■高山彦九郎記念館データファイルNo.9

 高山彦九郎記念館第2回企画展「『寛政の三奇人(士)』の系譜展」(平成11年(1999)3月2日〜3月31日)解説リーフレットから構成(一部加筆・訂正)したものです。


◆『寛政の三奇人(士)』の系譜

 「奇人」とは、いままでの常識にこだわらない発想や考えをもった人を指す。やがて「奇」は、時代を動かす原動力となった。

年 号

西 暦 月 日

人が記述された評伝等(史料)

関連する主なできごと
元文 3年 1738 6月21日 林子平、江戸小石川に生れる。  
延享 4年 1747 5月8日 高山彦九郎生れる。  
明和 5年 1768 不 詳 蒲生君平、下野宇都宮に生れる。  
寛政 2年 1790 5月   幕府異学を禁ず(寛政異学の禁)。
秋8月   伴蒿蹊『近世畸人伝』を著す。
10月 高山彦九郎、仙台の林子平を訪ねる(『北行日記』)。  
  蒲生君平、仙台の林子平を訪問。のち福島湯本温泉で面会。(小宮山楓軒『蓬山記文』)  
寛政 4年 1792 9月   ロシア使節ラクスマン、大黒屋幸太夫を護送し根室に来航、通商を求める。
11月   尊号一件事件。
寛政 5年 1793 6月21日 林子平、幽禁中に病没。仙台龍雲院に葬られる。56歳。  
6月27日       高山彦九郎、筑後久留米で自刃する(翌28日没・11月11日寺町遍照院に葬られる)。47歳。  
寛政10年 1798 正月   伴蒿蹊『続近世畸人伝』を著す。
文化10年 1813 7月5日      蒲生君平、江戸神田石町で病死。谷中坂下の臨江寺に葬られる。46歳。  
12月 水戸藩の小宮山楓軒『懐寶日礼』の中で、高山彦九郎の説話が記述される「駿台雑和」を評術する。別項で蒲生君平を評する。
文化12年  1815 12月1日 陸奥国水沢藩高野玄斎「寛政三奇士」画像を描く。林子平は正面、高山・蒲生は側面像。  
文政 元年 1818 8月 水戸藩史局総裁杉山忠亮の「高山彦九郎伝」と史局員藤田幽谷の「蒲生君平伝」の2項立てで、『高山正之伝蒲生秀實墓表』全として版行する。  
文政 8年 1825 2月   幕府、異国船打払令を指令。
文政 9年 1826   12月に没した藤田幽谷の墓に墓碑が建てられる。その碑文中に幽谷と交遊した人物として高山正之・蒲生秀實が併称される。文中には、「…賢豪奇傑之士交游…」とある。  
天保 元年   1月   水戸藩、藩政改革に着手。
天保 7年   5月   徳川斉昭、水戸に砲台築造。
天保 9年   8月   徳川斉昭、内憂外患についての意見書提出。
天保13年 1842 3月 林子平50年忌辰として斎藤竹堂『詩以祭之』を著す。林子平を評し「吾奥奇士林子平」と表現する。上野、下野の奇士とは別に奥州の奇士として強調している。これに類した表現に、大槻盤渓の「林子平吾藩一奇士也」がある。

*森銑三『伝記』9巻6号「寛政の三奇人の称呼」の中で、(遠江国)掛川の若林貞明は(上野国)伊勢崎を訪れ儒者荒井固一から坂東の三奇人の話を聞き、文久元年に『三奇士口碑』を著したと記している。そして『三奇士口碑』中には林子平が天保13年に罪が許されていたということが記されていたという。このことから、森氏は『三奇士口碑』の成立は天保13年以降であり天保の末頃とするのが時代状況からして妥当だと推定している。しかし、この『三奇士口碑』が実見できていない。
 この年は高山彦九郎の50年忌にあたり、天保学の中で三人に対する評価が一段と高まったと考えられ、三人を「寛政三奇士(人)」と称していたと思われる。
 
嘉永 元年 1848 2月   水戸藩、『大日本史紀伝』173巻、朝廷・幕府へ献上。
7月   ロシアのプチャーチン長崎来航。
8月   オランダ風説書、アメリカ艦来航を予想。
嘉永 4年 1851   塩谷宕陰『高山正之伝』を著す。「若二毛之野、(中略)名為毛野、而当天明寛政之間、出若高山正之、若蒲生秀実輩」とあり二人を併称し、「抑雖莽草之野、(中略)奇材偉人」と評している。  
嘉永 4年 1851   斎藤竹堂『林子平伝』を著す。「仙台有奇士、曰林子平、(中略)同時高山正之、蒲生秀実、皆以奇士称」と三人を併称している。  
嘉永 6年 1853 春正月 斎藤拙堂『高山彦九郎招魂墓銘并序』を稿し、高山彦九郎と蒲生君平を「双烈士」と併称し、谷中臨江寺の蒲生君平墓に相並べ建墓しようとする。  
嘉永 6年 1853 6月   アメリカのペリー浦賀に来航。
嘉永 6年 1853   下総の間中雲帆、斎藤拙堂の稿した『高山彦九郎招魂墓銘并序』を碑に刻して谷中臨江寺の蒲生君平の墓に並べ建てようとするが、幕吏の猜みを恐れ断念する。  
安政 元年       1854 1月   ペリー再来。
3月   日米和親条約調印。吉田松陰、海外密航未遂。
12月   日露和親条約締結
安政 2〜
3年
1855〜1856   萩藩の作間子大『吉田松陰、及高杉晋作加筆林・高山・蒲生三士伝』を筆写する(「吉田家文書182」山口県立文書館蔵)。  
安政 4年 1857 9月 棚谷桂陰『三傑遺跡』を著し、高山彦九郎・林子平・蒲生君平の三人を「三傑」と併称する。  
10月 飯山の松林漸『林子平画像記』には、「同以偉人称者、上野有高山仲縄、下野有蒲生君平、而其最尽必於海防者子平也」とあり、三人を偉人として併称している。  
安政 5年 1958 9月   日仏修好通商条約調印。安政の大獄開始。
万延 元年 1860 3月   桜田門外の変、井伊直弼殺害。
文久 3年 1863 5月   長州藩、下関で外国船砲撃。
6月   高杉晋作、奇兵隊編成。
7月   薩英戦争。
慶応 3年 1867 10月   徳川慶喜、大政奉還。
明治 2年 1869 3月   東京遷都。
明治11年 1878 4月 笠間益三編纂『新編日本略史』刊行される。「時人称シテ三奇士ト曰」とある。  
明治17年 1884 3月25日 島根県西村三郎『近古慷慨家烈伝』を著す。「蒲生君平伝」の中で、「高山彦九郎・林子平君トヲ称シテ三奇人ト為ス」とある。また「蒲生君平亦偉士ナリ(中略)当時彦九郎君林林子平ヲ称シテ以テ天下ノ三偉士(スグレタルヒト)ト称ス」とある。  
明治22年 1889 6月 太政官修史局副長重野安繹、蒲生君平の碑文を撰文する。『贈正四位蒲生君平碑』には、「正之与秀実同時、(中略)並称曰奇人、天奇者正之反也」とあり二人を二奇人と称する。  
明治23年 1890 10月   教育勅語発布
明治29年 1896 2月10日     偉人史叢第1巻『林子平』全の中で「三奇人を以て併称せらる」「仰覧一番せば、寛政三奇人の鬚眉」  
明治36年   1903 4月   小学校国定教科書制度樹立
10月 第一期国定教科書『小学日本歴史』「尊王論」発行される。三人を「寛政三奇人」と併称する。  


 
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