新潟空港を離陸して間もなく、綿菓子のような数え切れない積雲が日本海上から立ち上がっているのが見えた。
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6人がけの小型のジェット機、消毒をしたのかDDTのにおいが強かった。
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1 イルクーツク ・ バイカル湖編 |
イルクーツク市の地図の一部(真ん中がアンガラ川)
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空港ではイルクーツクの気温はマイナス4度だったが、意外と暖かい感じがした。しかし、いつものことだが手荷物チェックが遅くてきつい。愛想が悪くこちらからあいさつしても返事がない。
ここは夏に1度来ている。チェルスキーのあの見えなかった皆既日食の時だ。今回は時間が少なく忙しい。20時過ぎインツーリスト・ホテルに入った。朝、目の前に川が見え、対岸に列車が見えたがそこにイルクーツクの駅があることに気づかなかった。
今回は季節が冬というか早春で、町並みは以前と少しも変わっていないように見えたが、自由化されて物資が豊かになった。たとえば有名なファーストフードやコダックの同時プリントの店、商店にはミノルタのカメラ(旧式ではあるが)がショーウインドーに並んでいた。半面バザールでは壊れて使えない電卓までもが売られているのが見受けられた。レストランの食事は量質ともに豊かになったのには驚いたが、話題になっているように何か月も給与を支給されない多くの人たちがいるなかで、明らかにそれと分かる一部の時流に乗った人たちがレストランで騒ぎながら食事をしているのが目についた。
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アンガラ川の向こうにイルクーツク駅遠望(ホテルの窓から)
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太陽研究所
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翌朝、ロシア科学アカデミーの太陽研究所で今回の皆既日食についてロシア語で情報をいただく。その後バイカル湖へ。
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市内を走るトロリーバス
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こちらはちょっと珍しい2連のトロリーバス
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バイカル湖の御神渡り
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凍りついたバイカル湖(一部氷が割れている)
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バイカルとはタタール語で「ゆたかな湖」という意味だと聞いた。面積は琵琶湖の約46倍とか。1月から4月までは氷結している。この時期は約2m。
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氷の溶けた対岸
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対岸の家
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氷上のサッカー
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昼食に出た魚「オームリ」(バイカル湖の固有種)
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ここではチョウザメは採れないとか(ものの本では採れるとあるが)。これはオームリ(サケ科)の塩漬けで結構おいしい。
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2 チタへ |
イルクーツクからチタへ(人数の割に多い荷物にビックリ)
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バイカル湖の氷上に映る機影と車の轍の跡(左下)
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チタ市都市地図の表のデザイン
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まもなくチタ・カダラ空港に着陸
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チタは1653年越冬部落として発祥したという。シベリア鉄道を貨車が走っているのが見えるが、この辺はシベリア抑留者の旧日本兵が鉄道建設に酷使されたところである。
チタ市の地図を買って見たがカラダ空港の滑走路は描かれていなかった。
今回はLIVE ! ECLIPSE97の仲間に入れてもらった。世界で初めて皆既日食の生中継をネットですることになったが、通信装置のインテルサットが空港で持ち出せなくなった。なんやかんやで通過したが、これだけでは済まなかった。その後さる通信社のかたが多分無許可で送信したらしくこちらが疑われることになった。
チタのホテルはエレベーターガなかった。5階まで数十キロの荷物を移動する。足下が見えない上に1段1段の高さが微妙に不揃いなので何度もけつまずく、やれやれ大変。さすがロシアです。
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チタ気象台(建物はボロだが)
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気象台のプレート
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気象台長の説明(前日快晴無風のチタ)
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9時に出発して気象台へ、気温はマイナス16度だった。女性台長さんの明日の予報では、シルカ地方は高気圧の影響で3月9日の午前中までは晴、チタ地方は低気圧の影響を受けて曇る可能性がある。モンゴルダルハンは曇りという予報だった。結果的には予報は的中し観測地ペルボマイスキーは朝から快晴だったが予報どおり午後からは曇った。皆既がもう数時間後であれば×であった。
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露天
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露天(確かニンニクを売ってました)
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バスがくるまで
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バスに乗る
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バス停へ
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バス停へ
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こんな遊びもしています
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車がとぎれない
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街で
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街で
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たまたま目にした結婚式
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チタ駅からペルボマインスキーへ(チタ発20:50)
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ソンツェバーヤで下車(1:50)
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シベリア鉄道の駅のホームは日本の半分くらいの高さしかない。列車は動輪部分が大きいのでホームから列車の床までは相当の開きがあり、大人の胸くらいある。日本なら同じ高さなので問題ないが、ホームから両手で手すりをつかんでステップを2段上がって3段目が列車の床になる。荷物を肩に担いで列車に入れるのは初めての経験だった。手分けをしてホームに並べた荷物を数人がかりで列車の入り口に押し込み、通路に並べる。
降りるときも、通路の機材を全員役割分担をしてホームに降ろして、線路をわたって出口ののホームに並べる。それでも降車位置がホームにかかればそ幸運である。意外とホームは短い。(さすがそれは経験しなかった。地面からだとスーツケースに手が届かないと思います。)
それから、旧式のトラックに積み込む。 どこへ行ってもポーターという職業はない。空港や駅でのトラックへの荷物の積み込み、ホテルでの荷下ろし、おまけにホテルにエレベータがないこともよくある。旧ソ連では自由に旅行はできなかった。その名残は今も続く。
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コンパートメントでのくつろぎ
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しかし、列車のコンパートメントの中は楽しい。凍てつくデッキから戻り、一杯約20円の紅茶を(女性の車掌さんがサービスしてくれる)飲み、石炭暖房の火花が窓の外を流れて行くのを見ながら、寝ないで好きな話に花を咲かせた。
最後部に行ってみると恐ろしいほどバリバリに凍っていました。
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3 シルカ ・ ペルボマイスキー |
観測地周辺と中心線
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シベリア鉄道を越えてペルボマイスキーへ
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ペルボマイスキーの家並み
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サッカーをしていた少年たち(シバンダ・サナトリウムの前で)
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このシバンダ・サナトリウムは夏場の避暑地だそうだが、私たちのために営業してくれた。もちろん売店兼バーもその間だけ営業した。それもほとんど朝まで。日本からのお客さんにとても親切にしてくれたが、いつも誰かに見られていた。もともとチタ近辺は軍事基地がありチェックが非常に厳しいところだ。
この辺の人たちは、いわゆるインスタント・カメラは知らないので、ものすごい人気だった。現像された写真の取り合いである。ロシアは今でこそコダックなどが入っているが、前回の時は独自の現像技術を使っていたのでコダック方式ではDPEができなかった。
ひとつ残念なことがあった、夜、子どもたちがそれぞれに着飾り、日本から来たのお客さんに交歓の意味を込めて訪問してくれた。私たちも子どもたちのおみやげをあげようとしたら、大人たちがそれを許さなかった。理由は子どもの時間ではないということらしかった。ここにも日本では考えられない厳然とした線引きがあった。表にヘールボップが見えていて確か9時半位だったと思う。私たちは二重の玄関の向こうの寒い外でおみやげを子どもたちに渡した。そして、真っ暗な中を帰っていく10数人の子どもたちを見送った。建物の中は写真の取り合いとヴォトカで大騒ぎ。
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サナトリウムの臨時売店で
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当日の日の出
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設定を終えてまず一息、後ろを見るとなにやらものものしい
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地平線にこそわずかな雲があったが、シルカ・ペルボマイスキーはすばらしい快晴だった。皆既は6回目だったが、霞一つかからない抜けるような青空での皆既日食は初めてだった。
後ろの車は電波監理局。たくさんいます。赤いバスの前がそれようの望遠鏡とインテルサット、バスの中でチャプターして送った。無事送信された。
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うれしそうに私の望遠鏡をのぞく地元の女性
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ロシアは90年にやはり皆既日食で来ている。そのときはハバロフスク〜イルクーツク〜ヤクーツク〜ペベック、そこでプロペラ輸送機に乗り換えチェルスキーと運良く北極海の近くまで入った。もちろん観光では入れない地域であった。
当時から見れば随分良くなったようにみえる。あの時はハバロフスクには空港にターンテーブルがなく、冷房の壊れて狭い待合室で長時間待たされた。チェルスキーでの待遇はとてもよっかったが、
途中のホテルでの食事は粗末で紅茶に入れる砂糖だけがどんぶりのような大きな入れ物にて山盛りにして置かれていたのが異様だった。飲み物は水と自家製のジュースだけでビールやコーラははベリョースカに行っても手に入らず、バイカル湖の売店で初めて缶ビールにお目にかかった。むろん、町のマーケットには埃のかぶった缶詰・瓶詰め以外に食品がほとんどなく、生鮮食料品や衣類はバザールにはあったが高価だった。
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当局の監視の中での観測
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皆既中の太陽
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マイナス30℃という過酷な中での撮影だったのでカメラのシャッターが作動しない人もいたが、私はアラスカでのオーロラ撮影の経験があったのでクリアできた。
しかし、写真は目で見たようには写らない、コロナの見え方もさることながら、カメラのファインダーにはっきり見えていた赤いプロミネンスが全く写っていなかった。(絞りのせいか、フィルものせいか)
日食は双眼で見るのが最高だ。目前に皆既日食、天頂にはヘール・ボップ彗星が同時に見えた。こういう日食はもう見られないかもしれない。今回の日食で大半の人がモンゴルへ遠征し悪天に見舞われたと聞いた。
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外部コロナ部分拡大
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上の写真の左下部分を拡大したもの。645の2,000mmということで一応見られる写真になった。拡大写真を見たい方は画像をクリックしてください。ISO50ですがフィルムの粒子が見えてしまいました。
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五藤光学の映画撮影
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五藤光学の撮影隊が同じ場所に入った。彼らはこの2年間続いた「百武」、「ヘール・ボップ」彗星を追っているようだった。重装備で規律ある行動は一目でプロ集団と分かった。
撮影後、グループ内の3人について観測の様子を映画撮影してくれた。その様子は「蒼き尾の星・彗星」の試写会で見ることができた。ハバロフスクからまた厳しい荷物チェックを受けて無事帰国できた。次回は’98.2.26ベネゼーラです。
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