なお、彦九郎が生まれた細谷村は、新田氏本宗家の拠点であった由良郷の発展により派生したもので、中世においては由良郷細谷村と呼ばれた。義貞と彦九郎は同郷出身となる。


布引拙斎
(布引節斎)
高敬 子慎 拙斎 赤穂藩士・藩儒(?) 江戸  天明元年(1781)5月8日の「江戸旅中日記」によれば、「森家(赤穂藩・森忠賛・5万5000石)の臣布引節斎(布引拙斎)与力榊原源太郎(榊原香山)などいふ人ありて兵器等の古物を知り折々古物の会ありて目ききすといふ、節斎古城新城の城取の図を集め貯ふ」とある。
 5月28日には、「節斎(布引拙斎)等の会日5月3日松島丁永井求馬(大
脱カ)江尚敬(永井尚敬)が所也と野口氏(野口直方または野口度英)書付にて寄す」とある。
 閏5月3日には、「浜丁永井求馬大江尚敬(永井尚敬)会合の処に至る、会読長門本の平家物語也、出席野口辰之助藤直方(野口直方)榊原源太郎源長俊(榊原香山)坂昌文源貞古(阪昌文か)大塚市郎右衛門橘嘉樹(大塚蒼梧)森家(赤穂藩)の臣布引拙斎源高敬加藤遠江守殿(大洲藩・加藤泰候・6万石)家士石田仲右エ門殿(ママ)賢道松平右近将監殿(館林藩・松平武寛・5万4000石・奏者番)家臣荒井休斎太神克昌松平周防守殿(石見浜田藩・松平康福・5万5400石・老中)家士伊ノ下新右衛門源新津軽越中守殿(弘前藩・津軽信寧・4万6000石)家士比良野助三郎源貞彦(比良野貞彦)上田孫右衛門源勝賢酒井左衛門尉殿(鶴岡藩・酒井忠徳・14万石)家士人見意順源貞公、主を始め予が至るを悦びける」とある。
 寛政元年(1789)10月14日の「寛政江戸日記」によれば、「森伊予守(森 忠賛)邸布引節齊所へ寄り暮れに及んで出で」とある。
 11月16日には、「新銭座森伊予侯の邸(港区浜松町1丁目)に入りて布引拙斎を問ふ」とあり、森侯の系譜や拙斎が49歳から今年の66歳までの18年間に書籍を642部写したことなどを聞いている。
 12月6日には、新銭座森侯の邸に布引拙斎を訪ね、書籍の貸し借りをしている。
 寛政2年(1790)5月3日には、「森侯の邸に至るに拙斎他出と聞へしゆへ門より去り」とある。

のういん
能因


永延2
年(988~ 康平元年(1058)頃
永愷   法名:初め融因・のち能因 古曽部入道 文章生・歌人 ―(象潟・陸中野田・肥後松橋)  寛政2年(1790)8月13日の「北行日記」によれば、象潟(秋田県にかほ市)に逗留し、船で「能因嶋」を初めとする島々の間を巡っている。
 象潟は文化元年(1804)の象潟地震により隆起し陸地化するする前は、松島と並ぶ多島海の景勝地として知られていた。
 9月16日には、久慈から玉川村(岩手県九戸郡野田村)へ南下し、「東に海を見て右に山の鼻巖石にて其所へ玉川流る、是れも新古今に能因の歌を載せて 
夕されば汐風こして陸奥の野田の玉川千鳥鳴く也 とあるは爰(ここ)也」とある。
 歌枕の地「陸奥の野田の玉川」の比定地については、古くから論争があったが、松尾芭蕉が塩竈・多賀城(宮城県塩竈市・多賀城市)間を流れる野田の玉川を歌枕の地としたことから、同地が有力となった。なお、彦九郎は10月29日に塩竈から仙台に戻る途中、「野田の玉川」「紅葉山」「思はくの橋」「末の松山」「沖の石」にも立ち寄っており、両説に触れていることがわかる。
 寛政4年(1792)2月25日の「
筑紫日記」によれば、(松橋において)「古曾部村(熊本県宇城市小曽部)西に有り能因法師の墓、往年墓の傍に於て銅印を得たり文に乞翁能因と有りけるとぞ」とある。

 
能因は長和2年(1013)、26歳の時出家し、摂津国古曽部(大阪府高槻市)に住む。諸国を旅し、奥州・伊予・美作などに足跡を残した。

野口直方
(野口辰之助)
藤原 直方 辰之助 幕臣・代官 江戸  天明元年(1781)5月28日の「江戸旅中日記」によれば、「節斎(布引拙斎)等の会日5月3日松島丁永井求馬(大脱カ)江尚敬(永井尚敬)が所也と野口氏(野口直方または野口度英)書付にて寄す」とある。
 閏5月3日には、「浜丁永井求馬大江尚敬(永井尚敬)会合の処に至る、会読長門本の平家物語也、出席野口辰之助藤直方(野口直方)榊原源太郎源長俊(榊原香山)坂昌文源貞古(阪昌文か)大塚市郎右衛門橘嘉樹(大塚蒼梧)森家(赤穂藩)の臣布引拙斎源高敬(布引拙斎)加藤遠江守殿(大洲藩・加藤泰候・6万石)家士石田仲右エ門殿(ママ)賢道松平右近将監殿(館林藩・松平武寛・5万4000石・奏者番)家臣荒井休斎太神克昌松平周防守殿(石見浜田藩・松平康福・5万5400石・老中)家士伊ノ下新右衛門源新津軽越中守殿(弘前藩・津軽信寧・4万6000石)家士比良野助三郎源貞彦(比良野貞彦)上田孫右衛門源勝賢酒井左衛門尉殿(鶴岡藩・酒井忠徳・14万石)家士人見意順源貞公、主を始め予が至るを悦びける」とある。

 天明3年(1783)2月1日の「天明京都日記」によれば、「二位殿(伏原宣條)また申されけるは、先きに語りし大塚市郎右衛門(大塚蒼梧)方より申し越せし野口辰之介(野口直方)此方へ入門の願ひ其元のいひる故ともなしに只入門を許容せるよし文を認めて関東へ下すとありける、なきよし答へ申す」とある。

 野口直方は天明8年(1788)代官となり、江戸・倉敷・江戸と勤めた。

  のぞき たいか
莅戸太華
莅戸善政


享保20年(1735)~享和3年(1804)
  幼名孫惣
のち善政
善政 太華・南溟・好古堂 九郎兵衛 米沢藩町奉行・中老・奉行(国家老) 江戸・米沢  安永9年(1780)11月15日「江戸旅中日記」によれば、「浜丁如来子(細井平洲)に至て宿す、莅戸九郎兵衛(莅戸太華)来り居る、(略)、初対面也」とある。
 寛政2年(1790)7月19日の「
北行日記」によれば、米沢の莅戸宅で歓待を受けている。その際、上杉鷹山から差し入れがあり、「予を饗するが為めに中殿(上杉鷹山)より魚を賜ふと語れり、(略)、蕎麦に吸物酒肴数を尽くせり、侯より賜ひしといへるは岩名といへる魚を最もとす」とある。

 莅戸太華は
藁科松伯細井平洲の門人。藩主上杉鷹山のもと、藩政改革に当たった。

  野田和三郎           丹後田辺(舞鶴)藩士 江戸  寛政元年(1789)12月15日の「寛政江戸日記」によれば、「青物丁新道、小松原剛治へよりて、袴を改めて出づ、牧野佐渡侯(丹後田辺藩〈舞鶴藩〉・3万5000石牧野宣成・佐渡守)の邸、野田和三郎に逢ふて、古今傳授の折の禮謝を述ぶ」とある。

 「古今伝授(こきんでんじゅ)」とは「古今和歌集」の中の語句の解釈に関する秘説などを師から弟子に伝授することをいう。彦九郎は袴をはき替え、御礼に行っていることから、野田和三郎から「古今伝授」を受けたものか。

  野呂喜左衛門           弓術家 ―(京都)  天明3年(1783)3月14日の「天明京都日記」によれば、「芙蓉翁(高芙蓉)薩州の人重シゲ久道与奥州の人太田包昭及び□□□□士野呂喜左衛門に相識になるべきを進めける、太田氏はゑぞに行きて自由に往来せしもの、野呂氏は近頃上京して大仏矢克ヨクに僑居し矢数(通し矢で、矢の数を競うこと)に志しある人也」とある。

 
この時期に京都蓮華王院(三十三間堂)で、通し矢を行った人物として、和歌山藩士の野呂正祥(宝暦12年〈1762〉~天明7年〈1787〉26歳で没)がいる。
 野呂正祥は小川三郎兵衛弟で、定吉のち助左衛門を称し、安永3年(1774)4月26日に半堂矢数11965射中11715本、天明3年(1783)5月23日に大矢数10072射中5583本の通し矢を行った。

 
はぎわら
萩原守道
(萩原恪斎)


 ~寛政5年(1793)76歳
守道 恪斎 伴次 儒学者(闇斎学) 江戸  天明元年(1781)5月19日の「江戸旅中日記」によれば、「一番丁を経て萩原氏(萩原守道か)へ寄る孟子の講釈あり、小笠原家の旗奉行渡部彌三兵衛なる人来る、萩原氏故き冑を出す、冑の内前のかたには天照太神八幡太神春日大明神とあり後には天喜五年八月日主八幡太郎義家と有りといへり、八幡坐(座)きくからくさしんちうめつき穴常より大也、渡部氏予か手へ移して見す、故くして落さは破れつへし、予渡部氏へ返す、後に萩原氏座にある処の物を見す、萩原氏ふるき物にはあれと義家の冑とも思ひかたし、土中に埋む時は新物も古物にみゆと語る、土屋大内伊達才蔵にも相識と成る、吉益周介(吉益東洞)か著したる方極と類聚方を見る、才蔵は芸州吉田の人にて吉益門人聟なるよし、萩原氏予をとむるによつて遂にこゝに宿す、萩原氏幸に魚を得たりとて鐺を取出し水に醤油を交立なから貝酌子にて酌み口に入れ塩梅をなし水を汲て手水場へもちける、予火をたかんとすれは、足下は且那にて事になれすとて炭をおこさしめたり、食事の後に予に留守居として老人は出て暮れて帰りはたぬきてたばこをきる、予は玉山講義をよめり、深更に及ふまて語る、老人のいふ所甚朴素直実也感するに堪たり」とある。
 天明2年(1782)3月25日の「天明江戸日記」によれば、「朝松波氏(裏四番町松波隆起)へ入りて四書集註を返へす、出でゝ萩原氏(萩原守道か)ヘ至る老人よろこべり、□□□去冬京師に歿し萩原氏五金をのぼせたるよし猶金子をのほするのよし語る、座に医生ありて老人に吉益(吉益東洞)が薬徴五冊を借る、価何iに程なるやと問へは、老人何程なりとも用あらば書林に求めて可也価を問ふに及ばず、此書は与へもすべけれ共是れのみなれは与事はならず返へしあれといひし」とある。
 寛政元年(1789)11月15日の「寛政江戸日記」によれば、「稲生五郎左衛門殿長屋に居る萩原守道を問ふ、よろこびて暫く語りて」とある。また、12月24日・26日、寛政2年(1790)6月3日にも萩原守道を訪ねている。

 
萩原守道は宇井黙斎の門人。

はくら  ごんくろう やすひら
羽倉権九郎秘救

寛延元年1748~文化5年(1808

秘救 弥三郎・権九郎 幕府代官・西国筋郡代  寛政元年(1789)11月20日の「寛政江戸日記」によれば、「(前野良沢宅に)上州沼田後閑村の人にて櫛淵八弥宣根(櫛淵虚冲軒)来る、小川町裏猿楽町羽倉権九郎殿に滞留のよし、酒出でて暫く語る、今歳六月出立にて下谷坂本町二丁目青嶋俊蔵なる御普請役蝦夷へ渡りて先月二十九日に帰へる、其人に従ふて、関吉十郎字子敬(関赤城)なる者も行きしよし。沼田の城下富家の子にて学問を好める人有るを聞くそれなるべしといへば果たして然り、櫛淵氏、蝦夷物語を約して富山町田丸屋兵右衛門所へ会すべしとて立つ」とある。

 羽倉権九郎は柏山甚右衛門介英の子。作事方下奉行羽倉弥左衛門光周の婿養子。幕府代官を歴任(出雲崎・美濃・伊勢・摂津・播磨)し、安永7年(1778)御勘定吟味方改役となり、寛政5年(1793)9月、日田代官、文化3年(1806)西国筋郡代となる。子の羽倉下記(羽倉簡堂)も日田代官を務めた。両者とも、広瀬淡窓の門人。

はしもとつねすけ
橋本経亮

宝暦5年(1755~文化3年(1806
経亮   橘窓・春圃・香果堂香菓   梅宮社祠官・肥後守・非蔵人・有職故実家 京都  寛政2年(1790)12月8日の「寛政京都日記」によれば、「芝山殿(芝山持豊)へ至る、非蔵人橋本土佐橘経亮(橋本経亮)なるに相識となる、梅ノ宮の社家肥後守なるが事也」とある。

 
橋本経亮は高橋宗直から有職、小沢蘆庵伴蒿蹊から和歌を学ぶ。本居宣長・滝沢馬琴・上田秋成・谷文晁と交遊。

  橋本道恭           細谷村

 天明7年(1787)6月27日の「墓前日記」によれば、「太田町橋本道恭来る、久く語る、茶漬をだす、米沢村へとて立てり」とあり、帰りに再び立ち寄った橋本道恭に、今年7月2日の新田義貞四百五十年忌を休日とし、新田郡をあげて義貞を顕彰すべきと熱心に語るが、「仰の義至極ご尤なる御事にて、拙者は誠に承知仕るなれど町屋の者の軽薄にしてケ(か)様なる義は入り難し」とあり、消極的な返事が返り、彦九郎は「予時に只尽し玉へとて止みける」とある。

 橋本道恭は太田宿本陣当主(太田町名主)か

  橋本道乗             太田町・勢多郡沢入

 天明2年(1782)4月6~9日の「澤入道能記」によれば、太田町の「橋本道乗」とともに、勢多郡沢入(そうり)に遊んでいる。

はちじょうたかよし
八条隆礼

明和元年(1764)~文政2年(1819)
藤原
隆礼 公家・修理権大夫・右権少将・権中将・参議・従二位
京都  寛政3年(1791)3月9日の「寛政京都日記」によれば、「芝山持豊卿へ入る、穂波殿(穂波経条)八条少将殿(八条隆礼)甘露寺侍従殿(甘露寺国長)日賀単称尼出席にての帚木(ははきぎ・「源氏物語」第2帖)の講有り、八条殿甘露寺殿には始めて見ゆ」とあり、4月3日・5月8日・7月3日にも芝山家の源氏講釈で会している。
 7月18日には、九州行の餞別として和歌の短冊をもらっている。


  服部道立   敬之   道立   本草家 江戸  安永9年(1780)6月27日の「冨士山紀行」によれば、体調の悪い彦九郎は服部道軒(服部道立か)宅を訪ね、「一粒金丹五ツ包み」をもらった後、嚶鳴館へ至っている。
 『高山彦九郎日記』のこの部分の註によれば、「服部道軒― 服部栗斎道賢(服部栗斎)のこと、軒は誤りか」とあるが、寛政元年(1789)12月27日の「寛政江戸日記」によれば、嚶鳴館と同じ浜丁山伏井戸に住む服部道立を訪ねその母に金丹の代金を払っていることから、服部道軒は服部道立の可能性もある。
 
 
服部道立は浜丁山伏井戸(中央区日本橋久松町付近)在住、のち本所六間堀伊予橋手前森下丁(江東区森下)に移っている。

  はっとりなんかく
服部南郭

天和3年(1683)~宝暦9年(1759)
  元喬  子遷 南郭・芙蕖館・周雪・観翁 幸八・小右衛門  儒学者(古文辞学)・漢詩人・画人  天明2年(1782)3月20日の「天明江戸日記」によれば、「今日太田氏(太田太田玄浩)が語りけるに、鳴島道筑(成島道筑)南郭(服部南郭)に因て徂来(ママ)荻生徂徠)に相見し文を学ばむとす、徂来驕慢の形ちにて先づ小右衛門(服部南郭)に談し候へといふて打合はず…」とある。

 
服部南郭は柳沢吉保に仕え、荻生徂徠に師事する。芥川丹丘広津蘭渓の師。京都出身。
 太宰春台とは徂徠の古文辞学(蘐園学派)同門であるが、春台が徂徠の経世論を継承したのに対して、南郭は文学・歴史・詩歌など詩文面を継承した。

  はっとりりっさい
服部栗斎

元文元年(1736)~寛政12年(1800)
  保命 佑甫 栗斎・道賢・旗峯・静春 善蔵 儒学者・上総飯野藩儒(保科氏) ・信古堂第2代堂主・幕府麹町教授所(麹溪精舎)教授 江戸・松島  天明元年(1781)4月29日の「江戸旅中日記」によると、築地の深井半左衛門宅に簗次正を訪ねたが不在のため門を出ると、読書の声が聞こえるので人に聞いてみると、「服部善蔵(服部栗斎)宅也」というので門を入り語った。「名分大義の談に感有り久しく語り、食膳の後出で」とある。
 5月8日服部栗斎の紹介で伊藤寛蔵(大寛)に会う。
 天明2年(1782)3月19日の「天明江戸日記」によれば、「木挽丁(中央区銀座1~8丁目の東部)へ至り壱樽」を持って服部善蔵(服部栗斎)宅を訪ね、「祠堂」や「唐崎常陸介」のことについて語り合っている。
 天明6年(1786)4月、松島見物に同行。あちこち立ち寄る彦九郎に対して、栗斎は「松島見物ならぬ高山見物」と記しているという(新井雀里著「高山芳躅誌」によれば、このエピソードは柴野栗山のこととされている)。
 一方、頼春水の「春水日記」によれば、、4月9日には、「高山彦九郎来話、奥州行来告」、4月14日には、「服部先生(服部栗斎)松島行、見立(「送別」の意)」、4月15日には「高山彦九郎、告別。且有請著書浄書」とあり、5月22日には「夕方、高山彦九郎来話、快活」とある。彦九郎の日記は欠落しているが、他の日記などの記述とあわせると、この間に彦九郎が服部栗斎とともに奥州松島を訪ねていることが推定できる。
 寛政元年(1789)10月3日の「寛政江戸日記」によれば、「愛宕下三斎小路(港区虎ノ門1丁目)服部善蔵所に寄りて、子錦(佐藤子錦)中風の事を告ぐ」とある。

 
 服部栗斎は上総飯野藩(千葉県富津市)の飛び地攝津浜村(大阪府豊中市)出身。大坂では、中井竹山中井履軒とは五井蘭洲の同門。久米訂斎・石王塞軒・稲葉迂斎に学び、江戸では迂斎の門人村士玉水と交遊。頼春水頼杏坪頼山陽
の師。
 
飯野藩儒を退いた後は、村士玉水の家塾信古堂を継承。寛政3年松平定信から麹町に宅地を与えられ、麹溪精舎を開く。

  はなわほきいち
塙保己一

延享3年(1746)~文政4年(1821)
荻野 幼名寅之助・辰之助   水母子・温古堂・早鞆和布刈 多聞坊・千弥・保木野一・保己一

国学者・検校

 寛政元年(1789)10月3日の「寛政江戸日記」によれば、八重洲川岸の林大学頭邸内の中嶋左仲常足から、塙検校(塙保己一)のことを聞いている。

  羽生朝辰
成田朝辰
               
はまじましまのかみ
浜嶋志摩守
高橋 地下官人・内膳司奉膳 京都  天明3年(1783)1月16日の「天明京都日記」によれば、「内膳司浜島志摩守の家へ入る、其の父播磨守に相識となる、布衣烏帽子を懸け日の御門を入りて紫宸殿の東階の下志摩守の陳せし処に至り、其傍ら御厨子所高橋采女正(高橋宗孝)是れへとて招かる故予は高橋の陳に居る、浜嶋氏より弁当出づ、(略)、采女正のいざないによりて恐れみ謹みて殿上に於て御酒司の酒内膳司の酒膳御厨子所の御膳を拝見し奉る事あり、今夜をあらればしり踏歌の御節会と申し奉る」とある。
 3月4日には、「浜島志摩守高橋采女正(高橋宗孝)へ各酒二升宛を寄せて見舞ふ、高橋は留守にて浜嶋は在宿にて逢ふて語る、夜に入て帰へりける」とあり、11月3日にも両人を訪ねている。
 寛政3年(1791)1月6日の「寛政京都日記」によれば、浜嶋志摩守に奥州みやげの「内裏嶋白砂」を渡し、1月7日には「白馬御節会」を「御厨子所高橋采女正(高橋宗孝)内膳司浜島志摩守造酒司徳岡内蔵ノ允」のとともに拝観している。
 1月16日には「踏歌の節会」を「高橋采女正(高橋宗孝)浜島志摩守徳岡内蔵允」と共に待ち、「内膳司(浜島志摩守)造酒司(徳岡内蔵允)」と舞楽や節会の儀式を拝観している。

はまむらろくぞう
浜村六蔵
(浜村蔵六)

享保20年(1735)~寛政6年(1794)

茂喬 君樹 蔵六 六蔵 篆刻家 江戸  天明元年(1781)5月8日の「天明江戸日記」によれば、「嚶鳴館を出で服部道賢(服部道立か)宅へ入る、浜村禄蔵茂喬字君樹(浜村六蔵)来り予が扇子を見て益道(伊藤益道=伊藤華岡か)が子(伊藤恒庵=天沼恒庵か)に書しめんとて取て出づ」とある。
 5月28日には、「服部道賢(服部道立か)所に入る、(略)、立って浜村禄蔵(浜村六蔵)所へ見舞ふ、出で嚶鳴館に入る」とある。
 寛政2年(1790)5月23日の「寛政江戸日記」によれば、「浜町にて浜村六蔵を訪ふ、暫く語りて」とある。

 
浜村六蔵は高芙蓉の門人で、篆刻を家職とした浜村家の初代。代々蔵六を称し、明治時代の5世濱村蔵六に至るまで活躍した。

  はやししへい
林子平

元文3年(1738)~寛政5年(1793)
越智・初め岡村 友直   晩年に六無斎   海防家・経世思想家 江戸・仙台  寛政2年(1790)10月21日の「北行日記」によれば、仙台の林子平の兄林嘉膳宅を訪ね、翌10月22日林子平に会い、子平の著した「和蘭駝船図解」や長崎佐崎能助の著した「和蘭地理書ゼオカラーヒ国字解」を見ている。
 10月23日の夜、林子平は去年3・4月頃、松平定信が仙台の留守居役を呼んで自分のことを聞いているが、未だ何の沙汰がないと不安な気持ちを和歌に託し、彦九郎と深夜まで語り合っている。

 
林子平は工藤兵助大槻玄沢桂川甫周藤塚知明と交遊。
 林子平は彦九郎自刃の6日前に病没している。
 森銑三の『伝記』9巻6号「寛政三奇人の呼称」によれば、彦九郎・子平・蒲生君平の三人を「寛政の三奇人(奇士)」と称するようになったのは、天保13年(1842)以降天保末年頃と推定されるという。

  はやしのぶあき
林信徴

安永3年(1761)~天明7年(1787)
  信徴 内記 鳳潭   幕府儒官・従五位下・大学頭・林家第6代

 天明元年(1781)5月3日の「江戸旅中日記」によれば、「林家(林信徴)の学頭茂介を尋てしばらく語り林家の世系を問はば一冊を出して見す」とあり、「信愛の子信徴字内記即今の林家也といふ」をはじめ、林道春(羅山)から始まる林家の系譜について詳細に記している。
 また、これに続き、「出て聖堂を拝し仕様平橋昌平橋を渡りやよす川岸(千代田区丸の内2丁目)林家(林信徴)の門内にて太室(渋井太室)を訪ふてまた林家の系図を見る」とある。


〈林家略系図〉  
1林信勝(羅山・道春)―2春勝(鵞峯・春斎)―3信篤(鳳岡)―4信充(榴岡)―5信言(鳳谷)―信愛(竜潭)―6信徴(鳳潭)―7信敬(錦峰)―8衡(述斎)


  はやしのぶあり
林信有

  信有 子功 桃踁・桃渓 仙助・百助 幕府儒官

 天明元年(1781)5月3日の「江戸旅中日記」によれば、林家の系譜中、「信智の嗣子信有字は子功号桃踁今の百助殿也」とある。

 林信有は大学頭家の分家で、幼少の信徴に代わり、月次の講釈や将軍の侍読などを勤めた。


はやしのぶたか
林信敬

明和4年(1767)~寛政5年(1793)
信敬 武行 錦峯 大吉 幕府儒官・大学頭・林家第7代  寛政元年(1789)10月3日~12月30日・寛政2年(1790)5月9日~6月3日の「寛政江戸日記」によれば、この間に11回、林大学頭(林信敬)邸内の中嶋常足・根本勇助を訪ね、中嶋宅に5泊している。
 寛政元年(1789)10月3日の「寛政江戸日記」によれば、「やよす(八重洲)川岸(千代田区丸の内2丁目)林大学頭殿(林信敬)の内なる中嶋佐仲常足所へ尋ね市川主斗に相識となる新田郡新井村の産也、根本勇助(林家書生)所へ尋ぬ他出也、沢木万喜太相識となる、帰て中嶋常足と語る」とあり、朝鮮王の書の写や南部慶次郎から林大学頭(林信敬)に宛てた蝦夷地の様子を伝える書簡を見せてもらっている。
 11月1日には、「(林家中島常足所において)富田能登守殿内青木二助森川庄五郎に相識となる」とある。
 11月15日には、「林家に入て根本生と語る、当十一日林大学頭(林信敬)柴野彦助(柴野栗山)岡田清助(岡田寒泉)三人を白河侯(松平定信)の召され、何成共御為に成る事は申上べし、儒者は祝の詩作りて奉る斗が奉公にはあらず口を閉ぢて居りては済まぬ事、此方に限らず何れ老中共へ遠慮なく何成共申出ずべし此事老中へ知らせ置きぬとありけるにより三人共に得と工夫仕り申上ぐべしとて立ちしとぞ」とある。
 寛政2年(1790)5月22日の「寛政江戸日記」によれば、「牛込神楽坂を経て山伏所(町)に及んで林大学頭(林信敬)下屋敷に入る、(略)、林家代々の墓を見る事をゆるす」とあり、林大学頭家の墓所を訪ね、墓所の様子を詳しく記しており、「林信充立」の墓碑3基の銘文を記録している。
 6月3日には、「林家(林信敬)中嶋生処へ入る、和蘭文字一巻武家諸法度公家諸法度以上三冊を返へす」とある。この時期、彦九郎は蝦夷行(北行)の準備のため、借りていた書籍を各所に返している。

 林信敬は富田能登守明親(旗本・7000石)の二男。林信徴(鳳潭)の養子。林衡(述斎)の養父。
佐藤一斎の師。
 
寛政2年(1790)、松平定信の命により、寛政異学の禁を発令。

  はやしのぶみつ
林信充
(林榴岡)

安永元年(1681)~宝暦8年(1758)
  信充 士厚・士僖・春察 榴岡・快堂・復軒・翼斎・彩雲峰 七三郎 幕府儒官・従五位下・大学頭・林家第4代

 安永6年(1777)10月1日の「武江旅行記」によれば、「聖堂の学頭久保氏(久保盅斎)の宅に入(略)暫く語る」とあり、忠孝のことや、久保氏の師、林信充(林榴岡)のことについて語り合っている。
 寛政2年(1790)5月22日の「寛政江戸日記」によれば、「牛込神楽坂を経て山伏所(町
)に及んで林大学頭(林信敬)下屋敷に入る、(略)、林家代々の墓を見る事をゆるす」とあり、林大学頭家の墓所を訪ね、墓所の様子を詳しく記しており、「林信充立」の墓碑3基の銘文を記録している。

 
彦九郎が訪ねた林家の墓所(新宿区市谷山伏町)は、現在「林家墓地」として国指定史跡となっている。約360平方メートルの敷地の中に、林羅山をはじめ、代々の当主とその家族らの墓約80基が残る。

 
はやの こうさい
早野仰斎


延享3年(1746)~寛政2年(1790)

辨之 士誉 仰斎(抑斎)・大痩生 榮輔 儒学者 (大阪か)  『高山彦九郎日記』第5巻(298ページに)早野辨之(早野仰斎)が送別として彦九郎に贈った漢詩が掲載されている。

 早野仰斎は中井竹山の門人。懐徳堂第二代学主中井甃庵の門人とも。懐徳堂教授となる。早野橘隧の父。
  ばんこうけい
伴蒿蹊

享保18年(1733)~文化3年(1806)
  幼名富二郎のち資芳

  閑田子・閑田廬・蒿蹊 庄右衛門 国学者・歌人 京都  寛政3年(1791)2月16日の「寛政京都日記」によれば、「大仏前片側町に於て伴蒿蹊宅へ入る、飯酒が出でて語る、平瀬光雄堀蔵人等と相識となる」とある。この後、7月15日まで計4回伴蒿蹊宅を訪ねている。

 蒿蹊は武者小路実岳・有賀長収に師事、小沢蘆庵・上田秋成と交遊。小沢蘆庵慈延澄月とともに冷泉門下の平安和歌四天王と称された。『近世畸人伝』の著者。

ばんしょうぶん
阪昌文

~寛政2年(1790)
幕府連歌師 江戸  天明元年(1781)閏5月3日の「江戸旅中日記」によれば、「浜丁永井求馬大江尚敬会合(永井尚敬)の処に至る、会読長門本の平家物語也、出席野口辰之助藤直方(野口直方)榊原源太郎源長俊(榊原香山)坂昌文源貞古(阪昌文か)大塚市郎右衛門橘嘉樹(大塚蒼梧)森家の臣布引拙斎源高敬(布引拙斎)加藤遠江守殿(大洲藩・加藤泰候・6万石)家士石田仲右エ門殿(ママ)賢道松平右近将監殿(館林藩・松平武寛・5万4000石・奏者番)家臣荒井休斎太神克昌松平周防守殿(石見浜田藩・松平康福・5万5400石・老中)家士伊ノ下新右衛門源新津軽越中守殿(弘前藩第7代藩主・津軽信寧・4万6000石)家士比良野助三郎源貞彦(比良野貞彦)上田孫右衛門源勝賢酒井左衛門尉殿(鶴岡藩・酒井忠徳・14万石)家士人見意順源貞公、主を始め予が至るを悦びける」とある。

 阪昌文は連歌師、阪家初代の阪昌周(里村南家里村昌廸の子里村吉五郎)の子。村田春海の義弟。天明元年(1781)御第三を勤める。

ひがしくぜ みちやす
東久世通庸

明和6年(1769)~文政元年(1818)
初め通正・通庸

公家・非参議・右権中将・正三位 京都  寛政3年(1791)5月2日の「寛政京都日記」によれば、岩倉三位殿(岩倉具選)・北小路殿(北小路祥光)・慈光寺殿(慈光寺尚仲)・東久世殿(東久世通庸か)に従い三十三間堂で行われた平瀬光雄の通し矢をを見学している。

ひがしぞのもとたつ
東園基辰

寛保3年(1743)~寛政9年(1797)
藤原 基辰       公家・近江権守・侍従・大蔵権大輔・左近衛権中将・蔵人頭・参議兼左近衛中将・中納言・正二位

(新田郡由良村)  安永7年(1778)4月12日の「戊戌季春記事」によれば、「12日、天気吉、今日政徳孫十郎綱等を具し公家衆御通りを拝に由良村に出て(略)、今日のれいへい(日光例幣使)勅使は東園宰相中将公(東園基辰)、先きはらひは新庄上総介なる方也とぞ」とある。

  ひがしはくはつ
東白髪

寛延元年(1748)~文政12年(1829)
      白髪 善次郎・九郎次 儒学者・人吉藩校習教館初代館長・藩用人 人吉  寛政4年(1792)閏2月6日の「筑紫日記」によれば、「東善次郎(東白髪)茶に雪餅を寄せて来る」「午後より夜丑の刻迄吸物酒にて語る」「学館は習教館と号して城内に立ちて他所の人は見る事ならぬよし」とある。
 再び人吉に訪れた25日にも、東白髪らと飲み、「深更に及んで醒めて又た東氏が寄せたる焼酒保命酒を飲みて酔ふ」とある。

 東白髪は細井平洲の門人。天明6年(1786)肥後人吉藩(2万2000石・相良長寛・壱岐守)藩校の習教館初代館長となる。


  ひがしぼうじょうますよし
東坊城益良

延享4年(1747)~寛政3年(1791)
菅原 保資のち益良       公家・非参議・勘解由長官・正三位・右大弁・式部大輔 京都  天明2年(1782)11月23日の「天明京都日記」に現れる。
 天明3年(1783)2月1日には、「大村氏(大村彦太郎)に寄り裏付け肩衣を借して出づ、東坊城三位勘ケ由ノ長官殿(東坊城益良)へ入りて江波帯刀に逢ふて言を置ひて出でける」とある。
 寛政3年(1791)5月27日の「寛政京都日記」によれば、「東坊城家へ入る、式部大夫益良卿(東坊城益良)語らる、赤崎海門が詩の評を乞ふて一冊子を出だせり益良卿諾せらる」とある。
 6月27日には、「東坊城家へ入る、薩州赤崎氏(赤崎海門)が詩へ批点ありける、唐扇二柄を進らす、所労にて逢はれず」とある。
 7月12日には、「東坊城殿へ参るに餞として短冊二十枚を寄せらる、病中ながら逢はれて語られける」とある。


 東坊城益良は広橋勝胤の子、東坊城輝長の養子。この年の12月21日没。 
 東坊城家は、「紀伝道(中国の歴史書や詩文の研究・教授)」を家職とした。
 
  ひさかわゆげい
久川靱負→大江玄圃
               
  びとう じしゅう
尾藤二洲

延享4年(1747)~文化10年(1813)
  孝肇 志尹 二洲・約山・静寄軒・流水庵  良佐・良助・伊予屋良佐
儒学者・昌平坂学問所儒者

 寛政3年(1791)5月27日の「寛政京都日記」によれば、「柴野(柴野栗山)は遠慮大坂尾藤良助(尾藤二洲)当十七日江戸より召のよし申シ来るの事頃日説有り」とある。

 尾藤二洲は伊予川之江出身。宇田川揚軒に学び、大坂で片山北海に入門。頼春水中井竹山中井履軒と交友。寛政3年(1791)幕府に登用される。柴野栗山・古賀精里とともに「寛政三博士」と称される(古賀精里に代え岡田寒泉とする場合もある)。

ひとみ  やうえもん
人見弥右衛門

享保14年(1729)~寛政9年(1797)
子魚   儒学者・尾張藩世子侍講・国用人・郡奉行

 天明2年(1782)11月6日の「上京旅中日記」によれば、木曽三留野宿(みどのじゅく)に滞在中、医師の佐々木養伯から「福島役所より田畠を発こすべしと触れたりけるが、尾公(徳川宗睦)の用人人見彌右衛門なるもの経済の達人にて往古は木曾川こなたの柳よりあなたの柳へつたはりいかだもいらでありけるが、田畠開らけたるにより濃尾の間水に押れて田畠を流がすとて開発の事を停止せりといへり」と聞いている。
 天明3年(1783)9月12日の「高山正之道中日記」によれば、細井平洲門下の江口図書(彦九郎が入門を斡旋)から、「人見弥右衛門当七月国用人郡奉行兼帯と成りて在方目あかし三十人不残暇を出だす、常に私欲横道してまいないを取て小扶持の者なれば富みたるが聞へてかく斗ひたるよし、在方手代等も多ふく暇出たるがありて其中に正直なるはまた立身せるよしろ、近比救ひ普請ありけるに十五以下六十以上の者の少し土を持たるに賃銭を賜ふて賑されしとぞ、尾張善政の聞へ多し」と聞いている。

 
人見弥右衛門は藩主徳川宗睦に抜擢され、尾張藩天明改革の推進者となる。治水改革・農政改革を実施したほか、細井平洲とともに藩校明倫堂を興した。

  ひらが げんない
平賀源内

享保13年(1728)~安永8年(1779)
  国倫   鳩渓・風来山人・天竺浪人・福地鬼外

源内 高松藩士・物産学者・戯作者・浄瑠璃作者

 寛政元年(1789)10月9日の「寛政江戸日記」に、讃岐高松藩の谷本云斎(薫)から聞いた話の中に現れる。

 平賀源内は小浜藩医中川淳庵と同門。同じく小浜藩医の杉田玄白の盟友。
 彦九郎―
前野良沢杉田玄白―平賀源内とつながるが、彦九郎が良沢と知り合う以前に源内は没しており、直接の関係があったかどうかは不明。

  ひらせ みつお
平瀬光雄

生没年未詳
      長水 又衛門 弓道家 京都  寛政3年(1791)2月16日の「寛政京都日記」によれば、「大仏前片側町に於て伴蒿蹊宅へ入る、飯酒出でて語る、平瀬光雄堀蔵人に相識となる、光雄武人射を能くす、大成経中射法本紀といへる篇ありとぞ、射学要録なる書を光雄著述せしよし」とあり、2月18日には平瀬光雄を訪ねている。また2月24日には平瀬光雄の子又吉光孚が持参した 『射学要録』『射法本紀略説』『軍旅五説』の弓術書を借りている。
 3月13日には蛎崎広年(蠣崎波響)と一緒に平瀬光雄所へ入り、「吸物酒肴出づ、火術の事を語りて久ふして出で」とある。
 4月27日には「平瀬光雄来る蛎崎矢次郎(蠣崎波響)事を語る」とあり、借りた本を返している。
 5月2日には「平瀬光雄所へ至りて矢数を見ん事を約す、(略)、光雄桟敷にて通矢見る事を約すと三位殿へ告ぐ、岩倉三位殿(岩倉具選)始め北小路殿(北小路祥光)慈光寺殿(慈光寺尚仲)東久世殿(東久世通庸か)に従ふて暮れに及んで平瀬氏の宅へ至り三十三間堂に及ぶ、沼宇内(周防国徳山浪人)に逢ふて光雄(平瀬光雄)が書を渡す、夜に入りて射前の桟敷に於て通矢を見る、石州浜田城主松平周防守殿(松平康定・5万5400石)家中石井友兵衛友之進といへるもの也、見物多ふくかがり夥し」とある。
 5月6日には「縄手大和橋に於て薄紅葉の酒求めて光雄方へ寄る、三升を寄せて二日の謝礼とす」とある。

 
平瀬光雄の門人に畑敬義(寛斎)がいる。

ひ ら の さだひこ
比良野貞彦

生年未詳~寛政10年(1798)・60歳くらいで没
貞彦・貞陳 外浜人・嶺雪 房之助・助三郎・助太郎 弘前藩士(江戸定府) 江戸  天明元年(1781)閏5月3日の「江戸旅中日記」によれば、「浜丁永井求馬大江尚敬会合(永井尚敬)の処に至る、会読長門本の平家物語也、出席野口辰之助藤直方(野口直方)榊原源太郎源長俊(榊原香山)坂昌文源貞古(阪昌文か)大塚市郎右衛門橘嘉樹(大塚蒼梧)森家の臣布引拙斎源高敬(布引拙斎)加藤遠江守殿(大洲藩・加藤泰候・6万石)家士石田仲右エ門殿(ママ)賢道松平右近将監殿(館林藩・松平武寛・5万4000石・奏者番)家臣荒井休斎太神克昌松平周防守殿(石見浜田藩・松平康福・5万5400石・老中)家士伊ノ下新右衛門源新津軽越中守殿(弘前藩第7代藩主・津軽信寧・4万6000石)家士比良野助三郎源貞彦(比良野貞彦)上田孫右衛門源勝賢酒井左衛門尉殿(鶴岡藩・酒井忠徳・14万石)家士人見意順源貞公、主を始め予が至るを悦びける」とある。

 
比良野貞彦は江戸定府の津軽藩士であったが、天明8年(1788)5月、第8代藩主津軽信明に随従して国元に赴き、翌寛政元年(1789)3月江戸へ帰るまで藩領内で見聞した風俗や庶民の姿を、「奥民図彙」という記録にまとめた。
 比良野貞彦は伊勢貞丈・谷文晁の門人。文武に秀でた。

  ひらの   にえもん
平野仁右衛門
          浦請負人・網元 安房波太  寛政2年(1790)6月18日の「北行日記」によれば、「波太より東壱丁斗り渡りて二丁斗の嶋あり平戸二右衛門(平野仁右衛門)なるもの只一軒居住とす、此辺岩槻大岡家(岩槻藩・2万石・大岡忠烈)の領分也漁猟の長たり、予も舟を呼びて渡り二右衛門所へ寄りて暫く語る、飯を出だす、漁人等力士のまわしの如く作りてしめける、また渡り帰へりて(略)」とある。

 
源頼朝が平氏に追われ安房に渡った折、平野仁右衛門が頼朝を匿い、その見返りに、この島(仁衛門島)付近の漁業権を与えられ、代々、この島に居住するという。
 江戸時代には、安房国長狭郡浜波太村(千葉県鴨川市太海付近)の漁業権を一括して管理した。
 当主は代々仁右衛門を称している。

  ひらまつときあき
平松時章

宝暦4年(1754)~文政11年(1828)
時章   琴仙堂   公家・歌人・左兵衛権佐・右衛門督・参議・権中納言・正二位・権大納言 京都
 「天明京都日記」に7日、「再京日記」に2日、「寛政京都日記」に34日、「筑紫日記」に1日現れる
 天明3年1月22日の「天明京都日記」によれば、「夜に入りて熨斗目麻上下にて翁(高芙蓉)と平松三位時章卿の第に至りて謁す、扇子代を以て礼とす、由緒もある事なれば以来は(来りね)とぞ有りける、翁は止まりて語り予は先きに帰へる」とある。
 天明3年11月4日の再京日記」によれば、「平松殿へ入るに菊綿の黄なるを玉はる、是れは 禁中御庭に有る菊の覆ひなるわた也と承はる」とある。
 寛政2年(1790)12月2日の「寛政京都日記」によれば、「平松時章卿へ入るに□(悦
)び対せらる、けふの細布を(得)たる事を申す、十歳甲斐権守従五位下峯丸時亨ナカ殿(平松時亨)をも呼びて対せしめらる、同姓なりとて入魂の待過(遇)也、菓子を出ださる」とある。
 12月6日には、「平松殿に入る、三位殿(平松時章)真(直
)衣なる服せられ盃礼有り大に宴す、トンタフの器待霄の肴落花生肴凡そ十品の余、深更迄語る、今朝小嶋市之丞を使者としてけふの細布を求めける故呈したりけるに今夜大に礼辞を述べらる、内裏嶋の白砂 籬が嶋の梅の花貝 末の松山の貝を進らせける、語りて遂に宿す」とあり、平松家家臣の名を記している。
 12月21日には、松の枝に付けて贈られた「けふのほそ布」を詠んだ平松時章卿の和歌を記している。
 寛政3年(1791)3月7日には、「平松家(平松時章)より使有り予平松家へ至るに時章卿豆州修善寺紙一枚を寄せらる、栗山方(柴野栗山)への書を乞はる書して進らせける、是れは立原万(立原翠軒)が製したりつる魚網紙唐紙の反故を和紙に製したるを乞はるの故也、菓子出づ」とある。
 3月18日には、「平松殿(平松時章)より小嶋を以て使者とし吉野遊行の歌を送らる、爰(ここ)に載す、
言書平正之よしの山の花みにまかるとききて 分け入らん人のこころの花にまつよしののはなの色香をそおもふ とぞ、帰へりて返歌進らすべしと礼辞して帰らす」とある。
 7月9日には、「平松家(平松時章)より平田庵を以て使者とす、予至るに三位時章卿(平松時章)火打袋に歌一首読みて添へ餞別とせらる、先に短冊十枚を進らせ乞ふたるをも書して寄せらる」とある。
 7月18日には、「平松家(平松時章)へ入る、見へけるに柴野姦儒(柴野栗山)が書を見せらる怪し、七行余尚々書き一行半のみ」とある。

 
平松家は西洞院家の分家。近衛家の家司として代々朝廷の記録を司り、有職故実に通じ、「日記(にき)の家」と称せられていた。

  ひろせたんそう
広瀬淡窓

天明2年(1782)~安政3年(1856)
  簡のち建 廉郷のち子基 淡窓・青渓・苓陽・遠思楼主人亀林 幼名寅之助・長じて求馬

儒学者・詩人・教育家・咸宜園 日田  寛政5年(1793)日田代官所御用達の掛け屋をしていた広瀬三郎右衛門貞恒を訪ね、12才の長男寅之介(広瀬淡窓)に会う。彦九郎は1日に100もの漢詩を作る淡窓を賞賛した「大和には聞も珍し玉をつらねこと日にもも(百)の唐うたの声」という和歌を詠んでいる。

 広瀬淡窓は
亀井南冥の門人。頼山陽・帆足万里・田野村竹田らと交遊。家塾咸宜園を開き塾生は全国から4000人余に達した。門人に高野長英・大村益次郎など多くの人材を輩出。
 彦九郎の和歌は日田市立淡窓図書館に保管されている。

  ひろつらんけい
広津藍渓


宝永6年(1709)~寛政6年(1794)

  省・弘恒 有修 藍渓 善蔵 久留米藩儒・藩校修道館教官 久留米  寛政5年(1793)6月20日の「筑紫日記」によれば、「広津善蔵藍渓名省字有修(広津藍渓)へ尋ぬ、山本宇源治も来る子新右衛門鼎卿といふ」とある。これは彦九郎自刃7日前で、日記によれば最後の他家訪問となった。

 
広津蘭渓は服部南郭の門人。

深井半左衛門         彌平太 槍術家 江戸  天明元年(1781)4月29日の「江戸旅中日記」によれば、簗次正の武具を持たせて築地の深井半左衛門宅に簗次正を訪ねたが、二人とも他出のため、武具を預けてきた。翌5月1日に再び深井宅に行き、両人と会っている。
 この後も深井宅に寄留中の
簗次正を3度訪ねている。
 寛政元年(1789)12月14日の「
寛政江戸日記」によれば、中津藩中屋敷内の簗次正宅から深井半左衛門と一緒に出ている。

  ふくい しょうしゃ
福井小車
(福井
敬斎

生年未詳~寛政12年(1800
  軌・軏とも 小車 衣笠山人・敬斎 厳助 儒医・篠山藩儒 京都等持院村  天明2年(1782)11月21の天明京都日記によれば、「等持院村衣笠山人(福井小車)の宅に入る五色糸を土産とす、帰るとて黒門通り元誓寺向にて福井柳介(楓亭・大車)宅に寄りけるに逢はず」とある。
 12月12日には井沢君光と、衣笠山人(福井小車)・龍州(君光の父岡白駒)のことについて議論している。
 天明3年(1783)3月25日には、「北野菅神(北野天満宮)へ参り衣笠山人(福井小車)へ見舞ふて小室(御室)の花を見る」とある。

 
福井小車は岡白駒の門人。幕府典医となった福井柳介(楓亭・大車)の第2子。幕府典医福井榕亭(名:需、字:光亨終吉、1753~1844)の弟。

  ふくい ふうてい
福井楓亭
(福井柳介・大車)

享保10年(1725)~寛政4年(1792)
輗・立啓・啓発 大車 楓亭 柳介 医家・幕府医官 (京都)  天明2年(1782)11月21の天明京都日記によれば、「等持院村衣笠山人(福井小車)の宅に入る五色糸を土産とす、帰るとて黒門通り元誓寺向にて福井柳介(福井楓亭)宅に寄りけるに逢はず」とある。
 
 
福井楓亭(柳介・大車)は菅隆伯に医術を学び、京都で開業。伊藤東涯と交遊、寛政2年(1790)、江戸の医学塾「躋寿館(寛政3年幕府直轄の「医学館」となる)」で講義し、製薬所の監となる。江戸で没する。
 福井楓亭は福井榕亭・福井小車の父。

 

  ふじえりゅうざん
藤江龍山
(藤江軍治)

享保13年(1728)~寛政10年(1798)
初め 柳生 致遠 子任 龍山  軍次(軍二)・軍治 龍野藩儒 (江戸)・龍野  安永9年(1780)11月15日の「江戸旅中日記」によれば、新橋(中央区東新橋1丁目・旧新橋停車場跡付近)脇坂侯(播磨龍野藩・5万1000石・脇坂安親)の屋敷に、「儒生藤江氏(藤江龍山)」を訪ねたが、藤江は「町奉行を兼帯し身分出世に付きて帰国せる事」で会うことができなかった。また、「玉川(股野玉川)近々に来府」と聞いている。
 天明2年(1782)12月10日の「天明京都日記」によれば、龍野股野玉川宅)において、「龍山(藤江龍山)より柿茶に一樽を寄す」とある。

 
藤江龍山は藤江熊陽の娘婿。玉田黙翁の門人。股野玉川とともに藩主侍講及び藩士教育に当たる。

ふじき いせのかみ
藤木伊勢守

地下官人・聖護院諸太夫 京都  寛政2年(1790)12月26日の「寛政京都日記」によれば、「伏原二位宣條卿(伏原宣條)へ入る、聖護院の諸太夫藤木伊勢守同弟大進に相識となる、藤木氏は吉田家鈴鹿下野守の外孫のよし」とある。

ふじさききみひろ
藤崎公寛

公寛 薩摩藩士(都城領)・都城領稽古所校長 ―(都城)  寛政4年(1792)6月4日の「筑紫日記」によれば、「夜種子田聞五来りて酌みぬ皆川文蔵(皆川淇園)門人のよし、爰にも学校( 薩摩藩都城領の稽古所〈後の明道館〉)あり儒生藤崎五百治(藤崎公寛)なるあれども高岳(丘カ)の方へ行て在らずといふ」とある。
 
 藤崎公寛は寛政3年(1791)都城領主、島津久倫の命で、都城と赤江港(宮崎)を結ぶ大淀川の水運の妨げであった観音瀬の開鑿を行う。

ふじた さだすけ
藤田貞資

享保19年(1734)~文化4年(1807)
初め本田 貞資(定資) 雄山 権平 和算家・幕府天文方・久留米藩士  寛政元年(1789)11月18日の「寛政江戸日記」によれば、有馬侯(久留米藩)邸の椛島勇吉(樺島石梁所において「語りて江上義秀(江上観柳)が事に及びけるに、弓削氏(弓削周介・久留米藩儒)迎ひとして江上所へ至るに他出にて妻のみ在りて九年以前の儘にて高山様来らせ玉はず観柳帰へり次第申し聞かすべしいひて返へらしめける、観柳は算法者藤田権平(藤田貞資)太田源蔵と三人心友のよし也」とある。

 
藤田貞資は関流の和算家で、武蔵野国男衾郡本田村(深谷市)の本田家生まれ。大和新庄藩士藤田氏の養子となり、幕府天文方の山路主住(やまじぬしずみ)に師事。のち久留米藩に仕えた。『精要算法』『神壁算法』、『続神壁算法』を刊行。

ふじた ゆうこく
藤田幽谷

安永3年(1774)~文政9年(1826)
  一正 子定 幽谷 熊之介・介・次郎・左衛門

儒学者・水戸藩士 江戸・水戸  寛政2年(1790)7月1日の「北行日記」によれば、藤田熊之助一正(幽谷)を訪ねる。「一正と大儀の談有りける、一正能く義に通ず、(略)、才子にして道理に達す」とある。
 前年にも江戸の
長久保赤水の所で面会している。また、藤田幽谷は13才の時、彦九郎の祖母りんへ、88才の寿詩を贈っている。

 藤田幽谷は藤田東湖の父。

  ふじづかともあき
藤塚知明

元文2年(1737)~寛政11年(1799)
    子章 塩亭 式部 鹽竈神社祠官 塩竈  寛政2年(1790)10月28日の「北行日記」によれば、「塩釜の町也、入口に正一位塩竈大明神左に有り参詣す」とあり、「藤塚式部知明字は子章号塩亭所へ入る、其子忠之進知周字は仲施共に出でたり、江戸より小嶋酉之助名は元徽字は克従号は止斎(小嶋梅外)も来遊して出でぬ、遂に宿す」とある。また、「知明(藤塚知明)語りて深更に及ぶ」とある。
 翌10月29日には、知明宅で客死した村井敬義(村井古巌)の墓を訪ねている。
 11月1日には「小嶋酉之助(小嶋梅外)が西野(市河寛斎)へ籬が嶋の松及び詩を寄せんとて詫したるを忘れたり」とあり、再び塩竈に戻り、「藤塚知明所に入り彼れの西野(市河寛斎)への詩を懐中に納む、遂に宿す、知明元徽と深更迄語る」とある。
 11月2日には「知明籬が嶋の梅の花貝および内裏嶋の砂を寄す」とあり、和歌を詠み詠み合っている。
 これとは別の「千賀浦(塩竈港の古称) 知明」作の彦九郎に贈った和歌(11月28日・29日の記事「知明歌を寄す」「今日も知明歌を寄す」の和歌と符合するか)が『高山彦九郎日記』第5巻327ページに掲載されている。

 
藤塚知明からもらった籬が嶋の梅の花貝内裏嶋の砂は京へのみやげとなっている。
 藤塚知明は林子平・蒲生君平と交遊。また、塩釜を訪れる多くの文人・学者と交流した。村井古巌は藤塚知周を訪ねこの地で客死した。

  ふせはらのぶえだ
伏原宣條

享保5年(1720)~寛政3年(1791)
清原 宣條 子条 佩蘭・佩蘭堂主人   公家・非参議・明経博士・少納言・侍従・正二位 京都  「天明京都日記」に27日、「再京日記」に4日、「北上旅中日記」に1日、「寛政京都日記」に32日、「筑紫日記」に5日現れる。
 寛政4年(1792)1月20日の筑紫日記によれば、斎藤高寿所へ至るに西村近江(西村近江大掾)よりの書去冬十一月廿三日の出にて九月伏原二位殿(伏原宣條)逝去のよし高寿へ申来る」とある。
 
 
京都における彦九郎の支援者のひとり。祖父貞政の神号を受けるときにアドバイスされている。
 伏原宣條は伏原宣通の子、子に伏原宣光富小路貞直がいる。
 伏原宣條は竹内式部の門人。桃園天皇の侍読や明経博士を勤めた。
 伏原家は明経道(みょうぎようどう・儒学の経典である経書(けいしょ)を研究・教授する)を家職とし、代々、明経博士に任ぜられた。船橋家の分家に当たる。

 
  ふせはらのぶみつ
伏原宣光


寛延3年(1750) ~ 文政10年(1827) 
清原 宣光   公家・非参議・少納言兼侍従・明経博士・侍従・正二位 京都  天明3年(1783)1月15日の「天明京都日記」によれば、伏原宣條を系図を出し、清家・伏原家の系譜を詳しく聞いており、「二位殿(伏原宣條)の子今ま三位に進み名を宣光(伏原宣光)といひて家督たり」とある。
 2月26日には、「正二位宣條卿(伏原宣條)の孫正三位侍従宣光卿(伏原宣光)の子今年十歳にて元服従五位下長賢(伏原宣武 )治部大輔に任ぜらる」とある。
 寛政2年(1790)12月3日の「寛政京都日記」によれば、「三位宣光卿参内にて宣条卿(伏原宣條)束帯を付けらる見候へと有りて内に入て見参らす」とある。
 12月29晦日には、「伏原二位殿(伏原宣條)へ申し本宅三位宣光卿(伏原宣光)へ参り明元日に朝拝の拝見を乞ふ、従行の約を定めて出づ」とあり、翌元日には、伏原宣光に従い、御所に入っている。。

 
伏原宣光は伏原宣條の子、弟に富小路貞直がいる。

ふち
淵貞蔵

~天明2年(1782)
葭卿 貞蔵 儒学者・京都学館第3代館主 ―(京都)  天明2年(1782)11月21日の「天明京都日記」によれば、「吉屋町元誓願寺下ル所淵氏の宅を問ふ、貞蔵(淵貞蔵)今年死して子良蔵惟倫コレトモ(淵良蔵) 継(げ)り糸を土産とす、(略)」とある。

 
淵貞蔵は私塾京都学館(中江藤樹の門人淵岡山創設)の第3代館主。淵良蔵の父。

ふち
淵良蔵


~寛政11年(1799)
惟倫 章甫 良蔵 儒学者・京都学館第4代館主 京都  天明2年(1782)11月21日の「天明京都日記」によれば、「吉屋町元誓願寺下ル所淵氏の宅を問ふ、貞蔵(淵貞蔵)今年死して子良蔵惟倫コレトモ 継(げ)り糸を土産とす、惟倫玉川(股野玉川)が事を知る、播州しかまつに石川平蔵松屋(カ)と称するもの志学のよし語る、予数年前に藤樹(中江藤樹)の玄孫中江登に逢ふたる事を語りければ感心してよろこべり、夜五ツ頃に出でて帰へる」とある。
 11月23日には「淵惟倫宅へ入りてしばらく語り」とある。
 寛政3年(1791)1月8日の「寛政京都日記」によれば、「葭屋町本誓願寺下ル所淵良助(淵良蔵)を尋ぬ飯出づ、末の松山貝を寄す、炎上後(天明8年(1788)の大火か)に藤樹(中江藤樹)の祠堂も立つ案内有て礼す、その南に高千穂明神の社有り是れは焼失せず拝せり、淵氏は大神姓にて祖神とす」とある。

 
淵貞蔵は私塾京都学館(中江藤樹の門人淵岡山創設)の第4代館主。淵貞蔵の子。

  ふなばしのりかた
船橋則賢

宝暦8年(1758)~寛政9年(1797)
清原          公家・非参議・式部少輔・左兵衛佐・少納言・侍従・明経博士・従二位 京都  高山彦九郎の支援者のひとり。
 「天明京都日記」に1日、「寛政京都日記」に15日、「筑紫日記」に4日現れる。
 天明3年(1783)3月17日の「天明京都日記」によれば、「伏原二位殿(伏原宣條)講訳書経序文にてぞありける、伏原二(三
)位殿(伏原宣光)船橋少納言則賢ツネタカ朝臣(船橋則賢)聴聞に出でられける、少納言殿当時侍従にて明経博士なり親しく交はられける暮れに及むで船橋殿共に退出す先を語られけれど辞して先んぜず」とある。
 寛政3年(1791)1月3日の「寛政京都日記」によれば、「(寄留先の岩倉具選邸において)船橋三位殿年頭祝詞として入らる、予取り次ぐ」とある。
 2月19日には、「船橋殿に入る(略)、船橋殿二三畳敷もなるならば此方に逗留あれなと申されける、嫡子錡
ナヘ丸従五位下師賢も出でられける、暮れに及んで岩倉家(岩倉具選)へ帰へる」とある。
 7月14日には「船橋三位卿へ入るに詩を寄せられ西瓜一を出だされける悉く食す」とある。

 
彦九郎は「則賢」を「ツネタカ」と読んでいる。
 舟橋家は明経道(みょうぎようどう・儒学の経典である経書(けいしょ)を研究・教授する)を家職とし、代々、明経博士に任ぜられた。伏原家の本家に当たる。舟橋とも記す。


ほうらいひさかた
蓬莱尚賢
 →
荒木田尚賢
               
  ほそいへいしゅう
細井平洲

享保13年(1728)~享和元年(1801)
徳民 世馨 平洲・如来山人 甚三郎 儒学者・教育者・嚶鳴館主・米沢藩校興譲館・尾張藩明倫堂学館総裁 江戸/尾張名古屋  樺島石梁の著した『細井先生行状』によれば、明和7年(1770)彦九郎24歳のとき細井平洲に入門する。彦九郎は父正教の非業の死(領主筒井家による暗殺とされる)のあと、平洲に仇を討ちたいと心中を打ち明けたとき、そんな小さなことのために命をかけるより、天下国家の為に尽くすとなぜ考えないのかと諭されたという。
 安永5年(1776)から天明2年(1782)にかけての「江戸旅行日記」「武江旅行記」「冨士山紀行」「江戸旅中日記
天明江戸日記」によれば、彦九郎はたびたび浜町山伏井戸(中央区日本橋久松町付近)の嚶鳴館に平洲を訪ね語り合っている。また平洲が尾張藩校明倫堂に招かれた後も様子を聞きに行っている。
 天明2年(1782)の「天明京都日記」によれば、知人から細井平洲への紹介を頼まれたり、高芙蓉から尾張の細井平洲の様子を聞いたりしている。
 天明3年(1783)9月10・11日の「高山正之道中記」によれば、伊勢参詣の途中、名古屋
の尾張藩校明倫堂に平洲を訪ね、語り合っている。

 
細井平洲は彦九郎の師。彦九郎人脈の中心人物のひとり。
 細井平洲は尾張知多郡平島村(愛知県東海市)出身。中西淡淵の門人。京都・長崎に遊学後、淡淵に従い江戸へ出て、淡淵没後その塾を引き継ぎ、私塾玉笛樓、のち嚶鳴館を開く。伊予西条藩・人吉藩・和歌山藩・大和郡山藩等に迎えられたほか、米沢藩校興譲館の創設に尽力、尾張藩校明倫堂初代督学(校長)となる。
 上杉鷹山藁科松伯莅戸太華片山紀兵衛神保綱忠飯田忠林立原翠軒菅原東海・徳川宗睦・人見弥右衛門山村蘇門・松平頼淳(徳川治貞)・東白髪樺島石梁の師。渋井太室滝鶴台と交遊。


  ほなみ つねえだ
穂波経条

安永3年(1774~天保7年1836
藤原         公家・筑前守・治部大輔・中務権大輔・中務大輔・弾正大弼・従二位・参議 京都  寛政2年(1790)12月8日の「寛政京都日記」によれば、「芝山殿(芝山持豊)へ至る、非蔵人橋本土佐橘経亮(橋本経亮)なるに相識となる、梅ノ宮の社家肥後守なるが事也、穂波筑前守経条卿(穂波経条)に見ゆ」とある。
 寛政3年(1791)3月6日には、「未の刻に及んで芝山家(芝山持豊)源氏物語帚木の巻講訳(釈)聴聞に参る、(略)、穂波筑前守殿(穂波経条)冠装束にて出席有り」とある。
 3月19日には、「芝山殿(芝山持豊)へ入る、穂波筑前守殿(穂波経条)園宰相中将殿(園基理)高松刑部大輔殿(高松公祐)出席にて草菴集講訳(釈)有り」とある。
 3月24日には「穂波殿(穂波経条)に入り歌枕秋の寝覚一冊を借る」とある。
 3月30日には、「晩に及んで芝山殿(芝山持豊)へ至る、和歌会始め也、歌客二三十人予は公卿の席へ出づ、鷲ノ尾大納言殿(鷲尾隆建)勧修寺当ノ弁殿(勧修寺良顕)甘露寺殿(甘露寺国長)穂波殿(穂波経条)と酌みける、予が始の歌芝山殿直しありて」とある。
 4月2日には、「穂波筑前守経条卿緑毛亀見に至らる」とある。
 4月4日には、「芝山卿へ入る、草菴集の講訳也、高松殿穂波殿(穂波経条)日賀也」とある。
 4月12日には、「晩に及んで芝山殿(芝山持豊)へ至る、和歌会始め也、歌客二三十人予は公卿の席へ出づ、鷲ノ尾大納言殿(鷲尾隆建)勧修寺当ノ弁殿(勧修寺良顕)甘露寺殿(甘露寺国長)穂波殿(穂波経条)と酌みける、予が始の歌芝山殿(芝山持豊)直しありて」とある。4月23日には、「芝山(芝山持豊)へ入る、(略)、単称尼穂波殿(穂波経条)出席にて草菴集の講釈有り」とある。

 
『草菴集(草庵集)』は南北朝時代の僧・歌人の頓阿が著した自撰家集(歌集)。
 穂波家は勧修寺家の分家。

  ほりばくすい
堀麦水

享保3年(1718)~天明3年(1783)
      可遊・葭由・四楽庵・樗庵 池田屋平三郎・長左衛門

俳人・実録作者 金沢  安永4年(1775)3月23日の「乙未の春旅」によれば、「礼服して犀川をわたり寺町堀猪(楮)菴麥水(堀麦水)所へ行慶長寛永の記事を出し見せたり」とある。

 堀麦水は俳諧を中川麦浪・和田希因に師事。

  ほり へいたざえもん
堀平太左衛門

享保元年(1716)~寛政5年(1793)
  勝名   巣雲   熊本藩大奉行・家老 熊本  寛政4年(1792)2月18日の「筑紫日記」によれば、「山本利兵衛の案内にて堀平太左衛門勝名に持豊卿(芝山持豊)の高詠を寄せて暫く語る」とある。

 堀平太左衛門は蒲池喜左衛門とともに熊本藩宝暦の改革に当たる。

ほんごうくにかね
本郷国包

~文化13年(1816)・50歳
国包 三之助・源蔵 仙台藩刀工・第11代国包 仙台  寛政2年(1790)10月25日の「北行日記によれば、元柳町本郷三之助国包山城(本郷国包)が所へ入り琥珀津軽石を土産とす、茶漬を出だす」とある。

 
初代国包は伊達政宗に召抱えられる。山城大掾受領。
 本郷国包は、水心子正秀門人第10代国包(源之助)の義弟。安部包幸(包光)の門人。

ほんだ しめい
本田四明


宝暦12年(1762)~文化6年(1809)
武純・武徳 真郷・子征 四明・閼崇山人 猶次郎・彌一兵衛 儒学者・柳川藩儒  寛政3年(1791)3月19日の「寛政京都日記」によれば、「風月入道殿(西洞院時名)九州真郷マサト(本田四明)なるが事を語らる亀井道斎(亀井南冥)弟子になりしよし也」とある。
 3月24日には、小田孝作来り語る、真卿(郷)(本田四明)九州より上京し予(彦九郎)を尋ねんとして東国へ下らんとせしが柳川よりの招の故へ筑後へ帰へりしよし語る」とある。

 本田四明は肥後山本郡宮原村(熊本市)出身。藪孤山亀井南冥の門人。寛政元年(1789)、筑後柳河藩に仕えるが2、3年で辞す。京都・伊勢山田を経て、熊本藩嶋田嘉津次に呼び戻される。

まえの     りょうあん
前野達(良庵)

~寛政3年(1791)

子通 蘭溪 良庵 中津藩蘭方医 江戸  父前野良沢と共に親しい友人。
 「墓前日記」に1日、「寛政江戸日記」に18日、「北行日記」に4日、「寛政京都日記」に5日、「筑紫日記」に2日、計30日現れる。

 
前野良庵は前野良沢の子。森島中良(桂川甫周の弟)と交遊。父に先立ち没する。

まえの りょうたく
前野良沢

享保8年(1723)~享和3年(1803)
初め谷口 子悦 楽山・蘭化 良沢 中津藩蘭学者・蘭方医 江戸  簗次正の仲介で知り合う。
 交際嫌いの前野良沢が彦九郎とは親子のように接した。彦九郎は鉄砲津にある奥平侯中津藩中屋敷内の前野宅に頻繁に出入りし、良沢の子、前野達(良庵)とも親しかった。良沢は彦九郎の家族に問題が起こった際、達を細谷村まで派遣している。
 「寛政江戸日記」に70日、「北行日記」に2日、「寛政京都日記」に3日、「筑紫日記」に2日、計77日現れる。
 寛政元年(1789)10月3日から寛政2年(1790)6月2日までの間に、彦九郎ぱ前野宅に69泊しており(寛政江戸日記)、彦九郎の日記に現れる、江戸での彦九郎の寄留先としては宿泊数が一番多く、旗本高林家内大叔父石井相馬宅の40泊、旗本中島三左衛門家内奥村安所宅の30泊をはるかに凌駕している。

 
前野良沢は杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周らと共に「解体新書」を翻訳。大槻玄沢の師。最上徳内と交流。晩年、藤塚知明の子を養子(義孫)に迎えている。
 
まがりぶちかげつぐ
曲淵景漸

享保10年(1725) ~寛政12年( 1800)

江戸北町奉行任期:明和6年(1769)8月15日~天明7年(1787)6月1日
旗本・甲斐守・大坂西町奉行・江戸北町奉行・ 西丸留守居・勘定奉行  天明7年(1787)6月6日の「墓前日記」によれば、昨夜江戸から帰った間々田村(埼玉県熊谷市)の吉右衛門から聞いた話として、江戸での米・大豆・旅籠代などの物価上昇を記し、「初め糀町より町奉行所へ穀物高直、町方立ち難きを願ひ出でける所、曲淵甲斐守殿(曲淵景漸)相場の事は力に及ばざるのよし申されて、願ひたる物の為め叱りに逢ふ、是れを聞て貯へ置ひて益々高直になりける、先月頃には売るものなく、詮方なくて打ち壊潰にはなりけるとぞ、其の売り米なくて埼玉屋権兵衛様は素麺を買ふて旅客に食はしめたりとぞ、騒動の故に曲淵殿不首尾なるよし沙汰すと吉右衛門語りし」とある。

  まきの さだなが
牧野貞長


享保18年(1733) ~寛政8年(1796)

京都所司代在任:天明元年(1781)~天明4年(1784)
        道五郎 笠間藩主・8万石・越中守・奏者番・寺社奉行・大坂城代・従四位下・京都所司代・侍従・老中・備後守 (京都)  天明3年(1783)3月13日の「天明京都日記」によれば、脇坂内記らとともに嵯峨嵐山に花見に出かけた折、「今日所司代(牧野貞長)も花見に出でられける」とある。

  まさひで
正秀
 →
水心子正秀
               
またの かぜん
股野嘉善

(股野順軒)

  ~文政5年(1822)
  資源   順軒 嘉膳・千太郎 播州龍野藩儒 江戸・龍野  安永5年(1776)4月7日の「江戸旅行日記」によれば、「播州□□國枝順太夫石原眞吾股野嘉膳方へ翰を認め、明日渡す、嘉善弟喜三郎丈之助并に齋藤三碩村木壽齋上田玄珪松尾玄通等へ加筆するなり」とある。
 天明元年(1781)5月7日の「江戸旅中日記」によれば、嚶鳴館の学頭村上氏から、細井平洲を訪ねてきた折の股野嘉善等の服装の非礼さを非難する発言を聞き、彦九郎は「嘉膳等は非礼に非ず」と、彦九郎自身の例や股野玉川父子との深い関係を語りながら嘉善等を擁護している。
 天明2年(1782)12月10日の「天明京都日記」によれば、彦九郎は龍野に股野玉川を訪ねた折、「資源(股野嘉善)資敬
ヒラ(恭蔵・のち杏庵・玉川の三男)」は彦九郎を途中まで見送っている。
 寛政元年(1789)10月10日の「寛政江戸日記」によれば、「股野才助嘉膳よりの書三封簗氏(簗次正)へ届きぬ、正月の認也ける」とある。

 
股野嘉膳は玉田黙翁中井竹山の門人、股野玉川の長子。享和元年(1801)、父の後を継いで藩儒として藩主脇坂安董に仕える。文化8年(1811)年朝鮮通信使供応に儒者として従う。
 
 『高山彦九郎日記』第5巻(223~227ページ)に股野嘉善から彦九郎宛の書簡2通が掲載されている。

 彦九郎は「嘉膳」「嘉善」の両方を用いている。

  またの ぎょくせん
股野玉川
(俣野玉川)

享保15年(1730)~文化3年(1806)
  充美   玉川・幽蘭堂・楽翁 才助・才介 播州龍野藩儒 江戸・龍野  「江戸旅行日記」に4日、「冨士山紀行」に1日、「江戸旅中日記」に12日、上京旅中日記」に3日、「天明京都日記」に7日、「寛政江戸日記」に2日現れる。
 股野玉川の日記『幽蘭堂年譜』には、安永5年(1776)に8日、安永6年(1777)に1日、安永7年(1778)に11日、安永8年1日、天明元年(1781)に7日、天明3年(1783)に2日、彦九郎の記事があり、その多くが玉川宅に止宿している。また、彦九郎没後において、寛政6年(1794)に2日、寛政8年(1796)・寛政11年(1799)・享和2年(1802)に各1日の現れる。

 安永5年(1776)3月21日の「江戸旅行日記」によれば、芝新橋(中央区東新橋1丁目・旧新橋停車場跡付近)脇坂淡路守(播磨龍野藩・5万1000石・脇坂安親)邸の股野才助玉川(股野玉川)を訪ね、「留められて學談す、留められし(中)知る人となる人は多し」とあり、剣士・儒学者・諸礼者・針医師・兵学者等と、「毎日酒肴にて學談し四方山の物語してたのしみて」、3月25日まで逗留している。
 3月21日の、股野玉川の日記『幽蘭堂年譜』によれば、「上州新田高山彦九郎来訪、則留而逗留せしむ、大目付
客来逗留之旨口上に而申遣承知之由申来る」とあり、3月25日には、「彦九郎辞去、則又大目付へ上州之客今日罷帰候由以口上書申遣す」とある。
 安永9年(1780)11月15日の「江戸旅中日記」によれば、新橋脇坂侯の屋敷に、「儒生藤江氏(藤江龍山)」を訪ねたが、町奉行を兼帯するため帰国し会うことができなかった。また、「玉川(股野玉川)近々に来府」と聞いている。
 天明元年(1781)5月9日の「江戸旅中日記」によれば、龍野侯清嘯舎に入り、股野玉川と語り合い、翌日まで滞在している。また、5月20~22日、閏5月6~7日にも玉川宅に留まっている。
 同日の『幽蘭堂年譜』によれば、「高山彦九郎見来投宿」とあり、翌5月10日には、「夕飯後彦九郎辞去る」とある。また、5月20日~22日、閏5月6~7日にも訪問の記述がある。
 天明2年(1782)12月10日の「天明京都日記」によれば、彦九郎は龍野を訪れており、「玉川来りて予に南京朱肉画を送る」とある。なお、前日12月9日の日記には、玉川の記事はなく、『高山彦九郎日記』の同日の記事頭注に、「龍野の旅宿名を記さざるは故あり先月29日条参照」(中井竹山から聞いた国枝順太夫自殺の一件)とある。
 天明2年(1782)12月9日の『幽蘭堂年譜』によれば、「昼頃従上州新田高山彦九郎来臨」とあり、彦九郎が上京途中、中山道三留野宿において同道の参宮人(彌惣次)の病気を介抱したこと、対応した医師佐々木養伯が玉川の知己の人物であったことを記している。また、「軍治(藤江龍山)・貞蔵参会」とあり、12月10日の「天明京都日記」記事にある、「龍山(藤江龍山)より柿茶に一樽を寄す」との符合が確認される。
 12月10日には、「夕飯後高山氏出立、従此飾万津(飾磨津しかまづ:現在の姫路市南部にあった播磨灘に面した港町・姫路城下の外港として栄えた)石川平蔵方へ志し、明日は志方玉田翁(玉田黙翁)訊問之志」とある。
 寛政元年(1789)10月15日の「寛政江戸日記」によれば、芝新橋(中央区東新橋1丁目・旧新橋停車場跡付近)脇坂淡路守(脇坂安董)邸内に股野玉川を訪ねている。

 なお、『幽蘭堂年譜』によれば、寛政6年(1794)4月2日、叔父の剣持長蔵が筑後久留米へ彦九郎墓参に向かう途中、龍野の玉川を訪ね、彦九郎の死を知らせており、同年(1794)6月28日には、玉川は「相識之面々誘引」し、彦九郎の一周忌を行っている。翌寛政7年(1795)6月28日にも、「高山彦九郎之忌日、今日に而最早弐年になる、予有述懐之作」と記している。以降、寛政8年(1796)、寛政11年(1799)「七回忌」・享和2年(1802)の6月28日にも彦九郎忌日の記述がある。

 
股野玉川は股野龍渓の子、股野嘉善(順軒・資原)の父。藤江熊陽(藤江龍山の養父)、伊藤蘭嵎玉田黙翁の門人、藤江龍山とともに藩主侍講及び藩士教育に当たる。中井竹山井上仲龍(四明)・近藤西涯(岡山藩儒)・赤崎源助(海門・貞幹)・箕浦江南(直彝・土佐藩儒)・倉成龍渚(中津藩儒)・細井平州頼春水尾藤二洲服部栗斎樺島石梁・岡田周三郎(久留米藩儒)・浦上玉堂と交遊。
 
 『高山彦九郎日記』第5巻(222~223ページ)に股野玉川から彦九郎宛の書簡1通が掲載されている。

まつい よしあき
松井義彰
(松井蛙助)

生没年未詳
(享年76歳)

義彰 時習軒 蛙助(あすけ) 飫肥藩士 日向飫肥  寛政4年(1792)6月10日の「筑紫日記によれば、「(欠)竹蔵川杉理助横山小源太湯地丈蔵田中金五郎山城勇五郎杉田幸次郎矢野軍七由地半蔵長倉平右衛門杉本為弥阿万洞稲津平馬田原丈馬荒武豊蔵などと相識となる、論語厩焚之章を講じ学校を興すに(ママ)説く」(6月5日の途中から6月10日の途中まで、日記が欠落)。
 『宮崎県大百科事典』によれば、松井義彰はこの彦九郎の講義を聞き(彦九郎の日記の欠落部分に名前記載か)、焼失して復興されていなかった藩学問所の再建を痛感し、学問所の造営を藩庁に嘆願したがその存命中には完成しなかった。志が報いられてようやく享和元年(1801)八幡馬場学問所の設置を見たとある。

  まつおかちゅうりょう
松岡仲良
(松岡雄淵)

元禄14年(1701)~天明3年(1783)
  雄淵・文雄 仲良 玄斎・渾成翁・蓼蔵舎 多助・下総 神道家・下総守・吉田家学問所学頭 (京都)  天明3年(1783)4月3日の「天明京都日記」によれば、「吉田へ行き松岡仲良を訪ふいまだ湯治から帰へらず」とある。

 
松岡仲良は熱田神宮祠官の子。吉見幸和・若林強斎・玉木正英の門人。谷川士清・河北景楨・竹内式部の師。松岡内記の養父。
 この年の11月13日に没。

 
  松岡内記 越智 定安   内記   神道家・吉田家学問所学頭 京都  寛政3年(1791)7月2日の「寛政京都日記」によれば、「菊太郎(若槻整斎)案内にて吉田学頭松岡内記越智定安の宅に入りて語り神道の事に及ぶ」とある。

 
松岡内記は松岡仲良の養子。

  まつおか
松岡定庵


生没年未詳
  子勅 定菴・復真 善吾 本草家 京都  天明2年(1782)11月26日の「天明京都日記」によれば、「松岡定菴(庵)宅へ入る、糸を土産とす」とある。
 寛政2年(1790)12月28日の「寛政京都日記」によれば、「同町(室町四条下)松岡定菴を尋ぬ南部の琥珀(を)寄す、川島頼母を尋ぬるに知れず」とある。

 
松岡定庵は松岡恕庵(小野蘭山の師)の子。

まつおかせいら
松岡青羅

元文5年(1740)~寛政3年(1791) 
幽松庵・山李坊令茶・三眺庵・栗庵青羅 鍋五郎 姫路藩士(江戸常府)・俳人
京都
 寛政3年(1791)3月14日の「寛政京都日記」によれば、「鴨川に手水し三条橋を渡りぽんと町四条上ル所大六なる旅宿井沢次郎平瓜涼を問ふ、田中左大夫布舟(田中布舟)松岡山季坊青蘿(松岡青羅)へ酒壱升を寄す、蝦夷絵見まかほしかりける故三人を伴いて蛎崎広年(蠣崎波響)へ告げ生簀(いけす)へ入りて食し酌みつ酔ひ(に)及びて広年所へ入りて蝦夷絵を見す」とある。

 
松岡青羅は神谷玄武坊の門人。不行跡による脱藩後、諸国を遍歴、播州加古川に三眺庵(幽松庵・栗本庵とも)を結び、多くの門人を得た。京に出て俳諧中興諸家の三浦樗良・加藤暁台・高井几董らと親交。田中布舟の師。
 寛政2年(1790)二条家の俳諧宗匠となり、京都に滞在した。この年の6月17日没。

  まつお ばしょう
松尾芭蕉

寛永21年(1644)~元禄7年(1694)
  宗房   宗房・桃青・芭蕉庵ほか 金作・甚七郎・中右衛門・藤七郎

俳人 ―(信州戸倉・象潟)  安永4年(1775)4月5日の「乙未の春旅」によれば、信州戸倉において、「芭蕉つかあり、いさよひもまた更科の郡かな」とある。
 寛政2年(1790)8月13日の「北行日記」によれば、象潟において、「皇后山蚶満寺へ上る西行和歌桜親鸞上人腰懸石芭蕉が句を碑とする有り」とある。

 
彦九郎が記した蚶満寺の芭蕉句碑は宝暦13年(1763)建立のものと見られ、広く知られた「象潟や雨に西施がねぶの花」の初案「象潟の雨や西施がねぶの花」が刻まれている。

  まつだいらさだのぶ
松平定信

宝暦8年(1759)~文政12年(1829)

藩主在任:天明3年(1783)~文化9年(1812)

老中在任:天明7年(1787)~寛政5年(1793) 
       
      楽翁・花月翁・白川楽翁 白河藩主・越中守・老中・左近衛権少将  寛政元年(1789)11月15日の「寛政江戸日記」によれば、「夜に入て林家に入て根本生と語る、当十一日林大学頭柴野彦助(柴野栗山)岡田清助(岡田寒泉)三人を白川侯(松平定信)の召され、何成共御為に成る事は申上べし、儒者は祝の詩を作りて奉る斗が奉公にはあらず口を閉じて居りては済まぬ事、此方に限らず何れ老中共へ遠慮なく何成共申出ずべし此事老中へ知らせ置きぬとありけるにより三人共に得と工夫仕り申上ぐべしとて立ちしとぞ」とある。

 松平定信は御三卿の田安家初代当主、田安宗武の7男。大塚孝綽黒沢雉岡に学ぶ。安永3年(1774)、陸奥白河藩第2代藩主の松平定邦の養子となる。
 老中就任後、寛政の改革を断行。寛政異学の禁や尊号事件は彦九郎に大きな影響を与えた。

  まつなみたかおき
松波隆起

~天明6年(1786)
  隆起 東渓   萬之助・亀太郎・左門・佐兵衛

旗本・400石・御書院番 江戸  安永5年(1776)9月16日の「小田原行」によれば、「田安外裏四番町(千代田区九段北2丁目)東溪松波氏に宅に至り書を反し東溪子(松波隆起)と暫語る、飯抔出で且つもも引きなど借さる、あつきこと也、又東海道千里の友なる道の記に送別の詩を添へ送らる」とある。
 天明元年(1781)5月16日・29日の「江戸旅中日記」によれば、松波左兵衛(松波
隆起)から『尚書』を借用・返却しており、天明2年(1782)3月25日の「天明江戸日記」によれば、松波氏に『四書集註』を返却している。
 寛政元年(1789)6月4日の「寛政江戸日記」によれば、「赤城の社へ参り神楽坂御門を入りて松波梶平殿(松波
隆起の子松波安雅)へ入り水のみて赤松儀八郎へ尚書一巻を返弁す」とある。

  まつばらうちゅう
松原右仲

生没年未詳
          備中松山藩儒・銅版画家 江戸  寛政元年(1789)10月25日の「寛政江戸日記」によれば、「木挽町板倉周防守殿(備中松山藩・5万石・板倉勝政・周防守・寺社奉行)儒臣松原右仲へ羽生氏(成田朝辰)と共に至る酒肴出づ、聖像自画七絃の琴自作なるに唐画文昌帝君の像見せたり、孔像を乞う事あり、予が江戸に居る事を進め侍りし」とある。

 松原右仲は
前野良沢に師事。立原翠軒長久保赤水と交流。銅版画に優れ、司馬江漢と並び称された。『万国輿地全図』(ロシア使節レザノフのもたらした世界地図をもとに作られた銅版の世界図)を制作。

  まつもとぐざん
松本愚山


宝暦5年(1755)~天保5年(1834)
  君厚・幼(幻)憲 愚山 才次郎 儒学者 京都  天明3年(1783)1月22日の「天明京都日記」によれば、「芙蓉(高芙蓉)所に於て松本才次郎(松本愚山か)なる儒生に相識となる」とある。
 寛政3年(1791)2月16日の「寛政京都日記」によれば、「五条橋東壱丁斗伊勢屋なる松本才次郎を尋ぬ他出」とあり、29日にも再び訪ね昼食をとっている。
 3月11日には、「松本才次郎所へ寄りて語る、一昨年異船の紀州へ着し事を語る、船の主は円頂、妻とおぼしきも乗れるよし」とある。

 松本愚山は皆川淇園の門人。


  まつら せいざん
松浦静山

宝暦10年(1760)~ 天保12年(1841)

藩主在任:安永4年(1775)~文化3年(1806)
  静山 英三郎 大名・肥前国平戸藩第9代藩主・従五位下・壱岐守  寛政2年(1790)5月17日の「寛政江戸日記」によれば、「近年平戸の辺に唐船漂着す、白石詳三郎なる儒生平戸侯(肥前平戸藩・松浦静山)の命を受筆談するに珍書を乞ふ故に論語徴古訓古義皆川原(愿)の註に至るまで日本人の諸註を見するに 祖孔孟崇程朱不欲見異説唯留大東世語而可也 とて皆返したり、また乾隆帝儒術を重する故仏法大に衰へ無きが如なれり、唐の韓退之仏骨表より以来仏興らんとしては又衰へ今に至りて大に衰へたりと筆談せりと白石氏石川(石川東助・石川滄浪)にかたりしとぞ」とある。

 
松浦静山は皆川淇園・朝川善庵・佐藤一斎の門人、林述斎と交遊。江戸時代を代表する随筆集『甲子夜話』を著す。

  まんなみ
万波俊休

生没年未詳
俊休 世美 甚吉 岡山藩儒  安永7年(1778)3月27日の安永7年(1778)3月28日の「戊戌季春記事」によれば、細谷村を訪ねた細井平洲門下の子篤(荻原千介)が浪花を経て、肥後・熊本学校(時習館)へ行くに際して、「大坂の河野氏(河野恕斎)播州の井澤氏(井澤君光)龍野の儒生國枝子(国枝順太夫)石原子(石原眞吾か)閑谷の有谷生岡山の万波子(万波俊休または万波醒廬か)三木子小原子(小原梅坡の父小原魯庵か?)等の知己を記るして與へ侍る、若し陸路を経る時は尋ぬべき為め也」とある。

 
万波俊休は万波醒廬・万波茅山の父。井上子休・和田伯高と交遊。

 万波俊休の子、万波醒廬(宝暦12年(1762)~天保14年(1843))は岡山藩校・昌平黌・那波魯堂に学び、藩校・閑谷学校の教授となる。古賀精理・柴野栗山尾藤二洲頼春水岡田寒泉の門人、西山拙斎・姫井桃源・内藤中心・小橋陶復と交流。

みどりかわ
緑川利賓
(野口玄通)

野口 子用 利賓 玄通 医家 陸奥常世中野  寛政2年(1790)7月9日の「北行日記」によれば、「常世中野」雨谷アマヤに至る荒川助惣へ入り野口隆琢所に宿す、塙より半里余艮に来る棚倉領也、隆琢の父を玄通(緑川利賓)といふ中風を患ふ年五十九、隆琢二十歳母は常陸赤浜長久保氏(長久保赤水)の娘也」とあり、翌7月10日には「留めらるるによりて宿す」とある。
 7月11日には「野口利賓字子用一の名は琢、詩一首を送る」とあり、この詩は『高山彦九郎日記』第5巻303ページに掲載され、「常州東海緑川利賓」の署名がある。

 
緑川利賓の妻は長久保赤水の娘。

みながわきえん
皆川淇園

享保19年(1735)~文化5年(1807)
  伯恭 淇園 文蔵 儒学者私塾弘道館主 京都  安永の頃相識となる。
 天明2年(1782)11月22日の「天明京都日記」によれば、皆川文蔵(皆川淇園)から栗原氏の話として「公儀より高山彦九郎といへるを知れるやと御尋の時に、知れると申せばむつかしき故へ、一向存ぜず申せしと語りける」と記している。
 11月26日には、「皆川文蔵(皆川淇園横尾文助今木周左衛門(今城周右衛門)の三儒生公儀より召される事ありと委細に資衡
大江玄圃語りける」とある。
 寛政3年(1791)12月20日の「寛政京都日記」によれば、「中立売新町を東へ入る、皆川文蔵所へ至る」とある。
 4月28日には「南涯(志水南涯)へ入る酒出づ、亀山城主(丹波亀山藩・5万石・形原松平信道)の弟松平帯刀(貞幹・芝陽か)に相識となる文蔵湈(淇)園も共に来る」とある。
 5月25日には「蛎崎広敏(蠣崎波響)皆川文蔵大原欽次(大原左金吾呑響か)畑民部同席にて画しける所也、酒を酌み亥の刻過ぎて立ち(略)」とある。
 
 
皆川淇園は大井蟻亭・三宅牧羊・伊藤錦里・丸山応挙・望月玉蟾の門人。肥前平戸藩主松浦静山・宮津藩主松平氏・膳所藩主本田氏・丹波亀山藩主松平氏の賓師となる。柴野栗山赤松滄洲西依成斎と交遊し、天明期の京都における代表的な漢詩社の三白社を結成した。詩文・書画を能くし、文化3年(1805)私塾講道館を開いた。

みのうらせいざん
箕浦靖山
(箕浦世亮)

享保4年(1719)~享和3年(1803)
幼名養弥・世亮 長儒 靖山 文蔵・養伯・玄洞 鳥取藩士・鳥取藩東館侍医・尚徳館初代学館奉行  『高山彦九郎日記』第5巻(304ページ)に、箕浦世亮(箕浦靖山)が彦九郎に贈った詩文が掲載されている。

 桃白鹿に関係する記録及び熊沢小八郎宛の書簡から、彦九郎は安永3年(1774)に畿内から美作を経て伯耆米子・出雲松江を訪ねていることが確認され、箕浦靖山との何らかの接触が想定される。
 箕浦靖山は佐々木棕固の子、鳥取藩分知東館池田家侍医箕浦玄東の養子、箕浦徳風の父。鷲見保明と交流。宝暦7年(1757)藩校尚徳館初代学館奉行となる。
 
  みまき ちょくさい
御牧直斎


  敬明   直斎 申蔵 儒学者(闇斎学) (大坂)  天明2年(1782)12月3日の「天明京都日記」によれば、「菅田町松屋町東へ入る所御牧中蔵(御牧申蔵・直斎か)宅を尋ぬ、忌日と号して出でて逢わず」とある。

 御牧直斎は久米訂斎の門人。御牧赤報の父。

みやけ しょうさい
三宅尚斎

寛文2年(1662)~(元文6年(1741)
平出 重固 実操 尚斎 儀左衛門・丹治 儒学者(闇斎学  寛政2年(1790)10月9日から13日の「北行日記」によれば、彦九郎は郡山道遠宅に逗留し、三宅尚斎の「尚斎行状」や「尚斎雑談録訂斎(久米訂斎)著也」を見せてもらっている。

 
三宅尚斎は播磨明石の人。幼くして父を失う。京都に出て医学を学び、19歳の時に晩年の山崎闇斎の門に入る。師の没後、江戸に出て教授。武蔵忍藩主阿部正武に仕え、その没後、正喬の代に、直言して城内に3年幽閉される。将軍の死による大赦で許され、京都に出てのち名声が上り、崎門三傑のひとりとされた(他の二傑、浅見絅斎・佐藤直方には闇斎没後兄事)。西洞院に培根堂・達支堂の2学堂を開く。
 三宅尚斎は久米訂斎の師、養父。門人に、蘆東山・唐崎彦明・玉田黙翁・菅野兼山(菅野綸斎の父)・村士淡斎(村士玉水の父)・内藤有全・加賀美光章・天木時中らがいる。

  みやけしょうざん
三宅嘯山
 →
嘯山

               
  みやはらりょうざん
宮原龍山

宝暦10年(1760)~文化8年(1811)
  斌・義房 樂大 六竹軒・龍山・桑県 文太・後に泰助 伊予松山藩儒 江戸・京都  寛政2年(1790)6月3日の「寛政江戸日記」によれば、「服部旗峯(服部栗斎)を尋ぬ、(略)、宮原文太(宮原龍山)池内生に逢ふて」とある。 
 寛政3年(1791)4月14日の「寛政京都日記」によれば、
「京極に於て宮原文太(宮原龍山)其父主水と江戸へ下るに逢ふ今は阿州(予州)の儒臣たるのよし」とある。

 宮原龍山は松岡雄淵(松岡仲良)・西依成斎服部栗斎の門人。



宮良佐
文彪 渭溪・醒泉 政五郎 ・良佐 儒学者か 京都・江戸  天明2年(1782)11月24日の「天明京都日記」によれば、「出水室町東入へる所にて宮良佐を尋ぬ初対面也」とあり、11月25日には「宮良介(佐)予へ返礼として来たり書を止めたりける」とある。
 天明3年(1783)1月29日・2月2日・2月13日・3月9日にも訪ねており、その父辻本清左衛門にも会っている。
 天明3年(1783)4月6日の「京日記」によれば、「宮良佐来る堂上方の書せられたる和歌を寄す」とあり、4月7日の「天明下向日記」によれば、帰省する彦九郎を見送っている。「再京日記」によれば、10月25日にも脇坂氏(脇坂内記)と共に宮宅を訪ねている

 寛政元年(1789)10月9日の「寛政江戸日記」によれば、「小日向中の橋斎藤頼母殿内武藤与一右衛門所へ至りけるに宮良助(宮良佐か)来たり居る」とあり、10月19日にも同所を訪ね宮良助に会っている。
 『高山彦九郎日記』第5巻(304ページ)に、宮弸(宮良佐)から「癸卯(天明3年)夏」に彦九郎へ宛てた贈答詩文が掲載されている。

 
宮良佐の父辻本清左衛門憲定は桑名松雲(山崎闇斎門人)の孫、「重右衛門」の子。

  みわ  しっさい
三輪執斎

寛文9年(1669)~延享元年(1744)
  希賢 善蔵・即常 執斎・躬耕廬   儒学者(陽明学)  安永9年(1780)6月30日の「冨士山紀行」によれば、「高橋岡右衛門(彦九郎の友人・江戸小日向近辺在住か)甲斐國南田中村(山梨県笛吹市一宮町田中)の貞婦栗女碑の文を予に致す、是れは小宮山杢之進殿の支配所に而(して)其(そ)の貞なる事を憐れまれ三輪執齋に乞ふて碑の文をせらる事は享保年中、文はかな交り也、高橋氏は小宮(山脱)家に生れたる人故是を所持す、執齋の眞書なるべきよし也」とある。
 天明2年(1782)11月25日の「天明京都日記」によれば、「朝大村氏(大村彦太郎)へ至る、大いに宴して語る、甲斐の貞婦栗女が碑文かな書三輪執斎の真跡を送り侍る、よろこびて嫡子が手前にて茶を立て予に喫せしむ」とある。

 
三輪執斎は大村彦太郎の先代彦太郎に養われ、崎門学派の佐藤直方の門人となる。のち陽明学に転じた。京都・江戸・大坂を往来して講学、江戸下谷に私塾明倫堂を設けた。 郷学の含翠堂・懐徳堂の設立に影響を与えた。

むらい こがん
村井古巌

寛保元年(1741)~天明6年(1786)
  敬義   古巌・勤思堂 新兵衛 呉服商・書籍商・国学者 京都・江戸~伊勢・(塩竃)  天明3年(1783)2月28日の「天明京都日記」によれば、高芙蓉宅で明後日江戸へ下るという村井新兵衛(村井古巌)と相識となった。
 天明3年(1783)9月3日の「高山彦九郎道中記」によれば、彦九郎は村井氏(村井古巌)と同道し東海道を伊勢へ向かった。古巌は神宮荒木田尚賢の林崎文庫に蔵書を寄贈しており、面識があったためである。
 9月14日には、「蓬莱氏(荒木田尚賢)の斎館に斎みし居たる所へ至る深更に及ぶまで蓬莱氏村井(村井古巌)と語る」とある。
 天明3年(1783)11月3日の「再京日記」によれば、「村井敬義宅へ至り借る所の金子を返へす」とあり、11月13日には「村井
敬義入りて語りしばらくにして予に餞別としてけし墨を寄す」とある。
 村井古巌は塩釜神社藤塚知明宅で客死しており、寛政2年(1790)10月29日の「北行日記」によれば、「奥塩山雲上寺に村井
敬義(村井古巌)墓有り寄りぬ」とある。

  むらやまこれます
村山維益

延享2年(1745)~享和2年(1802)
  益・維益 士鎌 以文・南海   医家 京都  天明3年(1783)11月6日の「再京日記」によれば、大村氏(大村彦太郎)宅で開かれた酒宴に、「村山以文(村山維益)名は益も座に加はる」とあり、和歌について語り合っている。
 寛政2年(1790)12月19日の「寛政京都日記」によれば、「村山以文所へ寄る、勢州古谷久語(ふるやひさつぐ)が事をしるしたる一冊子を見る」とある。
 1月30日には、「村山以文へ入りて語る玉芙蓉を見す」とある。
 3月22日には、「村山以文熊田立安等へ緑毛亀の事を知らせ」とある。
 5月15日には、「村山以文白木屋へ追ひ来て勢州古谷久語方より送りたる書を達せりける」とある。

 
村山維益は岩垣龍渓の門人。伊勢出身。

  むろきゅうそう
室鳩巣

万治元年(1658)~享保19年(1734)
  直清 師礼・汝玉 鳩巣・滄浪 新介・新助
儒学者・金沢藩儒・幕府儒官・徳川吉宗侍講 


(江戸大塚)

 天明2年(1782)3月19日の「天明江戸日記」によれば、「稲荷橋阿州侯(徳島藩・25万7000石・蜂須賀治昭・阿波守・侍従)の屋敷(江戸中屋敷・中央区入船及び湊)に入て集堂弓五郎師宅を尋ぬ、(略)、其父迂亭(集堂学山)名は元成字は慎甫年八十三、是れもよろこび出でて久しく語れり、鳩巣(室鳩巣)の門人にて室子の書ば悉く集めて版行す」とあり、室鳩巣の記録について語り合っている。
 3月24日に再び集堂宅を訪ね、弓五郎の弟与之丞や父集堂迂亭(集堂学山)から酒飯のもてなしを受け、室鳩巣の書のことについて語り合っている。
 寛政3年(1791)2月23日の「寛政京都日記」によれば、「宮津氏今日語るは、鳩巣先生の事加州にて噂さ宜しからず先生初めより将軍家へ出でむ事を望む、ある時菅神へ参詣して紫雲たな引きたる夢を見たりとて文章を作りよろこばれける事あり、是れも将軍家へ出る瑞相なる様に思ふたれば加侯綱紀(前田綱紀)よろこばれず其の後将軍家の召し応ず」とある。
 寛政2年(1790)5月21日の「寛政江戸日記」によれば、大塚の室鳩巣墓所を訪ね、鳩巣やその妻・鳩巣の子勿軒の墓碑銘について詳しく記している。

 室鳩巣は金沢藩主前田綱紀に仕え、その命で木下順庵の門人となる。のち新井白石の推挙により幕府儒官となり、8代将軍徳川吉宗の侍講となる。
 彦九郎が訪ねた室鳩巣墓所(文京区大塚)は、幕府に仕えた儒学者たちの「儒葬」による墓地で、現在、「大塚先儒墓所」として国指定史跡となっている。室鳩巣のほか、木下順庵・柴野栗山岡田寒泉尾藤二洲・古賀精里ら、家族の墓も含め64墓ある。

もがみ とくない
最上徳内

宝暦5年(1755)~天保7年(1836)
高宮・高 元吉・常矩 士気・士員 鶯谷・甑山・白虹斎 房吉・俊治・徳内

北方探検家

 寛政3年(1791)2月23日の「寛政京都日記」によれば、前野憙(前野良沢)から飛脚で書状が届き、「最上(最上徳内)蝦夷へ行し事など申来る」とある。
 この書状(『高山彦九郎日記』第5巻260ページ所収)は、寛政3年(1791)2月7日付け書状の2月9日付け追伸で、「彼最上(最上徳内)なるもの一旦あやしきものになり候処、黒心なきこと明白になり候上、再彼ロシアの人の居候嶋のあたり迄も参候様に委く見分いたすべき身分と相成候、此人は先年佐藤(佐藤源六・佐藤行信)とも同道にて参り候由、今般にては三度に御座候、定而物事相分り可申と存候、私へも何か相談仕度由大槻(大槻玄沢)迄申候処、間違面談不致候、急に参り候事故、あとより心付候義申越候故、正月中旬存寄申遣し候、旧臘(去年の12月)二十六日発足仕候 、当年中にも帰り候や如何、中途にも彼是障取候義有之候由、何れ一所存あるものの様に相見え候よし大槻(大槻玄沢)も申て候、とても小細工のみにて大造作は天にある事と被存候」とある。

 
天明5年(1785)・6年(1786)、幕府の蝦夷地調査隊に普請役青嶋俊蔵佐藤行信らの竿取(測量助手)として加わる。寛政元年(1789)青嶋俊蔵とともに、再び蝦夷に渡るが、帰還後、青島に連座し入獄。のち許され、幕府普請役として寛政3年(1791)に千島、寛政4年(1792)に樺太を調査。その後も、幕府の蝦夷地政策に深く関わった。

  もとおりのりなが
本居宣長

享保15年(1730)~享和元年(1801)
小津 栄貞・宣長   芝蘭・春庵・中衛・屋号:鈴屋 幼名:富之助・弥四郎・後に健蔵 医師・国学者・和歌山藩

 本居宣長の来訪者記録「来訪諸子姓名住国聞名諸子」(『本居宣長全集』第20巻所収)によれば、寛政4年(1792)4月12日の条に以下の記述がある。
四月十二日來ル 
 一、水戸太田 高野昌碩
名ハ龍 小澤九郎兵衛コンイノ由 醫也 京學ニ上ル由 
 一、上野國新田 高山彦九郎 
奇人ノ由

 この頃、高山彦九郎は薩摩鹿児島に滞在中であり、この日の日記には、「嶋原にて死する者壱万三千人など沙汰す」と記録している。この大災害は雲仙普賢岳の噴火と眉山の山体崩壊による津波(返し波)によるもので、「島原大変肥後迷惑」と名づけられている。
 一方、寛政2年(1790)7月2日~6日の「
北行日記」には、常陸太田町(茨城県常陸太田市)に小沢九郎兵衛(名主・郷士・水戸藩大吟味役)・高野昌碩(医師・のち水戸藩郡奉行となる)を訪ね交流している様子が記されていることから、本居宣長はこの日訪ねて来た高野昌碩から彦九郎の名を聞いたと考えられる。
 なお、安永3年(1774)2月5日の「
甲午春旅」と天明3年(1783)9月14日の「高山正之道中記」に、伊勢松阪訪問の記事はあるが、本居宣長の記述はなく、直接の関係があったかどうかは不明である。

  もも はくろく
桃白鹿

享保7年(1722)~享和元年(1801)
初め坂根・桃井とも 初め友之助友太郎・硯次郎・盛

茂功・子深 百川・白鹿 源蔵・大蔵・題蔵 儒学者・松江藩儒・藩校文明館初代教授

松江

 『高山彦九郎日記』第5巻(429ページ)の「桃源蔵先生高山彦助問答名実論」によれば、安永3年(1774)の10月頃、彦九郎は東海道、畿内、播磨、美作、伯耆を経て出雲松江の桃白鹿を訪ねている。

 
桃白鹿は石見国安濃郡川井村(島根県大田市)の医師坂根幸悦の子。江戸へ出て、桃東園の養子となる。林信充(榴岡)・林信言(鳳谷)の門人。後藤芝山(高松藩校講道館初代総裁・柴野栗山の師)・柴野栗山・関松窓と交流。
 「桃源蔵先生高山彦助問答
名実論」は白鹿の門弟が記録したものとされる。彦九郎を「彦助」とした理由は不明。
 彦九郎のこの旅の日記は残されていないため、この記録は彦九郎の山陰行を示す証左となる重要な資料のひとつである。

  もり かぜん
森嘉膳

宝暦4年(1754)~文化3年(1806)  
一時、宮川  敬庸   思斎 修平・嘉膳・嘉善 儒学者・儒医 筑後久留米  「筑紫日記」によれば、彦九郎は寛政5年(1793)6月19日に再び森嘉膳宅を訪れたが、日記の記述も少なくなり、26日は日付のみで途絶している。27日嘉膳宅で自刃。翌朝絶命。

 
森嘉膳は広津藍渓の門人。森嘉膳は久留米郊外(城下に隣接)櫛原村在住の浪人で、久留米を訪ねる多くの文人・志士と交遊した。彦九郎自刃後、その対応に奔走した。晩年、嘉善と書いた。
 森嘉膳宅跡は彦九郎の墓のある久留米市寺町の遍照院に近く(北に200m)にあり、現在、高山彦九郎終焉の地(「饅頭塚」)として小公園になっている。


 
森礼蔵
(源惟良)

生没年未詳
惟良 顕哉 (さんずいに阞)石 礼蔵 篆刻家
京都  天明2年(1782)11月20日の「天明京都日記」によれば、(高芙蓉宅において)「森礼蔵に相識となる」とある。
 12月21日には「今日芙蓉(高芙蓉)宅にて(略)、志水勝右衛門(志水南涯)に相識となる森礼義(森礼蔵)と同なじく芙蓉印刻の高弟なり」とある。
 天明3年(1783)1月10日には、「漢の剛卯印また同なじ、宣和集古印史の巻首に載せてあるを翁(高芙蓉)の高弟森礼蔵源惟良字は顕哉に□刻あらしめ釈文を付けて版行し今年より世に広めむとす」とある。
 
 
森礼蔵は高芙蓉の門人。

やすながけんぎょう
安永検校
(安永勾当)

生没年未詳
音曲家(地歌)・検校 京都  天明3年(1783)10月22日の「再京日記」によれば、「大村氏に寄る、酒宴の所なり、北川外内碩元安永検校嵯峨の承観画工河島氏内蔵永重等座にあり」とある。
 寛政3年(1791)5月1日の「
寛政京都日記」によれば、「大村氏(大村彦太郎)へ入る、(略)、権(検
)挍(安永検校か)及び山本卜泉諸客と酌みぬ」とあり、5月9日には「大村方(大村彦太郎)に寄りて共に出て渡辺図書所へ入る、酒肴吸数々にて酔ひ及ぶ、三文字屋父子中野三郎安永撿挍(検校)等相伴也、夜に入て飯も出づ振舞心尽くせり、睡るが内に皆な立つ、安永瞽者(こしゃ:盲目の人)と共に立ちて」とある。
 7月3日には「夜に及んで大村氏(大村彦太郎)に入り先づ七両を借る安永撿挍(検校)国のすがた壱冊子を寄す詩経を歌に作りて謡ふもの也、安永桃渓等と酌み亥の刻過ぎて」とある。


 安永検校は深草検校の門人。早崎流の三味線を学ぶ。

 
やすの なんがく
安野南岳

宝暦11年(1761)~文政12(1829)
粛・真卿 公雍 南岳・古渓堂主人 形助 儒学者・熊本藩校時習館訓導・助教・監察・奉行 熊本  寛政4年(1792)1月11日の「筑紫日記」によれば、「高本家(高本紫溟)に於て安野形助(安野南岳)に対す盃酒す」とあり、この後、1月13日~2月23日の間に4日現れる。
 8月の熊本再訪時にも、7
日~21日の間に5日現れる。この中で8月11日・13日には「安野業助」とある。

 安野南岳は高本紫溟の門人。江戸で柴野栗山細井平洲の門人。

やなぎわらもとみつ
柳原紀光


延享3年(1746)~寛政12年(1800
藤原 初め光房・紀光 藤蔓   光房・落飾して暁寂 公家・参議・権大納言・正二位 京都  寛政2年(1790)12月26日の「寛政京都日記」によれば、「柳原大納言紀光卿(柳原紀光)の書せられたる詠歌大慨(ママ)を具選卿(岩倉具選)賜はりける」とある。
 寛政3年(1791)4月17日には、加茂葵祭りの見学に出かけた彦九郎は、行列の中に「加茂伝奏中山殿(中山愛親)」や弁官の「柳原殿(柳原紀光の子、柳原均光か)」を認めている。

 4月26日には「柳原前
大納言紀光卿へ参る内裏嶋白砂を進らせける、小倉あんに薄茶抔出だされて語られける、克古今の事に達せられ」とあり、緑毛亀が応永30年に見つかっていることなどを聞いている。
 4月30日には「柳原前
大納言殿入らる箕面の滝一見の役有りて立たれける」とある。

 
柳原家は、代々文学・文筆を家職とし、柳原紀光は歴史書『続史愚抄』、随筆『閑窓自語』を著している。
 柳原紀光は柳原光綱の子。岩倉具選の兄。
 
柳原紀光の子
柳原均光(なおみつ)は安永元年(1772)~文化9年(1812)、正二位・権大納言となる。


  やなまたしち
又七
簗次正


宝暦2年(1752)~文政12年(1829)
  次正・正記     又七 中津藩士(江戸常府)・水戸家指南役・軍学者小野派一刀流剣術家      神奈川宿・江戸  「冨士山紀行」に2日、「江戸旅中日記」に7日、「天明江戸日記」に2日、「天明京都日記」に1日、「墓前日記」に4日、「寛政江戸日記」に57日、「北行日記」に6日、「寛政京都日記」に4日、「筑紫日記」に2日、計85日現れる。
 安永9年(1780)6月22日の「冨士山紀行」によれば、彦九郎富士山登山の帰途神奈川宿の宿で簗次正(簗又七)から声をかけられる。「予をただならぬ人なりなど云ひて甚だ懇意を結べり」とあり、翌23日、川崎駅で俄かの腹痛となった彦九郎を大森・品川を経て芝居町の彦九郎知人宅に送り届けるまで看病している。

 安永9年(1780)11月15日の「江戸旅中日記」によれば、「銕鉋津奥平侯中屋敷(中央区明石町)簗又七を尋ぬ」とあり、互いに、すぐ再会できなかった事情を語り合い、「酒肴にて懇意を結ぶ」とあり、夕方まで滞在している。
 
これ以降、彦九郎は簗次正を通して、前野良沢と知り合ったと想定され、中津藩中屋敷内の両家に頻繁に出入りし、終生の盟友となる。
 寛政元年(1789)10月11日~11月5日の「寛政江戸日記」によれば、
彦九郎は重病の簗次正婦人縁(「えん」か)を何度も見舞い、夜通しの看病もする。その葬儀に際して、三田(港区三田五丁目)龍源寺の墓前に夜を明かしている。
  
 
簗次正は生田孫左衛門の子で、簗半兵衛利秀の養子。中西忠蔵の門人。成田朝辰(羽生朝辰)の兄。一節截(ひとよぎり)をたしなみ、和歌を能くした。林子平と交流。彦九郎の没後、その遺品を保有する。
 『三百藩家臣人名事典』の簗又七の項によれば、「『高山彦九郎日記』によると、安永九年六月二十二日富士登山の帰途、神奈川宿で、たまたま彦九郎と又七が同宿して国事を論じ、互いに譲らず、ついに彦九郎は怒って斬りつけたが、これを抑えた。以来彦九郎は剣技を磨き、交遊が始まる」という記述があるが、上記「冨士山紀行」には「国事を論じ」以降のような記事は見当たらない。この件に関して、作家の吉村昭氏は「あ~これ作り話だなと思いました。『勘』っていうものがあるんです。(略)こんな事するわけがないということは、高山彦九郎を調べていれば分かるんです。そんな事をする人間ではないんです。」と述べている(「前野良沢と高山彦九郎」1994)。

  やぶこざん
藪孤山

享保20年(1735)~享和2年(1802)
  子厚 孤山・朝陽山人 茂次郎 儒学者・熊本藩時習館教授 熊本  安永7年(1778)3月28日の「戊戌季春記事」によれば、細谷村を訪ねた細井平洲門下の子篤(荻原千介)が浪花を経て、肥後・熊本学校(時習館)へ行くということについて、大坂河野氏河野恕斎・藪生(藪孤山)の名を出し、心がけを語っている。
 寛政4年(1792)正月元旦の「
筑紫日記」によれば、藪孤山宅で春を迎え、新年の挨拶を交している。その後、8月の熊本滞在時にも、逗留している。日記に現れるのは1~2月の滞在時が21日、8月の滞在時が8日、計29日。

 藪孤山は
西依成斎河野恕斎中井竹山頼春水尾藤二洲らと交友。

  やまがただいに
山県大弐

享保10年(1725)~明和4年(1767)
  昌貞 子恒・公勝 柳荘・洞斎 軍治・大弐 儒学者・尊王家・

 安永6年(1777)4月6日の「丁酉春旅」によれば、「甲府を出てにら(韮)崎の方へ行く、道龍王新田といふ所あり、是れ山縣(山県大弐)が兄の居りし所といふ」「弟(山県大弐)は江戸に出て学ぶ、甲州に居りし時は加賀見氏(加賀美光章)に就きて学ぶ、後にも交りありし故に明和中捕られて詮議に預りける」とある。

 
山県大弐は明和事件で死罪となる。

 
山崕周蔵
子尹 良弼 周蔵 篆刻家

京都

 天明3年(1783)11月3日の「再京日記」によれば、「南涯(志水南涯)宅において山崕周蔵に相識となる篆刻社中のよし」とある。

  やまぐちごうさい
山口剛斎

享保19(1734)~享和元年(1801)
景徳・純実 正懋・剛翁 剛斎・柔斎・西周・梅盧・西月・一徳斎・一徳・顔其斎
剛三郎 儒学者・兵法家・石見津和野藩儒・藩校養老館学頭 大坂  天明2年(1782)12月4日の「天明京都日記」によれば、「舟町なる山口剛三郎景徳カゲエ年四十九号は剛斎とも柔斎とも西周とも云へる人を尋ぬ、朱学の人にて(略)、剛斎頼千秋(頼春水)へ送りたる贈序を見す、しばらく語りて出づ」とある。
 天明3年(1783)3月21日の「天明京都日記」によれば、「(片山北海を)出でて山口剛三郎(山口剛斎)を訪ふ、楠正成の一族及び家来を集めて講訳する所の絵を懸けたりける、服部氏(服部栗斎か)へ伝言あり、新町を経て白髪橋の北篠田徳安(飯岡義斎)を尋ぬ他出にて逢わず」とある。

 
山口剛斎は飯岡義斎の門人。久米訂斎と交遊。谷万六(谷好井)の師。
 大坂で講席を開く。天明5年(1875)津和野藩儒となる。

  やまざきあんさい
山崎闇斎


元和4年(1619) ~ 天和2年(1682)
  敬義 闇斎・霊社号は垂加霊社 通称嘉右衛門 儒学者(朱子学)・会津藩(保科家)儒・神道家・思想家

 天明2年(1782)3月19日の「天明江戸日記」によれば、服部栗斎から、唐崎常陸介が3、4年前に山崎闇斎の旧宅を買い戻し祠堂を建てる計画を「闇斎門派」に働きかけていたことを聞いている。同意・不同意両論のあるこの計画に対して、彦九郎は不同意と記している。
 寛政3年(1791)3月21日の「寛政京都日記」によれば、西山拙斎の誘いにより、岩倉家(岩倉具選)を出て、拙斎父子・大川良平(赤松滄洲)若槻源三郎中山元倫・小田孝作・小田孝作・大愚(慈延)らとともに、妙心寺、御室へ向かう途中、「(明田五郎兵衛の案内により)葭屋町下立売上ル所東側中程山崎闇斎宅の跡を見る間口六七間也」とある。

 
山崎闇斎の提唱した朱子学を「闇斎学」または「崎門学」といい、従来の神道と儒学を統合して垂加神道を開いた。水戸学などとともに幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えた。門人には、佐藤直方・浅見絅斎・三宅尚斎らがおり、闇齋学の系統を「闇斎学派」または「崎門学派」という。彦九郎自身もその系譜に連なり、同学派の多くの人々と交流した。

  やまじよしつぐ
山路徳風

宝暦11年(1761)~文化7年(1810)
平・初め小倉氏 徳風     才助・弥左衛門
幕臣・天文家・暦算家

 寛政3年(1791)2月23日の「寛政京都日記」によれば、前野憙(前野良沢)から飛脚で書状が届き、「山路才助(徳風)天文方被仰付候由」とある。
 この書状(『高山彦九郎日記』第5巻258ページ所収)は、寛政3年(1791)2月7日付けで、「山路才助殿も天文方改暦方被仰付、度々及相談候」とある。
 

 山路徳風は仙台藩士小倉助左衛門雅久の次男。幕府天文方山路之徽の養子。寛政2年(1790)天文方となる。
 山路徳風は前野良沢と交遊。


  やまだ せいさい
山田清斎


生年未詳~寛政6年(1794)
    之野 静斎・清省 精二郎 儒学者(崎門派) 京都  天明2年(1782)11月24日の「天明京都日記」によれば、「室町出水下ル所山田清次郎(山田清)の宅へ入る、糸を土産とす、飯出づ」とあり、しばらく語り合っている。
 4月6日には餞別として詩二首をもらっている。
 寛政3年(1791)2月23日の「寛政京都日記」によれば、「寺町御門の外山田清次郎を訪ふ」とあり、6月26日には「山田清次郎を尋ぬ、餅を出だす、子虎吉十三歳給仕す」とある。

 
山田清斎は石王塞軒の門人。

やまのいせいか びっちゅうのすけ
山井青霞
(山井備中介)

宝永5年(1708)~寛政7年(1795)
太神 景行・景貫 子一・子貫・子乙 青霞 備中介 儒学者・楽人(笛師)・備中介・正四位上・雅楽頭
京都  寛政3年(1791)2月27日の「寛政京都日記」によれば、「畠山町山ノ井備中介(山井青霞)を尋ぬ初対面也」とある。

 
山井青霞は吹笛を能くし、光格天皇の笛師となる。

  やまむらそもん
山村蘇門

寛保2年(1742)~文政6年(1823)
  良由 君裕・蘇門   甚兵衛 儒学者・尾張藩木曾代官兼幕府木曽福島関所守・尾張藩家老

―(木曽・江戸)

 天明2年(1782)10月26日の「上京旅中日記」によれば、木曽三留野宿で同道の博徒弥惣次が重病となり看病する間、山村蘇門の記事を詳しく書いている。
 寛政2年(1790)5月20日の「寛政江戸日記」によれば、「芝新門前(港区芝2丁目)山村甚兵衛殿屋敷」内に家臣の石作貞一郎(駒石)を訪ねている。

 
山村蘇門は三村道益・大内熊耳・細井平洲の門人。渡辺方壺と交流。郷学菁莪館を設けた。

  やまもとまさよし しゅうすい
山本正誼
(山本秋水)

享保19年(1734)~文化5年(1808)
  正誼 子和 秋水・小酔 伝蔵 儒学者・薩摩藩儒・造士館聖堂奉行・造士館初代教授 鹿児島  寛政4年(1792)2月22日の「筑紫日記」によれば、「藪氏に入りて孤山翁(藪孤山)へ明日出立を告げ侍る、薩の山本伝蔵(山本正誼)への書有り」とある。
 3月5日・11日・28日・29日には薩摩国各所にある石碑に山本正誼の碑文を見ている。
 4月8日には、彦九郎は麻上下姿で藩校
造士館に入り、助教赤崎彦礼(赤崎海門や礼服上下の教授山本伝蔵(山本正誼)を始めとする多くの人物に会い交流している。日記には「其余相識となる人童子迄百数十人斗り」とある。その後、赤崎氏の案内で教授山本氏宅に入り、「吸物酒肴数々蕎麦出づ、予西園寺前内大臣賞季公の古歌の色紙及び芝山持豊卿高詠の色紙を寄せたり、教授拝受して受く」とある。
 4月13日には造士館で琉球楽を聞いたのち、山本伝蔵・
赤崎源助(赤崎海門ほか30人以上と船遊びをしており、「今日は薩太守(島津斉宣)も船遊に出てられける遠く望めり」とある。
 4月26日には「山本正誼教授」と夜まで酌み交わしており、「今日造士館に於て唐通事試みの事あり至る、琉人二十人斗り薩人十人斗試み有りける」と記している。
 4月28日には「造士館に行て朝鮮通事試みを聞く、山本教授予を迎ふ、朝鮮俘虜十九人皆鶏林を韻を誦す、赤崎氏(赤崎海門)にも逢ふ」とある。

  やまわきとうかい
山脇東海
やまわき げんちゅう
(山脇元冲)

宝暦7年(1757)~天保5年(1834)
豹・之豹 子班・道梨 東海・遯斎