視点 オピニオン21 上毛新聞掲載2005.11.30 | ||||||||
夫人護衛の苦難味わう 小栗上野介の史跡 | ||||||||
今年六月、倉渕村東善寺住職をリーダーとする「小栗上野介の史跡を歩く会」に参加し、 中高年男女十四名で野反湖から秋山郷切明温泉まで歩きました。 この道は、幕末に倉渕 村で罪なく斬首された小栗上野介の妻道子夫人が権田の村人に護られ、妊娠七ヶ月の身重 で、吾妻―六合村―野反湖―地蔵峠―秋山郷へと険しい山道を越え、新潟から会津へ逃れ た歴史の道です。 当時権田村から会津へ向かったのは小栗夫人道子(三十歳)、上野介の母邦子(六十三 歳)、上野介の養子又一の許婚鉞子(よきこ)(十四歳)と村役人中島三左衛門を隊長とす る村人二十一人の護衛隊で、夫人の世話をするために三左衛門の娘さい(十七歳)も加 わっていました。 隊は追手の目をくらますため、二手に別れて行動して六合村和光原で 落ち合い、再度二手に分かれ母邦子と鉞子らは善光寺参りを装って草津―芳ヶ平―渋峠を 越え、越後をめざしました。小栗夫人一行が向かう秋山郷越えは十七歳のさいには無理と 地元の者に止められ、渋峠越えに加わった。 和光原の地元からの十二名を含め総勢二十名、道子夫人を山駕籠に乗せて秋山郷への山 越えがはじまる。和光原から野反湖まで約六キロメートルの山道。今、野反湖まで車で行 けて、途中に「小栗清水」の看板が目に入る。当時、小栗夫人がここでのどの渇きをうる おしたといわれ、地元で大切に保存してくれている。 我々は、野反湖畔から白砂山登山道を登り、地蔵峠からいくつもの沢を越え百曲りを 下って吊橋を渡り、五時間かけて渋沢ダムに着いた。ここで昼飯にしたが、当時は近くに お助け小屋があり、小栗夫人一行は体を休めたという。 渋沢ダムから先の小栗夫人一行が歩いたとされる道は現在廃道のため、われわれは対岸 のトロッコ道を歩くことになった。真っ暗なトンネルをいくつも通り、通行禁止の危険な トンネルは山を登り、下る。途中雪崩による道の崩壊があったりする。対岸を見渡せば夫 人らが歩いた道はどこをどう通ったか見当もつかない深い山。その山道を夫人一行は和山 温泉へ直行したが、我々は手前の切明温泉に向かった。護衛隊の苦難の一端を味わい、歴 史が身近に感じられる山旅となりました。 一八六八(慶応四)年三月、坂下五ヶ村(倉渕村)で起きた「打ちこわし」以来の「小栗 騒動」による関連の死者はおよそ三十数名。その中には小栗夫人の護衛隊員で、会津軍に 加わり戦死した村の若者二人も含まれ、毎年五月倉渕村で開かれている「小栗まつり」 は、小栗上野介父子、家臣とこうした幕末動乱に殉難したすべての人々を供養する意味が こめられています。 |
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