■高山彦九郎記念館データファイルNo.1

 高山彦九郎が残した日記の一覧表です。内容は主に、『高山彦九郎日記』(千々和實・萩原進編 西北出版 1978)によりましたが、日記の所蔵者は現在判明している部分を補いました。


高山彦九郎日記一覧表

No. 日 記 名 年齢 西暦 期 間 主な行程 概   要 日記所蔵者
1 あかぎ
赤城行
27 1773 安永2年11月14日〜19日 細谷―赤城神社―白井宿―伊香保温泉―細谷   赤城神社に参詣、のち伊香保温泉で高芙蓉から依頼された新田大島氏の調査を行う。 原本は現存しない。写本は静嘉堂文庫蔵の「高山仲縄紀行集」(長島尉信写本)と矢嶋行康編「玉能御声」巻2(長島尉信写本から矢嶋行康再写)があり、後者は当館に寄託。
2 きのえうま
甲午春旅
28 1774 安永3年1月4日〜3月7日 細谷―江戸―伊勢神宮―京―奈良―大阪―京―(出雲)  東海道から伊勢神宮内宮外宮を参詣、のち伊賀・京都・奈良・摂津・大阪・京都を巡り、旧跡を訪ねている。道中の描写は特に精細を極めている。 原本(矢嶋行康コレクション)及び写本(矢嶋行康編「玉能御声」5篇)は当館に寄託。
3 きのとひつじ
乙未の春旅
29 1775 安永4年2月18日〜4月9日 京―近江―若狭―越前―越中―越後―信濃―細谷  京都を出発し、若狭道を取り、中江藤樹の生地を訪ね、北陸道を進み、福井の新田義貞戦没地や墓のある称念寺を弔う。さらに春日山城・善光寺・海野宿を経て横川の関所を通り一ノ宮を参詣し細谷に帰る途中、人情・風俗を記し、隠士・隠徳の士を訪ねている。 原本は現存しない。写本は静嘉堂文庫蔵の「高山仲縄北国日記」(長島尉信写本)と矢嶋行康編「玉能御声」巻3・4・5(長島尉信写本から矢嶋行康再写)があり、後者は当館に寄託。
4 利根路の秋旅 29 1775 安永4年7月8日〜7月22日 細谷―台―利根川―江戸川―江戸―大宮―台―細谷  蓮沼政房(彦九郎の曽祖父)の祭奠のため、江戸から帰省していた大叔父石井政重(政房の子)に同行し、細谷から江戸を往復する。往路は利根川・江戸川の水路、帰路は中山道を利用している。
 残された彦九郎の日記中、数少ない水路を利用した旅の記録である(他は北行日記の江戸・木更津間の記事のみ)


原本は当館蔵。平成19年(2007)10月入手。

この日記の存在はこれまで知られておらず、『高山彦九郎日記』にも未掲載。明治23年7・8月の旧水戸藩関係者(徳川篤敬の題字、長久保猷・藤田健・寺門謹・内藤恥叟)の跋あり。
5 おしやま
忍山湯旅の記   
29 1775 安永4年7月29日〜8月13日 細谷―忍山温泉(桐生)―細谷  叔父の萬郷君・源七との三人で桐生の梅田にある忍山の湯に湯治に行く。4日後、従弟の蓮沼政徳が加わる。 原本は宮内庁蔵(矢嶋行康が献上)。写本(矢嶋行康編「玉能御声」巻6)は当館に寄託。
6 江戸旅行日記 30 1776 安永5年3月15日〜4月11日 細谷―古河―江戸―細谷  古河郊外鮭延寺にある熊沢蕃山の墓に詣でる。日光街道(奥州街道)・日光御成街道を通り江戸へ出て、股野玉川菅野綸斎国枝順太夫らと交わる。将軍家治の日光社参を記録する。のち中山道から台村に寄り帰る。 原本は宮内庁蔵(矢嶋行康が献上)。写本(矢嶋行康編「玉能御声」巻7)は当館に寄託。
7 こが
古河のわたり
30 1776 安永5年3月 古河  「江戸旅行日記」の記述とは別に記された古河紀行の一文。日付はなく、日記体でない。 原本は現存しない。写本は静嘉堂文庫蔵の「高山仲縄紀行集―高山氏遺書古河渉の記」(長島尉信写本)と矢嶋行康編「玉能御声」巻7(長島尉信写本から矢嶋行康再写)があり、後者は当館に寄託。
8 斎中記 30 1776 安永5年7月5日〜11日 細谷  彦九郎が亡父高山正教の代わりに相模国大山参拝のため、郷里の川(みたらひ川)で沐浴斎戒する。正教は明和6年(1769)大山参拝の途中謀殺されたとされており、その時の父の日記についても触れている。 原本は宮内庁蔵(矢嶋行康が献上)。写本(矢嶋行康編「玉能御声」巻81)は当館に寄託。
9 小田原行 30 1776 安永5年9月16日〜22日 江戸―小田原―江戸  江戸小日向を出発、相州小田原の知友柳井左京の墓を訪ねる。東海道中の風景・旧跡を記録する。 原本は現存しない。写本は静嘉堂文庫蔵の「高山仲縄紀行集」(長島尉信写本)と矢嶋行康編「玉能御声」巻81(長島尉信写本から矢嶋行康再写)があり、後者は当館に寄託。
10 ひのととり
丁酉春旅
31 1777 安永6年3月27日〜5月4日 細谷―江戸―甲州身延山―駿府―江戸―細谷  身延山に出家しようとする大叔父石井政重(相馬・祖父蓮沼貞政の弟)を追い、江戸から甲州街道を通り身延山に行く。帰りは久能山から、東海道を通り、江戸を経て、細谷に帰る。

 *4月6日後半から10日までと16日から5月1日まで欠落
原本は茨城県立歴史館蔵(長島尉信旧蔵)。
11 ひのととり
丁酉春旅補遺
31 1777 安永6年4月8日・17日・18日 丁酉春旅の各日の部分に続くもの

同上

原本は東京安田氏蔵。
安永6年4月23日 鎌倉長谷寺

同上

12 丁酉春旅補遺3 31 1777 安永6年4月23日か 鎌倉光明寺・長勝寺

同上

原本は当館蔵。平成26年(2014)5月入手。

この日記断簡の存在はこれまで知られておらず、『高山彦九郎日記』にも未掲載。高杉晋作の漢詩草稿とともに軸に貼られている。
13 ひのととり
丁酉春旅補遺2         
31 1777 安永6年4月19日・24日 吉原―三島/金沢称名寺

同上

原本は当館蔵。平成5年(1993)11月入手。
14 武江旅行記 31 1777 安永6年9月27日〜10月24日
(ただし9/29・10/2・4・5・6・8〜15・19・22・23日を欠く)
細谷―江戸―細谷  武州台村に寄り妻沼の社に参詣、のち江戸へ出る。細井平洲と忠烈つな女について語る。会輔堂菅野綸斎柴野栗山と語る。 原本は茨城県立歴史館蔵(長島尉信旧蔵)。
15 赤城従行残闕 31 1777 安永6年10月26日〜29日 細谷(赤城登山の準備)  叔父剣持長蔵とともに赤城神社に参詣する。 原本は現存しない。写本(矢嶋行康編「玉能御声」巻11)は当館に寄託。
16 赤城従行 31 1777 安永6年10月30日〜11月3日 細谷―赤城神社―不動滝―細谷 原本は現存しない。写本は静嘉堂文庫蔵の「高山仲縄紀行集」(長島尉信写本)と矢嶋行康編「玉能御声」巻11 (長島尉信写本から矢嶋行康再写)があり、後者は当館に寄託。
17 つちのえいぬ
戊戌季春記事
32 1778 安永7年3月18日〜6月24日 江戸―細谷・安蘇郡蓬莱山・下田島・台・沖野・金山・尾島・長手  江戸から帰京し、墓参・小旅行のほかは家庭内の記事が多い。 原本は東京小石川区片倉武雄氏旧蔵(重要美術品指定)。現在、個人蔵(長野県飯田市美術博物館寄託)。写本(矢嶋行康編「玉能御声」巻12・13 )は当館に寄託。
18 おまた
小股行
33 1779 安永8年7月7日 細谷―丸山―小股石尊神社―細谷  叔父板橋政八とともに、下野国足利郡小股(小俣)鶏足寺に参詣、石尊山に登る一日の記事。 原本は現存しない。写本(矢嶋行康編「玉能御声」巻14 )は当館に寄託。
19 冨士山紀行 34 1780 安永9年6月10日〜7月22日 細谷―八王子―富士吉田―富士山―平塚―江ノ島―江戸―細谷  彦九郎一人で父高山正教の遺命であった富士登山をする。八王子を経て甲州に入る。念願の富士登山を果す。東海道から江戸へ戻る途中、豊前中津藩士簗又七(簗次正)と知り合う。江戸で細井平洲を訪ねる。 原本は現存しない(長島尉信旧蔵)。写本あり。
20 江戸旅中日記 34 1780 安永9年11月12日〜25日 細谷―江戸―武州台村―細谷  安永9年(1781)8月6日に没した祖叔 石井相馬の百ヶ日法要のため江戸に行く。播州龍野藩士股野玉川細井平洲嚶鳴館菅野綸斎会輔堂服部栗斎ら多くの諸氏と交わる。 原本は宮内庁蔵(矢嶋行康が献上)。写本(矢嶋行康編「玉能御声」巻14)は当館に寄託。
21 江戸旅中日記 35 1781 天明1年4月27日〜閏5月14日 細谷―江戸―細谷  江戸に滞在し、長久保赤水細井平洲を始めとする多くの人々と交流する。 原本は現存しない(伊与久氏旧蔵・焼失)。写本は水府明徳会彰考館徳川博物館蔵の「高山遺書」(長島尉信写本)と矢嶋行康編「玉能御声」巻15 (長島尉信写本から矢嶋行康再写)があり、後者は当館に寄託。
22 天明江戸日記 36 1782 天明2年2月30日〜3月27日
(3/4・3/6〜11欠)
細谷―江戸―細谷  細谷を立ち、江戸の諸氏を訪ねる。叔父剣持長蔵の依頼により、祖父高山伝左衛門貞正を神祭する祠堂の模型図を探し求める。神道関係の諸氏と往訪する。細井平洲服部栗斎長久保赤水らと交流する。 原本は茨城県立歴史館蔵(長島尉信旧蔵)。写本は矢嶋行康編「玉能御声」巻171 があり、後者は当館に寄託。
23 そうり
沢入道能記
36 1782 天明2年4月6日〜9日 細谷―勢多郡沢入村―細谷  平吉を伴い、上野国勢多郡沢入を訪ねる。 原本は現存しない(剣持氏旧蔵)。写本は静嘉堂文庫蔵の「高山仲縄紀行集」(長島尉信写本)と矢嶋行康編「玉能御声」巻18 (長島尉信写本から矢嶋行康再写)があり、後者は当館に寄託。
24 子安神社道能記 36 1782 天明2年6月15日〜16日 細谷―勢多郡荒砥村産泰神社―伊勢崎―細谷  上野国勢多郡荒砥村の産泰神社に参詣する。 原本は現存しない(剣持氏旧蔵)。写本は静嘉堂文庫蔵の「高山仲縄紀行集」(長島尉信写本)と矢嶋行康編「玉能御声」巻18 (長島尉信写本から矢嶋行康再写)があり、後者は当館に寄託。
25 ぶしゅうはたらめぐり
武州旗羅廻
36 1782 天明2年7月22日 細谷―台―西別府―深谷―細谷  利根川の対岸にある武州旛羅地方を訪ねる一日の記事。 原本は現存しない(剣持氏旧蔵)。写本は静嘉堂文庫蔵の「高山仲縄紀行集」(長島尉信写本)と矢嶋行康編「玉能御声」巻18 (長島尉信写本から矢嶋行康再写)があり、後者は当館に寄託。
26 上京旅中日記 36 1782 天明2年10月16日〜11月16日 細谷―台―中山道―京  一人で京に上る。中山道を通る。途中博徒上がりの弥惣次と道連れとなり急病を看病する。木曽谷の景勝・史跡を訪ねる。 原本は宮内庁蔵(矢嶋行康が献上・10月29日後半以降)のみ現存。写本(矢嶋行康編「玉能御声」巻18・19)は当館に寄託。
27 天明京都日記 36
/37
1782
/1783
天明2年11月18日〜天明3年4月3日 京―大阪―竜野―京  京都滞在の記録。滞在期間は寛政の在京に次ぎ、約5ヶ月に及ぶ。記事は皇居への伺候・学校建設運動・祖父への神号下付請願・公卿及び盟友との交遊のほか、その間の播磨国龍野や高砂、大阪への往来なども記されている。 原本は茨城県立歴史館蔵(長島尉信旧蔵・天明2年11月18日後半〜12月25日/天明3年2月25日後半〜3月14日)と京都大学附属図書館蔵(天明3年1月5日〜2月11日)が現存。写本は矢嶋行康編「玉能御声」巻21〜25 があり、後者は当館に寄託。
28 京日記 37 1783 天明3年4月3日後半〜7日

 天明京都日記に続くもの。祖父の神号を吉田神道家から拝領し、謹慎して帰京の途につくまで諸祭具の準備や知友との送別などの動静を記している。

原本は茨城県坂場氏蔵。写本なし。
29 天明下向日記 37 1783 天明3年4月7日〜5月3日 京―中山道―台―細谷  祖父の神号を奉じて中山道を下り、武州台村に到着し、親族全部集合して妻子を行うまでの記事。 原本は松浦氏蔵。写本は矢嶋行康編「玉能御声」巻16(一部欠)があり、当館に寄託。
30 高山正之道中記 37 1783 天明3年9月3日〜15日 江戸―名古屋―熱田神宮―伊勢内外宮  友人村井古巌とともに東海道を西に向かう。名古屋で細井平洲を訪ねる。伊勢参詣をし、荒木田久老荒木田尚賢と語る。 原本は現存しない。写本は静嘉堂文庫蔵の「高山正之道中日記」(長島尉信写本)がある。
31 再京日記 37 1783 天明3年10月22日〜11月21日 京―大阪―奈良―京  京都で多くの公家・諸友と交わる。祖父貞正の神号許状を受ける。 原本は現存しない。写本は矢嶋行康編「玉能御声」巻27 がある。
32 おまた
小俣新社参詣記
39 1785 天明5年7月2日〜3日 細谷―太田―小股大山阿夫利神社―太田―細谷  細谷から丸山を経て足利小股(小俣)の大山阿夫利神社に参詣し、帰途、葉鹿村の在、大前村の権田久米八を訪ね一泊する。 原本は前橋市立図書館蔵。写本なし。
33 北上旅中日記 39 1785 天明5年7月13日〜18日 細谷―大間々―利根郡原村―老神―大間々―細谷  上野国利根郡大原村の金子重右衛門照康を訪ねるため、細谷から赤城山を越えて行く旅。 原本は茨城県水戸市坂本氏蔵。写本なし。
34 墓前日記 41 1787 天明7年6月朔日から6月晦日 細谷  祖母りんが死去すると彦九郎は墓前に草屋を建て、ここに篭もり、3年にわたる服喪に入る。この日記はりんの死後11ヶ月目の1ヶ月間のもの。彦九郎の厳粛な態度を知るとともに、子妾・親族の墓参の状況、世人の往訪を詳しく記録している。また天下の騒がしさを観察し、幕政の凋落を祈る心裏の秘密さえうかがえる。喪中の作歌は非常の多いが、日記としてまとまったものはこの日記しか発見されていない。 原本は埼玉県本庄市森田氏蔵(本庄市指定重要文化財)。
35 寛政江戸日記 43 1789 寛政元年10月3日〜11月22日 江戸  三年の服喪は常人には出来ない実践であったが、その結果、兄高山専蔵の意図にわずらわされ、ついに江戸召還入獄の憂き目を見るに至った。
 この日記によれば、出牢後は細谷に帰らず、そのまま江戸に滞在し、憂悶のうちに知友と交わりつつ、道義の鼓吹を怠らなかった。特に、
前野良沢・良庵父子が心から彦九郎を慰め、故郷における専蔵との間を平和的に解決しようとはるばる上野国細谷へ向かうところがこの日記の中心である。
原本は現存しない。ただし、原本模刻の「高山仲縄遺墨」日月星全3巻(明治4年刊)がある。写本は矢嶋行康編「玉能御声」巻30があり、当館に寄託。
 36 寛政江戸日記 43 1789 寛政元年11月30日〜12月30日 江戸  憂悶のうちに寛政元年の大晦日を迎える日記。その間、毎日のように友と語り、学者を訪れており、熾烈な道交がうかがえる。兄との不和がもたらした郷里における財政的基礎喪失の影響は彦九郎の生活苦としてこの日記に特に著しく見えている。 原本は福岡県久留米市酒井氏旧蔵。写本なし。
37 寛政江戸日記 43/44 1790 寛政2年5月1日〜6月7日 江戸  江戸に滞在し、房総・奥羽・蝦夷地の旅行を計画し、江戸の木更津河岸から出発するまでの記事。その間、海外事情に通じた大槻玄沢前野良沢桂川甫周佐藤源六(行信)長久保赤水らを訪ねて種々の情報を入手し、諸友に見送られて出船する。 原本は現存しない。写本は水戸彰考館文庫蔵の「高山仲縄遺書」(長島尉信写本)と矢嶋行康編「玉能御声」巻31(長島尉信写本から矢嶋行康再写)があり、後者は当館に寄託。
38 北行日記 44 1790 寛政2年6月7日〜11月30日 江戸―木更津―水戸―米沢―宇鉄―仙台―日光―前橋―中山道―京  江戸滞在中、房総・奥羽・蝦夷地を単身訪ねる決心をし、房総から津軽三厩を目指し長い旅に出発する。この旅以降、細谷には戻らず、最後の長い旅に出発であった。水戸で藤田幽谷立原翠軒木村謙等と会談し、米沢では知友の莅戸太華らと会った。さらに津軽に至るが、ついに蝦夷地に渡ることを断念、南部領を経て、仙台では林子平と会うなど各地で多くの人々と対談している。帰途、細谷に寄らず、京都に急行したのは光格天皇の新皇居還幸の儀式を見るためであったとされる。 原本(矢嶋行康コレクション)及び写本(矢嶋行康編「玉能御声」巻35・36・37・38)は当館に寄託。
39 寛政京都日記 44/45 1790 寛政2年12月朔日〜寛政3年7月18日 京―伏見―京―鞍馬―京―比叡山―京―伏見―京  奥羽の旅から帰京し、しばらく滞在する。光格天皇に接する感激的場面。緑毛の亀を入手し文治の非を予言する。多くの公家・文化人等と交流し、彦九郎の尊王の実践の中で重要な時代。 原本(矢嶋行康コレクション)及び写本(矢嶋行康編「玉能御声」巻32・33・34)は当館に寄託。
40 筑紫日記 45/46 1792 寛政4年正月元日〜7月5日
(ただし、6月5日末から10日前半欠)
熊本―人吉―高鍋―水俣―鹿児島―宮崎―高鍋  彦九郎最後の旅。京都から山陽道を通り、下関から豊前門司に入り、筑後久留米・筑前福岡・肥前長崎を経て、再び筑後に帰り、さらに肥後熊本に至ったと推定されるが、京都〜熊本間の日記は見つかっていない。
 この日記は熊本で寛政4年の正月を
藪孤山宅で迎えるところから始まる。朝威を背負い準国賓として遇せられ50日余にわたる高本紫溟富田大鳳を始めとする熊本人士との猛烈な交遊ののち、入薩の壮途につき南下するが、まず人吉から東行し、九州山脈を横断、日向深山の米良に入り、さらに東海岸の高鍋・美々津、再び引き返して市房山に登り、西海岸の佐敷に出るという神出鬼没の足跡を印している。秘密の国薩摩の入口野間の関で止められ、半月後ついに入国、鹿児島藩では藩主以下異常な関心を沸騰させ、藩士はもちろん朝鮮人子孫・琉球人との間にさえ激甚な交友の日を送ること50日余、その間、日本最南端の海開(開聞)岳・坊津へも一巡して琉球を望見する。やがて、霧島山頂・都城・飫肥・宮崎・佐土原を経て高鍋に至る。
原本(矢嶋行康コレクション)及び写本(矢嶋行康編「玉能御声」巻39・40・41・42)は当館に寄託。
41 筑紫日記 46 1792 寛政4年7月12日〜8月26日 延岡―竹田―熊本―相良  延岡から始まる。高鍋から美々津・富高を経て延岡に着いたものと推定される。延岡から西に向い高千穂の神蹟を探り、豊後竹田に着く。肥前・薩摩・大隅・日向という行程からすれば、そのまま豊後・豊前方面の遊歴に移るべきであろうが、予想を裏切って三度目の九州山脈横断を敢行、熊本に帰って滞留する。こうした神出鬼没の行動は単なる奇跡探勝とは別に、何か彦九郎の胸裏に当面の課題の解決が意図されていたことを暗示する。筑前に遊学する長瀬らと山鹿で別れ、八方岳登山の記録以後が欠けるが、この進路は豊後遊歴を目指す四度目の九州山脈横断である。 原本は東京都中央区有馬氏蔵。神奈川県立金沢文庫寄託。写本(矢嶋行康編「玉能御声」巻43)は当館に寄託。
42 筑紫日記 46/47 1793 寛政5年5月3日〜6月27日 久留米―大宰府―志賀島―博多―久留米  肥後北部からこの日記までの8ヶ月の日記は見つかっていない。他の史料によると、この間、豊後日田に滞在し、竹田に引き返し、佐伯・臼杵・小浦等を経て豊前中津に滞留すること80日、ついで5回目の九州山脈横断を敢行して、日田に再来、幕府の九州総監たる日田代官の不審をこうむって放逐され、宿主は手鎖の刑に遭う。これ以降彦九郎は身の危急を感じたものか。
 5月3日に始まるこの日記は自刃前日までの50日余にわたる彦九郎最後の日記で、記事は簡略、病苦の懊悩の中に、久留米を中心に筑前・筑後の間を何度も往来し、最後に会えた薩摩の盟友
赤崎禎幹に永別の和歌を遺し、あたかも死所を選ぶように、久留米森嘉膳宅に投宿する。筆致難読、読歌は悲痛寓意的で、容易に真相をつかませるものではないが、他の諸文献や尊号事件の結末とあわせ考えると真に示唆に富むものである。
原本(矢嶋行康コレクション)及び写本(矢嶋行康編「玉能御声」巻43)は当館に寄託。


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