群馬大学科学技術振興会は、群馬大学理工学部・大学院理工学府の同窓生・関連企業の寄付を中心にして昭和58(1983)年につくられた財団です。
その目的は、群馬大学工学部(現:群馬大学理工学部・大学院理工学府)ならびに群馬県内における研究・教育活動の補助と奨励 を行い、それによって地域社会の産業発展に寄与するこ
とです。
設立の試みは、 過去3回ありました。その経緯は、設立に向かって動いていた同窓生の「思い」と、世流の差異によって設立までに時間を要したのでした。
第2代校長 西田博太郎氏の思い
「公益財団法人 群馬大学科学技術振興会」の設立の背景は、「桐生高等染織学校(現 群馬大学理工学部・大学院理工学府)」の第2代校長(大正7年:1918年〜昭和20年:1045年 在職)としての西田博太郎氏の子弟であり、その遺志を継承した本学の同窓会である現在の「一般社団法人 群馬大学工業会」で始まりました。
その故西田博太郎氏の思いとは、東京帝国大学の10年後輩である故厚木勝基氏(元東京帝国大学教授)の『高分子』第2巻第4号、高分子学会、1953年「西田博太郎博士を偲ぶ」に「西田校長は、いつも桐生工専※1の経営について話されましたが、『学生を立派な技術者に育て上げるには、まずもって、教官が研究者であることが必要だ。』とし、研究を奨励されていました。桐生工専から研究報告が出ると、「わがことのようによろこばれた。」と記されています。
※1
大正9年:1920年『桐生高等染織学校』から『桐生高等工業学校』に改称。
昭和19年:1944年『桐生工業専門学校』(通称『桐生工専』)に改称
3回に亘る「公益財団法人 群馬大学科学技術振興会」の設立の試み
設立の最初の試みは、新設「群馬大学」になった昭和27年から昭和36年までです。西田先生のご遺志を継承して「(財)西田産業技術振興会」の設立すべく、同窓会(「当時桐生工業会(現在の群馬大学工業会)」が運動を起こしましたが、目標の1,000万円に及ばず、設立に至りませんでした。
2回目は、昭和51年、当時の工学部長、松井弘次氏と同窓会幹部で「桐生産業技術振興会(仮称)」財団法人設立を計画しましたが、計画に無理があり中止となりました。
3回目は、「桐生工業会」を「群馬大学工業会」として社団法人化し、これまでの財団計画で志した母校援助を実現しようとし、当時の畑学長も文部省に働きかけましたが、昭和56年公益性に欠けると認可はされませんでした。
同年12月、すでに社会を引退した卒業生有志が会合し、母校の教官の研究、教育活動を支援しようと危機を設ける募金活動が昭和57年12月目標に始まりました。
時流にも乗り、募金は順調に進み、昭和57年12月、集まった募金の基本財産1,600万円、運用財産150万円で財団法人設置の申請を行うことになったのです。
昭和58年2月、設立発起人会開催し、この議決を得て、書類を県に提出し昭和58年3月22日付けで設立が許可となったのです。
ここに流れていますこの財団運営の信念は、故西田校長の思いなのです。
ご寄附のお願い 上記のように財団の資産のすべては、群馬大学工学部同窓生、関連企業並びに桐生市からの寄付によるもので、運営は企業や個人の皆様のご寄付と運用益で行れています。
現在、金利や配当が厳しい今、毎年の運営が厳しく、皆様のご寄附をお願いしています(ページへ移動)。 |