■高山彦九郎記念館データファイルNo.4

『高山彦九郎日記』に略称で多く現れる主な親族の一覧表です。『高山彦九郎日記』の注を基本に構成しました。


 高山彦九郎親族一覧表

氏   名 日記に現れる記述 彦九郎との
続き柄
続き柄 備     考
高山因幡守

祖先高山因幡守・高山因州君・高山因幡守繁政・因州

彦九郎の祖先

 

金山城主由良信濃守家臣

文禄2年(1593)2月2日没
法名「常慶」

1.天明3年2月2日の「天明京都日記」に「湯入りし麻上下にて祖先高山因幡守の正忌を拝す旅中故祭礼を略す」とある。
2.寛政2年7月27日の「
北行日記」に「高山因州君の孫なるや」とある。
3.寛政3年2月2日の「
寛政京都日記」に「高山因幡守繁政の正忌を拝す」とある。
4.寛政4年2月2日の「
筑紫日記」に「因州を拝す」とある。

なお、3.の「高山因幡守繁政」は「岩松高山家系図」に見られる記述であるが、「甲斐国谷村・武蔵国川越高山家系図」によると、甲州谷村藩秋元家家老である高山繁政は高山因幡守の孫で寛文6年(1666)4月2日に谷村(山梨県都留市)で没している。

蓮沼伝左衛門政厚 蓮沼祖乗蓮君・
乗蓮院
玄祖父 政房の父 正徳3年(1713)6月2日没
法名「乗蓮院融光道祐居士」

1.安永7年(1778)6月2日の「戊戌季春記事」に「蓮沼祖乗蓮君正忌なれば也」とある。
2.天明7年(1787)6月2日の「
墓前日記」に「今朝水を乗蓮院墓前に奉りて拝す正忌の故也」とある。
3.寛政3年(1791)6月2日の「
寛政京都日記」に「乗蓮院を拝す」とある。
4.寛政5年(1793)6月2日の「
筑紫日記」によれば「乗蓮君を拝す」とある。

蓮沼せい 紫雲院 玄祖母 政厚の妻 山田郡只上村(太田市只上町)板橋甚右衛門の女

元文4年(1739)7月18日没 93才
法名「紫雲院月窓壽清大姉」

1.寛政2年(1790)7月18日の「北行日記」に「紫雲院の正忌を拝す」とある。
2.寛政3年(1791)7月18日の「
寛政京都日記」に「紫雲院の正忌を拝す」とある。

高山源左衛門繁久 宗三君 曽祖母の父 えんの父

蓮沼家墓地内の高山伝左衛門貞正の墓誌に法名「圓融院宗三常譽」とある。
新田郡下田島村(太田市下田島町)住

享保10年(1725)5月11日没
法名「圓融院宗三常譽居士」
下田島妙高寺葬

1.安永7年(1778)5月11日の「戊戌季春記事」に「今日麻上下にて宗三君を拝し法澤君を拝す皆な正忌なれば也」とある。

高山某   曽祖母の母 えんの母 享保7年(1722)4月14日没
法名「心性院妙是日感信女」(下田島妙高寺過去帳による)
法名「心性院妙是日感禅定尼」(蓮沼家墓地「六親供養塔」による)
蓮沼図書新五左衛門政房 蓮沼曽祖西蓮君・西蓮君・西蓮院 曽祖父 えんの夫 蓮沼伝左衛門政厚の子
寛文8年(1668)生れ・享保11年(1716)6月9日没 59才
法名「西蓮院蜜窓道善居士」

1.安永7年(1778)6月9日の「戊戌季春記事」に「墓へ参る、蓮沼祖西蓮君正忌なればなり」とある。
2.天明7年(1787)6月9日の「
墓前日記」に「西蓮院正忌の故に今朝水を奉りて拝す」とある。
3.寛政3年(1791)6月9日の「
寛政京都日記」に「今日西蓮院正忌を拝す」とある。

蓮沼えん 顕曾祖妣・顕曾祖妣高山小君・秀蓮院・秀蓮院曾祖妣 曽祖母 政房の先妻・高山伝左衛門貞正の母 新田郡下田島村(太田市下田島町)高山源左衛門繁久の子

元禄16年(1703)4月20日没 20才
法名「秀蓮院月窓妙栄大姉」

1.安永7年4月20日の「戊戌季春記事」に「今日顕曾祖妣高山小君の正忌也拝し奉る」とある。
2.寛政3年(1791)4月20日の「
寛政京都日記」に「秀蓮院を拝す」とある。
3.寛政4年(1792)4月20日の「
寛政京都日記」に「今朝秀蓮院曾祖妣を拝し奉る事例年の如し旅中なれば略拝」とある。

蓮沼かや 繼曾祖妣・蓮沼家繼曾祖妣石井小君 曽祖父の後妻 政房の後妻・
石井相馬の母
武蔵野国足立郡小屋村石井六郎右衛門の子

享保10年(1725)6月16日没
法名「栄樹院還阿妙安大姉」

武蔵国足立郡内には小屋村は存在せず、小谷村(埼玉県北足立郡吹上町小谷)と考えられる。

大槻権兵衛正曜 祖母公の先考 祖母の父 りんの父親 蓮沼伝左衛門政厚の弟、母方の大槻を称し、分家。

享保2年(1717)4月2日没
法名「曜閣道昌居士」

安永7年(1778)4月2日の「戊戌季春記事」に「祖母公をおば様墓参し玉ふ。予もまた長叔(剣持長蔵)と墓参す、是れ祖母公の先考の正忌なれば也」とある。 

不明 法澤君 不明 りんの母親か
延享2年(1745)5月11日没
法名「法澤慈潤大姉」

安永7年(1778)5月11日の「戊戌季春記事」に「今日麻上下にて宗三君を拝し法澤君を拝す皆な正忌なれば也」とある。 

蓮沼伝左衛門貞正
のち高山伝左衛門貞正
顕祖考・貞政君・伊賀鎮霊神(神号) 祖父 政房えんとの子・長男 蓮沼家の東に高山を名乗り隠居分家
細谷高山家の祖。
細谷村旗本筒井家知行所名主。

元禄8年(1695)12月26日生れ/明和3年(1766)4月22日没 72才
法名「高蓮院開心貞政居士」

寛政5年(1793)6月22日の「筑紫日記」によれば、「顕祖考を拝奉る」とある。

蓮沼りん 顕祖妣・祖母公・鎮得霊神(神号) 祖母 貞正の妻 蓮沼家分家大槻権兵衛正曜(蓮沼政厚の弟)の子(貞正の親政房の従姉妹)

元禄12年(1699)生れ/天明6年(1786)8月24日没 88才
法名「慶壽院秋峯照阿大姉」

寛政5年(1793)6月24日の「筑紫日記」によれば、「顕祖妣を拝奉る」とある。

蓮沼伊右衛門政重
のち石井相馬
祖叔父・相馬様・相君 大叔父 政房と後妻
かやとの子

貞正異母弟

蓮沼家を継ぐも、のち出奔し、母方の姓石井を名乗り、江戸小日向旗本高林又重郎(又十郎、下総・常陸に知行800石)に出仕。

安永9年(1781)8月6日没 76才
法名「秋蓬院道帰居士」

みよ 祖姑君 大叔母 貞正  
剣持重左衛門則康 外祖父 母の父 しげの父 元禄10年(1697)5月15日生れ/享保19年(1734)2月17日没 38才
法名「微名則康居士」
高山彦八正教 顕考 貞正りん
の子・長男
細谷村旗本筒井家知行所名主。領主筒井家に暗殺されたという。

享保2年(1717)9月22日生れ/明和6年(1769)7月20日没 53才
法名「高顕院純正教居士」

高山しげ 顕妣・先妣 正教の妻 武蔵国旛羅郡台村(埼玉県熊谷市妻沼台)剣持重左衛門則康の子

享保11年(1726)6月9日生れ/明和2年(1765)7月17日没 40才
法名「宝蓮院月照理圓大姉」

高山要右衛門正穏
のち蓮沼要右衛門正穏
要叔・西叔父・要叔父・亡仲父 叔父 貞正の次男 叔父蓮沼伊右衛門政重(石井相馬)出奔のため、蓮沼家を継ぐ。

天明8年(1788)12月11日没 68才 
法名「蓮巌院遊雪現政居士」

蓮沼ひさ おば様・西叔母 叔母 正穏の妻 上野国邑楽郡赤岩村(群馬県邑楽郡千代田町赤岩)増田長八郎の子

寛政12年(1800)11月27日没 70才
法名「發心妙至大姉」

蓮沼政徳 軍治・郡治・従弟政徳 従兄弟 正穏ひさとの子 天保7年(1836)1月16日没 82才
法名「蓮木院群則政徳居士」
蓮沼こん 西宅の姉 従兄弟の妻 政徳の妻 武蔵国旛羅郡永井太田村(埼玉県熊谷市永井太田)尾島氏の子。

寛政2年(1790)1月4日没 32才
法名「發陽妙覚大姉」 

蓮沼政方 政方 従兄弟の子 政徳の子  
蓮沼楠次郎 楠次郎 従兄弟の子 政徳の子  
高橋与兵衛吉興 叔萬郷・西叔萬郷・叔父萬郷君 叔父 叔母みちの夫 安永4年(1775)の「忍山湯旅の記」に1日、安永5年(1776)の「江戸旅行日記」に2日、「斎中記」に1日現れる人物。

忍山湯旅の記」は叔父の萬郷君と桐生の梅田にある忍山の湯に湯治に行く旅であるが、「叔萬郷」に「台村より具せられたる」源七が僕として付いて行っているので、剣持長蔵正業の可能性があった。しかし、安永5年(1776)7月11日の「斎中記」では、「長叔父(剣持長蔵)」と「西叔万郷」とが書き別けられている。「西叔」は西野叔父と解釈できることから、武蔵国旛羅郡西野村(埼玉県熊谷市西野)に嫁した叔母みち(「西ノ村叔母」と記される)の夫で、名主の高橋与兵衛吉興と推定される。
高橋みち 西ノ村叔母 叔母 貞正りん
の子・長女
武蔵国旛羅郡西野村(埼玉県熊谷市西野)名主高橋与兵衛へ嫁す。

文化2年(1805)6月27日没 78才

剣持長蔵正業(熊重郎) 長叔・長叔父・正業叔父・叔正業・台叔父 叔父 貞正りん
の子・三男
武蔵国旛羅郡台村(埼玉県大里郡熊谷市妻沼台)名主剣持家入婿。

元文2年(1737)生れ/文化14年(1817)10月24日没 81才

剣持則正(?) 則正 従兄弟(?) 剣持正業の子
と推定
 
岡ふの(ため) 岡氏婦の(ふの) 叔母 貞正りん
の子・次女
太田町(太田市)岡治右衛門へ嫁す。

文化7年(1810)8月8日没
法名「清和妙輪大姉」 

高山専蔵正晴 家兄 正教しげとの
子・長男
細谷村旗本筒井家知行所名主。のち辞す。

寛保2年(1742)生れ/文政8年(1825)2月13日没 83才
法名「高翁遊西居士」 

高山なよ 嫂(あによめ) 義姉 専蔵の妻 武蔵国旛羅郡西野村(埼玉県熊谷市西野)高橋与兵衛吉興の子・叔母高橋みちの子(従姉妹)か?

延享4年(1747)生れ/文政11年(1828)6月16日没 82才
法名「道起貞西大姉」 

高山彦九郎正之   本人 正教しげとの
子・次男
 
高山しも しも 先妻 彦九郎の妻 新田郡鳥之郷村大島在(太田市大島町)天野嘉右衛門の子。
徳江せい せい 長女 彦九郎としも
との子・長女
那波郡宮郷村(伊勢崎市)徳江氏へ嫁す。

安永7年(1778)10月2日生れ

高山さき さき・妾 後妻 彦九郎の妻 新田郡藤阿久村(太田市藤阿久町)加村太兵衛の子。
金谷さと さと 次女 彦九郎とさき
との子・次女
新田郡細谷村(太田市細谷町)金谷平右衛門へ嫁す。

安永9年(1780)生れ/万延元年(1860)10月17日没

高山義介(義助・儀介)のち常見 義介・義介竹駒竹駒・孟駒・惟良 長男 彦九郎とさき
との子・長男
寛政6年(1794)6月21日、剣持長蔵とともに久留米に行き、遍照院で彦九郎の法要を行う。享和3(1803)6月、再び久留米の彦九郎墓を訪ねる。
山田郡桐生新宿(桐生市)常見善五郎へ入り婿。孫の石九郎に高山家を再興させる。

天明2年(1782)生れ/安政5年(1858)11月11日没

丸橋りよ りよ 三女 彦九郎とさき
との子・三女
新田郡村田村(新田郡新田町村田)丸橋太郎左衛門へ嫁す。

天明5年(1785)生れ/嘉永6年(1853)12月8日没 69才

高橋いし いし 高橋仁左衛門
栄忠妻
武蔵国旛羅郡奈良新田村(埼玉県熊谷市奈良新田)高橋仁左衛門栄忠に嫁す。

文化11年(1814)4月2日没 65才

伊与久きん きん 伊与久伴蔵政
明妻
佐位郡伊与久村(佐波郡境町伊与久)の伊勢崎藩士伊与久伴蔵政明に嫁す。

明和2年(1765)生れ/嘉永2年(1849)4月28日没 85才

伊勢崎藩儒であった新井雀里が著した「高山芳躅誌(雀里会刊 大正15年)はきんからの聞き書きが元になっている。

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