■高山彦九郎記念館データファイルNo.10

 『高山彦九郎日記』を読むに当たっての用語集です。複数の意味がある場合は「日記」で使用される用例を中心に記述しました。本表は制作途上にあり、随時改訂増補する計画です。

 なお、『高山彦九郎日記』に略称で現れることの多い親族名については、別項、高山九郎記念館データファイル№3「高山彦九郎親族一覧表」をご覧ください。


◆「高山彦九郎日記」用語集


用語 よみ 意   味 日記での用例
白馬の節会 あおうまのせちえ  奈良時代から続いた朝廷での年中行事の一つ。正月七日、左右馬寮から白馬を内裏の正殿である紫宸殿の南庭に引き出し、天皇が御覧になり、その後、宴を催した。
 正月七日に青馬を見ると1年の邪気を祓うという中国の故事により、はじめ青毛( 灰色がかった毛並み)の馬を引いたが、醍醐天皇のころから、白馬に変わったという。以後、「白馬」と書くが、読みは「あおうま」と読む慣習が続いた。

 
彦九郎は天明3年(1783)と寛政3年(1791)に拝観している。

 天明3年(1783)1月7日の「天明京都日記」によれば、「麻上下を脱ぎて雑色の服に改む、(略)、烏帽子をきせ下けくくり迄懇ろに手づから取り上げ是にてよろしなど教へ示めし、(略)、白馬御節会雨の故に月花門の辺にて行はる、白馬二つ渡されける」とある。 

 寛政3年(1791)1月7日の「寛政京都日記」によれば、「狩衣を着くして朱の唐櫃に従ふて日の御門を入る、(略)、夜半に及んで白馬御節会済む」とある。

今別石 いまべついし  青森県東津軽郡今別町で産出した石。

 江戸時代、津軽地方では瑪瑙や碧玉を「津軽玉」あるいは産地の名称をとって「今別石」と称してしていたという。

 
彦九郎の日記では、右記の記事以降、「津軽石」と書かれており、奥州から京都への帰路、津軽石と久慈の琥珀を逗留の謝礼として宿主に渡している。また、京都へのみやげとしている。

 寛政2年(1790)8月2日の「北行日記」によれば、「浜を経て今別石を拾ふ」とある。
あざな  もと中国の習慣で、二十歳の男子または許嫁した女子が実名(本名)の他に称した名。江戸時代には僧侶・儒者・文人が称した。

 彦九郎の字は「仲縄」
夷酋列像 いしゅうれつぞう  寛政元年(1789)にクナシリ(国後)・メナシ(目梨)地方のアイヌが、和人の過酷な搾取に対し反乱を起こしたクナシリ・メナシの戦いに際して、松前藩に協力し鎮定に功績のあった十二人のアイヌの長老たちの肖像画を、藩主の命により、同藩家老で画家の蛎崎波響が描いたもの。
 波響はこの絵を持って京にのぼり、高山彦九郎や佐々木備後守の仲介により、光格天皇の叡覧に供している。


 寛政3年(1791)2月13日の「寛政京都日記」によれば、「蝦夷共十二人来りけるに皆な豪傑に見へ鼻の上に毛の生ひたるが壱人有り、是れは世々其類なるよし、十二人の者共を画図に載せぬるよし序文を見す」とある。
 3月14日には、「田中左大夫布舟(田中布舟松岡山季坊青蘿(松岡青羅)へ酒壱升を寄す、蝦夷絵見まかほしかりける故三人を伴いて蛎崎広年(蠣崎波響)へ告げ生簀(いけす)へ入りて食し酌みつ酔ひ(に)及びて広年所へ入りて蝦夷絵を見す」とある。
 5月29日には、「岩倉家へ帰へりて人を具し広年所(蠣崎波響)へ至り蝦夷絵十二枚を借り岩倉家(岩倉具選)伏原家(伏原宣條)平松家(平松時章)へ見せ参らす」とある。
 

隠宅 いんたく  隠居した人の家の意。

 
彦九郎日記では、高山家のこと。彦九郎の祖父蓮沼伝左衛門貞正は家督を異母弟蓮沼伊右衛門政重(のち石井相馬)に譲り、母方の姓である高山を名乗り本宅の東に隠居分家したことからいう。

 

御室桜 おむろざくら  京都市左京区御室の仁和寺(真言宗御室派総本山)境内、中門内西側にある遅咲きの桜。国指定名勝。
 江戸時代から桜の名所として知られ、現在はサトザクラを中心に10数種類・約200本の桜がある。 樹高が2~3mと低く、粘土質の地盤の影響とされる。
 4月20日頃満開になり、京都の春の最後を彩る遅咲きの桜として知られる。


 寛政3年3月21日(西暦1791年4月23日)の「天明京都日記」によれば、彦九郎は西山拙斎に誘われ、大川良平(赤松滄洲)若槻源三郎(幾斎)中山元倫・小田孝作・大愚(慈延)らと伴に、山崎闇斎宅跡・妙心寺を経て、御室に桜を見に行き、帰りに蛎崎波響らが加わり茶屋で酒を酌み交わしている。
 御室では「双岡を左に見て北へ御室へ至る人群聚す、宮の御殿を拝見す、花を見て先づ大愚(慈延)よめる、
 
是れも又都の錦立まぢり袂をちちの花の下かけ
 西山拙斎よめりけるは、
 
唐錦たたまくをしと都人花の袂を花にかわして
となん、予よめる、             正之
歌 
花や人ひとや花共見へ分かぬ都の春は錦なりけり
皆な花とにぎわひをよめるのなり」とある。

 大和朝廷の時代に成立した律令制度に基づく官制で、官職を長官・次官・判官・主典の四等級に分けたが、この中で国司の長官のこと(次官は)。

 また、省・職・寮・司・衛府の長官にはそれぞれ、卿・大夫・頭・正・督の文字を当てたが、すべて「かみ」と読んだ。ただし、あてられた漢字をそのまま音読みする場合もある。

 制度が形骸化した後も、武士・公家・神主などに与えられる称として江戸時代まで続いた。

 「松平豊後守(島津斉宣)」「脇坂淡路守(安董)」「阿蘇伊予守惟馨」や「高橋釆女正宗孝」「高松刑部大夫」「榊原式部大夫」「錦小路中務大輔(頼尚)」など。

 「まつだいらぶんごのかみ」というように読む。

川の青のり かわのあおのり  カワノリのこと。アオサ目カワノリ科の淡水緑藻類で、関東以西、太平洋側の特定河川の渓流部に分布する。栃木の大谷川苔(日光苔)、山梨の桂川苔、静岡の富士川苔(芝川苔)、熊本の菊池川苔などが知られている。
 食用となるが、産出量が少なく、古くから貴重品とされた。
 群馬県内では桐生川水系(忍山川・高澤川)・鏑川水系(青倉川)・神流川水系で確認されている。
 
 忍山(おしやま)は桐生市梅田町4丁目の桐生川右岸にある谷間の集落。桐生川の支流である忍山川が流れる。忍山には室町・江戸・明治~昭和(戦後)まで温泉(鉱泉)があり、湯治客で栄えた。

 高澤は忍山から峰をひとつ越えた集落で同じく桐生川支流(忍山川よりひとつ下流)の高澤川が流れる。


 
 安永4年(1775)8月13日の「忍山湯旅の記」によれば、「此所(忍山)川の青のり有り、高澤よりもか(出)るといふ、壹枚四五十銅或い高直(値)の時は百銅程といふ」

 
紀州へ至りし蠻船 きしゅうへいたりしばんせん  寛政3年(1791)3月26日から4月6日の間、ボストン船籍のレイディ・ワシントン号(ジョン・ケンドリック船長)とニューヨーク船籍のグレイス号(ダグラス船長)の2隻のアメリカ商船が中国広東での毛皮(北米産)交易の帰路、紀州南端の紀伊大島樫野埼(和歌山県東牟礼郡串本町樫野)に来航・上陸した。
 米国側の記録によれば、「漂着」を装い、中国で不調だった毛皮交易を同地でも目指したが、これに失敗、米国では、公文書に記録された初めての日米間の接触とされ、広く知られている。
 一方、日本側の記録によれば、本件は「漂着」であり、米国との公式な接触記録はペリー来航まで待つこととなる。


 彦九郎の記録は伝聞ということもあり、上記の内容と微妙に異なる。


 『高山彦九郎日記』第4巻の冒頭の第三図版、「京都日記」本文として、4月24日付けの日記原本の写真が掲載されているが、キャプションは「(ロシア船来航の聞き書)」とある。

 寛政3年(1791)4月16日の「寛政京都日記」によれば、「聖護院村へ暮れに及んで至る、(略)、若槻敬(若槻幾斎)へ二両返弁す、西山拙斎も居りて深更に至る迄語る、紀州へ異国船至りて鉄砲を放ちなとして人を寄せ付けぬのよし魯齋亜の船なるべしといふ」とある。

 4月18日には「大村氏(大村彦太郎)へ寄る竹山(中井竹山)酌みて居る、(略)、紀州へ変(蠻)船二艘至りて鉄砲を打ち懸けなどしけるによりて竹山(中井竹山)門人の家紀州和歌山城下なる質屋なれば諸士の具足武具武具(衍)の類い請戻しに来りて閙(さわが)しと文にて大坂へ申越したるよし」とある。

 4月20日には、「大村所(大村彦太郎)へ入る、(略)、紀州へ来りたる蠻船三千石船なる三艘に五百石船程なる五六十艘にて百姓も人夫も遣わるるが故に旅行もならぬよし」とある。

 4月22日には、「(岩倉家に)北小路弾正少弼殿(北小路祥光)入らるる、紀州へ至りし蠻船当月朔日頃二艘先づ着き紀州の士を以て尋ぬるに清よりひかつ国へとて出でたる船漂流のよし答ふ、其後多ふく船見へ互に火炮を飛ばすのよし語らる、みねの方柳原家より帰へりて語るに蠻船の故に 天朝御祈禱を命せられけるとぞ語る、平松家より士人来りて蠻船の事を尋ぬる」とある。

 4月24日には、「岩倉家(岩倉具選)へ帰へりて宿す、(略)、紀に来りし蠻船三千石と思しき三艘五百石船と覚しき五六十艘皆な退きしよし沙汰有り、当月初めの事にて初め二艘なる時に紀州より物頭類を以て尋ね有りしに清国よりひかつ国への通船の漂流と偽はり書したりつるより段々船多ふく見へ双方より炮を飛したりつる、船中の人多ふく阿蘭陀装束に見へし魯齋亜なるべしといふ」とある。
 

 なお、寛政3年(1791)3月11日の「寛政京都日記」によれば、「松本才次郎(松本愚山)所へ寄りて語る、一昨年異船の紀州に着し事を語る、船の主は円頂、妻と覚しきも乗れるよし」とある。
 また、6月21日には、「頃日土佐国へ魯斉亜船着きたるよし風説す」とある。


肝入 きもいり  江戸時代、郡代・代官などの支配を受け、一村内の民生をつかさどった役人。村長。身分は百姓。

 主に北陸・東北での称(関東では名主、畿内・西国では庄屋という)。

 


玉芙蓉 ぎょくふよう
くっちえ くっちえ  南部地方(青森県南東部・岩手県北東部)の方言で、カラムシ(赤麻)のこと。茎から繊維を取り、縄文時代から近代まで衣服の材料とした。

 寛政2年(1790)9月14日の「北行日記」によれば、「今夜寝るにくつちゑなる草をあみたるものをきる」とある。
狭の細布・けふの細 きょうのほそぬの  「狭布の細布」。古代、陸奥国から調進された、幅の狭い麻布。伝承によると、鳥の羽を混ぜて織ったという。
 「きょうのさぬの」「きょうのせばぬの」ともいい、「希婦の細布」とも書く。
 和歌に「狭布の細布」と詠まれ、幅が狭く不足するところから、「胸合はず」「逢はず」などの序詞(じょことば)に用いる。
 室町時代初期の能作者世阿弥の作とされる謡曲「錦木」は、錦木の伝説と、狭布の伝説を基に構成したいわれている。
 なお、「けふ」は本来「毛布」であり、「きょう」と読んだり、「狭」の文字を宛てたりするのは誤りとの説がある。
 寛政2年(1790)9月26日の「北行日記」によれば、彦九郎は、歌枕の地として知られた「錦木塚」を訪ね、「狭の細布」を織る吉川村黒沢兵之丞宅を訪ねた折、一度は断られた宿りを「けふの細布」の和歌を詠み許され、錦木塚の由来や細布のことを詳しく聞いている。
 
 9月26日には、「(黒沢兵之丞は)是れ錦木塚の古人といへるもの也、細布も此の妻斎みして織る、順見衆(巡検使)へも三反出だし金三百疋を得る」「予袴にて綿布を乞うふ、 今上皇帝へ綿布を奉る事を進めけるに大いによろこびて諾しける」とあり、9月27日には、「狭の細布を受く、幅六寸有余長さ三尺也、予袴の礼服す、寄する所の一方を帰へし慰斗のみを受く」とある。

 寛政2年(1790)12月2日の「寛政京都日記」によれば、「平松時章卿へ入るに□(悦
)び対せらる、けふの細布を(得)たる事を申す」とある。

月知梅 げっちばい  月知梅は、宮崎県宮崎市高岡町高浜(旧東諸県高岡町)にある臥龍梅という種類の梅。国指定天然記念物。
 今から約200年前(安永・天明年間)までは一株だったが、その後、枝が伏して根を張り、四方に繁殖したといわれ現在では約70株になってる。

 寛政4年(1792)6月28日の「筑紫日記」によれば、「(高岡)町より巳の方八丁斗り梅樹山匂積寺禅院の中庭に月知梅名木也、本木は枯れて跡のみ中央に有り枝撓(たわ)んで根をなす東に四株西に二株太きは凡そ六尺枝葉丸くはびこりて凡そ十間六株の余枝たわんで根をなす多ふし、うつほなるつかを立れば内に入て根をなす奇也、薩の太守初め知月梅となづけたりけるに枯れになんなんたり後改めて月知梅とせしかば枝葉盛んになりしとぞ高浜村の内也、住持茶を煎んじもてなす梅と花を出だしける、山田司の詩作を懸けたり爰に載す」とあり、漢詩を記している。

検校 けんぎょう 1.盲人の最高級の官名
2.社寺の総務を監督する役職

 「塙検校(塙保己一)」 「安永検校」                
顕考 けんこう  亡父=高山彦八正教・21日が命日

 「顕考を拝す」
顕祖考 けんそこう  亡祖父=高山(蓮沼)伝左衛門貞正・22日が命日

 「顕祖考を拝奉る」
顕祖妣 けんそひ  亡祖母=高山(大槻)りん・24日が命日

 「顕祖妣を拝奉る」
検断 けんだん  番所・大庄屋

 宿場に置かれ、伝馬・人足をはじめ、宿駅関係の一切の仕事を取り締まり、統括する役所。


 寛政2年(1790)9月10日~10月19日の「北行日記」によれぱ、「検断○○方へ着て□□所に宿す」等とある。
顕妣 けんひ  亡母=高山(剱持)繁(しげ)・17日が命日

 「顕妣を拝す」
恋塚寺浄禅寺と恋塚寺   こいづかじょうぜんじとこいづかでら     伝説によれば、平安時代の末期、北面の武士遠藤盛遠が、渡辺渡の妻、袈裟御前に横恋慕し、貞節を守るため夫の身代わりとなった袈裟を誤って殺してしまった。
 盛遠は己の非道を深く恥じ、直ちに出家して文覚と名乗り、袈裟の菩提を弔うため墓を設け、一宇を建立したのが、恋塚寺の起りといわれている。 


 寛政3年(1791)7月11日の「寛政京都日記」によれば、彦九郎は亡くなった高芙蓉の足跡を訪ねて、上鳥羽と下鳥羽にある二つの恋塚寺を訪ねている。
 「芙蓉(高芙蓉)の跡を訪ねんとて、(略)、上鳥羽左リ恋塚浄禅寺袈裟が墓下鳥羽にて恋塚寺とて墓碑有り安永の文也ける、(略)、芙蓉行軒源子訓書なる額を見てよめる」とあり、和歌を詠んでいる。

琴弾松 ことひきのまつ  宮崎県児湯郡高鍋町にあった松。
 平安時代中ごろ、日向の国司であった源重之(三十六歌仙のひとり)が当時海岸にあった老松を「
しら浪のよりくる糸ををにすげて風にしらぶることひきの松」と詠み、その景勝を称えたという。

 寛政4年(1792)閏2月13日の「筑紫日記」によれば、「酌みて高鍋を立つ、中鶴村 を過ぎて琴弾松を見る二囲余石碑立つ」とあり、「佐倉渋井孝徳(渋井太室)撰」による源重之の歌碑を見て、和歌を詠んでいる。

琥珀 こはく  琥珀は数千万年~数億年前の樹木の樹脂が地中に埋もれ化石化したもの。古くから装飾品や薬として使用された。
 
 久慈の琥珀はナンヨウスギの樹脂の化石。

 
彦九郎は岩手県久慈市小久慈の琥珀鉱山を訪ねており、奥州から京都への帰路、今別の津軽石と久慈の琥珀を逗留の謝礼として宿主に渡している。また、京都へのみやげとしている。

 寛政2年(1790)9月15日~9月20日の「北行日記」によれば、彦九郎は久慈に6日間滞在し(この間野田の玉川に1泊)、琥珀職人や琥珀鉱山を見学している。彦九郎は琥珀をもらった喜びを和歌に詠じている。「山深くわけ入りてこそ光ある玉の有りども知らるるものを」とある。
 
 10月22日には、「子平友直(林子平)に
(衍カ)他出より帰へる、津軽石琥珀を土産とす」とある。
さるをかせ さるおがせ(猿尾枷・猿麻桛)  サルオガセ科サルオガセ属の地衣類の総称。
 霧のかかる冷涼な山地の針葉樹などの、樹皮や枝先に絡みつき、長く垂れ下がる。色は淡緑色で、とろろ昆布に似て、細かく枝分かれし、互いに絡みあって群生する。長さは0.2~1m。
 漢方では乾燥したものを松羅と呼んで利尿剤にした。  

 天明2年(1782)4月8日の「沢入道能記」によれば、「さるをかせ多く木梢にあり源太郎なるもの木のぼりしてとりてよせたり、銭を与えんとせしに逃て受ず山中の人の質朴里人の及ぶ所にあらず、十丈の岸壁上に生ひたりし木なれば危きこといはん方なしこれにのぼり労とせず狎(な)れたること猿猴の如し」とある。
座論梅 ざろんばい  宮崎県児湯郡新富町新田湯之宮にある国指定天然記念物の梅の木。「湯之宮座論梅」といわれる。
 もとは一株だった梅の元株が横に伸び、地について新しい根を出し、次々と繁殖したもの。現在では80株を超える梅林をなしている。樹齢は600年。

 「座論梅」という名の由来は、佐土原藩と高鍋藩とが梅林所有争いを起こし、梅の木の下で座って議論したから座論梅になったとする説と、「ザロミ」という梅の種類から付いたとする説がある。
 彦九郎の日記の記述「砂土原領城主も見らるるよし」は、薩摩藩支藩の佐土原藩(当時の藩主は島津久柄)との関係を背景にしたものか。
 現在、彦九郎が詠んだ和歌を刻む歌碑が建立されている。


 寛政4年(1792)7月4日の「筑紫日記」によれば、「大塚太一郎静(大塚観瀾)僕を馳せて書を寄す約の如く座論梅を尋ね辰平も従へり、(略)、座論梅を見る始め元木は失せて枝葉はひこりて地につき十余に分る、叢の中に有り凡そ十間四方の内十余株になりぬ、砂土原領城主も見らるるよし」とあり、「寉山大塚静(大塚観瀾)」が詠じた漢詩と彦九郎が詠んだ和歌 「言書座論梅を尋ねて くさむらをここやかしこと文月に梅の匂ひを尋来にけり」を記している。

 

舎利石 しゃりいし  青森県東津軽郡今別町一本木の袰月海岸(舎利浜)で産出した玉髄。

 
 寛政2年(1790)8月2日の「北行日記」によれば、「母衣月ホロヅキ家十四五軒人家を出で三四丁の間の浜を舎利浜と号す行人舎利石を拾ふて土産とす」とある。
 
 8月6日には、「一本木山崎大泊を経て母衣月を過ぐ、狗潜を潜り石共いふ、高野ノ鼻海中黒き大岩有り舎利の親石と称し此岩に小く舎利石付きて有るを波に打たれて舎利浜に流れ寄るといふ」とある。

十七屋 じゅうしちや  飛脚のこと。

 陰暦の十七夜を「立ち待ち月」というが、たちまち着くのシャレで、飛脚屋のことをいう。


 安永7年(1778)6月23日の「戊戌季春記事によれば、「小日向石川隼太より十七屋飛脚に附けて翰有り太田より今日届く」

 安永9年(1780)7月15日の「冨士山紀行」によれば、「十七屋に書状渡すべしという云」

庄屋 しょうや  江戸時代、郡代・代官などの支配を受け、一村内の民生をつかさどった役人。村長。身分は百姓。

 主に畿内・西国での称(関東では名主、北陸・東北では肝煎という)。複数の庄屋を束ねる大庄屋がいた地域もある。

 ただし、「北行日記」にも見える。

神主 しんしゅ  儒教の葬礼・先祖祭祀で死者の姓名や位階を書いた木製の板。木主ともいう。
 仏教で用いられる位牌の起源とされる。

 彦九郎は神田鍛冶町二丁目(千代田区鍛冶町)住の上州屋勘右衛門宅に祖父・祖母の神主を預けており、たびたび奠拝(てんぱい)に訪れている。
 (上州屋勘右衛門は寛政元年(1789)10月3日から寛政2年(1790)6月5日までのの「寛政江戸日記」に32日現れる)

 
 安永4年(1775)2月23日の「乙未の春旅」によれば、「礼服して藤樹(中江藤樹)の書院を見る、(略)、藤樹の神主を開きみせぬ、拝す」とある。
 
 安永4年(1775)7月8日の「利根路の秋旅」によれば、
「夕方に細谷の宅を出るとて先ず氏神を拝し神主を拝して」とある。

 


すけ  大和朝廷の時代に成立した律令制度に基づく官制で、官職を長官・次官・判官・主典の四等級に分けたが、この中で国司の次官のこと(長官は)。

 また、省・弾正台・職・寮・衛府の次官にはそれぞれ、大輔/小輔・弼・亮・助・佐の文字を当てたが、すべて「すけ」と読んだ。ただし、あてられた漢字をそのまま音読みする場合もある。

 制度が形骸化した後も、武士・公家・神官などに与えられる称として江戸時代まで続いた。

唐崎常陸介」・「橘石見介(橘南谿」や「樋口弾正台弼」など

 「からさきひたちのすけ」というように読む。

末の松山の貝 すえのまつやまのかい  「末の松山」は歌枕の地のひとつ。比定地は諸説あるが、宮城県多賀城市八幡の宝国寺裏の丘と岩手県二戸郡一戸町の浪打峠が知られている。

 
彦九郎が訪ねた浪打峠は、一戸町と二戸市との境にある旧奥州街道の峠で、国指定の天然記念物「浪打峠の交叉層」がある。交叉層は「斜交葉理」(クロスラミナ)と呼ばれ、砂や土が流れのある海底に堆積してできた斜めの縞模様の地層。浪打峠のこの地層は末の松山層と呼ばれ、粗い砂岩で、中にはホタテ貝などの化石の砕屑物が層になって点在しており、美しい縞模様となっている。

 彦九郎は浪打峠で採取した貝の化石を奥州みやげとしている。

 なお、彦九郎は塩竈からの帰途、多賀城の「末の松山」にも立ち寄っている。

 寛政2年9月22日「北行日記」によれば、「末の松山一見せんとて町を北へ出で、(略)左右の山松有り、艮に向ふて上り乾に下る、是れを波打坂(浪打峠)と号す、即ち末の松山名所也、頂上に左右薄白き岩有り、左の岩二十間斗也高さ壱丈四五尺柔らかなる岩にて貝がら多ふく付て有り予爪を立てて取りぬ 十月にはかならず帰府致すべしと人々に約せし事を思ふて読める 正之 歌 秋過て冬は帰ると夕時雨月なみこさし末の松山 となん」とある。
 
 10月29日には、「八丁斗南に行きて右に野田の玉川猶を南に行き右に紅葉山左に思はくの橋末の松山、右に末松山と号せる寺即ち是れ也今は墓地となる、沖の石も右に有り七八間四方也、廻りに池有り仙台侯の昔し沖ノ井と号せられしを後人沖ノ石といへるよし」とある。

内裏嶋の白砂 だいりじまのしらすな  内裏嶋(内裡島)は奥州松島湾内浜田澪の湾口(竈の淵を隔てた塩竈市新浜3丁目地先)にある島の名。

 
彦九郎は塩竈神社藤塚知明からもらった「籬が嶋の梅の花貝」と「内裏嶋の白砂」を京都への奥州みやげとしている。

 寛政2年(1790)10月2日の「北行日記」によれば、「知明(藤塚知明)嶋の梅の花貝および内裏嶋の砂を寄す、歌有り 言書 平仲縄みちのくに名だたる所見にとて此浦をわたり葉侍る別に陰梅の花かいを贈とて 知明 隔つともまがき嶋と言のはににほひを添よ梅の花貝 となん、予もまたよめり 正之 隔りしマガキが嶋の言の葉も先咲梅の千賀の塩竈 とぞ」とある。

津軽石 つがるいし  江戸時代、津軽地方では瑪瑙や碧玉を「津軽玉」あるいは産地の名称をとって「今別石」と称してしていたという。

 寛政2年(1790)10月22日の「北行日記」によれば、「子平友直(林子平)に(衍カ)他出より帰へる、津軽石琥珀を土産とす」とある。

問屋 といや・とんや  近世の宿駅において、伝馬・商荷の継ぎ立や御用通行の宿泊の差配など宿駅業務を、年寄の補佐のもとで帳付・人馬指を指揮して行う宿役人の長。

 寛政2年(1790)7月11日~25日・8月21日~23「北行日記」によれば、「問屋○○へ着て□□所に宿す」等とある。

踏歌節会 とうかのせちえ  踏歌とは万歳楽・延喜楽・催馬楽などの祝歌を歌いながら、足で地を踏み拍子をとる舞の儀式。 紫宸殿で天皇が踏歌を観た後、公家と宴を催す正月の宮中行事のひとつ。
 歌曲が一つ終わるごとに、「万年阿良礼(よろずよあられ)」と唱えたので、「あらればしり」の節会とも呼ばれた
 古くは正月14日に男踏歌、16日に女踏歌が行われたが、平安中期以降女踏歌のみとなった。

 
彦九郎は日記によれば、天明3年(1783)と寛政3年(1791)に拝観している。

 天明3年(1783)1月16日の「天明京都日記」によれば、「今夜をあらればしり踏歌の御節会と申し奉る」とある。
 
 寛政3年(1791)1月16日の「寛政京都日記」によれば、「雨儀
(ママ)踏歌ノ節会大礼も略し玉ふとぞ拝見す」とある。

同心 どうしん  徳川幕府の奉行所・所司代などの配下に属し、与力(よりき)の下で、庶務・警察のことをつかさどった下級の役人。
名主 なぬし  江戸時代、郡代・代官などの支配を受け、民生をつかさどった役人。村長。身分は百姓。主に関東での称(北陸・東北では肝煎、畿内・西国では庄屋という)。

 関東では一つの村を複数の旗本などの領主が知行する相給(あいきゅう)が多く、名主も複数いた。高山家や本家である蓮沼家は6給(5人の旗本と1人の大名)の相給地であった細谷村の一部を知行する旗本筒井家の名主を務めていた。

南鐐 なんりょう  江戸時代の貨幣で、2朱判銀

西宅 にしたく  高山家の本家である蓮沼家のこと。高山専蔵正晴・高山彦九郎兄弟の住む隠宅の西側にあることからいう。

野田の玉川 のだのたまがわ  「陸奥の野田の玉川」は歌枕の地のひとつ。
 比定地は諸説あるが、岩手県九戸郡野田村、宮城県多賀城・塩竈市境、福島県いわき市小名浜が知られている。これらの
比定地については、古くから論争があったが、松尾芭蕉が塩竈・多賀城(宮城県塩竈市・多賀城市)間を流れる野田の玉川を歌枕の地としたことから、同地が有力となった。

 寛政2年(1790)9月16日の「北行日記」によれば、彦九郎は久慈から玉川村(岩手県九戸郡野田村)へ南下し、「東に海を見て右に山の鼻巖石にて其所へ玉川流る、是れも新古今に能因の歌を載せて 夕されば汐風こして陸奥の野田の玉川千鳥鳴く也 とあるは爰(ここ)也」とある。
 
 10月29日の「北行日記」によれば、彦九郎は塩竈から仙台に戻る途中、「野田の玉川」「紅葉山」「思はくの橋」「末の松山」「沖の石」にも立ち寄っており、両説に触れていることがわかる。


馬尺 ばしゃく 《調査中》  「乙未の春旅」「北行日記」の各所に、「○里の馬尺也」とある。

ふもと  薩摩藩における士族(郷士)の居住域。

別当 べっとう  神宮寺(神仏習合説に基づいて神社に設けられた寺院)を支配する検校(けんぎょう)に次ぐ位の僧職。

弁指 べんさし 1.九州西海岸で網元・漁労長
2.大分・宮崎で庄屋の補佐


 寛政4年(1792)閏2月17日の「筑紫日記」によれば、「(山下ヤマゲ)平太郎母の姉すが弟は佐兵衛当村のべんさし也とぞ」とある。

棒組 ぼうぐみ  仲間

籬が嶋の梅の花貝 まがきがしまのうめのはながい  籬が嶋(籬島)は奥州松島湾内、塩竈港内(宮城県塩竈市新浜1丁目)にある島の名。曲木島とも。歌枕のひとつ。
 
 ウメノハナガイは小型の二枚貝で、形が梅の花を連想させる。歌仙貝のひとつ。

 
彦九郎は塩竈神社藤塚知明から贈られた「梅の花貝」と「内裏嶋の白砂」を京都への奥州みやげとしている。


 寛政2年(1790)10月2日の「北行日記」によれば、「知明(藤塚知明)籬が嶋の梅の花貝および内裏嶋の砂を寄す、歌有り 言書 平仲縄みちのくに名だたる所見にとて此浦をわたり葉侍る別に陰梅の花かいを贈とて 知明 隔つとも籬嶋と言のはににほひを添よ梅の花貝 となん、予もまたよめり 正之 隔りし籬が嶋の言の葉も先咲梅の千賀の塩竈 とぞ」とある。

目明し めあかし  江戸時代、奉行所など公的な警察機関のもとで、その手先となって探索を助け、時には吟味の一端を担った者。犯罪者の動静に詳しい者が任命され、やくざと二足のわらじをはいたものも多くいた。江戸の町奉行所を始めとする警察機関のほか、私領にも置かれた。

 寛政2年(1790)9月11日の「北行日記」によれば、「検断に着て目明し重次郎所に宿る」とある。
 
 9月12日には、「検断所の案内にて目明又五郎に宿す」とある。
 
 9月15日には、「庄屋孫太夫方に着て目明甚(勘)助所に宿る」とある。
役前 (主に仙台藩領の)宿場町において、伝馬や宿駅業務を処理した事務所のこと。役前所ともいう  寛政2年(1790)10月19日(三本木駅)~11月7日(比和田駅:日和田駅)の「北行日記」によれば、「役前へ懸りて(付きて・着きて)○○所に宿す」等とある。


与力 よりき  徳川幕府の奉行所・所司代などの配下に属し、同心などを指揮し、庶務・警察のことをつかさどった役人。

緑毛亀 りょくもうき  蓑亀(みのがめ)とも言い、亀の甲羅に緑の藻が付着したもの。
 蓑亀は古来から吉兆の証とされ、中国では「緑藻亀」「緑毛亀」と呼ばれ、霊亀、神亀、福亀としてあがめられた。蓑亀は千歳飴の袋、根付や絵皿など、さまざまな意匠に使われており、長寿の吉祥文様とされる。


 志水南涯から、その縁者が2・3日前に琵琶湖で発見した緑毛亀が届いたとの手紙をもらい赴いたところ、「小児疱瘡まじない」のためとして、人々が群がっていた。
 彦九郎は志水南涯とともに、この緑毛亀を友人・堂上に見せている。
 彦九郎は、若槻幾斎のところで『淵鑑類函(えんかんるいかん・中国清で編纂された百科全書的な書物)』の亀部を見せてもらい、「亀有毛者文治之兆緑毛黄甲皆な祥瑞」を写している。

 のち、岩倉具選の仲介により、仙洞御所、次いで御所にも持参することになる。亀は仙洞御所の池に放たれることとなるが、この間、彦九郎は、多くの人々に、緑毛亀を「神亀」「文治之兆」として見せ、文治政治が近いことを訴えた。
 彦九郎は九州行にあたり、「緑毛亀」の刷物500枚を持参した。

 寛政3年(1791)3月16日の「寛政京都日記」によれば、「志水南涯より書を寄せて江州高嶋郡地内村中川六左衛門なる縁家の所より湖中より得たりし緑毛亀を送り越したるのよし告げ来る、至り見るに甲長さ金尺二寸七分横壱寸九分にてぞ有ける二三日以前に得たるよし也、小児疱瘡まじないの為めとて亀と盃せしめんとて群聚ス」とある。

(例幣)
日光例幣使
れいへい  日光例幣使は日光東照宮の大祭(4月15日~17日)に際し、幣帛(神前の供え物)を供するため、例年京都の朝廷から派遣された奉幣使のこと。奉幣使には参議級の中級公家が当たり、随員は50~60人で、公卿・宮・門跡が加わる場合があった。
 この奉幣使が通る道が「
日光例幣使道」で、彦九郎の家の北約1.6kmの由良村(太田市由良町)を通っていた(木崎宿―太田宿間)。
 なお、「例幣使街道」は明治以降の通称である。


 安永7年(1775)4月12日の「戊戌季春記事」によれば、「12日、天気吉、今日政徳孫十郎綱等を具し公家衆御通りを拝に由良村に出て(略)、今日のれいへい(例幣) 勅使は東園宰相中将公(東園基辰)、先きはらひは新庄上総介なる方也とぞ」とある。

 寛政3年(1791)3月25日の「寛政京都日記」によれば、「時に明廿六日千草殿(千種有政)幣使(日光例幣使)発足今晩より明日廿六日巳の刻迄神事有之候の由御触有り」とある。

六十六部 ろくじゅうろくぶ  行脚僧・石仏を建てる人。「六部」とも。



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