『小栗上野介の顕彰』
                     東善寺住職 村上泰賢

 昨年5月、小栗上野介の没後百三十周年式典が行われ、
小寺弘之知事は「かつてワシントンのウィラ−ドホテルに泊ま
ったとき、百三十八年前に上野介ら遣米使節一行が、滞在し
たことが掲示されていて感銘を受けた」とあいさつ。
 さらに「きょうご臨席の沢田秀男横須賀市長は、自治省に
入った時の先輩で、その後、転任されるのを上野駅に見送り
に行き、ずいぶん綺麗なおくさんだなと思った」などとエピソ−
ド披露して、会場をわかせ、沢田夫人が恥ずかしそうに下を
向く場面となる。次に立った沢田市長は「あの頃小寺さんは
紅顔の美青年で・・・・・」とお返しがあって、いっそう和やかな
式典となった。
 慶応四年閏4月6日、上野介は倉渕村で殺される。その3
日前に上野介は、状況の不穏を感じて、村役人の中島三左
衛門らに身重の道子夫人や母堂、それに養子のいいなずけ
ら女性三人の脱出と保護を依頼する。三左衛門ら村人は、
約30人の護衛隊をつくると、人目を避けて急ぐ会津への旅
が始まった。
 坂上村(吾妻町)から長野原、六合村へ至り、旅支度をさら
に整えて、野反池から今でも車が通らない佐武流山の中腹を
巻く険しい山道に分け入り、苦心の末、秋山郷から十日町、新
潟へと至る。旅費が不足してはと、十日町から工面の為村に
戻った二人の村人は、金が思うように集まらず、わずかな金を
持って再び後を追い、沼田、尾瀬経由で会津へ向かい合流す
る。
 護衛隊は、さらに山河を越え千辛万苦の末会津に至ると、家老
・横山主税の屋敷に迎えられる。まもなく始まった会津戊辰戦争で
、村人は何人も会津軍に加わって戦い、二人の若者が戦死する。
 戦争さなかに避難先で生まれた唯一の遺児、国子と夫人らを守
って年を越し、明治二年春に東京から静岡まで送り届けて、中島ら
は村にもどった。こじき同然の姿であったという。さらに中島らは館
林へ出向いて、東山道総督による首実検のあと埋められていた上
野介の首を、法輪寺からひそかに盗み出し、東善寺裏山の胴体と
一緒にした。
 「小栗上野介とはどういう人柄か」という質問をよく受ける。それを
憶測で語るより、夫人らを守って会津に行き、その任を全うした村人
の行いを知っていただくこことが、上野介の人柄を理解していただく
ことにつながると考えている。
 百三十周年式典は、倉渕村小栗上野介顕彰会が主催して行われ
たが、村における顕彰の始まりは、たまたま小栗家の領地だったと
いう縁で、会津への夫人の脱出を護衛した村人の無償の行いから
思う。群馬県民として誇るべきと言えよう。
 お二人のくしき縁によって、手を携えて顕彰をすすめることを語り
合った市長と知事は、今年九月下旬、倉渕村村長を交えて小栗
上野介の大河ドラマかをNHK会長に要請してきた。
 ドラマかの成否は数年待たねばなるまい。だが、顕彰活動がここ
まで進んだことを喜んでいるのは、見捨ててはおけないという義の
心から、会津への辛苦の旅を続けた村人であろう。

 ――上毛新聞 オピニオン21――  より



高郷村 一竿 塚越富五郎の墓






喜多方市 熊倉杉ノ下 佐藤銀十郎墓