中国自転車紀行「私の走った中国」紀行文
by 細 野 祐 一

Weld Wheeling Club

 今回の中国大陸を自転車で走るという、とんでもない冒険旅行を手段とした友好親善の企画が、少年サッカーを通じて日中友好を築いてきた信澤さんや天津市人民對外友好協会(對友協)、日本に残った自転車愛好会メンバーをはじめとする多くの人々の努力と援助により、成功したことを感謝いたします。
 今回の7泊8日で天津、北京の2大都市を訪れて、自転車で走ったり、街を歩いたりして見たこと、感じた事を、素直に書きますが、日中両国の習慣、経済、文化の違いや、紀行者(自分)の考え方の違いにより、読まれた方が不快に思う事が有りましたら、お許しください。

1992,9,19(土)
 早朝4時、天候は雨。
   マイクロバスで新東京国際空港(成田)へ向かう、空港は飛び石連休と重なり大勢の旅行客で混雑していた。武井会長、横尾副会長、松本さん、黒崎さん、の見送りで、いよいよ中国へ出国である。
 離陸は40分くらい遅れ11時すぎで、4時間のフライトで北京到着は中国時間(時差−1時間)で2時、着陸時にジャンボの窓から見た北京首都空港はレンガ造りの平家の倉庫あり、自行車(自転車)で誘導路を走る人がおり、のどかな空港である。
 入国手続き前に中国式トイレの恐怖から全員トイレに直行する。検疫、入国手続きを済ませトランクの出てくるのを待つ、会のトレードマーク(WWC)のシールの付いたトランクはすぐに分かり重宝した。
 次は税関である、我々は自転車走行のために連絡済とはいえ、トランシーバー(特小)を持っている、中国では無線電收発信機及通信保密機(無線送信機とトランシーバー)は制限進出境物品(持込持出制限品)に該当している。これも、お国柄である。税関で對友協の通訳である蘇 茂(SU MAO)さんと出会い、係管にトランシーバーを見せ無事通過。
 いよいよ「中国大陸」である。
 空港ロビーで對友協の副所長の干 樹 森(YU SHU SEN)さんの出向かえを受けた。天候は曇り。国土は広い割に駐車場は汽車(自動車)の数に追いつかないのか狭い、我々の乗るマイクロバスは日本製の日産シビリアンで運転手は李さんである。
 首都(北京)を経由して高速道路で天津まで2時間ぐらいとの事である空港と首都の間は柳とアカシヤの並木が続く道路で想像以上の自動車の多さで、中国車と日本車(現地生産を含む)が各4割で残り2割が米欧州車と思われた。
 首都に近づくと、道路は思ったより広いが、歩行者と自転車と自動車が、同じ交差点に入り乱れて通行し、警告を与えるけたたましいクラクションの音で圧倒された。  「すごいところに、自転車を乗りに来てしまった。」というのが本当の印象です。
 高速道路に入ると交通量は少なく、両側は米、トウモロコシ等を作る穀倉地帯が続き、追い抜くときはクラクションを2、3回鳴らして抜かす、路側帯にはオーバーヒトや故障をした中国製の自動車を何台か見かけ、 天津市内に着くと帰宅ラッシュで北京と同じ交通事情に三輪貨物自転車、三輪貨物バイクと荷馬車が加わる。
 ホテルは出国前と変更になり、天津楽園賓館で天津市内の南東市街地に位置していた。ロビーに入ると長さ5mくらいの赤い横断幕に白文字で「歓迎日本国高崎市政府職員自行車訪華団」の文字が飛び込んできた、おおげさ過ぎるかなと思ったが、對友協の心づかいに感謝します。また、信澤さんから聞いていた通訳の田 涛(でん とう)さんも来てくれました。
 我々は9人なので、8人がツインで1人だけがツインを1人で使う事になり、たまたま自分がその1人になり、最初は1人寝過ごすのではないかと不安も有りましたが、たまに他の人が宿泊に来て変化もあり、自由に過ごせて、気を使わず、広い部屋を皆さん「ありがとう」。
 夜の晩餐は、歓迎レセプションで秘書長の張 志 孔を含めた中国側4人と我々9人による宴会の始まりである。アルコール度の高い「白酒」(バイチュウ)で数回の乾杯と青島ビ−ル、円テーブル一杯の中華料理に舌鼓を打ちました。しかし、鳩の肉は泥臭く、おいしくなかった。
 レセプションの後は小田橋団長の部屋に集まり、通訳の田さんを交えて日程の打合せと日本酒による日中友好の2次会、この会で通訳の田さんは大好きな日本酒をのみ過ぎて団長の部屋に泊まることになり、団長は私の部屋で寝ることになった。
 大陸での一日は終わった。

1992,9,20(日)
 5時30分頃に、目覚める。窓の外は薄暗いのに、道路はライトを点灯しない(中国には、ライトの付いた自転車は、無に等しい。)自転車が動きはじめ、工場の機械の音が聞こえている、天津の街は、石炭の煙りの臭いがし、どんよりと霞んだ朝である。
 団長と私は、朝の街を散歩するためホテルを出て、近くの公園に行くと、どこから湧いてくるのか、気功をしに大勢の人々が集まってくるが、若者はさすがに少ない。
 住宅街へ行くと、屋台が出ており、ゴマ油で揚げた、ねじりパンをクレープ状に焼いた卵入りのパイ生地に包んで食べたり、ワンタン入りのお粥の朝食を食べていた。普通の庶民の住宅は、中高層住宅(4〜10階)で日本の公営住宅をレンガとコンクリートで造ったようなものであるが、昔ながらのレンガ造りの平家も多く、いかにも中国的な住宅で、生活水準に大きな格差が有るようだ。団長が露店で中国製のタバコを8.5元で買った。日本円で200円弱(1元=約23円)で、タバコは高級品らしい?。
 ホテルに戻り朝食である、朝から油で炒めた中華料理だ。あんこ入りのまんじゅうはおいしかったが、豆腐は豆が腐ると書くが、臭い豆腐の料理は、腐っているような味で食べられなかった。
 今日は、互助道小学校へ行きドッジボールである。
 天候は晴。学校は市街地の東にあり、幅6mぐらいの道路の両側に日常生活の雑貨や食品を売る露店がぎっしり並び、歩行者と自転車で混雑している道路を公安官の先導でバスが入っていく、学校に着くと50人前後の女子生徒が、そろいの赤い服装と髪の毛を赤いリボンで牛の角のようにしばり、両側に並んで大歓迎をしてくれ、驚かされた。
 教室で生徒による歓迎の踊りや歌を見せてくれるというので教室へ行くと、大人の人が大勢座っていて子供がいない、後で聞くと、先生だそうです。団長と峯岸、斎藤の両副団長、對友協の干さん、校長先生と市役所福祉関係の女性課長が前列に座り、大勢の先生たちと一緒に団員が対面するように座り、記念品交換とボ−ルの贈呈を行った。
 中国の慣習なのか、社会主義の階級重視か、地位や職業に厳格な階級を付けるようである。滞在中、どこへ行っても団長と2人の副団長はさぞ大変であったと思う。
 女子生徒による歓迎会が始まった、中国の歌、日本の歌、くるみ割り人形のバレー、エレクトーン、踊り有りで、特に全員一緒の踊りはぴったりそろい大変すばらしかった。大歓迎されて失礼かも知れないが、私の感覚では「そろい過ぎていて怖い」と思ったが、さぞ、我々の歓迎会の練習には大変な時間を費やしたのではないかと想像する。「生徒の皆さん、大変ありがとう」。
 小学校は、レンガ造りの平家と4階建の校舎からなり、同じ敷地の中に、小さい工場らしいものがある。休憩時間にトイレに行くと中国式の通称「ニーハオ トイレ」扉がなく50cmくらいの境が有るだけで、そこに横に長く溝が掘ってあるところへ、通路側を向いて座るらしい、写真を撮って振り向くと、さっき教室にいた先生が座ってニッコリ笑っていた。私は驚いた。
 さすがに、写真は撮れず、「ニーハオ」と言って頭を下げて、グランドに戻った。
 さて、ドッジボールの試合である、斎藤副団長が通訳の田さんを通じてルールの説明して、小柴団員と投げ方、取り方のデモンストレーションを行い、第一試合を始めたが、ルールを理解していないようだ。
 試合相手の男子小学生はサッカー部の12人である。サッカーをやっているためか、ボールを手でパスし、当てようとするとボールを取りに近寄ってくる、そこで我々が二つに分かれ、見本を見せると、すぐに理解できたようで2試合を引き分けで終わりました。子供たちと先生の真剣な姿を思うと、今頃、この小学校、いや、天津市の小学生の間ではドッジボールがブームになっているかも知れない。また、小柴団員は男子小学生にサインを求められるスター気分であった。
 ドッジボールが終わり、市役所福祉関係の女性課長の案内で、女性による手作り手芸工芸展を見に行き、団長が毛筆で大きな半紙にサインをして来ました。また、自転車愛好会の名前入りの中国画をプレゼントされました。真っ赤なボタンの花で、とっても素晴らしい絵でした。
 昼食は、ホテル近くの風味食廊街で、両側に食堂が並び、各店の入り口には、ヘビ、トカゲ、サソリ、ハト、カメ等のゲテモノが並び、何が出てくるか不安であったが、中国風しゃぶしゃぶでした。醤油の味が違い、三つ葉に似た香りのきつい野菜、冷えてないジュースと食べるのに苦労しましたが、冷えたビールはおいしかった。
 食堂街周辺は、露店が並び食料品は大変安く、量も豊富であった。団員は、落花生やピータンを買って味わい、清塚団員はジュース屋のおやじから1元でコカ、コーラー(300ml)を買った。瓶は桶の中の水で冷しているだけで、瓶の口を良く拭いて飲んだ。冷たくない。この日の午後、冷えた缶入りコーラー(350ml)を8元で買うことになる。食堂の裏口では、石炭や練炭を燃料として調理をする姿も目にした。
 午後は、自転車の購入に飛鳩自転車工場へ行く、またここでも大歓迎である、工場の庭に9台の新しいスポーツサイクルが置いてり、見た瞬間、思ったより良い自転車で安心した。価格は約540元で、中国人の平均所得の2か月分ぐらいだそうです。
 応接室でお茶(ジャスミンティ)を飲み、記念品の交換と工場の説明を聞きいた。後で分かったことだが、お茶はふた付きの大きいカップに葉を入れお湯を注ぐ、ふたを取り、中の葉を口で吹いてカップの向こう岸に追いやって、お茶を飲むのである。
 工場はブッシュ米大統領も訪れたことがあり、300万台の自転車を造り、1割はアメリカ、オーストラリア、東南アジアへ輸出するそうです。フレームの仕上ラインは機械より人間の方が多いように思えた。
 この工場で、明日、家庭を訪問し、天津、北京間を一緒に走ってくれる韓さんと王さんに会えました。韓さんは身長180cm以上の背の高い大男、王さんは、少し小柄な美男子で2人とも真面目な青年という第一印象です。2人は、對友協によって選ばれた、エリートの市役所(人民政府)職員らしい?。
 我々11人は、工場からプレゼントされた黄い帽子と赤いウインドブレーカーを着て、購入した自転車で天津市内に走り出ると、多くの自転車と信号が有って無いような交差点と自動車のクラクションでみんな注意深く走行しました。周りを走っている天津市民が笑っていたり、話しかけてきている、たぶん「何をしているのか、どこから来たのか」聞いている様に思った。走っている間じゅう、工場の人がワゴン車から、ビデオを撮っていた。コマーシャルか、何かに使うのであろうか?。「おそろいの赤い服とピカピカの新車は目立ち過ぎる」40分ぐらい走ったであろうか、天津電視塔(テレビタワ−)に着いた。
 電視塔は415.2mあり展望台になっていた、テレビ塔では東洋一だそうです。エレベーターの入り口で金属探知機によるボディーチェックを受け、展望室に上る。人工的な池の中央に、橋によりテレビ塔の島が造られていて、まるで要塞である。
 展望台へ上がると市内が一望でき、中高層建築のアパート群と低層の家の集落と湖沼が広がっている、また、市の南東郊外に原子力発電所と思われる建物も見えた。大陸は広い、山は見えない、360°全て平らだ。清塚、近藤両団員は、この展望台で冷えたコカ、コーラーを8元で、おいしそうに飲んだが、場所代と冷し代が入っているのであろうか。
 自転車でホテルまで帰ったら、ホテル周辺は不動産の広告を路上に並べた人々が大勢おり、住宅事情は厳しいようだ。自転車はホテルで倉庫に保管してくれることになった。
 今夜の夕飯は、天津名物「狗不理」の肉まんじゅうである、何種類出たか忘れたが、テーブルに置かれた肉まんじゅうは、置くと同時に、9本の手が伸び、口に運んでしまった。「おいしかった。」
 中国の食堂は外国人または階級によって席が異なるようだ、なぜなら、我々と現地對友協職員や韓さんと王さんとは常に席が別でした。このような別席の時に、ビールを追加したり、料理に入っている素料を聞いたり、中国美人と一緒に写真を撮るのを頼んだり、青山団員が活躍する。
 夜の街は、にぎやかで、自動車とライト無しの自転車と人々が、夜遅くまで活動している。
「今日は、いろいろな経験ができて面白かあった。明日は、どんな出会いが有るのだろうか楽しみだ。」

1992,9,21(月)
 5時40分頃、起床。昨日は、2人で朝の散歩に出かけたが、みんなに話をしたら、6時にロビーに集合して、一緒に行くことになった。6時、7人が集合した。
 ゆっくり休んでいる2人を置いて、昨日とは違うコースで北方向へ行くと、囲堤道の広い通りを渡り、果物の市場であろうか、スイカ、ブドウ、ナシ等が道路両側の露店にたくさん山積みにされ、販売の準備をしていたが、その臭気は何ともいえない。
 路地を曲がると、朝食を売る露店と商店が並んでいた。ラーメンの原形なのだろうか、練った小麦粉を両手を使い、空中で何本もに伸ばしていく。これを白っぽいスープに入れて食べていた。麺はこしがないようだ?。店の人が、食べて行けと言っているようだが、食べる勇気は無かった。帰国後、「食べればよかった」と思った。
 ホテルに戻ると、7時30分から食事。また、朝から油で炒めた中華料理だ。朝の散歩は食が進む。
 天候は晴れ。天津市役所(人民政府)の表敬訪問に出かける。市役所の前の道路に着くと、通訳の田さんが庁舎の中へ連絡に行き、その間、バスの中で待った。入口には、白い制服の公安官と緑色の制服の守衛官が、立っており、一般の人は、敷地内に入る事も難しそうだ。庁舎内に入ると、ロビー横にある、第二貴賓室へ通された。
 部屋は天津絨毯が敷いてあり、大きく立派な中国画が飾ってありました。副秘書長の李 勝 遠さんと記念品の交換をし、挨拶を交わした。10月に、天津市役所サッカーチームを李さんが団長、對友協の張さんが副団長として、当市に来高するそうです。通訳の田さんに、庁舎内の事務風景を見学させてくれるように頼んだが、無理でした。日本の市役所(市民の役に立つ所)と中国の市役所(人民政府)は少し違うようだ。特に、天津市は北京市と上海市と共に直轄市である為か?。「中国の市役所が、どのようになっているのか、楽しみにしていたが、応接室だけでは、良くわからず残念である。一緒に走ってくれる、韓さんや王さんの働いている職場を見たかった。」
 バスに乗った後、聞いた話では、中国では子供が生まれると公安局(警察?)に出生届を出すそうです。 
 ホテルに戻る途中、通訳の蘇さんを拾うために、天津對友協の建物の前で止まった。市役所から、そんほど遠くない官公庁街である。今回の訪中でお世話になった、對友協の事務所なので、日本に残ったみんなに見せてやろうと、降りて写真を撮ろうと思い、降りて良いか聞いたら、答えは「No」。それ以上、突っ込めなかった。
 ホテルに戻ると、もう一人の通訳の、赫(かく)さん(通称ダブル、レットさん)と韓さんや王さんが来ていました。
 さあ、これから、2つの班に分かれ、韓さんと王さんの各々の家庭を自転車で訪問して、中国の家庭の昼食を御馳走になりに行く、大変楽しみである。
 我々2班の5人は、王さんの家庭である。
 倉庫から自転車を出すと、タイヤの空気が減っているので、自転車に付いていた空気入れで空気を入れようとしたら、空気を入れる口が合いません、韓さんや王さんが無理やり押しつけて入れてくれました。こんな事ってあるの?
 韓さんや王さんの自転車は、スポーツサイクルで市民の乗っているものに比べて高級品でした。同行する通訳の赫さんの自転車は、日本で言う、魚屋のおじさんの黒色の、いや、黒色にほこりの積もった自転車です。普通はこれが庶民の自転車です。
 市内を40分程、自転車で走り、市の南西部にある団地に着き、月決めの自転車預かり所に頼んで自転車を預け、王さんの自宅に向かった。王さんの自宅は、階段を6階まで上った、中層住宅の最上階でした。
 ドアを開けると、お母さんとお兄さんが出迎えてくれた。内部は、8畳くらいの部屋が2部屋と4畳半くらいが1部屋、それにバスルーム(トイレ、シャワー、洗濯機置場)とガスコンロが置いてある台所代わりのベランダで、絵の掛けてある奇麗な部屋です。書いてくれた住所には、6階の603〜606号室と書いてあったので、ほかにも部屋が有るのかな?。ソファーに座り休憩していると、蒸したトウモロコシとサツマイモ、ウーロン茶が出され、タバコを勧められました。タバコを勧めるのは、中国の習慣だそうです。また、蒸したサツマイモは中が黄金色で、とっても甘くおいしかった。
 今日のお昼は、中国の家庭で最高のもてなしの「ギョウザ」で、一緒に作ることになり、ギョウザの皮は、練った小麦粉をぶどうの巨峰くらいにちぎったものを、粉を敷いた板の上で、一度楕円状に押しつぶした後、これを左手で回しながら麺棒で丸く伸ばして形どります。これは熟練しないと、なかなか難しい。このギョウザの皮に肉とニラとたくさんの野菜を包み、形を整えて、お湯(スープ?)でゆで揚げて、酢醤油で食べます。
 我々が、手伝ったため、時間がかかり過ぎ、途中で交代しました。王さん家族は、とっても速く作ります。さすが、本場です。
 円テーブルに乗り切らないほどの御馳走が出され、ビールで乾杯したり、持っていった日本酒を味わってもらったりして、プレゼントの交換や世間話をしながら食事が進み、最後に、メインデッシュの「ギョウザ」である。その数は200個以上作りました。奇麗に出来ているのは王さんの家族が作り、形が変形しているのは我々が作ったらしいが、どちらも味は、とびっきりおいしかった。
 家族は、24歳、独身公務員の王さんと、2人とも英語の先生をしている両親と、現在香港在住で日本にも勤務したことのある銀行員のお兄さん、それと、今日出迎えてくれた、洋服等のデザインをしているお兄さんである。
 お母さんは、我々の為に、中学校を校長先生公認の仮病で休んだそうです。校長先生と同僚の先生と思われる人が遊びに来ました。
 WWCのオリジナルTシャツをお兄さんに私がデザインしたと渡したが、職業を聞いて恥ずかしくなりました。帰りに、お兄さんが卒業制作で描いた絵画を、みんなにプレゼントしてくれました。「大切にしている宝物の絵と、おいしいギョウザを、ありがとうございました。」6階の部屋から、自転車置場まで、お母さんと小柴団員はずっと腕を組んで、なごり惜しそうでした。
 話しは尽きず、予定の時間を2時間以上もオーバーして、酒気帯び運転で街を走りました。中国の交通ルールは、右側通行で、右折車は信号に関係なく曲がれて、信号が代わるのを予測して動きだしますが、お互いに譲り合っているようです。我々も、少しこのルールに慣れて、交通の流れに乗り、無事ホテルに到着しました。
 1班の4人は、待ちくたびれて、寝ていました。寝ていると思ったが、実は、韓さんの家で、アルコール分63度の白酒で乾杯をしすぎて、ダウンしていたのである。我々が遅かった為に、ゆっくり眠れたようです。
 時間が遅くなったが、古文化街という、商店街での買い物と、夕食へ出かけました。古文化街に着くと、なんと子供たちが、ドッジボールに似たゲ−ムをしていました。それは、輪ゴムをいっぱい束ねた物を、ボール代 わりにして、内野1面と外野2面で、輪ゴムの束をぶつけ合っていました。 商店街は、時間が遅くほとんどの店が、閉まっていました。
 夕食は、真中がスープの鍋でその周辺に焼肉の鉄板が一緒についた、シルクハットのような金属製の鍋で、肉と野菜を焼いたり煮たりして食べる料理でしたが、昼食においしいギョウザを腹いっぱい食べたので、食事とビールがあまり進みませんでした。
 「明日は、いよいよ天津、北京間の自転車走行だ。今日は早く寝よう。」

1992,9,22(火)
 6時少し前に起床。
 天候は晴れ。今日で天津とお別れである。荷物を整理しながら天津の朝焼けを写真に撮り、自転車走行の準備を整え、6時半に、ロビーに降りた。
 今日は、朝食が、中華料理ではなく洋食だが、レストランの従業員が来ていないようだ。出発は、7時の予定だが、遅れそうだ。
 30分遅れて、出発地点である引河橋の北岸は、北西の環状線を経由して、天津市の北の郊外に有り、我々の乗るバスと工場のワゴン車と自転車を積むトラックの3台で、引河橋へ向かった。橋へ着くと、バスとワゴン車は着いたが、トラックが来ない...?。20分、30分経ったが、まだ来ない。
 その間、団員は、周辺の写真を撮ったりしていた。私の所に、杖をついたお婆さんが近寄ってきて何やら話をしている。私は、日に焼けた肌としわをアップでカメラに納めた。後で聞くと、子供の住んでいる村の方向を聞いていたそうです。また、橋は、交通の要所で、車と自転車と荷馬車が往来しております。カメラを構えていると、そこへ来た、馬車に乗る老人が、ムチを振るい、馬を打つではないですか、一瞬自分が打たれるのかと思い、後退りしてシャッターが切れませんでした。実は、サービスのポーズだったと思う。
 団員は、時間が経つにつれて、自転車を積んだトラックが到着しないことを不安に思い始めた。いざ、北京へという意気込みとは逆に、緊張の糸がほどけていく。
 トラックが行方不明だと、判明した。橋のたもとには、公安局の検問所が有り、そこで休むように勧められ、ジャスミン茶やコーラがふるまわれ、ソファーに座って、休んでいましたが、1時間近く経ってもまだ到着しません。団員は、ソファーで、居眠りをしたり、「自転車だけが、北京へ走って行った」とか、「ここで一泊して明日、走ろう」とか、冗談を言っていた。冗談は事実となり、對友協副所長の干さんから、「自転車を積んだトラックが行方不明になり、北京方向へ80km先へ走って行ってしまい、今、橋に引き返して来る。迷惑を掛けて申し訳ない。」と公式な発表があった。事実と結論が分かるまで、一切発表しない、中国らしいやり方である。
 我々は、この引河橋から北京の南東の郊外にある、北京第二外語大学前の110kmを走る予定であったが、午前中の2時間の遅れをどうするか相談した結果、出発地点から少し先まで、バスで移動し、そこを再出発地点として、午前中1時間少々(34km)走り、昼食後、北京まで(49km)走る事に決定し、再出発地点へ急いで向かった。
 再出発地点は、京津公路(北京、天津間の幹線道路)の途中にある街である。ここで、自転車をトラックから降ろし、2日間乗って緩んだ(最初から?)サドル等のボルトを締め、ブレ−キの調節とタイヤの空気を入れ、フレ−ムにWWCのシ−ルを貼り、トランシーバーのチェックと急いで準備をした。さあ、出発だ。通訳の田さんの、「1、2、3、自転車隊は、ただいまから天津、北京間の自転車走行を開始します。」を合図に出発した。
 この、1、2、3、はトランシーバーの使い方を田さんに教えたときに、「スイッチを押してから、1、2、3と言うくらい(約3秒)の間をおいて、話し始めて下さい」と言う説明が、正確に伝わらず、この後、話す前には、必ず、「1、2、3」と言った後、話し始めたようです。トランシーバーは田さんと両副団長の3人が持っております。
 走る順番は、トランシーバーを持った田さんとカメラとビデオを乗せた伴走のバスを先頭に、自転車隊の、韓さん、青山団員、斎藤副団長、小田橋団長、清塚団員、小柴団員、私(細野)、北村団員、近藤団員、峯岸副団長、王さん、次が、自転車工場のワゴン、行方不明になったトラックの順です。団員の走っている姿は、オリジナルTシャツと黄色の帽子、紺色の短パンで、後から見ると、背中のオリジナルマークは、非常に目立ち、とっても奇麗でした。
 走っていると、周囲の村人や同じ道路を走っている人が、手を振ってくれたり、何の集団が走っているのか、目を白黒させている姿が見えた。なかには、「Hello」と呼かけて来る若者もいた。街を抜け、高速道路の立体を過ぎると、自転車用の車線が無くなり、両側は、夢に見ていた、大きなポプラ並木が両側に永遠と続いている風景が現れた。この風景は、行った人でないと、伝わらないと思う。並木の下1mくらいは、白いペンキ(漆喰?)が塗ってあり、横に道がある交差点では、白い上に赤いラインが入っていて、夜のガードレールの役目をしているようだ。
 「なにしろ、素晴らしい並木である。」私の想像では、道路の周辺は、ずっと、田園風景が広がっていると思っていたが、思った以上に、家が有り、人々が生活しておりました。
 時計を見ると、1時をすぎており、出発が遅かったためか、お腹がペコペコになり、やっと、お昼である。昼食は、沿道のホテルで、運動をしたせいか、ビールも進み、味つけも日本の中華料理の味で、大変おいしかった。なかでも、鹿肉を辛いスパイスにまぶして串に刺して焼いた料理と熊肉を油で揚げた料理は珍味でおいしかった。
 自転車の最後のメンテナンスを終え、自転車工場のワゴン車は、天津に帰り、北京までの残り半分の走行が始まった。あと49kmだ。少し、曇ってきた。道路は、まだ、ポプラ並木とカバの木の並木が続いていて、乗用車、トラック、三輪バイク、荷馬車と自転車が走っており、ほとんど直線道路で、自動運転装置が欲しいようである。荷馬車が2台走っている場合、前の馬車には、人が乗っているが、後は乗っておらず、前を追ってついていく自動運転であった。
 団員は、慣れてきたのか、2列で話しながら走ったり、地元の人と競争したりして、楽しんで走れました。バスからは、田さんと蘇さんが写真を撮ったり、ガンバレの声援を送ってくれている。
 北京が近くなって来たようだ、「通県」と言う場所の近くらしい?道は広くなり自転車道が出てきて、露店の市場や、露店のビリヤード屋などが道端にあり、人々と自動車が増えてきた。幅員4mくらいある自転車道の両側を、露店が占領し、1mくらいの通路が開いているだけの所を、我々の自転車は進んでいく。お店や、集落がつながっている街並みをしばらく走った。
 周囲が、薄暗くなってきた。あと、4kmぐらいだそうだ。しばらくして、田さんたちが、バスから降りて、何か大声で怒鳴なっている。「ゴールです。」「ゴールです。」「ここが、北京第2外国語大学前のゴールです。」そこは、北京第2外大の反対側にあり、小さい広場になっており、食料品を売る露店が並ぶ市場のようなところで、夕方の買物客で大混雑しておりました。
 いろいろな、アクシデントがあったが、予定のコースを全員無事に完走しました。私は、「完走できた、満足感で一杯でした。」団員全員が對友協のスタッフ全員と握手をして、完走の喜びを分ちあいました。田さんが、小学校でもらった花束をバスの中から持ち出して、団長に手渡し、買物客で大混雑している市場を背景に、ゴールの記念写真を撮り、自転車をトラックに積込んで、バスに乗り、今日のホテルに向かった。
 首都の市街地に入ると、帰宅時間の大渋滞である。對友協で出発地点と到着地点を郊外に設けた理由が良くわかった。これでは、伴走車が随行出来ない、自転車の方が速い。「地理感の無い我々の為に、細かいところまで配慮してくれて、全員が無事に完走出来たことを、對友協と関係者に感謝します。」
 北京のホテルも出国前と変更になったが、3つ星の新僑飯店であった。ホテルは、北京駅と天安門広場の中間位にあり、首都の中心街である。
 到着すると、ホテルのレンタサイクルが置いてある、入口横に自転車を入れてもらい、走行時の目立つ格好で、チェックインをした。
 今夜の夕食は、完走の祝宴であり、シャンペンが用意されているそうです。祝宴には、我々9人と韓さん、王さん、對友協の干さん、田さん、蘇さん、運転手の李さん、公安局(入国管理局)課長のリュウさんと公安局職員で、19人が初めて日中合同で同じテーブル(円卓2台)についた。
 中国製の2本の大瓶シャンペンで、乾杯をしたり、生ビールと中華料理、それに、完走をした喜びをつまみに、みんな大満足でした。普段はコーラを頼む、北村団員もビールをおいしそうに飲んでいました。祝宴の円卓は、中国語、日本語、英語が飛び交う、大変なごやかなで楽しい席でした。
 祝宴の後、私と青山さんは、韓さんと王さんの部屋に日本酒を持込み、夜遅くまで飲んでいました。他の人たちは、ホテルのバーへ行ったようです。中国語と日本語と筆談と手振り身振りで話しをしているが、中国語はほとんどわからないが、前の話しの内容から推測すると、今言おうとすることが、何んとなくわかるから不思議です。
 持っていった日本酒とおつまみの話し、日本の歴史(明治維新前後)の話し、韓さんが練習しているカンフーの話しとポーズなど、話しはいつまでも尽きなかった。
 「今日は、完走の喜びと疲れで、ゆっくり眠れそうだ。公式な友好親善も終わり、明日からは北京観光だ。」

 これから先は、観光なので、簡略に書く。

1992,9,23(水)
 6時少し前に目を覚まして窓の外を見ると、雨なのでまた眠る。
 7時すぎに朝食を取り、今日は、萬里の長城と定陵観光であるが、雨で残念だ。明日の天気を聞いてもらったが、日本のように詳しい天気予報は無いようだ。日程の変更を検討したが、明日の天候も分からないので、今日行くことになった。ホテルのロビーで、韓さんと王さんや田さんたちと別れました。
 「短い間でしたが、大変お世話になり、ありがとうございました。」
「さようなら」「再見」
 萬里の長城は、北京の北西70kmにあり、バスで2時間くらいらしい。北京の市街地はビルが建ち並び、道路の端には花が飾られ大都会である。街を抜けて、郊外の片側2車線の直線道路(別に自転車道1車線)にでると大渋滞である。石炭を積んだトレーラーによる、交通事故である。トレーラーと言っても、普通のトラックがもう1台荷台を引いているだけのものである。だいぶ時間をロスしてしまった。李さんは、バスを飛ばし、追越しをして、センターラインオバーで罰金である。
 定陵を先に観光し、昼食後、萬里の長城へ行った。霧で何にも見えない、見えるのは、長城の壁に書いてある落書きと、人、人、人。中国にも旗を持った団体旅行があるのである。多分、旅行会社で支給された、おうど色の同じ洋服とオレンジ色の同じ帽子をかぶった団体を、どこへ行っても見かけた。さすが国際的な観光地でどこへ行っても大勢の人々である。
 日本人が通ると「千円、千円」の声がかかる、お土産屋の呼び込みである。私たちは、職場のお土産にカレンダーを買う事にし、値切って50枚買ったつもりが、帰国後配ると40枚しかありませんでした。「中国人のうそつき」また、ケンタッキーフライドチキンがあったので、コーヒーを注文したら、ネスカフェの粉を入れて、お湯を注いでくれた。味はあえて説明しない。
 長城からの帰り、バスが急に止まった。今度は、スピード違反である、サイドカーの白バイが止めてあり、スピードを測る機械は、ボールの速さを測るスピードガンである。2回の違反で55元の罰金らしいが、その場で公安管に支払うのである。みんなは驚いていた、違うポケットに入ることが無いか、不安である。
 途中、国営のお土産屋さんに寄った。そこの店員さんは、美人ぞろいで、中国語、英語、日本語、韓国語を使いわけている。ただし、国営の商店は、どこへ行っても値引きはしてくれない。
 市内の中華レストランで、夕食である。飲物は、ビール、白酒、コーラを注文したが、このビール(北京ビールライト)が、味が甘く、花の香りがして、飲めず、ジョッキーの生ビールに変更した。また円卓一杯の料理の山である。食べきらず残ってしまう、もったいないな?ホテルに帰った後、マクドナルドに行った人もいる。

1992,9,24(木)
 6時少し前に起き、北京の朝を散歩する。
 天候は快晴。長城観光が今日ならば、良かったと思う。路上で、髪を切る街頭床屋さん、トイレットペーパーや100円ライター、靴下、下着などを公園入口の路上で売っている。7時頃になると、バスはどれも満員である。自動車と、自転車と、人のラッシュである。
 7時半に中華の朝食、そろそろみんな、中華に飽きているようだが、私と、団長は、しっかり食べている。今日は、頤和園と言う、御后が誕生日に造ってもらったと言う、とっても大きな庭園と、北京動物園のパンダ、国王が豊作を祈願したという、大きな公園である天壇公園、中国はなにしろスケールが大きい。
 この日の夕食は、和食でした。日中合弁のホテルのレストランで、日本のビール(サッポロ)と焼きおにぎり、味噌汁、そば、お茶づけ、焼き鳥、寿司等みんな生き返ったように食べました。なかでも、峯岸副団長は、日本食が恋しいのか、ホームシックになったのか?、お茶づけと、ちらし寿司の2食を食べて、満足したらしい。
 夕食後、雑技を見物に行き、お皿や自転車を使った技や子供たちによる大変可愛いい芸で、楽しませてもらいました。
 日本食は腹にたまらないのか、ホテルに戻り、みんなで、夜の散歩に出かけました。自転車道を含めて両側10車線の長安街通りを渡り、マクドナルドへ行き、ハンバーガーを食べた後、天安門広場へ行った。夜の広場は、天安門事件を思い出すが、それなりに人通りもあり、安全でした。大きな地下道で、長安街通りを渡りなおして、ホテルに戻った。
 この夜、自転車ではなく、輪タク(三輪自転車タクシー)をおじさんから取り上げて、おじさんを乗せて走った団員もいた。

1992,9,25(金)
 今日は、みんなで、6時にロビーに集合して、自転車で朝の天安門広場へ、サイクリングである。
 天津よりも道路が広いためか、交通ルールがしっかりしているようだ。広場は、朝早いのに、市民や観光客でにぎわっており、記念写真を撮る人や散歩をする人、凧あげをする人など、大勢の人々が集まっていました。広場に一角では、映画の撮影も行われていた。
 そこで会った老人は、自転車に乗っている私に、何かを聞いているので、「我是日本来的」と答えたら、自分の胸を指差して、「83歳」と日本語で話しかけてきました。時代と歴史を感じる一瞬でした。
 ホテルに戻り、朝食後、ラストエンペラーで有名な故宮(紫禁城)観光である。入口で案内用のテープレコーダーを借りて、中へ入った。城内は、たいへん広く、壮大な建物が並んでいて、大勢の観光客が訪れていました。 故宮の隣にある、北海公園で、宮廷料理を食べ、午後は買物である。瑠璃厰という書画骨董の商店街と国営の友誼商店である。個人経営のお店は、儲けようと、活気があるが、国営の商店は、いくら働いても給料が同じなのか、お客が声をかけるまでは、動かない。中国人の、平均月収は、200元強(5,000円)くらいらしい。
 私は、思い違いによるアクシデントもあり、タクシーで北京の街も走った。北京タクシーは、ベンツなどの高級車、日本車のセドリックやクラウン、軽自動車のワンボックスカーで6人乗りの3種類があり、基本料金は同じらしいが、距離により上がっていく料金が異なるようだ。室内は、ガソリンの匂いがして、臭く、前席と後席の間が、金網で仕切られていた。
 夕食は、「さよなら宴会」で北京ダックの御馳走だ。ホテルにバスを置き、全員で食べに行った。
 例のごとく、白酒とビールで乾杯し、最後の晩餐の挨拶を交わし、我々が使った、9台の自転車の贈呈をして、宴会に入りました。北京ダックは小麦粉をクレープ状に焼いた皮に味噌を塗り、葱をのせ、こんがりと焼けたダックの薄切りをのせ、皮の下を上に折り込み、巻いて食べます。この皮がダックの油を吸い、味噌の風味と葱の歯応えで、大変おいしかった。
 さあ、2次会だ。2次会は、カラオケで、1件目は、時間が早く開いておらず、タクシーで移動して次へ行きました。驚いたことに、日本と同じレーザーカラオケがあり、歌にディスコにと楽しみました。中国のカラオケは、歌の題名が1文字の歌、2文字の歌と言う順番に並んでいる。もちろん、日本語の歌もあった。カラオケスナックのマスターは、中国なまりのこぶしのきいた日本の演歌が、大変じょうずでした。
 この後、何人かの人は、3次会へ行ったらしいが、明日は、帰国の為、ホテルに戻り、荷造りをした。近藤団員は鍵を3次会の会場に持っていかれ、部屋に入れず、私の部屋で寝た。
 今夜が、中国最後の夜である。

1992,9,26(土)
 6時頃起床。天候は晴れ。今日で中国ともお別れだ。
 ホテル周辺をカメラを持って、散策する。
 朝食後、日本で言う所の銀座のような、王府井で最後の買物である。王府井は、大変活気があり、商品の善し悪しは別として量は豊富で、大勢の人々で混雑していた。特に、百貨店は、日本のデパートの暮れのお歳暮売場のような賑わいである。驚いたことは、商品を買ったのに、日本のスーパーでくれるビニール袋の質が悪い物が、有料(2角=1元の5分の1)でした。
 買物を終え、北京郊外のホテルで最後の中華料理の昼食を取り、空港へ向かった。道路は大変混雑していて、2時近くに、北京首都空港についた。駐車場で李さんと別れ、空港の税関の前で、對友協の干さん、蘇さんと別れを惜しみ、15:10(中国時間)離陸予定のNH906便で中国を後にした。ジャンボの窓から午後の日差しを浴びた、中国の田園風景が、どんどん遠ざかっていく。
 機会があれば、また来て見たい。
 20:00(日本時間)に、無事成田に到着し、入国審査前の廊下から、出迎えロビーを見ると、信澤さん、太田さん、長井さん、田代さんの顔が見えた。「日本に帰って来た、という実感がした。」「みんな、出迎え、ありがとう。」
 入管を通り、荷物を取り、税関を抜けて、みんなに会い、バスに乗り、高速道路を走り、高崎に向かった。バスのスピードが中国に比べて速く時間が中国よりも速く過ぎるような感じがした。バスの中は中国の思い出話しに花が咲き、迎えに来たメンバーも羨ましそうだった。
 曜日が変わって、9月27日(日)、早朝12:15分、全員無事に到着した。


●あとがき
 今回の中国行きは、旅行会社のツアーでは、経験出来ない事が出来て、真の姿がほんの少し見えた感じがする。特に、自転車で街の中を走っている時や、朝の散歩時間に市街地の細い路地を、歩きまわり、のぞき見した生活は、飾りの無い中国だと思う。
 中国紀行文を書き始めたら、色々な思い出や出来事がよみがえり、こんなに長くなってしまったが、自分の記録にもなるので、長々と最後まで書いてみました。  少しずけずけと書き過ぎたと思う所や、もっと書きたいが少し遠慮した所と、色々ありますが、素直に書いたつもりです。
 また、今回の中国自転車紀行で撮影した写真が、出来上がったら、みなさんにお見せしたいと思っております。
 「天津市人民對外友好協会の関係者とお世話になった日本のみなさん、大変ありがとうございました。」 「再見。」

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制作 : 細 野 祐 一
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