| れいてき修行法の効果
修行法というと、みなさんは疑問に思われることがあるでしょう。 たぶん、「目をつぶって座っていたり、滝に打たれることに何の意味があるのか?」 中には宗教的な意味合いではなく、社員教育の一環で、いやいや座禅を行う人もいるだろうし、単純に「心が落ち着くから・・・」ということで行っている方もいます。 何も考えずにただ目をつぶっていれば、リラックスすることができます。 また、滝行などの過酷な状態に自分を置くことにより、何らかの鍛錬になるのかもしれません。 根気強くなる部分もあるだろうし、やり遂げた充実感に浸ることもできでしょう。 しかし、それはあくまで心の変化でしかありません。 心の変化を求めるのであれば、何も宗教的、霊的な行法ではなくても、武道やスポーツでも同様なことが言えます。 ここでは、あくまで霊的なことを前提とした修行法に触れたいと思います。 実際に修行と言いながら、瞑想や滝行などを行っている人でも、「どうして霊的な力がつくのか?」という簡単なことさえ知らない人も多いのです。 霊的修行法というのだから、自分の霊的な部分の変化がないことには意味がありません。 心とはあくまで、人の表面的な部分です。 心が霊的な部分と関係がないわけではありませんが、心の変化が霊的な変化につながるとは限りません。 それは、ヤクザ映画を観て、肩を怒らせながら映画館から出て来てくるようなもので、その人が急にケンカが強くなったわけでもなく、ヤクザ者になったのではないのです。 霊的修行法とは、霊的な部分を変化させることを目的としています。 つまり、何らかの行為によって霊的なエネルギー、力というものが流れていないと霊的な変化がないのです。 単純に瞑想や滝行するから霊的な力がつくのではなく、そこに第三者いわば霊魂の関与があるから、霊的なエネルギーが流れて来ます。 いかにひとりで、どう力んでみても、自分の力で変化するのは内気(エクトプラズム)程度ではないかと思います。 肉体を丈夫にするのは食品からの栄養であるように、霊的身体の幽体には「幽気」と呼ばれるものが栄養となり、力となるのです。 実際に霊的修行法を行わなくても、ある場所に霊的なエネルギーが流れていれば、そこにいるだけでも変化を起こします。 それが高いエネルギーであれば、人にとって有難いだろうし、低ければ残念としか言い様がありません。 神伝禊法という霊的修行法の初伝は水を使います。 水というものに霊的な力を流してもらうのです。霊的な力が流れて来なければ、単なる水浴びになってしまいます。 そのためには、霊魂に「これから水をかぶりますよ」「霊的な力を流して下さい」と伝えなければなりません。 しかし、霊魂には人間同士の会話のようなコミュニケーションが難しいのです。 そこで霊的修行法の中に作法というものがあるのです。 二拝したり二拍手、それが関与する霊魂との合図、信号となり約束になるからです。難しいのは、霊的に高い霊魂が来てくれれば良いのですが、いたずらな霊魂が関与してしまう場合があるのです。 普通の人には見分けることなどできません。 また、いたずらな霊魂が来た方が、霊能力が目覚めやすかったりもします。 有頂天になり気がついてみたら、いたずら霊魂の仲間入りとなってしまうのです。 大事なことは、霊的修行法を行うことにより確実に霊的なエネルギーが流れていること。そして、それがより進歩した霊魂からの流れでなければなりません。
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