寸劇 「ゆらぐ不動産取引」戻る

2000年秋、ある銀行で不動産取引が行われようとしている。
同年4月から施行された新しい成年後見制度は、果たして権利擁護システムとして機能しているだろうか・・そこで待ちうけるハプニングとは・・・

登場人物

売主 稲田 五郎 (79歳)
5年前に妻に先立たれ、現在一人暮らし。楽しみは週に何度かのスナック通い。
最近、記憶力や状況認識にちょっとおかしなところが現われ出した。

稲田の娘 原沢 ふみえ (45歳)
稲田の実の娘。結婚して実家の近所に住んでいる。一人暮らしの父親のことを常
に気に掛け心配している孝行娘。

仲介業者 西村 正一 (42歳)
稲田と顔見知りの不動産業者。稲田と松岡との不動産取引を成立させようと一生
懸命努力する。

買主 松岡 宏之 (33歳)
今回初めて土地を買うサラリーマン。取引の場では緊張気味。

飯野 あけみ (34歳)
稲田と西村行きつけのスナックに勤める女性。何かと稲田の世話を焼いてくれて
いる。

司法書士 赤城 一郎 (35歳)
開業3年目の司法書士。西村から稲田と松岡の不動産売買の立会を依頼される。

銀行員
 稲田と松岡の不動産取引が行われる銀行の職員。

平日の銀行。舞台には銀行の応接室のセット。
まだ誰もいない。
稲田五郎とあけみが銀行にやってきた様子。(声のみ)
あけみ おじいちゃん。足下気を付けてね。
稲 田 だいじょうぶだよ。(銀行員に向かって)ちょっとおねえちゃん。稲田だけんど、土地を売るんで来たんだけど、どこ行きゃあいんだんべ。
銀行員 いらしゃいませ。まだ、どなたもおみえになっていませんので、こちらの応接室でお待ち下さい。。
稲 田 あいよ
あけみ (稲田の耳元でささやくような感じで)じゃあ、私は、隣の喫茶店で待ってるわね。終わったら、一緒にお昼ご飯食べにいきましょうよ。お金おとさないように気を付けてよ。大丈夫よね。
稲 田 まーず、心配すらっといいよっ。じゃあ、あとでなっ
稲田おじいちゃんが、外のあけみに手を振りながらよろよろと応接室に入ってくる。部屋を見渡し、椅子に座る。

稲 田 あー、どっこいしょと。少しの間の後、仲介業者西村と買主松岡が入ってくる。

西 村 (歩きながら)どうもぉ。稲田さん待ったかい? わりぃね。(椅子に座る)

稲 田   今来たとこさ

松 岡 こんにちは。(挨拶して、椅子に腰掛けようとする)

稲 田 いやぁ・・・。お宅は、えぇと、どちらさん?

西村・松岡、一瞬驚いて五郎を見る。

西 村 (ハッキリと発音すること)稲田さん。何言ってるんだい?(笑いながら。しっかりしてくれよぉという感じで)     買主の松岡さんだよ! 俺の会社で何回か会ったんべ・・・。

松 岡  えぇ。稲 田そうかい。まーず、年取ると忘れっぽくなってねぇ。

西 村  何が年だい。(意味深そうに)今、「スナック」のあけみちゃんに行き会ったよ。どうせここまで送ってもらったんだんべ。まったく隅におけねぇんだから。 (松岡に向って)
さっきの子、俺もよく行くスナックの子なんだけどさぁ、稲田さんは、気前がいいもんだから、もてんだよ。なぁ、 稲田さん。(稲田をよいしょする感じ)

西村のよいしょにご機嫌の稲田老人

松 岡 そうなんですか。(適当に相づちを打つ)

 稲 田 まーず。それだけが、楽しみなんサ。

 西 村 あ、赤城さんも来た、来た。

司法書士赤城一郎が急ぎ足で大股で入ってくる。

赤 城 すいません。遅くなりまして。ちょっとばたばたしちゃって・・・。

松岡立ち上がる

 西 村 あぁ、赤城さん、紹介するよ。こちらが、売主の稲田さん。

 赤 城 (名刺を渡しながら)どうも、はじめまして。司法書士の赤城です。

 稲 田 (名刺を受け取る)どうも。

 西 村 こちらが買主の松岡さん。

 赤 城 (名刺を渡しながら)赤城です。よろしくお願いします。

松 岡 よろしくお願いします。

赤城・松岡椅子に座る

赤 城 (鞄から書類を取り出し)じゃぁ、早速始めましょうか。
今日は、所有権移転の登記に必要な書類が揃っていることを確認した後、土地の代金の残りを松岡さんから稲田さんに支払っていただくという手続をします。
お知らせした書類を持ってきていただきましたか。

五郎ぼーっとしているが、西村につつかれてのんびりした動作で封筒の中を探す。

銀行員がお茶をもって入ってくる。奥から、まず、松岡にお茶を出す。

五郎は銀行員に気付くと、じっーと目で追う。銀行員は松岡に続き、赤城、西村にお茶をだす。

松岡はセカンドバッグの中から住民票を取り出して赤城に渡す。

 松 岡 (赤城に渡す)私の方は、住民票だけでいいんですよね。

 赤 城 (受け取りながら)そうですね。
     稲田さんは、権利書と印鑑証明書です。

銀行員が最後に五郎の前にお茶を出すと・・・。

 銀行員 いらっしゃいませ。

 稲 田 (銀行員を見上げて)あ、どうも。
     じゃあ・・・(一瞬考えて)「日替定食」ひとつ。

 銀行員・松岡・赤城・西村 (一斉に)えっ?

 稲 田 だから、日替定食!

一同、驚いて動作をとめ、五郎の方を見る。少しの間。

西 村 稲田さん。また冗談言ってぇ!(慌ててごまかそうとする。)ここは、銀行だよぉ。定食屋じゃねぇんだから。
     まったく、女の子をかまうんが好きなんだから。まいっ ちゃうよ(必死)。
ほら、印鑑証明書と権利書(稲田の封筒をのぞき、探す)。
     あ、これだよ。(赤城に渡す)はい、赤城さん。

 赤 城 えぇ・・・(心配そう)。
     (謄本等で確認して)権利書と印鑑証明書ですね・・・。
     間違いありませんね。
     (しばらく、印鑑証明を見ながら悩んでいる。そして探るように)稲田さんは、いまおいくつですか?

 稲 田 俺かい? 7じゅう・・・。(考え込む)

 赤 城 (助け船を出すように)大正何年生まれでしたっけ?

 稲 田 (すらすらと)大正9年1月1日。

 赤 城 じゃぁ・・・79歳ですね。ご家族は?

 稲 田 ばぁさんが死んでからずっと一人なんサ。娘は近くにいるけどさぁ。

赤 城 一人暮らしですか。(世間話風に)

 稲 田 娘は一緒に住もうなんて言うんだけんど、一人の方が気 楽でいいんさぁ。娘なんて、まーず、うるせぇだけで・ ・・。

 赤 城 そうですか・・・。(探るように、聞き難そうに)ところで、稲田さんは、裁判所で何か手続されてます? 今日みたいな大事な取引の時なんかに、稲田さんの代わりにやってくれたり、一緒に考えてくれたりするような・・・。「補助人」ていうんですけど、選任されてませんかねぇ。

 稲 田 そんなんわかんねぇなぁ。

西 村 赤城さんが言ってるンは、あれだろ、司法書士会が去年の春に社会福祉総合センターでやった、あの・・・成年     後見とかってやつ。
 
赤 城 まぁ。そうですけど・・・。(言い難そう)
 
西 村 稲田さんは、しっかりしてるから、そんなん必要ねぇよ。

 赤 城 そうですか・・・。(なんとなく腑に落ちない様子。しばらく考え込む)
     (気を取り直したように)じゃあ、稲田さん、ここに住宅地図があるんですけど、今回松岡さんに売るのはどこですか。
 
稲 田 まーず、細かくてよく見えねぇなぁ。
(西村一緒にのぞき込む)

西 村 あぁ。パン屋がここだよ。だから・・・(地図上を探す)
ここだ。

稲 田 あぁ。そうだいねぇ。ここだよ。

赤 城 わかりました(少し考え込む)。じゃぁ、最後にこちらの書類に署名捺印して下さい。それで、書類はすべて整いますので。
(二人に書類を渡し、署名する場所を指示する。ボールペンを渡す。)
ここです。(松岡は署名をする)

 稲 田 俺が書くんかい?(ペンを持とうともせず、不満そうに)

 赤 城 ええ、お願いします。

 稲 田 ここかい?(手が震える。ゆっくりと時間をかけて署名する)

 西 村 (立ち上がりながら)じゃぁ、いいね、赤城さん。

 赤 城 えぇ。

西村、応接のドアの所まで歩いていき、営業室の方に声をかける。

西 村 書類揃ったから、お金の用意してくれる。

 銀行員 はい。

 西 村 (歩いて戻りながら稲田に声を掛ける)
     稲田さん。これでまた、飲み歩くことが出来らいねぇ。

 稲 田 あぁ。この土地売った金は、あけみにもくれてやるんさ。

西 村 えぇ?! このご時世にずいぶん気前がいいねぇ。

息を切らせながら娘ふみえがドアを開けて入ってくる。皆、一斉にふみえの方を見る。ふみえは稲田のところに駆け寄り、

 ふみえ (大きな声で)あぁ、いた!おじいちゃん、こんなところで何やってんの。

稲 田 (一瞬誰か分からないが、娘だと気づくと)
     おぉ、ふみえかぁ。どうした?(何の悪びれた様子もない)

ふみえ 「どうした?」じゃないでしょうが。

赤 城 (西村に向かって小声で)どなたですか?

西 村 (まずいやつに見つかったという感じで)
     あぁ、稲田さんの娘のふみえさんだよ。(立ち上がってふみえに向かって愛想良く)どうもしばらくです。

ふみえ (怒ったように)西村さん、一体ここで、何やってるんですか。

西 村 いやぁ、稲田さんがパン屋のうらンとこの土地売りてぇっつんで、買主探してやったんさ。
なぁ、稲田さん。

 稲 田 あぁ。そうだいねぇ。

 ふみえ なに、私に黙って勝手にそんなことしてんのよ。

ふみえの勢いに赤城、松岡は状況を把握できず声もでない様子。
稲田も驚いている。西村は一人困った様子。

赤 城 (ふみえに向かって)あの、司法書士の赤城です。ちょっと、落ち着いて下さい。事情がよく分からないんです     けど・・・。

 ふみえ 隣の奥さんから、おじいちゃんがハデーな女の人と銀行に入って行ったって聞いて、慌てて飛んできたんですよ。     まさか、土地を売ろうとしてるなんて・・・。

 西 村 (開き直ったように)稲田さんの土地だんべな。どこ売 ろうと稲田さんの勝手じゃねぇんかい。

ふみえ (きっぱりと)西村さん、私は、おじいちゃんの補助人になってるんですよ。それも、おじいちゃんに頼まれて。

西 村  はぁ? 補助人?
(赤城に向かって)赤城さん、補助人てなんだっけ

 赤 城 (手で西村を制して、無視して、ふみえに向かって)ちょっと待って下さい。あなたは、稲田さんの補助人なんですか? 稲田さんは、さっきそういう人はいないって言ってましたけど。

ふみえ ちゃんと、裁判所で手続きしました。書類も持ってきてます。(バッグの中から、審判書を取り出す。赤城の所まで歩いて行き、審判書を渡す。)

 赤 城 (立ちあがり審判書を受け取る。自分の席に戻りながら)えぇと、家庭裁判所の審判書ですね。(書類を読む)
確かに、ふみえさんが補助人に選任されています。不動産売却についての同意権と取消権を持っていらっしゃるんですね。

ふみえ えぇ、そうです。
     以前、お年寄りが、騙されて土地をとられたりした事件があったでしょう。あれをテレビで見てすっかり不安になっちゃったみたいなんですよ。それで、お前が俺の補助人になって、俺が騙されて財産とられそうになったら、どうにかしてくれって・・・。ねぇ、おじいちゃん。

稲 田 あぁ・・・。そうだったいねぇ。

 松 岡 (不安そうに赤城の耳元で)赤城さん。どういう事なんですか? 何か問題があるんですか? 

赤 城 えぇ。軽い痴呆などがある人は、家庭裁判所に補助人の選任を申立てることができます。補助人の権限は、それぞれのケースで違いますが、ふみえさんは、不動産売却に関する「同意権」と「取消権」を持っています。つまり、稲田さんが補助人であるふみえさんの同意なく、不動産の売買契約を結んだ場合には、稲田さんとふみえさんはその契約を取り消すことが出来るんです。

 松 岡 (不安そうに赤城の耳元で)もう手付も払ったんですけど・・・。どうなるんでしょうか。

 赤 城 (ふみえに向かって)ふみえさん、どうしますか?

ふみえ もちろん、取り消しますよ。どうせ、どこかの女の人に騙されてるんだから・・・。あの土地は、おじいちゃんの今後の生活のための大事な財産なんです。病気になっったりねたきりになったりしたら、お金だってかかるでしょう・・・。

西 村 ちょっと、落ち着きなよ、ふみえさん。別に稲田さんは誰にも騙されたりしちゃいねぇよ。

 ふみえ (諭すように、いったい何のために使うのというニュアンス)土地売ってどうするのぉ。

 稲 田 あけみにくれてやるんさぁ。離婚しちゃって、子供育てんのに一生懸命なんさぁ。

 ふみえ お母さんが生きてたらなんて言うと思う? 情けない!

 稲 田 あけみは、俺にもうーんと良くしてくれてるんさぁ。病院の送り迎えしてくれたりさぁ。

ふみえ そんなこと、あたしに頼めばいいでしょ。

 西 村 (にやにやしながら)そりゃ、あけみちゃんが連れてってくれた方がいいやなぁ、稲田さん。(いやらしく笑う)

うなずく稲田老人。

 ふみえ (西村をにらみながらビシッと)西村さんは、黙っててください。

びくっとして肩をすくめる西村

ふみえ おじいちゃん、バブルの頃は、どんなに頼まれたって、土地は売らなかったのに。どうしちゃったの。今になっ     て・・・。

稲 田 もう先もねぇから、好きなことに使うんサ。

 西 村 自分の財産を、好きなように使うっていうのは、当たり前のことじゃねぇんかい。それがホントの「自己決定」     ってもんじゃねんかい、赤城さん。(得意そうに)

 ふみえ 自己決定・・・。

 西 村 今回は、前に騒がれてた事件とは全然違うよ。稲田さんは、自分から、土地を売りたいって言い出したんだから。     それで、好きな子に何買ってやろうが、飲み歩こうが稲田さんの勝手だろうが。

 ふみえ それはそうだけど、おじいちゃんの今後の生活も心配だから・・・。

 稲 田 そんなことは、心配すらっといいよぉ。
     全部使っちまうわけじゃねぇし、ほかの土地もあるんだから・・・。

 西 村 人それぞれ、楽しみってもんは違うんだよ。ふみえさん から見たら、「無駄」に見えるようなことでも、稲田さんにとっては、大きな楽しみってこともあるだろう。

 ふみえ (考え込む)
     (小さな声で)別におじいちゃんの楽しみを奪うつもりはないけど・・・。

西 村 なんでもかんでも、取消せばいいってもんじゃないと思 うよ。補助人なんてもんがついたおかげで、自分の財産     を好きなように使うことができねぇなんて、おかしな話 だいねぇ。

 稲 田 あけみは、うーんと嬉しそうな顔してたのになぁ・・・。
     (しょんぼりしてしまう)

 ふみえ ・・・わかりました。じゃぁ、おじいちゃん、こうしま しょう。
     この土地を売ることは承知します。

一同ホッとする様子。

西 村 あぁ、良かったよ。ふみえさんが分かってくれて。
     座って、座って(立ち上がってふみえに席を譲る)
 
 ふみえ (稲田に向かって)でも、お金の使い道については、家に帰ってからもう一度よく話し合いましょう。

 稲 田 うーん・・・わかったよぉ。
     まーず、死んだばあさんみてぇだ。

西 村 じゃぁ、赤城さん、そういうことだから頼むよ。

 赤 城 それでは、ふみえさんも今回の売買に同意されるんですね。(確認するように)

 ふみえ えぇ、おじいちゃんの財産だし、おじいちゃんの意思を尊重してあげなくちゃいけないでしょう。だから、今回     は、同意します。

 赤 城 それでは、今後取消の問題が出てこないように、ふみえさんも補助人として、こちらの書類に署名捺印して下さ     い。(書類をさしだす)

 ふみえ わかりました。ここですね。(署名する)

暗 転
西村と赤城にスポットライト(BGMが流れる)

 西 村 あぁ、話がまとまって良かったよ。
     それにしても赤城さん、成年後見制度なんてもんができて、これからはいろいろと面倒にならぃねぇ。

赤 城 そうですねぇ。手間がかかったり、面倒になったりする場面も多くなるでしょうね。でも、そういった非効率的な部分を受け入れていくのが、本当の「成熟した社会」なんでしょうね。

 稲 田 まーず、今日はくたびれた。でも、土地が売れて良かったぃ。死んだばあさんには悪ぃけど、今は、あけみの喜ぶ顔見るンが一番嬉しいんさねぇ・・・。
俺もずいぶん年を取ったけど、残りの人生も、自分の気持ちに素直に生きていきたいんさ。

BGM次第に大きくなり、暗くなる

キャスト
売主 稲田五郎 稲垣正晴
稲田の娘 原沢ふみえ 原田扶美子
仲介業者 西村正一 西川 正
買主 松岡宏之 松村宏志
飯野あけみ 飯原優子
司法書士 赤城一郎・ 近藤 誠
銀行員の女性 和佐田幸子
原 案 平田 充
脚 本 古澤陽子
演 出 深田富三 ・木暮高久