大会参戦記

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第10回スーパーロードR353イン四万

(2000.07.02)

第8回の方を先に読んでね。

− 魔物の正体は、おかまボクサー? −

   7月2日、四万温泉に於いて『第10回スーパーロード四万』が行われ、MTBクラスに出場してきた。この大会には毎年出場しているのだが、ここ数年はMTBクラスにエントリーしている。3年前は2位、一昨年は5位だったのだが、昨年は13位であったので、今年は問題点を反省して対策を練ってきたつもりだ。まず、タイヤを交換。近年の上位入賞者が皆、細いタイヤを選択していたにもかかわらず、私は重いホィール(スピナジー)に太いタイヤ(26×2.0)をはいていた。今年はそれを軽いホィールと細いタイヤ(26×1.0)に交換した。これで、500gは軽量化できたし、走行感も軽くなった。
 そして当日、コースは温泉街の旧道と、川の対岸の国道を使った1周6
kmの周回路である。スタート地点から激坂で一気に対岸の国道まで上り、そこからは広い国道の3つのトンネルをくぐり、最低地点まで下る。後半は、温泉街の狭く曲がりくねった道を緩やかに上りながら、スタート地点に戻る。路面はドライだが、トンネルの中は前日の雨でまだ濡れている。
 受付で選手登録をしてヘルメットキャップ(ゼッケン)をもらう。そこで、いつも大会で顔を合わすメンバーに会った。一人怪我で欠場するらしい。順位が一つ上がったと思った。我ながら弱気なものである。優勝するつもりならば、はじめからそんな事は思わないはずだ。
 11時、スターターのピストル音で予定通りスタート。最近では電子音での合図となっていて、以前の様に火薬がしけていて、”プスッ”という音での間抜けなスタートもなくなった。スイッチは勿論ピストルの形をしている。
 さて、約40人が一斉にスタートした。最初のトンネルを抜けるまでは先導車が誘導する。明るい所から急にトンネルに入ると、一瞬何も見なくなる。前のクラスでもトンネル内で接触による落車があったらしい。その為にゆっくりと先導するのだと言っていたが、みんな車の後ろにくっついてしまった。トンネルを抜けたところでローリングスタートになったが、全員が一塊りとなって坂を下っていく。ブロックパターンのタイヤの人もいるので、ロードクラスと違って、集団走行は騒がしい。
 国道を下りきって旧道へ左折していく所は逆バンクになっているので、かなり減速する。下りで遅れた人たちも追いついて、集団はますます固まってしまった。旧道は狭く曲がりくねっているので、買いに埋もれている内に逃げを決められないように、とりあえず、10番手当たりをキープしておく。
 案の定、一人が逃げ始めた。もう一人がそれを追い始めたが、諦めて集団に戻ってきた。逃げが決まってしまったが、まだ1周目なので様子を見よう。
 温泉街の旅館やホテルの人たちも沿道に出てきて声援してくれる。また力が湧いてくる。
 旧道は狭く、また、緩やかではあるが上りになっているので、集団は縦に長くなってきた。先頭は一人で逃げている。差は、100
m程度。
 スタート地点に戻り、2週目に入った。ループ状の橋の急坂を上る。ここが正念場だ。おいて行かれると、下りで追いつくために体力を使い切ってしまい、その後の上りが厳しいので、苦しくても頑張る。坂を上りきると、真っ暗なトンネルに入る。どうやら2位集団に残れたようだ。接触しないよう身長に前車について行く。そしてトンネルを出ると、2名が20
m程先行していた。約4人でそれ追う。やっぱり集団は速い。じきに追いついた。
 振り返ると2名が口を大きく開け、喘ぎながら遅れ始めている。その後ろには、誰も見えない。2位集団は4人に絞られた。逃げている先頭1名との差も縮まった様に見える。
 旧道に入り、ここからゴールに向けて駆け引きが始まる。とりあえず4人で先頭交代をしながら、九十九折りの向こうに見え隠れする先頭を追う。しかし、差は思うように縮まらない。自分としては、1位にならなければ2位でも5位でも同じだと思うのだが、中には3位までに入りたい(トロフィーがもらえる)と思う人もいて、先頭を引かない。やがて私も足が限界に近づいてきた。あと500
mという立て札まで来ると、諦め半分という気持ちだ。差はいっこうに縮まらない。
 いきなり後ろの2人がスパートをかけた。これで私はすっかり諦めてしまった。必死に追うでもなく、そのままゴールまで走った。一応、5位入賞。

 さて、表彰式まで時間があるので、出店をひやかしたり、知り合いと話したりして時間を潰す。MTBクラスの3位から6位までは、いつも顔を合わせる連中なので、話も盛り上がる。
 3位に入ったO氏は、『ゴール手前でスパートしたけど、あれに付いてこられたら、俺の負けだった。でも、どうしても3位以内に入りたかったから、その前は先頭を引かなかった。』と言っていた。私は、気持ちで負けていたみたいだ。
 4位のW氏は前橋の『みのむし市川』という古豪チームで、ロードレースではJCRCのAクラスで走っている。最近よく話すようになったのだが、顔が、前日TVで見たタイのおかまキックボクサーにそっくりなので、話しながら思い出し笑いが出て困った。人が良いのにつけ込まれて、先に帰った仲間の抽選券を10枚くらい持たされていた。全部当たったら、どうやって持って帰るのだろう。
 6位のK氏は、私より年上なのだが、マウンテンバイクの大会では、私より速い。今回は勝てて良かった。

 


草津MTBフェスタ 2000シリーズ第1戦

(2000.05.28)

草津


 
5月28日、草津しづか山スキー場に於いて、『草津MTBフェスタ』が行われ、出場してきた。天気予報では雨と言われていたため、マッド・コンディション用のタイヤも用意して出かけたのだが、朝方から晴れ間が見え始め、9時30分のスタート時間には、強烈な日差しが照りつけてきた。
 県内の大会では何時も顔を合わせるライバルたちも勢揃いであった。以前、うちのチームメイトであったブラジル人(第6号に登場)も、前橋のチームから出場していた。2年前にはお互いに片言の英語で話していたのだが、彼も今では日本語で話せるようになっていた。
 クロスカントリーのコースは、ゲレンデと管理用林道を使用した1周5
kmの周回コースであった。廃鉱になった硫黄鉱山の前を通ったり、盛り土で作ったテーブルトップ(ジャンプ台)があったり、変化を付けたコース作りであった。地元草津の実行委員会の汗と涙の結晶である。残念なことに、直前に営林署からのクレームと前日の雨でコースが急遽変更になったらしいのだが実行委員会の熱意と行動力には感服した。
 さて、私の出場した男子Bクラスは、3周回の15
kmで争われる。参加23名は、ちょっと寂しいが、人数の多いAクラス(距離10km)や強豪揃いのCクラス(20km)と比べれば、走りやすいと言えるだろう。
 9時40分、Bクラスはスタートした。まずは一気にゲレンデを登り切るコース設定である。作戦としては、ここで2〜3番手に着けて、下りで様子を見ようと思っていた。だが、実際にはスタート5番手からズルズルと10番手くらいまで下がってしまった。苦しいのだが、心拍数は上がらない。いつもなら190迄は上がるのだが、今日は170でも苦しい。一昨日の『
TOUR OF JAPAN』の疲れが残っているのだろうか。下りに入ると、すでに集団はばらけ、力の似通った連中と抜きつ抜かれつしながら、レースは進んでいく。下りに強いものはそこで稼ぎ、登りに強いものは坂で頑張る。
 そして最終周回、一人の選手と競り合いながら、あと半周というところまで来た。此奴を抜いてゴールしたい。作戦を立てた。まず楽なのは、暫く後ろについて走り、体力を温存する。そして、ゴール前の最後の登りで頑張って抜く作戦だ。
 ところが、其奴は水のボトルを取ろうとしてバランスを崩し、コース脇のパイロンを跳ね飛ばして失速してしまった。仕方なく、私は前に出て走ることになった。追われる立場は、精神的にもきついが、相手を見ながら走れない分、ペースが掴みにくい。ピッタリと後ろにつかれると嫌なので、引き離しにかかった。ゴールまで約400
m、最後の登りにさしかかったとき、振り返ると差は約20m。彼が登りに強いのは前の周回で分かっているので、諦めさせる為に尚もペースを上げる。心拍数は190を越えた。吐きそうな程苦しい。遂に、ゴール手前で力つきてペースダウンしてしまった。おそるおそる振り向くと、彼は諦めたのか遙か後方であった。右腕を突き上げ、ガッツポーズでゴール。順位としては6〜7位くらいだろうが(そう思っていた)、最後まで集中して走れたので良しとしましょう。
 表彰式は午後4時からだというので、帰宅することにした。例のブラジル人はCクラスで優勝したので、4時まで時間を潰すと言っていた。ライバルたちと次の大会での再会を約束して、会場をあとにした。
 そして数日後、草津町のホームページを見ると大会の結果が載っていた。私はBクラス3位になっていた。う〜ん、久々の表彰台だったのに・・・。

 

第8回スーパーロードR353イン四万

(1998.07.05)

四万
第7回の方を先に読んでね。

− 四万に魔物の背中を見た −

 7月5日、四万温泉に於いてサイクルロードレース、第8回スーパーロード四万が行われた。国民宿舎『ゆずりは荘』をスタート地点とする1周6kmの周回コース。私が出場したMTBクラスは、これを2周する。去年、私はこのクラスで準優勝だったので、今年は優勝するつもりで練習してきたのだが・・・。
 受付をしてゼッケンとプログラムをもらう。真っ先に選手名簿に目を通す。去年の優勝者はエントリーしていないのだが、名の通った選手が数名載っている。しかも、チームメイトであり、ライバルでもある茂木の名前もある。因みに、彼の方が私より2年若いのだが、皆から『茂木のじじい』と呼ばれている。
 スタート30分前。早めに召集地点へ行き、スタートの位置取りをする。顔なじみの選手と挨拶を交わし、今年は調子が悪いとか、全然練習していないから駄目だとか三味線を引き合う。学生時代の試験の時と全く同じだ。
 国民性の違いなのだろうか。チームメイトに1人ブラジル人がいたのだが、以前一緒にロードワークに出たとき、上り坂で喘ぎながら彼は、『オレは、マウンテンバイクなら速いゼ。』と片言の日本語で嘯いていた。そしてその言葉通り、彼は次の週のMTBレースでキッチリと優勝していた。ブラジル人、ゴーホーム。
 話は戻るが、前橋の強豪チーム《ミノムシ市川》の選手の話だと、《ミノムシ》からも1人、有望な若手がMTBクラスに出るのだそうだ。其奴は本当はロードレーサーの上級クラスにエントリーしていたのだが、先週、練習中に落車をしてロードレーサーを壊してしまい、急遽MTBクラスに出ることにしたとのこと。さっきから召集場所の回りをぐるぐる回って、ウォームアップしているのが其奴だ。これで今回の私の優勝はなくなった。魔物め! スタート前から策を弄しやがって。
 出場者約50人中の中程からスタート。序盤は様子を見ながら行くことにした。2km地点の下り坂で『茂木のじじい』がスパート。先頭集団から一人で抜け出した。調子が良いのだろうか?チームメイトとしては、一緒に協力して二人で逃げるのが最善策なのだが、今日の私にそれほどの力はない。『茂木のじじい』は1人で逃げ続けた。しかし、集団とは差が開かない。下りきった所で、集団に吸収されてしまった。
 温泉街に入ると上り坂になるが、道幅は狭く、曲がりくねっている。ペースの落ちた選手を巧くかわしながら、先頭集団に着いていく。やはり今年はレベルが高い。かなりのペースなのだが、まだ先頭は集団を保っている。1周目が終わり『ゆずりは荘』に戻ったとき、無理なペースアップが祟ったのか、『茂木のじじい』も集団から千切れてしまった。心拍計に目をやると 190を差している。苦しい。しかし、この先の激坂で必ず誰かが仕掛けてくる。
 ロードレースの場合、戦いの相手は空気抵抗と重力である。平地を1人で走っているとしよう。空気抵抗のため、時速40kmが限界のスピードである。しかし、誰かの後ろにピッタリと付いて走ると空気抵抗が減少し、体感的には半分の力で走れる。それが集団の中となると、隣の人と世間話をしながらでも走れるようになる。集団は先頭を交代しながら走るので、1人より集団の方が、確実に速く走る事が出来る。その為、もしも集団から遅れてしまった場合、その集団に追いつくためには、物凄い労力を必要とする。何かのトラブルで遅れてしまう場合を除けば、力尽きて集団から落ちて行くことが殆どなので,一度集団から千切れてしまうと、再びその集団に1人の力で復帰することは殆ど不可能である。
 もう一方の相手、重力とは坂での負荷なのだが、坂では平地とは様相が違ってくる。パワーで押すタイプが平地で速いのに対し、パワー/ウェイトの高いタイプが坂では強い。スピードが落ちるので、空気抵抗の影響は少なく、個人の登坂能力が実力通りに現れる。差が付きやすいので、集団はばらけやすい。
 さて、登り坂にさしかかり、案の定、集団はペースを上げた。坂に強い人は後続を引き離すために、弱い人はなるべく離れないように、頑張る。なんとか、10人に絞られた先頭集団に残り、頂上付近の真っ暗なトンネルの中に入った。
 トンネルの中は暗闇だった。微かに前の人のシルエットが、出口の光に浮かび上がっていた。他車と接触しないように、慎重に行った。ようやくトンネルを抜けて前を見ると、なんと、集団から1人抜け出ているではないか。あのジャージの色は《ミノムシ市川》。魔物は自らが仕向けた刺客をトンネル内でワープさせたのか?魔物は見る見るうちに差を広げ、集団から 50m程先行してしまった。下り坂に入っても、魔物のペダリングは衰えない。このまま、独走で逃げ切られてしまうのだろうか。
 下りでも、コーナーが続くようなら1人逃げも有効かもしれない。しかし、ここの下りはほぼ直線。しかも、今日は向かい風となっている。この風が魔物の体力を奪ってくれれば・・・。
 私は、集団の中で体力を温存しながら、下りを終えた。あとはゴールまで、温泉街をひたすら上るだけだ。
 自転車競技に於いて、勝つというのは、1位になること。2位以下は、全て負けなのである。勝つためには、自ら仕掛けて集団から抜け出し、魔物を追わなければならない。しかし、途中で力尽きてしまえば、集団にも残れないだろう。集団は7名。このままでも6位までの入賞は手に入るだろう。
 前を走る魔物の背中が、やけに大きく見える。その存在を誇示するかのように。
 いや、魔物との間が詰まってきたのだ。と思う間もなく、集団は魔物を吸収、8名の先頭集団となった。おそらく、最後は集団のスプリントになるだろう。集団の中の良い位置をキープして、ゴールまで行きたいのだが、こっちも限界に近い。前に出るどころか、ついて行くのがやっとだ。
 ゴールまで約500m。後ろの2人が遅れだした。6人の集団の最後尾で付いていく。魔物は4番手にいる。会場のアナウンスがゴールが近いことを告げている。
 さあ、ゴールが見えてきた。スプリント合戦の開始だ。全員サドルから腰を浮かして、ダンシングの体勢に入った。最後の力を振り絞って、モガキ続ける。1人抜いた。そしてもう1人・・・。並び掛けたところでゴールラインを通過。
 今年も魔物には勝てなかった。トップから 2.4秒、魔物とは0.05秒差の5位であった。

 

JCRC第5戦FISCO

1998.05.21

fuji

 5月21日、静岡県の富士スピードウェイに於いて、JCRCロードレースシリーズ第5戦が、ツアー・オブ・ジャパンの前座という形で開催された。レースは90分耐久という形で、全クラス一斉スタート。周回遅れにならずにゴール出来れば、階級を1つ上がれるというボーナスレースだったのだが・・・。
 1周目、実業団が引っ張る先頭集団に登りで着いていけず、早くも第2集団に甘んじてしまった。しかしその後は、先頭集団から千切れてきた者を吸収し、疲れ果てた者を振り切りながら第2集団をキープしていた。スタートから1時間が経過し、心拍数も170前後で安定していたので、この分なら完走かと思い始めたところ、後ろから先導のバイクの音が・・・。あっという間に周回遅れにされてしまった。結局、Cクラスの出走89人中53位。今年の自転車初レースとはいえ、散々な結果となってしまった。

 

第24回安政遠足(あんせいとおあし)

1998.05.17

サムライ

 午前5時、激しい雨音に目を覚ます。前夜からの雨がまだ降り続いているようだ。トライアスロンや自転車の大会では、よく雨に降られた。しかし、通算110試合目の今日、初めての雨のマラソンになるのだろうか。
 午前8時のスタートから逆算して、3時間前に食事は済ます。私の場合、試合の朝は飯を食う。以前、宮古島のトライアスロンに行った時の話だが、同行したチームメイトは、試合の前に食う為に、餅を持参していった。しかし、空港でガスボンベと網を没収され、仕方なく、彼はホテルの電子レンジでチンして、水飴のようになった餅を割り箸で捏ねながら食っていた。因みに、私の場合、ゴールしてから無性にアンパンを食いたくなるので、遠征にはアンパンが不可欠である。
 さて、駐車場に着いたところで関さんと会い、一緒にスタート地点へと向かう。雨は霧雨程度になってきた。受付を済ませてゼッケンをもらいランニングのウェアに着替える。今回は初めての仮装なのだが、浦島太郎にトライしてみた。出場者の約半数が仮装なのだが、周りの目がちょっと気になる。みんなすごく凝っている。
 ウォームアップをしたり、仮装の人達の品定めをしているうちに、スタートの時間が迫ってきた。スタートの列に並びに行くと、そこには既にユベントスのウェアを着た原さんがいた。雨はすっかり上がってしまった。
 スタートの合図は太鼓の音だ。約千人が一斉に飛び出す。安中市内では、沿道は応援や観戦の人々が途切れることなく続いている。私たち3人は、17.8kmの関所コースなのだが、この位の距離になるとペース配分が重要だ。しかもゴールまで徐々にではあるが上っているコースなので、終盤足にくる。前を走っていた原さんを追い抜きざまに声をかけた。『先は長いから、マイペースでね。』これで原さんはペースを落とすだろう。勝負は貰った。
 一番の観戦ポイントは、旧中山道の杉並木だ。朝の雨にたたられて、去年より少ないようだが、道の両脇には大勢の観客が連なって、カメラやビデオの撮影をしている。勿論、群馬テレビも来ている。
 誰彼となく、声を掛けてくれるのがうれしい。『あっ、浦島太郎だ。』とか、『浦島さん、がんばって』とか言われると、夜なべをして輿簑を作った甲斐もある。しかし、浦島は暑い。雲間から日が射してくると、気温がぐんぐん上がりだした。額や背中を汗が流れ落ちる。気がゆるむとペースが落ちてしまうので、集中して走ろうとするのだが、『浦島太郎!』の声が掛かると、にやけて愛想を振りまいてしまう。
 所々にある私設のエイドステーションに、今回は随分助けられた。ジュースや飴玉を出していてくれるところもあるが、水を貰い、頭からかぶりながら走った。しかし、気をつけないとポカリスエットをかぶって、体中べとべとになってしまう。
 ようやくゴール地点の関所跡に辿り着いたのだが、去年より1分30秒遅れてしまった。来年は、仮装の軽量化に取り組もう。
 其の直ぐあと、原さんがゴール。初めてのマラソンとしては素晴らしい記録だ。関さんも女子としては、10位以内に入っていた。みんながんばった。お疲れさま。

 

第7回スーパーロードR353イン四万

(1997.07.06)

− 四万には魔物が住んでいた −

 7月6日、四万温泉において『第7回スーパーロード’97R353イン四万』が開催された。記者はMTBクラスに出場、残念ながら2位となってしまったが、今期初の表彰台に上がることができた。

 MTBクラスといっても、オフロードのセクションがあるわけではない。他のカテゴリーと同じように、「ゆずりは荘」前をスタートし、ループ状の「ゆずりは橋」を一気に上る。そこから山側の広い国道を下りきると、川を渡り、温泉街の狭く曲がりくねった道を上って「ゆずりは荘」まで戻る周回コースである。MTBクラスは、このコースを2周する。
 午前11時、MTBクラスは約50名で一斉にスタート。中程からスタートした記者は、「ゆずりは橋」の登りで先頭集団に追いついた。実力の差が大きいこのクラスで、作戦どおり1周目は様子を見ながら走る。温泉街の登りに入ったところで集団は約20名。皆まだ元気なので、頻りに前へ出ようとする。記者は2列目あたりをキープしながら、不意のアタックに備える。もっとも、こんなに早くから一人で逃げを決めるような奴には、ついて行ける訳もないが。
 緩やかな登りではあるが、温泉街を進むにつれて、集団からチギレてゆくものが出てくる。記者も苦しい。表彰台に上ることを宣言して家を出てきたのだが、帰ってからの言い訳を考えてしまう。体力を温存するために、集団の後方に下がり、極力風の抵抗を避ける。
 1周目を終え、「ゆずりは荘」に戻ってきた。不思議なもので、見物人が多いと元気が出る。戦闘意欲が湧いてきた。このレース、「ゆずりは橋」の登りがポイントになる。そんな気がしてきた。そして予想通り、橋の激坂で先頭の数名がアタック。記者も、すぐに反応して後を追う。トンネルを抜け、短い登りで追い付いた。先頭集団は6人。振り返ると、後続は見えない。これで6位入賞までは確保。集団の最後尾で坂を下っていく。
 下り坂から左折し、温泉街に入る逆バンク、唯一の高速コーナーで、前の走者がラインを乱したと思うまもなく、後輪をロックさせた。タイヤがバーストしたのだろうか、白煙を上げながらアウト側へふくらむ。しかしながら、さすがはマウンテンバイカー。逆ハンをあてながら視界から消えていった。
 作戦は状況により、刻々と変わる。温泉街の3q先にはゴールが待っている。このまま自分から動かなければ、5人でのゴール勝負だ。スプリントには自信があるが、リスクも高い。その前に、もっと人数を減らすことは出来るか。
 調子の良さそうなのは誰か。最後尾で休んでいた自分だ。ゴールまで、あと1q。集団のスピードが上がらない。試しに先頭に出てペースを上げてみる。ついてきているのは二人だけだ。こっちにはまだ余裕がある。イケる。この瞬間、優勝を確信した。あとはスパートをかけるタイミングだけだ。
 ゴールまで500m。二人を一旦前に出し、後ろからスパートをかけようと、一旦左によけた。と、その時、左側の路肩から一人の老人がふらふらとコースを横切り始めた。こっちには全く気づいていない。右側には後続車がきているので避けられない。仕方なく路肩に逃げる。その判断が凶と出た。こちらに気づいた老人は猫のように後ずさりを始め、記者の進路を塞ぐ形となった。一瞬、はらわたをはみ出させた老人の轢死体が、記者の脳裏をよぎったが、何とか減速し、避けることが出来た。老人への暴言をかみ殺しながら、前方に視線を移すと、50mの先方に二人の後ろ姿があった。
 半分諦めながらも、二人を追う。どうにか二人のケツにつけたところで、片方がタイミング良くスパート。完全に逃げられてしまった。もう一人をゴールスプリントで差して2位でゴール。今期初優勝を逃してしまった。

 

第23回安政遠足(あんせいとおあし)

1997.05.11

(6591 バイト)

 「安政遠足」は、安政2年(西暦1855年)、時の安中藩主板倉勝明候が藩士の心身鍛練のため、安中城内から碓氷峠の熊野権現までの七里七丁(29.17km)を走らせ、神官曽根出羽にその着順を記録させた。その記録が昭和30年、碓氷峠の茶屋から発見され、これを基に復活されたのが、現代版「安政遠足」である。

 5月11日、今年で23回目となる「安政遠足」が開催された。
コースは、安中城址をスタートして、碓氷関所までの関所コース(17.85km)と、さらに長野との県境、熊野神社まで行く峠コース(29.17km)の2つがある。以前出場した17回大会の時に、関所コースを走ったので、今回も関所コースにエントリーした。
 参加者 1,400人の半数以上が仮装で走るので、あまり競技っぽくないのがこの大会の良いところである。仮装の人たちは自分たちのペースで走るので、スタートラインの近く、前の方に並んで待っていた。ところが、出走の時を告げる太鼓の音とともにスタートしてみると、会場前でたむろしていた仮装の人たちがそのままコースに走り出し、あっというまに後方集団のランナーにされてしまった。おおよそ競技っぽくない大会である。安中市内を抜けるまでは前に出られず、ジョギングになってしまった。
 大通りに出ると、追い抜き際に仮装の品定めをしながら、前方のランナーを追う。仮装の中には舌を巻くほど凝ったものもあり、またそれを装備しながら走ってしまうという根性には敬服してしまった。来年は仮装で出てみよう。
 旧中山道の杉並木のあたりは応援と言おうか、見物の人の数がすごい。狭い並木道の両側を二重三重に人が連なっていて、ランナーの一人一人に声をかけてくれる。その中で、人垣を左右にかき分けるようにして走る様は、さしずめツール・ド・フランスのピレネー峠越えを彷彿させる。感激のあまり、全身に鳥肌が立ってしまった。6年前走ったときとは大違いだ。侍マラソンもメジャーになったものである。
 コースは、小さなアップダウンを繰り返しながらも、全般に登り続けているので、練習不足の人にはつらい。私もすでに4月から、練習を自転車中心に変えているので、いいペースで走ると、最後まで足がもつかわからない。松井田あたりで、すでに心拍数は180を越えている。しかし、後ろから仮装の殿様が追い上げてきているので、ペースを落とすわけにはいかない。
 運動負荷の上昇に伴って、有酸素運動から無酸素運動に切り替わるところの心拍数を、一般にAT値と言っている。AT値は、普通の人で最大心拍数(220−年齢)の80%位のところ、鍛えた人だと90%前後となる。私の場合、最大心拍数186、AT値は170台後半である。そのため、心拍数180を越えて走り続けた場合、無酸素運動によって生じた乳酸が徐々に筋肉に貯まってゆき、そのうちに筋肉が凝り固まって、足が動かなくなってしまう。
 結局、横川に入ったところでスピードダウンし、殿様に抜かれてしまった。この殿様はこの後、峠コースで熊野神社まで行くようで、世の中には強い人がいるものである。
 旧道から関所跡への石段を駆け上がり、関所の門をくぐってゴール。 記録は1時間28分41秒で52位であった。6年前より2分30秒縮めたので、良しとしましょう。
ゴール後、参加賞の釜飯をほおばりながら、続々とゴールしてくる仮装の人たちを見物してきた。 来年は皆で出場しよう。