’88.3
少年 日食は厚い雲に阻まれたが、第2接触は雲の中ほんの一瞬見えた。 ジプニー

    

フィリッピンの国旗
命があって何とやら言いますが、初めての皆既日食、初めての海外ツアーのフィリピンでは危ないことが多かった。
 この日食の数年後に、或る病院のドクターからフィリピンへ看護婦の求人に行って、マニラで後ろからきた車にホールド・アップをかけられて、身ぐるみ剥がされたという話を聞かされた。その先生は警察に先導してもらわなかったというが、安全確保のため、なにがしかの金銭を支払い護衛してもらうという話を現地で聞いた。そのマニラに着いていた。話には聞いていたが空港から出ると派手なジプニーが連なって走っていた。
 現地の日本人ガイドの男性の第一声は「マニラは非常に危険です!」と真剣なまなざしで私たちに話した。そして、国際空
マニラ国際空港前で  
港から人目を避けるようにして休憩所のレストランに徒歩で向かった。4〜5分の道のりであったが、狭い歩道で小学生くらいの子どもがタバコのばら売りをしていたのがやけに気がかりだった。
 休憩後、国内線から一路ミンダナオ島のダバオに向かった。暗くなったダバオノ上空から見ると、町は黄色ぽい色の電灯ばかりが目立ち国内第二の都市とはとても思えなかった
間もなく空港に着陸したのはよかったが真っ暗でどこがどこやら分からない。かすかな光に導かれて空港ビルに入と、なんとなんと数十分前に共産ゲリラに襲撃
マニラ国内線でダバオへ
 されて空港の電気が止まってしまったと聞かされて驚いた。
 バスでホテルに着いた。門には武装した警備員がおり、中にも銃を下げた警備員が巡回していた。この中だけは安全なので外に出ないように注意があった。
 夕食もそこそこに南天を観望した。敷地は広い、そしてここは北緯7度5分。星雲の写真を撮っていた経験では、特に空が暗いとは思えなかったが、7倍の双眼鏡で結構楽しめた。初めて見る南天はオリオンが北側に。そこから下がってシリウス、
左に南十字星、右にη-カリーナ(エータ−カリーナ)
カノープス、ニセ十字その下にやや小ぶりのサザンクロスが結構高い。隣に控えめな宝石箱、そしてη-カリーナまで確認できた。残念ながら小マゼランは地平に消えたようで確認できなかった。
 次の朝、少し早く起きて庭を散歩していたら銃を下げた警備員が近づいて話しかけてきた。500円硬貨を出しドルに替えてくれと言う。標準レートで交換したら、こんなに沢山くれてありがとうと日本語で礼を言われた。
ホテルの朝
観測のリーハーサルとテレビ取材。 ホテルの椰子の実採り
 2日目は各人リハーサルをした後、ダバオ湾の観光があった。船の予約をしたが、何時まで待っても船が決まらず、やっと決まったと思うと燃料がないとかでまた待たされた。待つ間、付近を見ると対日輸出用のなかなか立派なバナナが作られていた。また、小さな子どもや大人が黒珊瑚を磨いたままの石を売りに来たりした。
 2時間ほど待たされて、もういい加減にいやになった頃に、少年の操る小さな舟がきた。何人乗れるのかと見ていたら、窮屈な中にみんな押し込められた。舟は独特の補助艇を付けておりバランスがよかった。出航すると少し大きめの船に西洋の観光客がゆったりと乗って、同じようなコースを回っていた。料金は違うのだろうが白人は優先されているように見えた。

            湾内一週出発
船を操る少年
 少し行くと島がありシュロの葉でふいたような休憩所があり飲み物などを売っていてのどかな雰囲気だった。島の先端には旧日本軍のものと思われる砲台の跡があった。海岸線の岩浜は荒らされていないので小さななまこなども多く磯の生物が豊かだった。
 午後は市内を観光したが、ダバオは対日感情はあまり良くないようだった。戦争中の日本軍の組織的な行為がそうさせたのだろうが、詳しいことは何も知らないままいくつかの生の体験をした(戦時中、移住した日本人やその子孫も多く抑圧され最下層の生活をしている人も多いと言うことを後日知った)。
お隣さんの船
島の海岸線 島のレストハウス
  ここまで来たのだからドリアンを食べるということで、ある店先で20人ほどの全員降りて、味見をしたり写真を撮ったり付近を見て歩いたりしていると、物珍しいのか近所の人が皆こちらの方を見ていた。子どもが宝くじを売りに来て断っていると、道路の斜向かいにたむろしていた7〜8人の男たちの一人がこちらに気づき、何やら怪訝な様子になったかと思うと急に大声を上げた。それも日本語で「日本人だ!!日本人が来た!!」と叫んだ。その一声でその意味がすべてが感じられたような気がした。
交通事情
 その後何も起きなかったがさすがカメラは向けられなかった。その翌日自由時間に町にゆくチャンスがあった。添乗員からは止められていたが、数人ずつに分かれて買い物や見物に出かけた。ところが数人の小グル−プは何の違和感もなく町に受け入れられた。私の同室のSさんが大きいビデオカメラを肩に担いで撮影しながらデパートを歩いていると、その後ろに現地の子どもたちが誇らしげに着いて歩いた。大人たちはそれを微笑まししく見守りように見えた。最上階で当地自慢のシャ−ベットを食べたが全く自然にとけ込めた。この落差は何だったのだろうか。
 日食の方はというと地形性の雲がでてよく見えないという情報を聞いた。当日は地形性どころか全天に雲が現れた。ツアーは2班に分かれ、ガイドの反対を押し切って、車を借り上げ移動した人たちもいた。話によると、途中で武装した共産ゲリラが現れたが「We are scientists from Japan to see totally solar eclipse.」というと通してくれたという。
このお天気では
 また、アキノ大統領がヘリで見に来たとも、しかし、果たして皆既日食は雲に阻まれ寸前で見られなかったと聞いた。
  ホテル居残り組(多くは観測機材が多く身軽に動けない人たち)は多くはホテルのプ−ル前に陣取りその瞬間を待っていた。厚い雲があたりを覆い観測どころか見ることも不可能と悟った。しかも追い打ちをかけるように、
 見えないものとあきらめていたが、第2接触のその瞬間ひときわ長いプロミネンスと淡い内部コロナが雲間に見えたと感じた。機材にはパラパラと雨があたりはじめた。

 
見えない皆既日食
 ほんの一瞬だった。シャッターを2回切ったところでもう何も見えなくなってしまった。思えば長い2分50秒だった。
  次の日の早朝、出発前に新聞売りの小学生くらいの少年をやっと見つけ2ペソ(定価)で一部購入した。それに気づいた他のメンバーも「いくらだった」「2ペソ」などといいながら、少年の前に集まってきた。まとめて買う人もあり、2ペソのはずの新聞は少年の機転であっという間にどんどん値上がりし、売り切れてしまった。
厚い雲を通して見た第2接触の瞬間
第3接触を終わって  観望用特製団扇
 彼は何日分の収入を得たのだろうか。需要と供給の関係でものの価値が決まるということを彼はよく知っていた。
 私たちはダバオを立ち、セブ島に1泊する予定だった。セブに着いてまず聞いたのがダバオ空港はゲリラに襲撃されたということだった。離陸して間もなくだったようで、運良く2回(3回の人もいたが)免れることができた。
3.19 付けデイリーミラー紙 2ペソ
 
 お決まりのコースをバスで回った。町の商店は露天でも鉄格子がはめられ、市場の他は土産物屋も物々しかった。塀の上には割った瓶などが並べてあるのが目立った。  ランを栽培輸出している農園や猿を食べるという白頭鷲を見物したが、フィリピンでは犬を食べるということを聞かされびっくりしていたら、そこの園主に日本人だってこの間まで食べていたではないかとくってかかられまたびっくり。
バスから軍隊の行進(セブ)
 ホテルにはいるとホテル外では買い物をしないでくださいという。砂浜に面したホテルは柵で囲まれいた。浜辺の露天などでモータボートに乗って沖で法外な金銭を要求されるトラブルが多いという。しかし、夜になるとみんな海岸に望遠鏡など出して南天を見たり、写真を撮ったりしている。やけに近所の人が親切で機材を持ち逃げされるかと思い冷や冷やしていた。
 しかしなんと話に出た露天のお兄さんと出会い話が弾んでしまったのだ。彼は私と同室のSさんにこんな意味のことを話してくれた。「自分たちは海岸で店をやっているがホテルと同じものを売っているのに、お客はホテルにとられてほとんど来ない。
バスで着いたマーケットの入り口
生活するのには月最低でも日本円で5,000円位はかかる。ホテルと契約しているガイドの娘とは近所同士だったが、あちらは金回りがよくなり、生活も派手になった。旅行業者とホテルそしてバス会社がグルになって利益を独り占めにしているので、自分たちにはおこぼれはない。それでついつい悪いこともしてしまう」と。話の後にSさんはもう使わないからといって三脚を彼にあげた。彼はブロークンかと聞いて確認した。彼は店からコーラを持ってくるからここで待っててくれといって100mほど向こうの店に歩いていった。15分待ったが彼は来なかった。もう他の仲間が戻り、2、3人しかいなくなった頃の30分後に彼は瓶コーラを2本もって戻ってきた。
サンペドロ城塞(1738年)
彼は飲まなかったが、Sさんと2人でごちそうになった。しかし、それは果たして冷えていなかったのである。
 彼に礼を言いホテルに戻った。もう売店が閉まっているので、ビリヤード場におみやげ用の地元のタバコを買いに一人で行った。カートンで2つ売ってもらおうとしたら、計算ができないようだ。どうやら理由は1カートンにいくつはいっているのか分からないからだった。確かにカートンの中は目で直接見ることはできない。数字を示したり、バラの箱を10個並べて見せても半信半疑のようだったが買うことはできた。ピアジェの実験みたいだった。
 フィリピンは衣料品や紙類は極端に不足しているのかテッシュペーパーはホテル室内でもごく少量しか置いていないし、レストランでも紙ナプキンがなかった。チェックアウト後の忘れ物は気をつけるように言われていたが、上っ張りを1枚忘れてしまいすぐ戻ったが、なかったといわれた。そしてゴミ箱に捨てたものも同様であったのには驚いた。飲まずに置いてあった缶ビールだけはそのままになっていた。

  日本では夏の天の川が有名だが緯度が下がると天の川が水平線(地平線)の
マジェラン・クロス(1521年)
サンペドロ城塞で(左 鼓笛、右 ダンス)
平行に横たわる。銀河の中心といわれる射手座の方向に有名なサソリ座があるがこのあたりにくるとサソリが立ってしまう。釣り針座とはよく言ったものだと思う。
  日の出前に、その銀河を見てから帰国のため早朝空港へ出かけた。空港で待たされこと待たされること、お昼が過ぎても搭乗できなかった。もしかしてマニラ−セブ間で事故があったのではいかと思ったが、全く情報は入らなかった。フィリピン航空の貴重な国際線ジェット機はその日故障してしまい離陸できなかった。その日はついにホテルで機内食を食べる羽目となってしまったのである。
セブ市庁舎通り
夜明け前、水平線に横たわる銀河(天の川)(広角)
サソリ、へびつかい、射手、南のかんむりなどが見える